大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

札幌高等裁判所 昭和47年(ネ)11号 判決

目  次

主文

控訴人 国 外三名

代理人 岩佐善巳 外四名

被控訴人 井尻光子 外四名

主文

原判決中、控訴人ら敗訴部分を取消す。

被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事  実〈省略〉

理由

第一、本件鉄道爆破事件の概要

(捜査の経過)

第二、本件鉄道爆破の発覚、現場の検証ならびに同現場で発見された物について

第三、昭和二七年八月四日本件鉄道爆破現場の東方約三〇〇米の燕麦畑東北端のよもぎ草原で発見された物について

第四、本件鉄道爆破現場で発見された物と右よもぎ草原で発見された遺留品との結びつきについて

第五、捜査の開始

第六、ダイナマイトについて

第七、雷管について

第八、発破器(証第二一号)について

第九、大興商事で発破器が紛失したとの聞込みについて

第一〇、鉄製ハンドルについて

第一一、緑色被覆電話線(発破母線に使用したもの)二四・七米のもの一本について

第一二、釘(長さ四寸三分)について

第一三、細い針金三束について

第一四、緑色被覆線が炭塵で黒く汚れ黒色となったもの二本、雑誌二冊(読切小説およびポケット講談)在中の風呂敷一枚、国防色小型リユツクサツク一個および新聞紙五枚等について

第一五、遺留品の出所判明と捜査範囲の縮少

第一六、藤谷一久の逮捕について

第一七、昭和二七年七月四日、藤谷が井尻昇と六坑捲上機室の差掛け小屋から三坑現場に火薬類を運んだことの裏付捜査について

第一八、石塚守男の供述について

第一九、昭和二七年六月二〇日頃石塚は井尻飯場に泊つていたか

第二〇、井尻正夫の賃金交渉について

第二一、藤谷一久の供述について

第二二、井尻正夫が中村誠を介して大須田卓爾に火薬類を渡したとのことを藤谷が聞知した点について

第二三、発破器のハンドルを原田鐘悦が井尻に交付したことについて

第二四、油谷炭鉱二、三坑坑務所倉庫から雷管、ダイナマイト、発破母線が紛失したことについて

第二五、徳田敏明の供述について

第二六、発破母線を中村誠が井尻と交換して交付したことについて

第二七、大興商事で紛失した発破器の再捜査

第二八、一五三五九号発破器の発見

第二九、第二露天で発破器が埋没したか

第三〇、第二露天の発破器が六坑、三坑に転用されることがあつたとの点について

第三一、三坑で紛失した発破器は証第二一号の発破器であるとの点について

第三二、井尻が三坑現場で発破器を窃取したとの点について

第三三、大興商事のすべての発破器の台数とその入手経路についての検討

第三四、証第二一号発破器と八七五〇号発破器との推定の関係

第三五、発破器に関する中村誠の供述について

第三六、井尻正夫の昭和二七年七月二九日夜のアリバイについて

第三七、地主照の昭和二七年七月二九日夜のアリバイについて

第三八、井尻正夫の供述について

第三九、大須田卓爾の七月二九日のアリバイについて

第四〇、山内繁雄の七月二九日のアリバイについて

第四一、野田こと衣川の七月二九日のアリバイについて

第四二、斉藤正夫の七月二九日のアリバイ成立について

第四三、工数薄、操業証の記載の正確性について

第四四、井尻正夫の昭和二七年七月二九日夜のアリバイについて

第四五、雷管について

第四六、関係人の逮捕・勾留について

(逮捕・勾留)

第四七、井尻、地主の逮捕・勾留について

(公訴の提起)

第四八、火薬類取締法違反の公訴提起について

第四九、昭和二七年六月二〇日、井尻飯場において火薬入手の相談がなされたとの点について

第五〇、井尻の依頼により、石塚が火薬類を三坑現場から井尻飯場まで運搬したとの点について

第五一、井尻が地主に、火薬・発破器・母線・ハンドルを渡したという日時について

第五二、七月一二、一三日、井尻が石塚に鉄道爆破計画について話し、仲間入りを勧めたとの点について

第五三、七夕の話について

第五四、二・三坑坑務所からの雷管・ダイナマイト・発破母線の持出しについて

第五五、原田鐘悦が井尻に鉄製のハンドルを渡したとの点について

第五六、発破母線について

第五七、発破器について

第五八、石塚供述の信用性

第五九、藤谷供述の信用性

第六〇、中村供述の信用性

第六一、井尻供述の信用性

第六二、窃盗および爆発物取締罰則違反・電汽車往来危険の公訴提起について

(公訴の推持・追行)

第六三、一五三五九号発破器の隠匿について

第六四、八七五〇号発破器関係書類の不提出について

第六五、公判廷に提出された雷管について

第六六、工数薄について

第六七、操業証について

第六八、関係者の手帳について

第六九、被控訴人らのその他の主張について

むすび

理由

被控訴代理人の主張する請求原因は要するに、「警察官および検察官は、訴外井尻正夫、被控訴人地主照が無実であるのに、犯罪事実について根拠のない構想をたてて、石塚守男、藤谷一久、中村誠、徳田敏明、原田鐘悦らを取調べ、自分達の想定した筋書きに合致しない供述をする者に対しては、逮捕・勾留を繰返し、長期の勾留、偽証罪による処罰の威嚇を用いて供述を強制し、或は虚偽の事実を告げて誘導し、真実に反する供述調書を多数作成し、さらに訴外井尻正夫、被控訴人地主照に対しては不当に長期間勾留し、両名を思想的に転向させようとし、様々の強制により本件鉄道爆破事件について自白を強要した。そうして両名が無実であることを認識し、或は少くとも認識しうべき証拠を所持しながら、両名を(イ)逮捕・勾留し、(ロ)公訴を提起し、(ハ)公訴を推持・追行するにあたつても、両名に有利な多数の証拠を隠匿し、或は変造された証拠物を提出し、虚偽の事実を主張するなどして、無罪判決確定に至るまで、一一年間にわたつて、右両名に有罪判決を受けさせるため継続して違法行為をなし、その結果、訴外井尻正夫、被控訴人地主照に対し精神的、肉体的、経済的に回復し難い損害をこおむらせた。」というのである。

しかして、(イ)(ロ)の各行為および(ハ)の公訴推持・追行にあたっての証拠の取扱い、種々の主張に関する行為が国家賠償法第一条の規定にいう「国の公権力の行使に当る公務員がその職務を行うについて」した行為に当ることは明らかである。そして「違法に」というのは、国家の権力行使が客観的に見て、法の許容する限界を越えてなされることをいうのであって、その違法性の有無を判断するについては、単に狭義の法規違反の有無に限るべきではなく、法秩序の根本に遡り、条理、社会通念などの一般原則に照して、権力行使が理にかなつたものであるか否かを基準として判断しなければならない。なお、これらの権力を行使する公務員は、被疑者または、被告人に対しその権力行使をするに当って、右の法の許容する限界を越えてはならないという職務上の義務を負担しているから、違法性は、公務員の職務上の義務違反を指すことになる。したがつて権力行使が違法であれば、公務員の主観的側面からこれを見れば、その原因が当然公務員の第三者に対する職務上の注意義務違反にあたることを否定し得ないから、違法の態様・程度から故意、過失の存在を推定し得る。かく孝えると、逮捕・勾留は犯罪の嫌疑について相当な理由がないこと、または身柄拘束の必要がないことが明らかであること、すなわち逮捕・勾留をなすべき合理的根拠がないのに、これが行われたときは、法の許容する限界を越えたものとして違法性を帯びることになり、公訴の提起、推持・追行は公訴事実について、証拠上合理的な疑いが顕著に存在し、有罪の判決を期待し得る可能性が乏しいこと、すなわち、公訴を提起し、これを推持・追行すべき合理的根拠がないのに、敢てこれがなされたとき違法性を帯びることになる。

しかし、刑事事件において結果として無罪の判決が確定したというだけで、直ちに右の違法ということはできない。刑事訴訟法は、裁判官による証拠の評価につき自由心証主義を採用しているから、人によつて証拠の証明力の評価の仕方に違いがあるため、一定の証拠によつて形成される心証の態様・強弱の程度についても、ある程度の個人差が生じることを避け難い。裁判官と検察官との間においても、立場の相違から、証拠の見方や心証の強弱に差異がないとはいえない。それ故、裁判官が審理の結果、犯罪事実につき証明なしと判断して無罪の判決をした場合でも、これによつて直ちに警察官または検察官のした逮捕・勾留、公訴の提起および、その推持・追行などの権力行使が違法であるとはいえない。これらの権力行使が違法であるというためには、警察官または検察官の判断が、証拠の評価について通常考えられる右の個人差を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照して、到底その合理性を肯定することができないという程度に達していることが必要である。無罪の判決が確定しても、検察官の判断が、通常考えられる右の差異の範囲内のものとして是認できる場合には、その権力行使は適法行為として、国家賠償法による賠償の対象とはならないのである。国家賠償請求訴訟の審理をする裁判所の判断の対象は、警察官、検察官の証拠の評価についての判断が、経験則、論理則に照らして合理性を有しているか否かであり、このことは国家賠償法における違法性の有無の判断であり、同時に故意、過失の判断ともなるわけである。そうして、合理性を有していること、すなわち適法性に関する立証責任は控訴人国の側にあると解すべきであり、国は逮捕・勾留、公訴の提起およびその推持・追行に当つて証拠上犯罪事実立証の可能性があつたこと、少くとも、証拠判断に関する前記の個人差を考慮すれば、犯罪事実の存在が肯定される可能性があつたことを立証すべきであり、これが立証されれば、逮捕・勾留、公訴提起およびその推持・追行は合理性を取得し、その権力行使は適法行為とみられるわけである。

当裁判所は、右見解に立って、警察官、検察官の証拠の評価についての判断が合理性を有していたか否かを判断することとする。

しかして、当裁判所は別紙添付の被控訴代理人提出の昭和四六年三月六日付準備書面記載の主張にしたがい順次判断する。なお、最後に同書面にもれたその他の主張について判断する。そして、これは国家権力の行使に当って加害行為がなされたことを主張するものであるから、通常の不法行為と同様、立証責任は被控訴人らにあるこというまでもない。

本判決は、第一項において、本件鉄道爆破事件の概要をみ、第二項から第四三項まで、捜査の経過を検討し、第四四項において、井尻正夫のアリバイについて、第四五項において、雷管について、第四六項において、関係人の逮捕・勾留について、それぞれ判断し、第四七項において、訴外井尻正夫、被控訴人地主照の逮捕・勾留について判断し、第四八項から第六二項まで公訴の提起について判断し、第六三項から第六八項まで公訴の推持・追行について判断し、第六九項において被控訴人らのその他の主張について判断を加えることとする。

なお、本判決においては、つぎの用語、略語を用いることとする。

(1)  本件鉄道爆破事件を芦別事件と呼ぶこともある。

(2)  芦別町警察署、芦別市警察署と呼ぶことがあるが、それは本件捜査中、芦別町が市制を施行したからであり、同一自治体警察である。

(3)  油谷鉱業株式会社油谷芦別炭鉱が、正式の呼称であるが、油谷鉱業所、または油谷炭鉱と呼ぶことがある。

(4)  石狩土建興業株式会社は昭和二七年四月から大興商事株式会社と商号を変更したもので同一会社であるが、前者を石狩土建と呼び後者を大興商事と呼ぶこととする。

(5)  捜査官らというときは、警察官、検察官を含める趣旨であり、警察官らというときは、司法警察員、司法巡査を含む趣旨である。

(6)  遺留品の電気雷管を証第一〇号の一ないし五の雷管、同発破器を証第二一号発破器ということがあるが、これは刑事公判での呼称にならつたものである。また前後の関係で本件雷管、本件発破器ということもある。

(7)  本件で当事者双方から提出された書証は、甲第五八八号証を除き全部成立に争いがないので、成立については記載しないこととする。

(8)  書証中、司法警察員作成の供述調書は「員供」、司法巡査作成の供述調書は「巡供」、検察官作成の供述調書は「検供」、刑事公判における証言は、例えば「第一審第一四回公判・証人岩城定男証言」というように表示し、公判準備における証人尋問調書は、例えば「第一審公準、証人福士佐栄太郎尋問調書」と、第一回公判期日前の裁判官の証人尋問調書は、例えば「証人石塚守男尋問調書」というように表示する。

(9)  調書の作成日付(作成日付と供述、証言のなされた日が違う場合は、供述、証言のなされた日付)は数字で、例えば「昭和二七年九月一日」のことを「27・9・1」と表示し、公判における証言についても必要に応じ、その期日を右と同様数字で表示することがある。

(10)  刑事第一審、刑事第二審のことを、単に、第一審、第二審ということもある。

(11)  訴外井尻正夫のことを井尻、被控訴人地主照のことを地主ということがある。

第一、本件鉄道爆破事件の概要

昭和二七年七月二九日午後八時過頃、芦別町字農区の国鉄根室本線滝川基点二四・一八一粁附近の鉄道線路がダイナマイトにより爆破され、同所山側(国鉄芦別駅へ向つて右側)のレール約三〇糎が損壊し、同日午後九時四六分頃には下り第九四六一号臨時貨物列車が同所を通過する予定であつたが、事件発生が通報されたため脱線顛覆事故の発生には至らなかつた。昭和二八年三月二九日、井尻正夫と地主照が本件鉄道爆破事件の被疑者として逮捕、され、引続き勾留された。検察官は、井尻、地主の両名を同年四月一八日に、「共謀の上、昭和二七年七月頃芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所附近に当時あつた大興商事株式会社第二寮(井尻飯場)等において、火薬類である新白梅印一一二・五瓦ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本位を所持した」との火薬類取締法違反の罪名で、また、両名を同年九月六日に、「共謀の上、昭和二七年六月中旬頃、芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所第三坑作業現場付近において大興商事株式会社芦別油谷鉱業所所長大野昇保管に係る同会社所有の鳥居式一〇発掛電気発破器一台時価六、〇〇〇円位相当を窃取した。」との窃盗の罪名で、そして両名を同年九月一七日に「外数名と共謀の上、人の身体財産を害しようとする目的で、昭和二七年七月二九日午後八時過頃、北海道芦別市字農区地籍の国鉄根室本線滝川基点二四粁一八一米附近の鉄道線路に爆発物である新白梅印ダイナマイト数本を仕掛け、これに電気雷管及び発破母線を装置した上、電気発破器を使用して点火爆発させ、同所右側(山側)軌条約三〇糎を損壊し、因って同日午後九時四六分頃同所を通過する下り第九四六一号臨時貨物列車に脱線顛覆の危険を生じさせ、以て汽車の往来危険を発生させたものである。」との電汽車往来危険および爆発物取締罰則違反の罪名で、それぞれ札幌地方裁判所岩見沢支部に起訴した。同裁判所は昭和三一年七月一六日、井尻に対し窃盗については無罪、それ以外の罪については有罪、地主に対し火薬類取締法違反については有罪それ以外の罪については無罪とし、井尻に対し懲役五年、地主に対し懲役一年の刑を言渡した。検察官の求刑は右両名とも懲役一〇年であった。右判決の有罪部分について井尻および地主が、また、無罪部分について検察官が、それぞれ札幌高等裁判所に控訴した。井尻は控訴審係属中の昭和三五年六月二三日死亡し、このため同裁判所は同年八月一一日公訴棄却の裁判をなし右裁判は確定した。また、同裁判所は昭和三八年一二月二〇日検察官の控訴を棄却し、原判決中、地主に対する有罪部分を破棄し、火薬類取締法違反についても無罪の言渡しをした。検察官はこの判決に対して上告せず、右判決は昭和三九年一月四日に確定した。

以上の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

第二、本件鉄道爆破の発覚、現場の検証ならびに同現場で発見された物について

(証拠省略)を総合すれば、つぎのとおりである。

本件鉄道爆破現場の北方約二〇〇米のところにある農家小塚方で同家の二男、小塚昇(高校生)が、昭和二七年七月二九日午後八時過頃、馬に飼糧を与えて、あたりを整理中、午後八時四〇分頃、ガアンという大音とともに地響きを感じたので、戸外に飛び出して音の方向を見たところ、南方の小高い丘の笹薮に石でも飛散するようなバラバラという音がし、白い煙が広く丸く玉になつて昇るのが、見えた。同人は直ちに自転車に乗って、二、三分の距離のところにある班渓巡査派出所の奈良光明巡査に通報した。奈良光明巡査は芦別町警察署の当直打田巡査に一応報告したうえ、自転車で小塚方に赴き、小塚昇、その父、および兄と四人で音がしたという崖の上に上って、狸堀(石炭の盗堀のこと)でもしているのではないか等と付近を探したが、格別異変も見受けられなかつた。奈良巡査は付近に鉄道線路が通つているので、当時新得事件等の列車妨害事件も起つておつたので、もしや線路ではなかろうかと直感し、右四人で線路づたいに平岸方向へ四、五歩進んだところ、軌条が破壊されているのを発見した。同巡査が今ごろ通る汽車はないかと小塚らに尋ねると間もなく下り列車があるはずだとのことであつたので、同巡査は現場保存と下り列車警戒のため、現場に残り、小塚昇に、まず駅に電話して事故を知らせてくれ、それから本署にも連絡してくれと頼んだ。小塚昇の電話は芦別駅に午後九時三〇分ごろなされた。奈良巡査が現場に待期中約三〇分ぐらいして芦別町警察署司法警察員巡査部長中田正らが本件爆破現場に馳せつけた。

中田巡査部長は司法警察員巡査部長高松一美、司法巡査打田清、芦別駅助役小山巌を立合わせて、同日午後一〇時一〇分から同一一時二〇分まで本件鉄道爆破現場の検証をした。そして、爆破により損壊されたレールの反対側レールの内側面に、(A)青色(正確には緑色)被覆銅線、長さ約六〇糎のもの一本を、爆発により摺鉢様にバラス面が堀れた穴の中に、(B)鉄製細針金、長さ約一〇糎のもの四本を、レール損壊地点から東北約一〇米の丘陵雑草中に、(C)火薬の臭いのするボール紙蓋破片約一〇糎四方くらいのもの一枚を、発見してこれらを押収した。

右中田巡査部長は同日、日中またまた本件現場に、ほど遠からぬ池で労務者らがダイナマイトをかけて魚を獲ったと聞込みをえて、司法巡査大久保寛二郎と共に、その犯人の捜査をしたこともあつて、本件鉄道爆破事件も、右魚獲りと関連があるのではないかと孝え、直ちに右大久保らをして附近の班渓発電所建設工事に従事する労務者、殊に飛島組関係の飯場五ヵ所および労務者らが下宿している附近の農家について聞込みをはじめさせた。

一方、司法警察員警部芦原吉徳は、夜明けを待って翌三〇日午前四時三〇分から同七時三〇分まで、さらに本件鉄道爆破現場を検証して、レール損壊箇所附近のレールの中間、枕木と枕木の間に、(D)電気雷管の脚線と思われる細い被覆線長さ二〇糎くらいのもの一本を、下水溝の中に、(E)電気雷管用脚線と思われる中央部を結んだ黒色被覆線、長さ三〇糎くらいのもの三本を発見して押収した。

当時、班渓発電所の建設工事現場には労務者が一、五〇〇名ないし一、六〇〇名もおり、これらは比較的火薬類が入手しやすいと考えられたので、直ちに数名の警察官を動員して聞込みに当らせたが、刑事係巡査工藤春二、同山本末次郎らには、そのほか芦別町、赤平町平岸附近の不良の徒輩の動行について映画館等に聞込みに廻らせ、さらに、もと鉄道職員で解雇されて国鉄に怨恨をいだいている者または、芦別附近の炭鉱をレッドパージによつて解雇された者等の仕わざではないかとの線も考えられたので、芦別駅や炭鉱の被解雇者の周辺等にも聞込みに赴かせた。

かような聞込み捜査によつて前記ダイナマイトで魚を獲つた容疑者は浮び上つたが、本件鉄道爆破について関連があると思われる不審者は見出せなかつた。

また、一方、高松一美巡査部長らは、右青色(正確には緑色)被覆銅線と細い被覆銅線を携えて芦別附近に散在する大小の炭鉱を廻つて不審者の聞込みをした。そして、三井芦別炭鉱の資格ある技術員から前者の緑色被覆銅線は電話線であり、後者の被覆銅線は電気雷管の脚線の一部であること、炭鉱では作業現場で使用したダイナマイトが不発に終つたときなど、これを取り除かないと爆発の危険があるので、各炭鉱とも発破係員毎に、それぞれ固有の記号・番号を電気雷管に刻記したものを使用させて、責任の所在を明確ならしめるようにしているので、雷管の記号・番号を見ると誰に交付したものかわかる仕組になっていること、火薬には新桐印、白梅印、硝安の種類があること等の知識をえた。

また、司法警察員藤田良美は、かつて警察の通信部工手をしていたことがあり、電線についての知識を有しており、前記青色(正確には緑色)被覆銅線を見た瞬間、「これは電線ではないか。こんな電線だつたら芦別の宮本町にある油谷芦別鉱業所のクラブに炭鉱から電話線として引いている。油谷炭鉱ではこの電話の外線を発破母線として使つているらしい。」旨を同僚の右中田部長に話していた。

かくするうち警察官らはレール爆破の実験を試み、数回の実験の末、本件鉄道爆破程度の破壊はダイナマイト五、六本を破裂させることによつて可能であることをたしかめた。

第三、昭和二七年八月四日本件鉄道爆破現場の東方約三〇〇米の燕麦畑東北端のよもぎ草原で発見された物について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

本件鉄道爆破事件発生六日後である昭和二七年八月四日午後三時半ごろ、山脇代美子が鉄道爆破現場から東方に約三〇〇米離れた崖の上の山脇源次郎所有の燕麦畑で畑仕事に従事していたとき、右畑の東北端につづくよもぎの草原に約一坪半の広さにわたり、つぎの品物等(以下遺留品という。)が散乱し、同所と崖下の道路の間には幅一尺くらい雑草が倒れ、人が通つたと思われる跡があるのを発見した。同人は直ちにこれを最寄りの班渓巡査駐在所に通報し、同日午後四時三〇分司法警察員芦原吉徳らが同所に赴いて実況見分したうえ、つぎの遺留品を押収した。

(イ)  蓋のとれたボール紙箱(右紙箱に貼付されたレッテルには炭鉱用、新白梅ダイナマイト、薬径三二粍、薬量一一二・五瓦、本数二〇本、重量二二五瓦、日本火薬株式会社厚狭作業所と印刷され、製造月日欄に昭和27・4・14、作業番号欄に7・2・7とそれぞれ紫色スタンプが押印されたもの)、および、これに入つた新白梅ダイナマイト一六本

(ロ)  電気雷管一本あてを各装填した新白梅ダイナマイト五本(各雷管の脚線は一米五〇糎で右ダイナマイトを五本を結束してあり、各雷管の管体にはいずれも「5」と刻書されていた。)

(ハ)  ジエラルミン製鳥居印一〇発掛発破器(ナンバープレートが剥離されたもので、革手提が付き、その革手提が外れないように脚線五本を巻付けてあるもの)

(ニ)  鉄製ハンドル(右ジエラルミン製発破器に紙紐で結びつけられていた。)

(ホ)  緑色被覆電話線(発破母線に使用したもの)二四・七米のもの一本

(ヘ)  釘(長さ四寸三分、右蓋のとれたボール紙箱に入つていた。)

(ト)  細い針金三束(長さいずれも六米前後のもの)

(チ)  その他、緑色被覆線が炭塵で黒く汚れ黒色となつたもの二本(七・六米のものと一七・七米のもの)、雑誌二冊(読切小説集およびポケツト講談)在中の風呂敷包、風呂敷一枚、国防色小型リユツクサツク一個および新聞紙五枚等

第四、本件鉄道爆破現場で発見された物と右よもぎ草原で発見された遺留品との結びつきについて

(証拠省略)によればつぎのとおりである。

遺留品の発見場所が爆破現場に近く、また右遺留品にはダイナマイト爆破に関係を持つとみられる種類のものであつたので、捜査官らは、鉄道爆破の犯人が爆破に使用して逃走の際、遺留したものかも知れないとみて、これらの遺留品を先の領置品と詳細に照合し、かつ国家地方警察札幌方面本部鑑識課の鑑定を求めた。その結果、本件鉄道爆破現場で発見されたボール紙蓋破片約一〇糎徳四方位のもの(C)は、前期遺留品の蓋のとれたボール紙箱(イ)のぎざぎざに不整形に切りとられた切口に合わせてみると完全に切口が合致し、紙質も同一であることが確認され、また本件鉄道爆破現場で発見された青色(正確には緑色)被覆銅線長さ約六〇糎のもの(A)は、遺留品の緑色被覆電話線二四・七米のもの(ホ)と色も太さも同じで、同一電線が途中で切断されたものと思料され、さらに本件鉄道爆破現場で発見された鉄製細針金(B)は、遺留品の細い針金三束(ト)と太さが一致し、質的にも相違は認められなかつた。

第五、捜査の開始

(証拠省略)によれば、つぎのおりである。

昭和二七年八月四日夕刻前記押収された遺留品は芦別町警察署に持つて来られて、同暑二階の訓示室の机の上に、一先ず並べられた。諸方に聞込み捜査に出かけているものを除き居合わせた数名の警察官らによつて右遺留品につき、かれこれ取沙汰しているうちに警察官の一人が、電気雷管を装填された新白梅ダイナマイト五本のうち一本を抜き取つたところ、管体に数字が刻記されていた。そして、これを「7」と読む者もあり、「5」と読む者もあつた。そのうち遺留品に緑色被覆電話線があつたところから、前記のように、かねて本件鉄道爆破現場で発見された青色(正確には緑色)被覆銅線(約六〇糎のもの)が油谷芦別鉱業所で使用している電話線と同じものであることを知つおり、さらに油谷炭鉱では右電話線を発破母線として使つているらしいことを聞いていた司法警察員巡査部長藤田良美は、まず油谷鉱業所に聞込みに行くことを提案した。そして、同巡査部長は捜査課長警部芦原吉徳の承認をえて、電気雷管が装填された新白梅ダイナマイト五本のうち一、二本とジエラルミン製鳥居印発破器(ナンバープレートが剥離され革手提が付き脚線を巻付けてあるもの)を携え、司法警察員巡査部長中田正、司法巡査(刑事係)大久保寛二郎とともに油谷鉱業所に赴いた。油谷に到着したときは、すでに夜間であつたが、油谷鉱業所火薬取扱所責任者国久松太郎にダイナマイトから抜きとつた電気雷管および右発破器を示した。同人は雷管に刻まれた数字は「5」であり「5」は油谷炭鉱では直轄の発破係員西浦正博の持番であり、また、「発破器はよく故障して修理するものであるから、修理工に見せたらどうか。」といつた。そこで後記認定のように修理工佐藤政男を探しあて、右発破器を見せたところ、同人はケースを外にして内部を一見して「これは俺がなおした発破器だ。」と言い、さらに数時間にわたつて修理伝票を調べ、ナンバープレートはないが、この発破器は八七五〇号ではないだろうかと云つた。そうして八七五〇号発破器の保管責任者が辻内好弘および米沢俊見であることも聞込んで当夜遅く帰署した。芦別警察署の捜査官らは右聞込みはえたものの、芦別附近には、三井、三菱、明治、住友、高根等の大手炭鉱のほか、油谷炭鉱等の中小炭鉱があまたあり、各炭鉱には、それぞれ下請会社、下請の組が多数あり、なおダイナマイトを使用する班渓発電所の建設工現現場もあつたので、翌八月五日各遺留品毎に専門に、その出所を追求するため、数班の捜査班を遍成した。そして、各炭鉱、各工事現場につき、くまなく、火薬はどんなものを使用しているか、雷管はどのような記号、番号を刻記しているか、発破器の盗難、紛失はなかつたか、発破母線はどのようなものを使用しているか、鉄製ハンドルを製作または使用しているところはないか等約一ヶ月にわたり、足でかせぐ聞込み捜査をなした。風呂敷、雑誌の出所についても同様芦別町、歌志内町まで聞込みをなした。

一方、昭和二七年七月三一日、石塚守男は油谷駐在所の上田巡査に呼び出され「二九日に井尻が下つていないか。」と尋ねられた。七月三〇日と八月一日の両日、阿部兼三郎の隣家佐々木信子方に警察官二名が来訪し、七月二九日前後の阿部方の様子、及川、野田こと衣川、地主の行動について聞込みをしている。また三井芦別鉱業所の労務保安係藤井光義のところへ、警察官が、七月三〇日午後訪れ、「昨晩平岸の方で鉄道爆破事件が起つたが何か心当りはないか。」と尋ね、藤井は共産党関係の情報提供者、大多国明に阿部、地主、及川、野田等党員の動きを聞き警察に報告している。

しかし右聞込みは、前に見たように、不良徒輩、国鉄被解雇者、レッドパージにより解雇された人たちの周辺についての一般的聞込みの一環としてなされたものである。

なお七月三〇日朝、「平岸と芦別の間で鉄道爆破事件があつたが共産党員のしわざではないか。」との趣旨が空知タイムスの放送塔から放送されたこともあるようであるが、右情報を警察が流したとの根拠はない。

第六、ダイナマイトについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

遺留品のうち、新白梅ダイナマイト一六本が蓋のとれたボール紙箱に貼られたレツテルには炭鉱用新白梅ダイナマイト、日本化薬株式会社厚狭作業所と印刷され、製造年月日欄には昭和27・4・14、作業番号欄には7・2・7とそれぞれ紫色スタンプが押印されていたので、警察官らは芦別近辺の炭鉱、すなわち、三井芦別炭鉱、三菱芦別炭鉱、明治上芦別炭鉱、高根炭鉱、平岸炭鉱、北日本興業株式会社などで使用している火薬の種類、製造年月日、作業番号等について捜査していた。昭和二七年八月三〇日、司法警察員巡査部長高松一美が、油谷炭鉱火薬取扱所責任者国久松太郎から、同炭鉱の火薬受入帳にもとずく「油谷鉱業所が昭和二七年六月二一日に、昭和二七年四月一四日製造の一箱二〇〇本入新白梅ダイナマイトを、同月一五日、一六日各製造のものとともに四〇箱入荷している。」旨の供述を得、油谷炭鉱でも新白梅ダイナマイトを使用しているとの資料を得た。その後、昭和二八年四月二八日右国久松太郎は検察官好田政一に対し、「日本化薬厚狭作業所、昭和27・4・14製造、作業番号7・2・7と記載された木製空箱一個を発見した。これは昭和二七年六月二一日受入れた四〇箱の中の一箱である。」旨の供述をした。検察官は右火薬の製造元、山口県厚狭市の日本化薬厚狭作業所係員の取調方を厚狭区検察庁検察官に嘱託したところ、厚狭作業所係員賀屋篤郎は昭和二八年七月六日に、昭和二七年四月一四日製造の作業番号7・2・7、新白梅ダイナマイトについて「作業番号7、は第七捏和工場製造、2、第二包装工場で包装、7、は昭和二七年四月一四日に第七捏和工場で第七回目に製造したという意味である。当日は一四四箱製造されている。そのうち六一箱が、同月一六日北海道砂川町北洋火薬株式会社砂川作業所に発送されている。」旨の供述をした。(右供述によれば、四月一四日に全部で一四四箱製造されたところ、一日に一捏和工場で何回製造されるか明らかではないが、少なくとも七回は捏和されたわけであるから、一回に二〇箱位は捏和されるわけで、そのうち砂川に送られた六一箱中に第七回目に捏和されたものが何箱混入されているかは明らかではないが、その数は極めて、限られたものであると窺われる。)油谷鉱業所で発見された木製空箱は一個のみであつた。そして、この木製空箱は控訴人三沢三次郎(以下三沢検事という)においても確認していた。

以上により捜査官らは、遺留された新白梅ダイナマイトが油谷鉱業所から持ち出されたとの資料を得た。

第七、雷管について

(証拠省略)を総合すると、つぎのとおりである。

前記のように、遺留品が発見された当日の昭和二七年八月四日夜、巡査部長藤田良美、同中田正巡査(刑事係)大久保寛二郎らは、電気雷管が装填された新白梅ダイナマイト一、二本を携えて油谷炭鉱に赴き、右ダイナマイトから電管を抜きとつて火薬取扱所の責任者国久松太郎に、これを見せたところ、同人は雷管管体に刻記された数字は「5」であり、「5」は油谷炭鉱では直轄の発破係員西浦正博の持番であるとの聞込みをえていたのであるが、右雷管に刻記された「5」は単に先の鋭利な鉄様のもので無雑作に書かれたものなので、他の炭鉱でも雷管に同様な番号を刻書しているかも知れないと考えられた。

そこで、芦別警察署の捜査首脳部の指示にもとずき、司法警察員巡査部長坂某を班長とする捜査班が、翌八月五日から二、三日にわたつて、芦別附近の大小の炭鉱全部を廻つて、各炭鉱の雷管に記入する記号番号について聞込み捜査をした。その結果、明治鉱業所では、イ、ロ、ハ、およびA、B、Cの記号を記入しており、三菱芦別鉱業所では△印の記号と一、二、三の漢字を併用し、しかも腐蝕薬で記入しており、三井鉱業芦別炭鉱ではアと記入して各坑毎に何番から何番までと定められ、各係員の持番号が記入されており、住友石炭鉱業株式会社赤平鉱業所では、セの記号および係員の持番号を硝酸銀溶液でペンで記入しており、東海鉱業株式会社豊里鉱業所では、漢字の一、二、三、を記入しており、北海道炭鉱汽船株式会社では、赤間鉱ではア、末広鉱では末と記号を用い、その下に係員の持番号を1、2、3と算用数字で硝酸銀溶液をもつて記入しており、雄別炭鉱鉄道株式会社茂尻鉱業所では横文字でイ、ロ、ハ、および数字を腐蝕インキで記入しており、空知芦別炭鉱、芦別産業株式会社、北日本興業株式会社では、いずれも記号、番号を全く記入していないことが判明した。(以上の捜査については調書は起訴後作成されているが、聞込み捜査は八月五日から二、三日のうちになされたことが認められる。)そこで、雷管の管体に単に算用数字のみを刻記する炭鉱は芦別附近では油谷鉱業所以外にはないという結論に達した。

一方、司法警察員警部田畠義盛は昭和二七年八月七日、ダイナマイトから抜きとつた雷管二本を示して、西浦正博を取調べたところ、西浦から、雷管の番号は「5」であるし、数字の書き方から見ても私の番号の雷管に相違ない旨、「5」の番号は昭和二七年一月四日以降私の番号である旨の供述を得、司法警察員高松一美は、昭和二七年八月三〇日油谷鉱業所火薬取扱所の責任者国久松太郎から、雷管には、「5」という数字が記入してあるから、油谷炭鉱から出たものであること間違いない、雷管には高橋為男と柴田政美が鉄筆で算用数字を刻んでいるが、この雷管の数字は二人の何れかが書いたものに間違いない旨の供述を得、翌三一日高橋為男から、八月初めに見せてもらつた「5」の算用数字を記入してある雷管は油谷炭鉱から出たものに間違いない、油谷炭鉱で「5」の雷管を使っているのは二坑の西浦正博である、数字は私が書いたか柴田政美が書いたか、はつきりしない旨の供述、同年九月二日には、柴田政美から、雷管の「5」の数字は私が書いたか、高橋が書いたか、はつきりしない旨の供述を得た。

以上により、捜査官らは遺留にかかる雷管が油谷鉱業所から出たものであるとの捜査結果を得た。

第八、発破器(証第二一号)について

(証拠省略)を総合すると、つぎのとおりである。

昭和二七年八月四日夜、前に述べたように巡査部長藤田良美、同中田正らが遺留品である電気雷管が装填されたダイナマイト一、二本と同じく遺留品の発破器(証第二一号)を携えて油谷芦別炭鉱に赴き、火薬取扱所責任者国久松太郎に発破器を示したところ、同人は、「油谷でもこういう発破器は使つているが、発破器というものは、よく修理するものだから修理工に見てもらつたら、何処の発破器かわるのではないだろうか。」との示唆を受けたので、同炭鉱二坑の内機夫で修理工の佐藤政男に右発破器を見せた。同人は外見しただけで記憶があると云い、さらに発破器のケースから内部を抜き出して見て、「アマチャー(発電子)の絶縁体に有合わせの紙テープを使用しているので、私が修理したのに間違いない。」と云い、修理伝票を繰つて、この発破器は油谷炭鉱の八七五〇号であつて、昭和二六年九月に一回、同年一〇月に一回修理したことになつている旨供述した。さらに同夜の中に、八七五〇号発破器は発破器関係台帳の記載によつて二坑発破係辻内好弘または米沢俊見らに貸与されていることが判明した。なお、右国久松太郎は同夜、油谷炭鉱で使用中の発破器数台を持ち出して、右巡査部長中田正らに、発破器にはジエラルミン製鈍色のものと真鋳か銅にメツキしたものがあり、前者には四桁の番号がついており、後者には五桁の番号がついている旨説明した。藤田、中田部長らは同夜は油谷炭鉱から引きあげ、翌八月五日から発破器の捜査には専ら司法警察員警部田畠義盛が当ることになつた。そして、発破器の出所を追及することによつて犯人の割出しができると考らえれていた。

田畠警部が八七五〇号発破器の被貸与者である二坑発破係辻内好弘、米沢俊見らについて捜査したところ、八七五〇号発破器は二坑で使用中、同坑右三片火薬箱内から昭和二六年一一月二三日ごろ盗難にあつていることが判明した。また、油谷炭鉱で当時使用されていた発破器をつぶさに調査したところ、八七五〇号発破器は、他の三台と共に同じメーカかーら同時に購入した全く同種同型のジエラルミン製発破器四台のうちの一台である旨の記録があり、八七四九号ないし八七五二号の一連番号が付されていること、八七四九号、八七五一号、八七五二号の三台は現に油谷炭鉱で使用中であること、これらと、証第二一号発破器を比べてみると全く同形であることが、数日の内に確められた。もつとも右佐藤政男は昭和二七年九月七日検察官好田政一に対し、文字板がないので、この発破器が八七五〇号であるとはつきりはいえない、旨供述し、翌昭和二八年四月五日領置された「電気機器故障及受付修理状況記入薄」には、「26・8・22、二坑発破器八七五〇、カバー取付ビス一本取付、26・10・13佐政、八七五〇不発電ビス二本、10・17完成佐政」との記載があるがアマチャー修理の記載はないし、油谷芦別炭鉱所長塩谷猛作成の盗難被害顛末書によれば、証第二一号発破器は米沢及びその他の係員に見せたが使用中紛失した発破器ではないと申立てている旨の記載もある。しかし油谷炭鉱の他の発破係員西浦正博は昭和二七年八月七日司法警察員に対し、証第二一号の発破器を示され、右発破器は箱がジエラルミンであり、八七四九号、八七五一同、八七五二号と全く同型であるから、米沢係員が使用していた八七五〇号発破器に間違いない旨供述し、同発破係員中田寅一も同年九月一四日司法警察員に対し、革手提の革がボタンから時々外れるので脚線を二巻していたこと、箱の底に丸く削つた疵があることなどから、昭和二六年一〇月初旬ころ辻内好弘に引継いだ発破器に相違ない旨の供述をした。

かような捜査の結果、当時の捜査関係者は多少の疑問は存しつつも、証第二一号発破器は油谷炭鉱で使用されていた八七五〇号であろうとの推定のもとに捜査を続行していつた。

さて、田畠警部を中心とする警察官は八七五〇号発破器の窃盗犯人を捜査追及し、間もなく猿山洋一少年を検挙し、昭和二七年八月一〇日少年事件として送致した。猿山洋一は同月一六日検察官好田政一に対し「昭和二六年一一月初頃、油谷炭鉱二坑右三片火薬貯蔵所で箱をこじあけて発破器一台を盗み出した。次の日石狩土建の飯場へ右発破器を持参し、高橋鉄男に売つてくれと依頼した。その日、二〇〇円受取り翌日催促に行つて一、五〇〇円もらつた。発破器には手に提げるように革の持手はついていた。同年一二月初旬にも二坑二斜左一片火薬置場から発破器一台を盗み、同様高橋鉄男に売つてもらつた。」旨供述し、当時押収されていた五台の発破器を示したところそのうちからナンバープレートの剥ぎとられた大型発破器で革の手提がついたもの(証第二一号)と一四、八二〇号の表示のある発破器を選択して、前者を一一月初旬に二坑右三片から窃取したものであると指示説明した。

高橋鉄男は、盗品である事情を知りながら、田口稔から発破器一台、猿山洋一から発破器二台、村上巌から発破器二台の売却方の依頼を受け、これを亜東組の石井清、山沼外美、松倉某、謙松土建の百島某らにそれぞれ売却斡旋した容疑で取調べを受けたのであるが、田畠警部の取調べに対し、他の四台については、はつきりした供述をしたにもかかわらず、八七五〇号発破器についての供述は変転きわまりなく、警察官らは、ついにこれを確知し得なかつた。すなわち、猿山洋一から売却方を頼まれて受取つた発破器の一台は多分、証第二一号の発破器であるとの供述はしていたが、売却先については、最初は亜東組に売つたと供述し、警察官が亜東組関係者の裏付捜査をしたうえ、さらに詳細にただすと謙松土建に売つたと云い、謙松土建関係者を取調べたうえ、供述を求めると、あれではなかつたか、これではなかつたかと供述を変え、その都度、高橋のいう売却先につき捜査したが、結局証第二一号発破器を買つたという者は判明せず、果ては高橋は「猿山が盗つたとすれば、おれのところに持つて来るはずだし、受取つたような気もするが、猿山から受取つたかどうかもわからない。」旨供述する始末であつた。

一方、亜東組の現場主任大沼外美は、検察官好田政一に対し、「昭和二六年一一月下旬、石狩土建に働いている高橋鉄男が楕円形の新高式発破器一台を買つてくれと云つて持つてきたので、二二〇〇円で買った。昭和二六年一二月二〇日頃石井の自宅へ行つたところ、石井は外出しようとして、これを持つて行つてくれといつて誰から買つたかわからないが発破器一台(A二八号)を渡されたことがある。右二台の発破器は昭和二七年七月一五日頃油谷芦別炭鉱内電係の方に修理をお願いしたところ、二台とも油谷炭鉱の盗難品ということで取上げられた。」旨供述した。

亜東組専務石井清は、警察官の取調べに対し「昭和二六年一二月二六日頃自宅において高橋鉄男から発破器一台(A二八号、村上巌窃取にかかるもの)を買受けたことは認めるが、八七五〇号発破器は買い受けた記憶はない。」旨供述した。司法警察員は昭和二七年八月二二日右石井清を「昭和二六年一二月二六日頃自宅において石狩土建雑夫高橋鉄男より鳥居印発破器一台を一、五〇〇円で買受け故買した。」旨の被疑事実(この発破器はA二八号と思われる。)で検察官に送致した。

ところが石井清は昭和二七年八月二三日に至り、検察官好田政一に対し、昭和二六年一二月下旬高橋から自宅で前記発破器(A二八号)一台を買受けたことを認めたほか、「昭和二六年一一月中ば頃のこと高橋鉄男が私の事務所へハンドルの付いていない角型の発破器を持つて来て買つてくれと云つたことがあつた。はつきりしないが試験をさせた記憶がある。この発破器は確か一、五〇〇円くらいで買つたような記憶がある。」と八七五〇号発破器を買い受けた旨の供述をした。しかして「亜東組が高橋から買受けた発破器は全部で三台であるが、二台は油谷鉱業所に修理に出したところ、盗品だということで取上げられ、あとの一台は昭和二七年八月一〇日警察へ差出した。」と供述した。しかし検察官は石井清を取調べに当つて証第二一号の発破器を示して特定させてもいない。

警察官の取調べに際しては、あれこれ曖昧な供述をしていた高橋鉄男は、昭和二七年九月一日検察官好田政一に対し「昭和二六年一一月中旬頃猿山から売却方を頼まれて、発破器を亜東組事務所に持つていつた。所長の石井に二、五〇〇円で買つてくれと云つたところ、これも把手がついていないので、電気が起きないといわれ、石井か現場主任の大沼かに一、五〇〇円なら買うと云われて売つて来た。」旨の供述をした。

検察官好田政一は同月六日、石井清を取調べたところ、石井は前の供述を訂正し、「昭和二六年一〇月か一一月頃高橋鉄男が事務所へ楕円形の発破器を持つて来たので二、三〇〇円で買つた。その後一二月中旬頃高橋が自宅へ発破器を持つて来たので一、五〇〇円で買つた。その前に事務所に高橋が発破器を持つて来たので大沼に試験させて買つたようでもあるが、この分については記憶がはつきりせず、買つたように思うだけである。」と八七五〇号発破器を買つたのか買わないのかわからない旨の供述をするに至つた。

しかるに、検察官好田政一は、石井清が八七五〇号発破器も買受けたとの初めの供述に信を措いたとみえ、昭和二七年九月一〇日高橋鉄男を、他の贓物牙保の事実とともに「昭和二六年一一月中旬頃、猿山洋一に依頼されて同人が窃取した鳥居式一〇発用発破器(番号八七五〇)を石井清に売却した。」との事実についても起訴した。

高橋は刑事公判廷で「猿山から二回にわたつて発破器の売却を頼まれたが、最初に頼まれた分(八七五〇号発破器)は亜東組に一、五〇〇円で売つてやつた。後の分(一四八二〇号発破器)は石井清に売つてやつた。」旨自供し、裁判所も起訴状記載のとおりの事実を認定して高橋鉄男を有罪とした。

しかし、それは兎も角、亜東組または石井清、大沼外美らに高橋鉄男が売り渡したという八七五〇号発破器は亜東組にもなく、油谷炭鉱にもなく、亜東組において他に譲渡したとか、盗難にあつた事実も現われず、その行方は警察官の長期の追及にもかかわらず、遂に探知することができなかつた。証第二一号発破器の捜査に関与した警察官は、八七五〇号発破器を亜東組に売却したとの高橋鉄男の供述に疑いを抱いていた。

田畠警部の捜査も同年一二月頃、右の程度で終りとなつた。

第九、大興商事で発破器が紛失したとの聞込みについて

(証拠省略)によればつぎのとおりである。

遺留品として発見された発破器(証第二一号)は、油谷炭鉱所有であつた八七五〇号であると一応推定されたから、昭和二七年八月末頃から遺留品について主として油谷炭鉱および、その下請会社、下請組を多数の捜査員が、手分けして聞込み捜査しているうち、油谷炭鉱の下請会社、大興商事の発破係員福士佐栄太郎が発破器を紛失していることを聞込んだ。捜査員中田正巡査部長は昭和二七年八月末頃福士に対し、証第二一号の発破器を示して尋ねたところ、同人は、「これは自分が紛失した発破器ではない。自分が失くした発破器には番号が入つていた。その番号は手帳に控えている。」といつて手控を確めたうえ、「一五三五九である。」と答えた。中田巡査部長らは遺留品発見当夜、油谷鉱業所の火薬取扱所責任者国久松太郎から五桁の番号の発破器とは、形式、材質が異り、前者は銅か真鋳にメツキしたものであるとの予備知識を有していたので、福士が紛失したという発破器は遺留品のジエラルミン製発破器である証第二一号とは別のものであると考えた。

一方、油谷炭鉱およびその下請会社、組の一般的聞込み捜査の一環として、司法警察員巡査部長三上清五郎は、同年八月二八日、大興商事の第二露天現場の発破係員出町幸雄を取調べたところ、同人は「昭和二七年二月頃から第二露天には石狩土建所有の発破器二台があり、いずれも鳥居印であつた。このうち一台は同年四月二九日、二番方で第二露天B採炭現場の崩落により埋没した。残る一台は故障のため同年六月頃修理させるため、大興商事の事務所に持つて行つていた。ところが同年六月中に石狩土建が油谷炭鉱より借用して、六坑、三坑で使用していた発破器が紛失したので、その発破器の代りに大興商事現場責任者鷹田成樹が、これを油谷鉱業所に返納した。大興商事に、その外にも発破器が一台あつたかなかつたか記憶はない。現在は八月に大興商事で購入した発破器を使用している。」旨供述し、翌二九日大興商事の三坑発破係助手浜谷博義は、同巡査部長に対し、「石狩土建には以前から発破器が一台あつた。昭和二七年一月福士佐栄太郎が中古鳥居印発破器一台を買つて来たので二台となつた。そのうち一台が一月頃第二露天現場で紛失したが、同年四月に新たにまた一台購入したので二台となり、六月になつて三坑で油谷炭鉱より借用(同年二月頃から油谷炭鉱から借りていた。)中の発破器を紛失したので、その代品として油谷炭鉱に大興商事所有の一台を返還した。まだ一台は当然大興商事にあるはずである。」旨の供述を、翌三〇日現場責任者鷹田成樹は司法警察員巡査部長江口幸男に対し、「石狩土建には第二露天に一台、六坑、三坑に一台あつたのみである。四月頃までは第二露天に二台あつたが、一台は何時紛失したかわからない。三坑、六坑で使用していた発破器は六月一五日ころから二〇日ころまでの間に紛失した。この発破器は大興商事のものと思つていたが、油谷炭鉱の関発区長京家某の請求を受け、油谷鉱業所のものであることを知つた。第二露天で使つていた故障になつた発破器を外記重弘に修理させて、同年七月一〇日頃右京家に返納した。これは九三三〇号で会社番号は一三四号であった。」旨の供述をなした。

発破器関係捜査班の班長田畠警部は、さらに念のため、同年九月一日、福士佐栄太郎を取調べた。同人は「昭和二六年一〇月頃石狩土建に入つたが、当時発破器は二台あつた。昭和二七年二月頃六坑の仕事をするようになり、油谷鉱業所から本間係員か、小松田係員が発破器一台を借りて来た。これは鳥居印一五三五九号である。昭和二七年四月頃、出町幸雄が露天現場で一台崩落のため埋没させてしまつたということである。同年六月二〇日頃一台盗まれてしまい一五三五九号発破器がなくなつた。そのころ油谷鉱業所から貸したものを返してくれと催促があり、残りの一台を返した。そのため大興商事には一台もなくなつた。六月二〇日頃三坑立入に行つて見ると避難用鉄板の上に、把手だけ落ちていた。それが一五三五九号で油谷鉱業所から借り受けたものである。石狩土建に入つた当時所長代理の野城利春が発破器一台出すのを原寅吉が見ており、小松田幸雄が入るとき一台持つて来たということも聞いている。これが二台だと思う。」旨供述した。

かくて発破器関係捜査官らは、大興商事の作業現場で発破係員福士佐栄太郎が紛失したという発破器は、その保管責任者である福士佐栄太郎、現場の総括責任者鷹田成樹、発破係員助手の出町幸雄、浜谷博義らが、いずれも油谷鉱業所から借り受けた一五三五九号であると供述するので、型式、材質の異る遺留品の証第二一号発破器ではないと思料して、大興商事についての発破器の捜査はひとまず打切つた。

第一〇、鉄製ハンドルについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

発破器のハンドルは、発破器に付属しているものであつて、発破器を購入すると必ずハンドル一個が付いているものであるが、本来のハンドルは発電した電気を絶縁するため握り部分が木製になつているところ、遺留品のハンドルは全部が鉄でできた特殊なものであつた。いずれの炭鉱においても、本来のハンドルが紛失したとき、または本来のハンドルの予備として各炭鉱の鍛冶場で、代用のハンドルを手製で作ることがあり、全部手製のハンドルを持つている炭鉱も稀れではなかつた。遺留品の鉄製ハンドルが発見されるや芦別警察署の巡査(刑事係)大久保寛二郎らは芦別附近の各炭鉱の事務所、鍛冶場等について右鉄製ハンドルの聞込み捜査をしたが、右鉄製ハンドルを作つた場所もわからないし、同形のものも発見できず、昭和二七年秋になつて右ハンドルの出所の追及は打ち切つた。

第一一、緑色被覆電話線(発破母線に使用したもの)二四・七米のもの一本について

(証拠省略)を総合すれば次のとおりである。

前記のように巡査部長藤田良美は緑色被覆電話線が油谷鉱業所のクラブに同炭鉱から引かれていること、油谷炭鉱ではこの電話線を発破母線として使用しているらしいことは、かねて知つていたが、遺留品の緑色被覆電話戦(発破母線に使用したもの)が発見されるや、芦別警察署の警察官らは芦別近辺の大小多数の炭鉱および、その下請関係者について、どういう発破母線を使用しているかを約一〇日間以上にわたつて聞込みをなした。その結果はつぎのとおりであつた。明治鉱業所では三粋の撚線二芯入ゴム被覆円打キヤツプタイヤと赤被覆単線を二本合わせて使用していること、高根鉱業所では一・二粍四種絶縁線黒色と赤色の二本を捻つたものおよび一・六粋黒色被覆線二本を撚り合わせたものを使用していること、三菱芦別鉱業所では赤色と黒色の一・六粍芯線三種単線を二本合わせたものを使用していること、豊里鉱業所では赤被覆一・六粍芯線四種単線二本を合わせて使用していること、北海道炭鉱汽船株式会社赤間鉱では赤色と黒色の被覆一・八粍芯線単線を一本づつ二本張つて使用していること、空知芦別炭鉱では電F用一・六粍四種絶縁電線赤色のものを使つていること、芦別産業株式会社では米軍放出軍用電話線を使用しているが緑色覆被ではないこと、雄別炭鉱鉄道株式会社茂尻鉱業所では黒色ゴム被覆の下にさらに金網を冠つたゴム被覆の撚線四芯一八粍の特殊絶縁線と黒色被覆一・二粍芯三種線二本撚りのものと二種類使用していること、住友石炭鉱業株式会社赤平鉱業所では赤色と黒色の被覆一・二粍芯単線二本撚りになつたものを使用していること、北日本興業株式会社では屋内電気コード赤味がかつた被覆っ二本を撚たものを使用していること、三井芦別鉱業所では赤色と黒色の被覆線または代用として黒の被覆線を使用していることが判明した。ただ三菱芦別鉱業所では昭和二五年ころから昭和二七年にかけて緑色屋外電話ゴム線を購入し、病院、社宅、事業現場の電話架線に使つているが、倉庫に格納中、盗難にあつたことは一度もないし、また架線を切りとられたこともないとのことであつた。(以上の聞込みは捜査首脳部へ報告書の形式で提出され、供述調書化されたのは芦別事件起訴後であった。)右のように遺留品の緑色被覆電話線と同じ電線を使用している炭鉱はなかつたところ、遺留品発見後、間もなく巡査部長藤田良美が、緑色被覆電話線を持参して、油谷鉱業所に赴き、かねて顔見知りの火薬取扱所主任国久松太郎、資材係長佐野留之助、大興商事係員福士佐栄太郎らに、それぞれこれを示して、油谷炭鉱で母線として使つていないかと尋ねたところ、案に違わず、いずれも「こういうものを使っている。」旨の聞込みを得た。巡査部長中田正は、油谷炭鉱の資材係補助者山田久男から昭和二八年六月二〇日「昭和二七年七月初頃資材係佐野留之助の代わりに発破母線を取扱つたことがある。発破母線二〇〇米のものを資材倉庫より一束貰つて来て二五米のもの四本と三〇米のもの三本、残り一〇米のもの一本を作つた。この線を係員に請求されて二五米のものと三〇米のものを二人にそれぞれ渡した。この母線は緑色被覆のある線で、ただ今見せられた母線と同じものである。」との供述を得、同月二七日、油谷鉱業所用度係長松江勇からは、「お示しの緑色被覆線は、油谷鉱業所が北海電線株式会社より購入したラバー線一・二粍二芯線のようで、私のところの発破母線のように思われる。」旨の供述を、同日、油谷鉱業所鉱務課長成田良平からは、「お示しの発破母線は昭和二六年一〇月頃から油谷鉱業所で使つているものである。鉱山保安監督官からは四種線を使えと云われているのであるが、私の方では緑色屋外電話線で二種か三種の線を使つている。」旨の供述を得た。

以上によれば緑色被覆電話線二四・七米のものは、油谷炭鉱で発破母線として使用されているものとの捜査結果となつた。

第一二、釘(長さ四寸三分)について

(証拠省略)を総合すれば、つぎのとおりである。

捜査官らは遺留品のダイナマイト一六本が入つた蓋のとれたボール紙箱に、何のために釘一本が入つているのか、その意味がわからなかつた。ところが、石塚守男が昭和二八年三月一三日「坑内で発破をかけるとき五寸釘でダイナマイトに孔をあけて雷管を挿入した。」旨供述し、同年五月四日「ダイナマイトに穴をあけるのに使つた五寸釘を雷管の箱か手をつけてもどしたダイナマイトの箱に入れたか、はつきりしないが、兎に角、箱の中にしまつた。」旨供述し、同年五月八日、五寸釘、四寸釘、三寸釘等を示され「五寸釘と申したが、皆が五寸釘と呼んでいたのであるが、実際は四寸釘である。」旨供述して、示された釘の中から四寸釘を選別した。

この石塚供述によつて、使途と存在の理由がわかつた。したがつて釘の出所についての捜査は、他の遺留品の捜査と異り、右供述後になつてなされた。司法警察員は、油谷炭鉱資材係佐野留之助から同年六月二七日「油谷鉱業所では四寸釘五吋釘というのを使つている。」旨の供述を得、同日遺留品の釘を示して同炭鉱鉱務課長成田良平から「お示しの釘は坑内で漏斗につかつたり半ころの土台の角に打つたりしている。下請でも同じ釘を使つている。」旨の供述を得、右釘が油谷炭鉱から出たものであるとの確信を深めた。

本件鉄道爆破事件の起訴後の同年一一月二五日頃、検察官、警察官らは油谷炭鉱に赴き、油谷鉱業所の承諾を得て六坑副斜坑の矢木、枠木から釘三〇本位を抜いた。そのうち二本は遺留品の釘に似ていた。

第一三、細い針金三束について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

油谷鉱業所用度係松江勇は、昭和二八年六月二七日、司法警察員に遺留品の細い針金を示され「この針金は油谷芦別鉱業所で取扱つかつている二〇番線である。」旨、同鉱業所鉱務課長成田良平も「このような針金は坑内保安で風管をつるのに使つている。」旨の各供述をし、油谷炭鉱にも同種の針金が当時使用されていたことが確められた。

第一四、緑色被覆線が炭塵で黒く汚れ黒色となつたもの二本、雑誌二冊(読切小説集およびポケツト講談)在中の風呂敷一枚、国防色小型リユクサツク一個および新聞紙五枚等について

(証拠省略)によると次のとおりである。

緑色被覆線の炭塵で黒く汚れたものの切れ端は、油谷炭鉱の各坑に幾らもあつたこと、三井芦別駅の売店で盗難防止のため〈売〉というゴム印を押捺された読切小説集が昭和二七年二八日昼過頃若い三人連れの男の一人に売られたこと、風呂敷二枚は芦別市近辺で多数市販されていること、国防色小型リツクサツクはシベリヤ抑留者が復員した際、舞鶴港でもらい受けたものであること、新聞紙はいずれも芦別地区で販売されているものであること等が聞込みによつて判明したが、それ以上の手がかりは得られなかつた。

第一五、遺留品の出所判明と捜査範囲の縮小

(証拠省略)を総合すると、つぎのとおりである。

前項までにみたように各遺留品についての捜査の結果、本件鉄道爆破に直接関係があると考えられるジユラルミン製発破器、ダイナマイト、電気雷管、緑色被覆電話線(発破母線)が、いずれも油谷炭鉱のものであることが、漸次明らかとなり、芦別近辺の他の多数の炭鉱等の広範囲な捜査によつても、これを否定するような資料は見出せなかつたから、遺留品中、重要な物の出所に関する疑惑はすべて油谷炭鉱に結びつき、昭和二七年八月末頃ないし九月初頃からは、芦別町警察の捜査の焦点は、油谷炭鉱およびその下請会社、下請の組に出入する者にしぼられたのは必然のなりゆきであつた。芦別町警察署首脳部はそのころから油谷鉱業所の救護隊本部に本件鉄道爆破事件捜査本部を置き、油谷炭鉱、下請会社、下請の組の職員、坑内係員、坑夫、雑夫等について、前記遺留品等の出所をつきとめの聞込み捜査をなし、あるいは事務所等に立入つて帳簿類を調べ、あるいは社宅、飯場の捜索をなすなど、昭和二七年一二月頃に至るまで捜査を続けたが、具体的な容疑者は捜査線上に浮ばなかつた。かような捜査の過程において、捜査関係者らは、物からの追及ばかりでなく、本件鉄道爆破事件の特殊性に鑑み、その動機を考え犯人の側からの捜査も考えなければならないのではないかとの話ももちあつた。当時共産党が軍事方針を取つているとの噂さが一般に流布されていたので、捜査関係者等は、本件鉄道爆破も末端党員のはねあがり行為ということも、あり得るから、党員の動向についても捜査しようとのことになつた。かような経緯から捜査は基本的には物の出所の追及にあつたが、油谷炭鉱の下請会社である大興商事株式会社の労務係職員酒井武や係員浜谷博義、坑夫井尻昇(井尻正夫の弟)らに、芦別警察署の捜査官らが、昭和二七年八月末ごろから九月ごろにかけて、レツドパージの前歴者である井尻正夫の行動、その交友関係についても尋ね、また中田正巡査部長や山本末次郎刑事が大興商事の事務所に赴き、経理係職員三好吉光に対し、井尻正夫ほか数名の者について、誰がいつ現場に出たか、誰がいつ休んだか等と、くどくど尋ねるので、右三好にうるさがられ、工数簿を持つて行つて見てくれと云われ、右中田部長等において大興商事作成の工数簿を借用して、前記救護隊本部の小屋に持ち帰り、山本刑事、大久保刑事、工藤刑事、戸塚刑事らの各巡査をして、右工数簿の写をとらしめ(ことに大久保刑事は三坑立入六ヵ月分の工数簿、山本刑事は三坑立入七月分の工数簿の写をとつた。)たことがあつたが、右は井尻正夫を本件鉄道爆破の犯人と想定しての見込捜査ではなく、前掲のように三坑での発破器紛失の聞込のこともあり、またレツドパージで解雇されたことのある井尻と同じ職場で働いていた者に対し、右捜査の一般的方針に基づいてなした、いわゆる聞込みの域を出るものではなかつた。

たまたま、遺留品中、火薬類、発破器、緑色被覆電話線(発破母線)等が、すべて、油谷炭鉱から出たものであるとの資料が得られたので、油谷炭鉱の関係者に捜査の目が向けられたのと、右捜査の一般的方針とが競合し、井尻らの動向につき他の油谷炭鉱関係者以上に詳しく聞込みがなされたもので、捜査の主眼は、右物証の出所追及にあつた。

第一六、藤谷一久の逮捕について

(証拠省略)を総合すれば、つぎのとおりである。

芦別町警察署の警察官らは、昭和二七年八月末頃から同年一二月まで油谷炭鉱およびその下請会社、下請各組の係員、坑夫等について聞込を続けていた。同年一二月にいたり油谷炭鉱の下請組の一つ熊谷組の一つ熊谷組の係員馬場武雄らから、「昭和二七年七月四日夕方六時三〇分頃までの間に油谷炭鉱六坑捲上機室の差掛小屋に、頬かむりをした長身の三七、八才くらいの男と坑内帽をかむつた二四、五才の小柄の男の二人が来て、馬場に対し、『熊谷組の人ですか。石狩土建ですが、火薬がそこにあるから貰つて行きます。』と云つて、同小屋の床下に埋めてある一尺五寸と二尺くらいの大きさの木箱の中に、新白梅ダイナマイト二〇本入り四箱と新桐ダイナマイト数本および電気雷管五本束と一〇本束のもの合わせて二四、五本くらいあつたものを、右木箱の中から全部持つて行つたのを現認した。(以上の聞込みは昭和二八年四月七日にいたり司法警察員によつて調書化されている。)持ち出した者の氏名は、はつきりしないが、浜谷博義と出町行夫の二人ではないかと思われる。」旨の聞込みを得た。

油谷炭鉱の下請業者が油谷鉱業所火薬取扱所から火薬類の交付を受けていることも、警察官らに確認されていたので、あるいは遺留品の火薬と関係があるのではないかと考えられた。そこで翌昭和二八年一月下旬ごろ芦別警察署は浜谷博義に油谷炭鉱六坑捲上機室の差掛け小屋からダイナマイト類を持ち出したことはないかと問いただしたところ、浜谷は昭和二八年二月一〇日、司法警察員巡査部長藤田良美に対し「自分は六坑副斜坑(つれおろし)の発破係であつたが、使用したダイナマイトや雷管の残量は火薬取扱所に返納せず、補充分として六捲上機室の差掛け物置の床に空箱を埋めて、一時保管していた。三坑で使用した火薬の残量も、やはり返納せず、ここに一緒に保管していた。六坑堀進作業を熊谷組がやることとになつた昭和二七年七月一日当時、捲上機室隣の物置にはダイナマイト二〇本入五箱と雷管二〇本、不発雷管三本があり、これは三坑で使用するつもりであつた。三坑には火薬保管場所もなかつたので、七月四日ころ、三坑坑口から二〇〇米くらい奥に入つた廃坑に空箱を置いて火薬置場にしていた。七月五日か七日頃、この保管箱の中にダイナマイト二〇本入が、二、三箱と不発雷管三本が入つていた。三坑立入の後山藤谷一久に六坑から皆持つて来たのかと聞いたところ、全部持つて来たので残つていないと言つていた。三坑へ持つて来るように指示したことはないから、藤谷が勝手に持つて来たものと思う。二〇本入ダイナマイト五箱、雷管二〇本、不発雷管三本なければならないのに、二〇本入ダイナマイト二、三箱しかない。六月二九日の公休日に藤谷達四、五人仲間で火薬を持ち出して上芦別のダムで魚を獲つたことは知つているが、藤谷達はこれに味をしめてまた火薬二〇本一箱くらいを持ち出したものではないかと思つた。魚を獲りに行つたのは、中村誠、藤谷一久、岩城定男、岩城雪春の四人で、中村誠は発破をかけるのに電池を使つたと云つていた。」旨の供述をした。

そこで芦別警察署は昭和二八年二月一八日、藤谷一久を「昭和二七年七月四日午後七時ごろ六坑捲上機室物置内で新白梅印ダイナマイト二〇本入一箱を窃取した。」旨の容疑で逮捕し、同人は同月二〇日から勾留された。藤谷は中村誠、石塚守男らとダイナマイトを持ち出し、魚獲りに行つたことは認めたものの、同年三月五日司法警察員巡査部長藤田良美に対し、「昭和二七年七月四日は二番方で石塚守男、葛西克之、井尻昇と私の四人で三坑立入の坑道の堀進に行つた。石塚と葛西が孔をくつていたので、私は気をきかせて午後六時半頃、昇と、『火薬とアンコ(発破孔につめ込む粘土)をとりに行くべ。』と云つて、石塚の黒色ズツク製の背負袋を昇に持たせて六坑捲上機室横の差掛け物置に行つた。途中、昇が大興商事の事務所へ火薬が置いてあるかどうか電話をかけに行き誰に連絡したかわからないが、『六坑にある。』

と云つた。火薬保管箱の中からボール箱入ダイナマイト三箱とバラになつたダイナマイト八本くらいとボール箱入雷管をとり出して背負袋に入れ作業現場まで持つて行つた。発破孔は一三本位くつてあつたので、一つの発破孔にダイナマイト二本あて二六本と雷管一三本を使つた。この日ダイナマイトの残量二箱(一箱二〇本入)は石塚に渡したので、どうしたかわからない。石塚が私達がダイナマイトを入れて持つて来た背負袋に飯場で焚く石炭を入れて仕事が終わつた午後一〇時頃坑外へ出たのは見ている。」旨供述し、三月九日、司法警察員巡査部長中村繁雄に対し「前回述べた火薬の数量が大部違つていたようだから詳しく申し上げる。ダイナマイトのボール箱は四箱、それにバラになつた火薬が八本と箱に入つた雷管一箱を背負袋に入れたと記憶している。火薬の始末については石塚が整理したから、石塚に聞いてもらいたい。新桐ダイナマイトもあつたが新白梅ダイナマイトの方が多かつた。ダイナマイト八八本と雷管一箱ということになる。ダイナマイトに雷管を挿填するときは正規の方法では細い木の棒で孔をあけるのだが、五寸釘や孔を掃除するキユーリンという三分ボートくらいのものを使つていたこともある。三坑に火薬を置いて来るような非常識な人はいないし、また特別な置場所もなかつた。」旨供述したのみで、藤谷一久が右逮捕状記載のダイナマイトを持ち出したとの事実については確証が得られなかつた。滝川区検察庁検察官は三月一一日、藤谷を釈放し、後に、藤谷を前記の被疑事実については嫌疑なしとの理由で不起訴処分にした。

なお石狩土建興業株式会社は前掲熊谷組、亜東組らとともに油谷炭鉱の下請業者であつたところ、昭和二七年四月名称を大興商事株式会社と変更したものであるが、油谷炭鉱ならびに、その下請業者の間では、大興商事株式会社になつてからも、その前身である「石狩土建」の名で呼称されることもあつた。

以上により、藤谷がダイナマイト二〇本入一箱を窃取したことの嫌疑はなくなつたが、藤谷が井尻昇とともに、七月四日の午後六時半頃六坑捲上機室横の差掛け小屋から三坑現場にダイナマイト二〇本入四箱とバラになつたダイナマイト八本位および雷管一箱を運び、当日の作業にダイナマイト二六本位と雷管一三本位を使用したが残火薬は石塚が始末したとの藤谷の供述が出たわけである。

第一七、昭和二七年七月四日、藤谷が井尻昇と六坑捲上機室の差掛け小屋から三坑現場に火薬類を運んだことの裏付捜査について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

浜谷博義は昭和二八年四月二二日検察官に対し「火薬や雷管の残量は、規則上は、火薬取扱所に返還しなければならないのだが、六坑捲上機室横の下屋の下の箱の中に保管していた。六坑の現場では新桐ダイナマイト、三坑現場では新白梅ダイナマイトを使用するように指定されていたが、六坑現場では新白梅も受取つていた。七月一日六坑捲上機室下屋の保管箱には新白梅二〇本入四箱、新桐一箱、雷管一〇本、一束と不発雷管三本があつた。三坑立入現場で藤谷に、六坑から火薬を皆持つて来たのかと聞いたら、藤谷は皆持つて来たので残つていなかつた。三坑に持つて来いと指示したことはない。」旨供述した。

熊谷組係員馬場武雄は、同年四月二八日、同年七月三日に、検察官に対し「昭和二七年七月一日六坑を熊谷組が大興商事から引継いだとき、六坑捲上機室差掛け小屋の床下の木箱の中にはダイナマイト二〇本入、一五、五箱が隙間がないくらい詰めてあつた。その後大興商事の者が何回か火薬を取りに来ていると想像する。七月四日夕方六時三〇分頃までの間に、頬かむりした長身の三七、八才位の男と坑内帽をかむつた二四、五才位の小柄の男の二人連れが、右差掛け小屋に来て、私に『熊谷組の人ですか。石狩土建ですが、火薬がそこにあるから貰つて行きます。』と云つて、床下の箱の中から新白梅ダイナマイト四箱位と五、六本位は取出したと思われる新桐ダイナマイト一箱および雷管二五、六本あつたのを全部持つて行つた。私は傍で見ていたが、そのとき石狩土建の道具類は差掛け小屋には残つていなかつた。」旨供述した。

同人は井尻正夫、地主照に対する火薬類取締法違反被告事件の昭和二八年八月一一日の公判準備において、証人としても、「七月二日、六坑捲上機室差掛け小屋の木の箱に、上から二寸くらい空間があるだけで底まで、ぎつしり火薬が詰つていた。二列に並べて七、八箱入つていた。七月四日午後七時頃若い人とややふけて見える人が二人きて『石狩土建の者ですが火薬を貰いに来ました。』と云つた。床をあけて見たら、その時はダイナマイト四箱しか残つていなかつた。新白梅四箱と新桐の手をつけたもの一箱、雷管二五本をシコに入れて行つた。」旨証言した。

また同じ熊谷組の係員斎藤二郎は昭和二八年七月三日、検察官に対し「七月三、四日頃六坑捲上機室差掛け小屋の床下を見たことがある。そこには火薬の木箱が土中に埋めてあり、蓋をあけて見たら、ダイナマイト二〇本入ボール箱が並べて詰てあつた。新白梅で手をつけていないものであつた。雷管が入つていたかどうか気が付かなかつた。火薬は何時とりに来たか気付かなかつた。馬場から数日後火薬はみんな持つて行つたよと聞いた。」旨供述し、同人は、井尻、地主に対する火薬類取締法違反被告事件の同年八月一〇日の公判準備においても、証人として、「馬場武雄と二人で差掛け小屋の中の木箱を調べて見たら、上から三寸くらいの所まで火薬の紙箱が詰つていた。七月二、三日頃のことと思う。底まで横積みして詰つていたので、馬場と「よくこんなに、ためたものだなあ。」と話し合つていた。」旨証言した。

井尻昇は昭和二八年四月二四日、同年五月一日、同月四日、同月五日の四回にわたり検察官に対し「昭和二七年七月四日、藤谷一久、石塚守男と三人で三坑で働いた。夕方になつて、藤谷と二人で六坑捲上機室の差掛け小屋に行つて、熊谷組の係員が来るのを待つた。係員らしい人が来たので、『大興商事の者ですが、おいてある火薬を貰つて行きます。』と云つた。その人は『ここはもう大興の現場ではないのだから全部持つて行つてくれ。』といつた。その人の前でリユツクに新白梅ダイナマイト三箱、新白梅ダイナマイトで数本入つているもの一箱、雷管の入つている箱一箱、合計五箱をリユツクに入れた。この日さく孔が一〇本位あつたから雷管一〇本位とダイナマイト二五、六本を使つた。使用残りの雷管は四、五本で、ダイナマイトは相当量あつた。私どもの話では一応事務所に持つて行き預ける心算であつたが、石塚が『もう遅く事務所も休んだろうから明日届けよう。』と云い、同人がリユツクサツクをかついで井尻飯場に帰つた。飯場に帰つて、かまどの前の三尺位の高さの棚の上に石塚は、リユツクを置いた。翌朝、朝食のとき飯場の物置に醤油をとりに行つた。その際、物置入口左隅に前夜持つて来たリユツクサツクがあるのを見た。棚の上に置いたのでは不用心だということで、物置に移したものだと思う。』旨供述した。

藤谷が井尻昇とともに六坑捲上機室差掛け小屋の床下の火薬保管箱からダイナマイト三、四箱と雷管の入つた箱を三坑現場に運んだことを裏づける資料が出た。

第一八、石塚守男の供述について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

芦別町警察署警察官らは、前記のように、熊谷一久の供述によつて得られた油谷炭鉱六坑捲上機室横の差掛け小屋から七月四日藤谷、井尻昇によつて三坑現場に運ばれ当日使用された残火薬新白梅ダイナマイト三箱位の行方について石塚守男を追及することとなつた。石塚守男については浜谷博義および藤谷の各供述によつて昭和二七年六月二九日、上芦別のダムで魚を獲るため、油谷炭鉱から火薬を持出したとの資料を得た(ちなみに、本件鉄道爆破事件発生当時、捜査員らが、池でダイナマイトをかけて魚を獲つた者があるとの聞込を得たのとは全く別である。)ので、昭和二八年二月二八日「中村誠外二名と共謀のうえ、昭和二七年六月二八日午後六時頃、油谷炭鉱六坑捲上機室内火薬保管箱よりダイナマイト三本、電気雷管二本を窃取した。」との被疑事実により逮捕状を請求し、同年三月九日右石塚を逮捕し、同人は同月一一日から勾留された。司法警察員巡査部長中村繁雄(国家地方警察札幌方面本部捜査課勤務であつたが、芦別事件捜査のため芦別町警察署長の指揮下に入つたものである。)が右石塚の取調べに当つた。

石塚は同月一一日同巡査部長に対し、「昭和二七年六月二八日、一番方で坑内作業が終つてから、午後五時頃、藤谷一久、中村誠、福田米吉と私の四人が一緒になり、魚を獲りに行く相談をし、六坑捲上機室物置に入れてあるダイナマイト三本、鉱業用雷管二本を中村誠が盗つて持つて行き、その晩一一時頃四人が上芦別の堰堤で発破をかけて小魚(ウグイ)を二、三〇匹獲つた。」旨自供した。さらに藤谷一久の供述に出てきた昭和二七年七月四日、藤谷、井尻昇が六坑捲上機室横の差掛け小屋(物置)から三坑立入現場に運んで来たダイナマイト類の残量の処分について尋ねたところ、石塚は昭和二八年三月一三日、右中村繁雄巡査部長に対し、

「七月四日二番方で先山も後山もなく井尻昇、藤谷一久の三人で三坑で働いた。その日背負袋に火薬や雷管を入れて持つて来たのは井尻昇で発破を掛ける場所より大体一〇米位前にその背負袋を置いた。袋の中にはダイナマイト二〇本入、五箱に入つたのが何本かあつた。その日使つたダイナマイトは三二、三本、雷管は一三本であるから、結局、余つた数量はダイナマイトが三箱(六〇本)と箱の中に入つた雷管が何本かあつた。ダイナマイトに雷管を入れる孔をあけたとき使つた五寸釘は一本よりなかつた。その釘は穴をあけ終えてから、はんぱのダイナマイトの箱の中に一緒に入れたのである。帰る前に急に、飯場をやつている井尻正夫の妻君から、たきつけ代用に火薬を使うからと頼まれていたのに思いついた。あまつた三箱のダイナマイトと雷管の箱の中に入つたままのリユツクの上に石炭を入れて帰り、炊事場の釜の側に置いて飯を食べた。」旨の供述をなした。さらに同日石塚は機会をあらため同巡査部長に対し、

「六月二〇日、一番方、現場は六坑で、先山は井尻、後山は私と福田であつたが、午後二時半頃、坑口に来たら安全灯の原田が井尻に用事のある人が来ているから早く帰つてくれと言つて来たので、井尻は一足先に帰つた。私は四時ちよつと前、飯場に帰つた。飯場の六畳間二間は出来ており、井尻の隣の六畳間に寝起きしていたので、自分の室で身仕度をといていたら、井尻、共産党の地主某と上芦別の大須田某と一度も見たことのない年のころ二五、六才、小柄で髪はバサバサにのばし紺の背広上衣に白の開襟シヤシを着たインテリーくさい男と井尻の妻ミツ子の五人がいるのが何時もご飯をもらうとき食器を出す窓から見えた。ベニヤで仕切つてある隣の井尻の部屋で地主が小声で『火薬が必要だから井尻君、何とかならないか。』という声が聞こえてきた。井尻は『俺は火薬を扱つているが、俺からそういうことは出来ない。』といつて断つていた。何の余念もなく聞いていたので、私はそれなりで風呂に行つた。その後六月二六日頃、弁当をもらうとき、井尻の妻君から、小声で焚きつけ用にするから火薬を持つて来てくれと頼まれたことから考えると井尻は地主らに断り切れず、井尻の口から言うのを気兼して妻君から言わしたのではないかと思う。私は焚きつけとは全くの口実で地主達に分けてやる火薬だと思つた。七月四日、火薬を入れて飯場に帰つて、妻君に持つて来たと話した。七月六日は公休で翌七月七日、一番方で帰つて四時頃飯場に帰ると地主が五才位の子を連れて来ていたが、私は午後八時頃薄暗くなつて赤色の寿と書いた風呂敷に重箱でも重ねたような四角いものを包んで井尻と一緒に出て行くのを見ておつた。

八月七日午後五時頃井尻が焼酎五合買つて来て、私と藤谷と井尻の三人で私等の部屋で飲んだとき、井尻がいうには『お前が持つて来た火薬も雷管も、そのままそつくり地主にやつたんだから、このことは、誰にもいうな。』と口止めされた。爆破事件は一回だつたが、地主が風呂敷包を持つていつてから、その事件があるまで口止めされたことは五回程あり、現場に行く途中、話したこともあり、また風呂の行き帰りにも言われた。地主が風呂敷に入れて行つたのは火薬に間違いないと思つた。八月九日午後一〇時頃隣の井尻夫婦も床に就いていたし私も床に就いていたが、未だ眠らないうちに、ベニヤ一枚の隣の部屋で『あの、リユツクは投げて来たんだ。』と井尻が妻君に言つているのを聞いた。八月一〇日、大興を退職させられて、九月五日より二三日まで当麻の発電所ダム工事場で働いたが、九月六日現場を見ての帰り途、私のすぐ後で井尻と藤谷が歩きながら井尻が小声で藤谷に『あの火薬は使つてしまつたのだから、誰にも言わないでくれ。』と口止めしたこともあつた。そのとき藤谷は『判つたから。』と言つていた。」旨の供述をした。

石塚は、逮捕されて五日目、勾留されて三日目にして、全く捜査官の予期しなかつた本件鉄道爆破事件に関する供述をしたわけである。

翌三月一四日石塚は、同巡査部長に対し、

「七月二九日は、井尻も私も一番方で一緒に仕事を終えて事務所までくると井尻は『事務所で米と味噌をもらつて行くから。』というので私は一足先に帰つた。井尻は夕飯の時にもいなかつたので、妻君に何処へ行つたのかと聞いたら、上芦別の親の家に行くと言つて下つたと言つていた。二九日晩は井尻は油谷にはいなかつた。」旨

の供述をし、本件鉄道爆破事件当夜、井尻にアリバイが成立しないことを窺わせた。さらに石塚は、三月一六日、同巡査部長に対し、

「七月二七日頃一番方を終わつて午後三時半頃鉄道線路を歩いて帰るとき、油谷炭鉱火薬取扱所付近で井尻が線路の左側に降りて小便をしながら、『石塚君、一寸話があるから。』と私を呼びとめた。小便が終わつて並んで歩きながら『石塚君が持つて来た火薬は爆破に使うんだから、誰にも言わないでくれ。藤谷も中村も入つているから、これも言うなよ。』と口止めされた。井尻はさらに『二九日におれも下りるから絶対に言わないでくれ。』と言つた。八月七日、焼酎飲んだ時、『石塚君が持つて来た火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから、頼むから誰にも言わないでくれ。中村も藤谷も入つているんだから。』と更に口止めされた。」旨

三月一七日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜、飲み終わつてマーケツトに出かけた。藤谷がマーケツトの表通りで私に対して『マツコ(井尻正夫のこと)から聞いた通り、おれも入つているから必ず誰にも言わないでくれ。』と口止めしたので『わかつたから。』と約束した。」旨

三月二七日、同巡査部長に対し、

「八月七日の晩、私と藤谷と井尻の子供(六、七才)とマーケツトから先に表に出た。七夕の飾のある柳の木の付近で、藤谷が私に『さつき三人で飲んだとき、マツコから話しがあつたことは、おれも入つているんだから言わないでくれ。』と口止めされた。当麻に行つて九月六日午後、私がブルドーザーのあつた場所で腰を降して休んでいたら、おくれて、井尻、藤谷が来て歩きながら井尻が藤谷に対し『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、爆破事件に使つたんだから誰にもいうなよ。』と話しているのを一、二間許り前を歩いていた私が聞いていたことがある。当麻市街のラーメン屋ではゴタゴタしたので私と荒兄弟は三人で、ラーメン屋の向いの飲屋に行つたので井尻と藤谷がどんな話をしたか私には判らない。」旨

各供述した。

ちなみに、警察官らは、石塚守男の右各供述と後述するように、藤谷一久からも昭和二八年三月二六日、右石塚の供述に一部符合する供述を得た。そこで芦別町警察署捜査官らは、井尻正夫および地主照に対する火薬類取締法違反被疑事件の逮捕状を得て、昭和二八年三月二九日、右両名を逮捕(この点当事者間に争いがない。)した。

かくするうち石塚に対する前記の勾留の期間は満了した。

昭和二八年三月三〇日、石塚守男は「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二九日午前三時半頃、上芦別野花南発電所貯水池で鉱業用ダイナマイト二本電気雷管二個を爆発させた。」旨の容疑で再び逮捕され、同年四月一日勾留された。

石塚守男は同年三月三一日、控訴人金田泉(札幌地方検察庁岩見沢支部検察官検事)に対し、

「竹田の家に昭和二七年六月なかば頃までいた。その後井尻飯場の六畳の間に移つた。岩城定男が腹痛をおこして入坑しなかつた、六月二〇日午後二時半頃、安全灯の原田というあんちやんが、井尻に用事のある人が来ているから早く帰つて来てくれと言つて来たので井尻は一足先に帰つた。私は遅れて帰り何気なく弁当をもらう窓から井尻の部屋をのぞいた。すると部屋には地主、大須田、名前を知ららない二七、八才の男と井尻夫婦がいた。私が隣の部屋で着がえをしているとき、地主の声で『井尻君、火薬がいるんだが何とか都合出来ないだろうか。』という声が聞えた。井尻は『おれは火薬を扱つているんだが自分から持つて来るわけにはいかないから。』と返事していた。その後、六月二五、六日頃一番方に出ていく時に井尻の奥さんから、焚きつけ用にしたいので火薬を少し持つて来てくれと頼まれた。

七月四日頃二番方で三坑へ行つた時、藤谷と井尻昇がリユツクの中にダイナマイトと雷管を持つて来た。ダイナマイト三二、三本、雷管三束取出し、うち二本だけリユツクの中に再び入れたから、一束五本だから一三本使つた。午後一〇時頃残つたダイナマイトと雷管の入つたリユツクを持つて坑口に出、魂炭三個をその上に入れて飯場へ帰つた。雷管の箱が一箱ダイナマイトの箱が三箱位あつたと思う。炊事場の釜の前の物置との間におろした。

七月七日頃一番方をおえて飯場へ帰つた時、井尻のところへ地主が子供をつれて来ていた。午後七時頃映画を観に行こうと思つて表に出たところ、井尻と地主とその子供三人が裏口から表へ出て行つた。地主は重箱のような四角い風呂敷包を手にさげていた。風呂敷は赤地で白い字の寿であつた。その後、私は風呂の途中とか現場の行き帰りに井尻と二人きりになつたとき、五、六回、『石さんが持つて来た火薬は地主にやつたがだれにも言わないでくれ。』と口止めされた。

七月二七日頃一番方をおえて私と藤谷と井尻と福田米吉の四人が午後三時頃、帰る途中、福田は先に帰つて、井尻、藤谷、私の三人が一緒になつた。油谷炭鉱の火薬庫の向い付近の線路を歩いている時、井尻が小便をした。井尻は『用事があるから一寸待つてくれ。』と言つた。私が待つて、また一緒に線路上を歩き出した。すると井尻は『石さんから持つて来てもらつた火薬は地主にやつたから絶対に言うな。その火薬は爆破事件に使うから言わないでくれ。藤谷、中村も入つているから、このことは本当に固く頼む。二九日におれは下る。』と言つたのである。私は『判つた』と答えておいた。二九日という言葉は頭にはつきり残つている。

七月二九日は一番方を終つて井尻と藤谷と一緒に事務所に寄つた。井尻は『用があるから先に帰つてくれ。』と言つたので私は先に飯場に帰つた。飯を食べる時井尻がいなかつたので奥さんに『何処へ行つた。』と聞いたら『上芦の親の処へ行つた。』と言つていた。私は午後九時半ごろ寝たが、井尻はその時までには帰つて来ておらなかつた。翌日私が一番方で仕事に出かける時も飯場に帰つておらなかつた。私が事務所に行つたところ、井尻は約一〇分位遅れて一番の汽車で帰つて来たらしく、私に『今、帰つて来たから。』といつておつた。」旨

従前、芦別警察署で巡査部長中村繁雄に対して供述したことと全く同趣旨の供述を総括的、具体的に供述した。

さらに石塚は同年四月二日控訴人金田泉(以下金田検事という)に対し、

「昭和二七年七月三一日午後三時過ぎごろ仕事を終わつて帰つて来たところ駐在所の上田巡査から電話があつて来てくれとのことで駐在所へ行つたところ、上田巡査は『二九日に井尻は下つていないか。』と聞いたので私は下つていないと答えた。

八月七日の七夕の午後五時頃から私の部屋で井尻と藤谷と三人で焼酎を飲んだが、飲み終わつたところ井尻は『お前に持つて来てもらつた火薬は全部、地主にやつて、鉄道爆破に使つたから、これは絶対誰にも言わないでくれ。』と言つたので、私は『雷管もか。』と聞いたところ、『中雷管も皆やつた。』と返事した。なお、『これは藤谷も中村誠も入つているから絶対に言わないでくれ。』といつていた。

八月九日午後一〇時半頃私が遊んで帰つたところ同室の村上、夏井、高橋正一らは寝ていた。私は井尻の部屋の境の方に頭を向けて寝ていたところ、井尻が奥さんに『あのリユツクはおいて来てしまつた。』というようなことを言つていた。九月六日当麻ダム工事現場を見ての帰り途、私より二間位離れた後を井尻と藤谷が歩きながら井尻は藤谷に『石塚にもらつた火薬は地主にやり、鉄道爆破に使つた。誰にも言うな。』という趣旨のことを言つていた。当麻の市街で日の出屋という飲食店に行つたことはあるが、井尻から口止めの話があつたことは知らない。」旨

警察で述べたと同様の供述をなした。

さらに、石塚守男は同年四月六日に、芦別町警察署捜査課長司法警察員警部芦原吉徳に対し、従前述べなかつた新事実を要旨つぎのように供述した。すなわち、

「七月一二日頃、朝一〇時頃井尻は『時に君に相談があるんだがね。』『石塚君が覚えているように、君の持つて来た火薬は地主にやり、鉄道爆破に使うんだが、現場に行く人は、おれと地主と大須田と若い西芦から来た男、油谷でパン売していた山内という男、斉藤という明鉱をパージになつた男、三菱でパージになり大興で働いていた男であり、火薬は君に用意してもらつたし、母線は中村誠が一回でなく二、三回位にして持つて来たんだ。場所は茂尻と平岸の間で、日は二九日である。』と言つた。翌一三日、公休日午前一〇時頃、井尻の部屋で『昨日の話だが母線や火薬は用意したが発破器がないんだ。』といつた。『君も段取りしたんだし、どうせわかつたら共謀と見られるんだから入れよ。』と仲間入りをすすめた。私は火薬を運んだだけでも気にしていたから、『親父もおれがシベリヤから復員して来たものだから赤と見られるぞというし、どこでも使つてくれないし、仲間に入つてわかつたら一生きず者になつてしまうから絶対に入らない。』と断つた。このとき井尻は『中村が現場から発破器を持つていつたと事務所の連中が言つていた。中村が家に持つて行つているかどうか聞いて見なければならない。』とも言つていた。その後七月一六日頃午後三時頃油谷会館のあたりで、井尻は、『この前話した発破器のことなんだが、誠に聞いたら、『リユツクの中に入れて持つて来たんだが、ハンドルをどこに置いたか判らないので持つて来なかつた。』というから、『発破器はおれによこしておけ。』と言つて、おれが上芦に行つて中村から発破器を受取り、地主に渡して来た。その発破器は提革がきれていたから違う革と取りかえてつけて地主のところに置いて来た。』と話した。

八月七日、七夕の晩の話の際『爆破事件に行つてやつた話だけど鉄道線路がこわれないで失敗した。母線も発破器も皆、線路の側に置いて来ちやつた。行つたメンバーは、この前言つた通りだが、誰にも言うなよ。』と口止めされた。更に井尻は、『段取するのは皆でやつたが、やつたのはおれと地主なんだ。』『汽車が来る前に線路を人が歩いて来たので、全部土手の所にかたまつた。かけるときは少し小高い所で土手の蔭にかくれてやつた。』『やつてから道路の方から人が来たのでおれと地主と大須田は草原を通つて芦別の方に逃げ、外の者は見張りをしていたんだ。』と言つていた。八月一二日、三日頃油谷に行つたが、その際、井尻と一緒に聞谷商店に“とうきび”を買いに行つて食べながら飯場に帰る時、亜東組飯場付近に来たところ、井尻は、『鉄道爆破に行つたとき、“とうきび”が大してあつたんだ。』と言つていた。八月二七、八日頃油谷会館で警察の方に発破器の事などいろいろ聞かれた後、私が飯場に帰つて昼寝した。その時井尻が私に対し、『石さん寝言いつたぞ。“あのとき言つてしまえばよかつたなあ”。と言つていたぞ。そんなこと言わんでくれよ。』と井尻に言われた。」旨

供述した。

石塚は、井尻から、仲間入りを勧められ、鉄道爆破の具体的計画も聞いたと新たな事実を供述したわけである。

ちなみに、前記のように逮捕された井尻正夫、地主照からは、火薬類である新白梅ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本位を不法に所持したとの事実については、何らの供述も得られなかつたが、以上の石塚守男の供述および後述する藤谷一久の供述、その他熊谷組の馬場武雄らの供述を資料として検察官は、昭和二八年四月一八日、井尻正夫と地主照を札幌地方裁判所岩見沢支部に「両名は共謀の上、昭和二七年七月頃、芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所附近に当時あつた大興商事株式会社第二寮(井尻飯場)等において火薬類である新白梅印一一二・五瓦ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇本位を所持した。」との公訴事実により起訴した(右起訴の点については当事者間に争いがない。)

なお、検察官は石塚守男についても昭和二八年四月二〇日、札幌地方裁判所岩見沢支部に、「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二九日空知川においてダイナマイト二本位、電気雷管二本位を爆発させた。」旨の火薬類取締法違反の公訴事実により起訴し、石塚は同日以後は右被告事件の審理のため、同年七月一九日にいたるまで被告人とし勾留されることになつた。

金田検事は前掲のように同年三月三一日、同年四月二日の二回にわたつて石塚守男から、ほぼ全貌的な供述を得たが、その後、右供述の裏付捜査も順次行ない、さらに、同年四月三〇日から、同年五月一六日まで、個々の事項毎に詳細に取調べをした。

すなわち、石塚は同年四月三〇日、同検事に対し、「竹田方に同居させてもらうようになり、明鉱で知り合つた井尻昇の世話で五月一日から大興商事で勤務するようになつた。その後六月一七、八日頃井尻飯場に行くようになつた。」旨、

同年五月一日同検事に対し、

「私は六月一七、八日頃、竹田の処を出て井尻飯場に移つた。移つた時には階下の大部屋に一晩か二晩泊つて井尻正夫の部屋のすぐ隣である六畳の間に移つた。境はベニヤ板一枚で仕切つてある。竹田の処に寝泊りしていたときは食事は井尻飯場から持つて来て食べていた。」旨

五月二日同検事に対し、

「昭和二七年六月二〇日、岩城定男が腹痛をおこした。定男を兄雪春、藤谷、中村誠らが連れて下つた後、井尻も『おれも行つて見なければならないなあ。』と言つて下つて行つた。午後二時頃、井尻は帰つて来た。それから少しして安全灯の原田と言う一八、九才の人が、井尻にすぐ帰つてくれと言つて来たので、井尻は帰つて行つた。私も間もなく井尻飯場に帰つたが、午後三時少し前頃であつた。井尻の部屋は入口の戸がしまつていた。弁当差出窓から室内を見たところ、私に背を向けて井尻、その右側に私の部屋との境を背にして地主、その右に髪をぼさつとしたインテリ風の男、その右に井尻と向い合つて、大須田、その右に光子が座つていた。私は部屋に上つて風呂に行く仕度をしている時、地主が小さい声で『井尻君、火薬を使うことができたが都合してくれないか。』と言うのが聞えた。井尻は小さな声で『いや自分で扱つているから、自分の手からは持つて来られないから。』と言つていた。私は風呂に行つて二〇分位して帰つて来たところ、地主等は部屋にはいなかつた。その日、地主は子供を連れて来ていないようであつた。」旨

従前と変らない供述をした。

同月四日、石塚は同検事に対し、

「昭和二七年六月頃ズリ捨場で井尻は『昨日は魚獲りに行つて獲れたかい。』と話しかけ、そのとき『石さんに頼みたいことがある。火薬を都合して俺んところへ持つて来てくれないか。』と言つた。私はただ『うん』と返事をした。七月一日は井尻たちは賃金交渉のため札幌に行き、私たちは、ほとんど仕事を休んだ。私は一日、二日、三日は上芦の次郎長の清江の処に行つて泊り三日まで仕事に出なかつた。私は警察では火薬を持つて来てくれと井尻光子に頼まれたと申したが、それは、うそで六月三〇日昼休のとき、六坑つれ下し現場のズリ捨場で、藤谷のいる処で、井尻から頼まれたのである。井尻から口止めされていたから光子の名前を出したのである。

七月四日午後三時頃油谷に帰つて二番方で藤谷、井尻昇と三坑立入に入つた。一〇本位の孔を穿ち、藤谷、昇が持つて来たリユツクの中からダイナマイト一箱と雷管五本一束のものを二束位出し、五寸釘でダイナマイトに穴をあけ雷管を差しこんだ。一箱ではたりないので、もう一箱取り出して、その中からダイナマイト五、六本使い、残りは箱に入れてリユツクの中にしまつた。リユツクの中には手をつけた箱を入れてダイナマイト三箱、雷管の箱一箱があり二〇本位残つていたのではないかと思う。ダイナマイトに穴をあけるのに使つた五寸釘を雷管の箱に入れたか、手をつけてもどしたダイナマイトの箱に入れたかはつきりしないが、とにかく箱の中にしまつた。発破は安全灯でかけた。リユツクをトロに積んで出て、坑口のところで魂炭三個位をリユツクの中に入れて飯場に持つて帰つた。井尻の部屋の入口の処から、一寸頭を入れて『この間、頼まれた火薬を持つて来たよ。』と言つた。井尻は布団に横になつていたが、『そう、すまないな。』と言つた。旨

述べ、従来、「ダイナマイトをたきつけ用に持つて帰るように井尻の妻光子から頼まれた。」旨供述していたのを、同日の調べの際、井尻正夫から直接、頼まれたと供述を一部変更したが、大筋において従前の供述と異るところはなかつた。

石塚は五月六日、同検事に対し、

「井尻は七月九日頃から一週間か一〇日位怪我して仕事を休んだ。初めて仕事に出て来て三坑立入で働いた七月一六日頃、仕事からの帰りに油谷会館あたりで、二人で歩いてきたとき『この前、話した発破器のことなんだが、誠に聞いたら、“リユツクに入れて持つて来たんだけど把手はわからなかつた”と言つていたので、中村に“発破器をおれによこしておけ”と言つて、おれが上芦に行つて中村から発破器を受け取り、地主に渡して来た。その発破器は下げ革が切れていたので違う革と取りかえて置いて来たんだ。下げ革が切れていて、すぐ判るので代えたんだ。』というようなことを言つたことがある。

井尻が休んでいるときで、公休日とその公休の前の日の二日にわたつて井尻が私に鉄道爆破の話をしたのだから、確か七月一二日頃であつた。午前一〇頃井尻は一人で酒を飲んでいた。井尻は『君に相談があるんだが。』といい出し、『何のことだ。』と聞いたら、井尻は『石さんが持つて来た火薬は地主にやるんだ。あの火薬は鉄道爆破に使うんだが、石さんも火薬を用意したんだし、どうせ判つたら共謀と見られるんだから仲間に入らないか。』と言つた。私は断つた。そのとき井尻は『鉄道爆破は平岸と茂尻との間で、七月二九日に鉄道爆破に行くんだ。行くのは、おれと地主と大須田、前に地主と一緒に来た男、明鉱でおれと一緒にレツトパージになつた斉藤、三菱でレツトパージになり大興で少し働いた男、山内等である。』と言つていた。翌日公休日だつた。井尻はやはり午前一〇時頃酒を飲んでいたようだつた。そして、『昨日の話しだが、火薬は石さんに用意してもらつたし、母線は誠に一回でなく二、三回にして持つて来てもらつたんだが、発破器だけがないんだ。発破器は誠がかつぱらつたと皆が言つている。あいつは手くせがわるいし売つてしまうと悪いから。』と言つていた。一二日、一三日か一三、一四日かはつきり記憶していない。とにかく二日にわたつて井尻が言つたことは間違いない。

七月一七、八日はストであつた。七月一九日頃“私はシベリアの捕慮だつた”という映画を見ようと思つて、夕食後、村上忠吉、夏井茂夫と三人で井尻飯場を出て道路へ出た際、私たちより先に裏口の方から子供を連れた地主が井尻と共に出て来たのを見たが、その時、地主は恰度重箱を重ねたような四角い風呂敷包を右手に下げておつた。風呂敷は赤地の白い寿という字を書いたものであつたと思う。地主たちは見張所のところから国道を歩いて行き、私たちは油谷会館に行つた。前に七月七日ごろと言つたが、七月一九日頃であるから訂正する。公休日の次の日であつたように記憶していたので七月六日の公休日の次の日だろうと思つて七月七日と申上げたのである。井尻が線路から下りて小便をし、『石塚君一寸待つてくれ。』と言つたのは七月二七日頃ではなく、七月二三、四日ごろである。七月二六日は明治鉱業に千代の山一行が来て興行し、井尻も相撲を見に上芦に来ていたので、二三、四日のことであると思う。」旨供述した。

この日の供述で、従前、地主照が重箱様の四角い風呂敷包を井尻飯場から持ち帰つたのは、昭和二七年七月七日頃であると述べていたのを、金田検事に間違いないかと確かめられ、七月七日頃と述べたのは、公休日との関係で、そのように述べただけで、別に根拠がある日時ではなく、七月一九日頃が正しいと訂正し、井尻に、呼びとめられて、鉄道爆破に行くことを聞かされた日も千代の山の相撲との関係から日時に誤りがあつたと訂正したのである。

しかし、日時の訂正にとどまり、供述の内容を変更したものではない。

石塚は五月七日、同検事に対し、

「七月二九日午後五時頃夕食の時、井尻がいなかつので『何処へ行つたのか。』と光子に聞いたところ、光子は『上芦の親のところへ行くと言つて下つて行つた。』といつた。私は井尻から『七月二九日鉄道爆破をする。おれもその日、下るんだ。』と言うようなことを二回も聞いていたので鉄道爆破に下つて行つたんだなあと思つていた。食事後、光子と私と藤谷と油谷会館の“地獄の門”という映画を見に行つた。後から福田も井尻の子を連れて来た。井尻は映画に行つていない。私たちは映画から午後九時か九時半頃帰つた。その翌日一番方で仕事に出かける時、井尻は飯場に帰つておらなかつた。

私が大興の事務所に行つたところ、井尻は私より約一五分遅れて事務所に来た。そして『今帰つて来たから。』と言つた。」旨

五月八日、同検事に対し、

「七月一二日頃の午前一〇時頃井尻は『上芦から行くのは俺と大須田、斉藤と三菱でパージになつた奴で歩いて行くんだ。西芦からは地主と地主の連れて来た男と三井の汽車で五時何んぼに乗つて下り、芦別で山内と一緒になつて六時何ぼの汽車で平岸へ行くんだ。平岸で一緒になるんだ。人数が多いので二組に分れたんだ。その相談はおれが休んでいるときに、地主のところへ行つて皆で相談したんだ。』と言つた。八月七日、七夕の夜、私と藤谷と焼酎を飲んだ時、井尻は『皆でしたんだが、発破を掛けたのはおれと地主と二人で掛けた。掛ける前に線路の方から人が歩いて来たので土手の小高いところで皆かくれた。そしてすぐ掛けたのだがレールは壊れなかつた。掛け終つてから国道の方から人が来る気配がしたので、あわてて、おれと大須田と地主と三人で麦畑の方へ逃げ、そのまま三人で芦別の方へ逃げて帰つて来た。あとの連中はどつちへ逃げたかわからない。母線や発破器のハンドルはあわててそのまま傍へ投げて来た。』『発破を掛けるとき、外の連中は道路の方にいた。』『掛けるときは線路から離れた土手のかげでかけた。』というようなことを言つておつた。

山内という男は知らないが、パンを売りに来た人だと言つた。何回も調べを受けたが『井尻光子から、炊きつけ用にするからと言つてダイナマイトを持つて来てくれと頼まれた。』と申し上げたのは、うそであり、この点は訂正した通りであるが、その外については、うそは申し上げておらない。」旨供述した。なお、この日の調べの際、金田検事から、三寸釘、四寸釘、五寸釘を示され、ダイナマイトの箱か、雷管の箱に入れたのは、この種の釘であると言つて四寸釘を選別し、五寸釘と述べたが、実際は四寸釘であつたと述べた。

井尻から聞いた鉄道爆破実行の具体的計画および事後に実行の際の情況も具体的に聞かされたことを述べたわけである。

石塚は五月一六日、同検事に対し、二回にわたつて、

「七月一二、三日頃の午前一〇時頃、井尻の部屋で二人で話したとき、井尻は『火薬と発破器は地主が持つて行くんだ。ハンドルと母線は自分が持つて行く。』というようなことを言つていた」旨付加し、なお、その際、「井尻が『石さんが持つて来た火薬は地主にやるんだ。』と言つたのか、『地主にやつたんだ。』といつたのか、記憶がない」旨供述した。

金田検事は石塚守男から以上のような本件鉄道爆破事件が、井尻正夫、地主照らの犯行であることを推認させる極めて重要な詳細、具体的な供述を得、しかも右供述は、石塚の供述態度、警察以来の供述の経過、前記のように個々の点について多少の変化、訂正はあるものの、供述の大綱は終始一貫しており、十分信用を措けるものであると判断はした。しかし金田検事は石塚の右供述、その他それまでに蒐集された資料によれば、本件鉄道爆破事件について石塚とほぼ同様な知識を有しているはずの藤谷一久が、後で検討するように、一旦は石塚の右供述を裏付けるような供述をしたものの、後にこれを覆し否認を続け、肝心の井尻正夫からも事件の核心に触れる何らの供述も得られない段階であつたので、もし石塚供述が全面的には信頼できないものであるならば、今後の捜査の進行、進展に確信が持てなくなるとの考慮から、本件鉄道爆破事件の主任検事であつた控訴人三沢三次郎(以下三沢検事という。)の同意を得て、札幌地方検察庁次席検事、控訴人高木一(以下高木検事という。)に石塚を直接調べて、石塚の記憶力、証言能力、精神状態をテストして、供述の信憑性を確かめてもらいたいと依頼した。高木検事は石塚の精神状態に主眼をおき、かつ誰からか買収されているようなことはないかとの点についても検査することとした。

すなわち、高木検事は同年五月三〇日、三一日の両日、岩見沢勾置支所に出向いて石塚を取調べたところ、石塚は同月三〇日、高木検事に対し、シベリアに五年抑留されたこと、共産主義教育を受けたこと、ロシア語の知識も僅かばかり有すること、死んだ養父母に済まないと思つていること等を順次、明確に整然と供述したうえ、

「自分が見たり聞いたりしたことは、みな正直に言つて隠していることはない。大野所長から次郎長の女将宛の手紙に井尻外五名を馘にした、石塚も気の毒だが辞めさせたと書いてあつたが、鉄道爆破事件に関連があるから辞めさせたというようなことは書いていないと思う。井尻から井尻らが鉄道爆破をやつたんだとの話を聞いたことは間違いない。(作り事で井尻が処罰を受けたら可愛そうだとは思わないかとの問いに対し)『可愛そうだとは思うが、本当の事だから仕方ありません。井尻が自分でやつたんだもの。』井尻にお前がこういうことを言つたと言える。(井尻は自分でやつたと言つていないがねとの問いに対し)『自分だつて自分が現場に行つていたら、叩かれても殺されても黙つています。自分は現場に行つていないので白状出来るのです。』私は誰からもお金をもらつたり面倒みてもらつたりしていることはない。(井尻は処罰されても仕方がないかねとの問に対し)『あたりまえだと思います。自分で飲んだ時、言つたのだから確かです。飲むと本心を言うから井尻も、あの本当の事を言つたと思つています。』井尻は怪我の再発で休んだ時に、自分、地主、大須田と名前を言つただけで後は『この前、地主と一緒に来た西芦の男』『自分と一緒に明鉱をレツドパージになつた男』『三菱でパージになり大興で少し働いた男』とで現場へ行くのだとしやべつた。山内の名は井尻から聞いたが、『パン売りの男』は藤田部長から聞いた。はじめ井尻から聞いたのを『内』だけ思い出し、山内だか竹内だかと思い出し、だんだん山内のように思い出した時、藤田部長から『山内と言う男知らないのか。』と聞かれたので『知らない。』と言つたら『あのしよつちゆうパン売りに行つている男よ。知らないのか。』と云われたので『あゝあの男が山内か。』と顔を思い出した。斉藤の名前は明鉱を井尻と一緒にパージになつたというと斉藤しかいないので、自分で考え出して斉藤だろうと思い、そう言つた。」旨

供述し、

翌三一日、同検事に対し、二回にわたつて、

「七月二九日夕飯を食べたが、その時井尻がいなかつたので姐さんに聞いたら、『上芦の親のところに行つた。』と言つていた。井尻が足が痛くて休んでいた時、鉄道爆破のことで二九日に下りるということを聞いたので、そのために行つたんでないかと気が付いた。井尻が休んでいた時、井尻は賃金不払の話の後で『石さん相談があるのだ。』と言い出し、『石さんからもらつた火薬、地主にやるんだ。母線は用意してもらつた。』と言い出したのである。七月二九日の夜は井尻の姐さんが『映画へ行かないか。自分等は札があるから行くんだ。』と言つたので藤谷と二人で行くことにした。油谷会館の二階の真中で“地獄の門”を見た。」旨

述べたほか、「前にどう言つたか、すつかり忘れている。一回調書を取つて仕舞つたからもうよいと思つて整理してしまつた。」旨供述しながら、従前金田検事に対して供述した内容と全く同様の供述をなし、「今まで言つていることを誰にでも何処へ出てでもしやべれる自信がある。口が下手だから判然とは言えないけれども、つかえつかえなら言える自信がある。井尻が一日も早く出るということを自分は祈つている。やつたことは仕方がない。これで決めてもいい。」旨供述した。

高木検事は右のように石塚を直接取調べたうえで、石塚には何ら知能的な障碍は認められず、記憶力、証言能力に欠けるところはなく、何人かに買収等されて虚構の事実を供述する精神的不安定さも見出せないので、同人の供述は大綱において事実であつて信憑性あるものと判断した。ただ共犯者の名前とか、供述に出て来る日時等などについては、不確かな点もあるので、爾後そのような点については留意して捜査を進めるよう金田検事らに伝えた。

石塚守男の前掲火薬類取締法違反被告事件による被告人としての勾留期間は、昭和二八年七月一九日満了したところ、検察官は同日石塚を「昭和二七年七月初旬頃、芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所第三坑より大興商事株式会社俗称井尻飯場の間において火薬類であるダイナマイト二〇本入三箱位などを所持した」旨及び「同日中旬ころ井尻正夫等が人の身体財産を害せんとする目的をもつて前記爆発物であるダイナマイト等を所持していることを知りながら、直ちにこれを警察官吏に告知しなかつた」旨の火薬類取締法違反及び爆発物取締罰則違反の被疑事実により再度逮捕し、石塚は同月二〇日右被疑事実により勾留された。

三沢検事は本件鉄道爆破事件の主任検察官として、さらに自らも石塚を直接取調べて、従来の供述を確認し、心証を得る必要があると考えて、同月二一日心理状態に注意しながら石塚の供述を求めたうえ、事実関係についても確めたところ、石塚は、

「井尻飯場に移る前から時々飯場の階下の大部屋によく泊つたことがある。竹田方から何時移るともなく移つたので、はつきりけじめがつかない。飯場へ移つたのは一二畳を仕切つた後であつた。米森は所長の部屋を作つてから、飯場の間仕切りをした。魚を獲りに行くという話しを竹田にしたことがあるが、多分、飯場に移つて竹田方に遊びに行つた時、話したと思う。

六月末、火薬を持つて来てほしいと頼まれたとき、井尻は「六坑と三坑の切換えになる時持つて来てくれないかな―。」と言つた。

七月四日の日、現場では私はダイナマイトに釘で穴をあけた。丁度雷管の箱の中に五寸釘が入つていたのでそれを使つた。」旨述べたほか、従前の供述と異るところはなかつた。

検察官は、石塚供述の重理性に鑑み、刑事訴訟法第二二七条にもとづき岩見沢簡易裁判所裁判官に対し、石塚の証人尋問を請求した。

石塚守男は同年八月三日と四日の両日にわたり裁判官伊藤武道の尋問を受け、証人として八月三日に、「井尻飯場に移つた日は、よく考えてみますと昭和二七年六月二八日の土曜日の晩、魚を取りに行つたことがありまして、その頃、飯場に泊つたり、竹田さんのところにも、泊つたことがありましたので竹田さんのところに、その頃までいたようにも記憶いたします。井尻飯場に寄宿するようになつたのは、井尻飯場には、私が明治鉱業所で働いた時、友達になつた井尻昇がおりまして、飯場から御飯を届けて貰うのであれば、布団もあるから飯場に来た方がよいだろうと言われて井尻飯場に移つた次第であります。その移つた時は最初、行つたり来たりしていまして、別に竹田さんに今日から移りますと言つて移つたのではなく、ずるずる井尻飯場に落つくようになつた訳ですから、荷物も、竹田さんに置いたままになつておりまして、その荷物を同年七月七、八日頃竹田さんの女の子にもらつて来て貰つたような次第であります。従つて移つた日は、はつきりいたしません。」と付加したほか、従前司法警察員、検察官に対してなした供述と殆ど同様の証言をなした。

なお、石塚守男は昭和二八年八月七日、前記「昭和二七年七月初旬頃、芦別市字旭、油谷芦別鉱業所第三坑より大興商事株式会社俗称井尻飯場の間において、火薬類であるダイナマイト二〇本入三箱位及び雷管一〇数本を所持した。」旨の公訴事実により、札幌地方裁判所岩見沢支部に起訴され、爾後同被告事件審理のため、被告人として勾留されることになつた。

ところで、井尻正夫、地主照に対する前掲火薬類取締法違反被告事件(第一回公判期日は昭和二八年六月二六日開廷)の同年八月一〇日の公判準備において、石塚守男は被告人井尻、同地主および、特別弁護人中川静夫立会のうえの証人尋問の際、証人として、

「昭和二七年六月三〇日六坑ズリ捨場の所で昼休みをした際に、井尻正夫から『石さん火薬を持ち出してくれ。』と頼まれた。用途については何も話しがなかつた。

七月四日の二番方を終つて帰る際、三坑現場から、作業で使つた残りのダイナマイトを持ち帰つた。

ダイナマイト二〇本入りの箱、二箱と一五本位残つていたもの一箱と電気雷管二〇本位を井尻のリユクサツクに入れて持つて帰つた。」旨

証言した。

そうして右証人尋問が続行された同月一四日、井尻、地主および、特別弁護人立会のうえで、

「作業で残つたから持ち帰る気になつた。それまでは持ち帰る気持は起きなかつた。前に井尻正夫に頼まれていたのだが、その時ふと井尻に頼まれていることを思い出したので、それを持つて帰る気持になつた。機会をねらつていたわけではない。係員のいない時は、何時でもダイナマイトを持つて帰れる状況にあつた。

井尻はまだ寝ないでいたので持ち帰つたことを話した。

地主が飯場に来たのは二、三度見ている。記憶に残つているのは六月二〇日頃と七月一九日頃である。六月二〇日は岩城定男が腹やみをした日であり、七月一九日はストをした日だから記憶している。

六月二〇日、一番方で現場から帰り、私の部屋の前で高丈を脱ぎながら、何気なく井尻の部屋の中を見たら地主と大須田某と名前を知らない男が来ていた。弁当を受け取る小窓がある。両方の高丈を脱ぐ間、部屋の中を見て大体様子が判つた。私は自分の部屋に入り風呂に行くため、まかない(仕事着のこと)を解いている時、地主が『火薬を使うことが出来たから都合してくれ。』と頼んでいるのが聞えた。それに対し井尻は『火薬は自分が保管しているが、自分で持ち出せない。』というようなことを言つていた。私は直ぐ風呂に行つたので後の話は知らない。ベニヤ板一枚で仕切つてあるから普通の声でも聞える。当時、皆、大部屋に寝泊りしており、真中の六畳間に寝泊りする者はいなかつた。私はただ、まかないを解くためにその部屋に入つたのである。その晩、寝るときは大部屋で寝た。

七月一九日はストで現場へ行かなかつた。夕方井尻の部屋の戸が開いており、地主が来ているのを見かけた。地主一人だつた。私は夕食後、午後七時前後ごろ夏井繁男、村上忠吉、と一緒に映画を見に出かけた。飯場を出て、検証の際指示した地点に差しかかつたとき、地主が井尻正夫及び子供と一緒に芦別の方へ行くのを見かけた。地主は重箱様の四角い物を風呂敷に包んで持つているのを見た。後でそれは自分が持つてきたマイトではないだろうかと疑問を持つた。

ダイナマイトに雷管を差し込む穴をあけるとき私は四寸釘を使い、藤谷はまさかりで木を切つて使用した。四寸釘は雷管の箱の中か、あるいはダイナマイトの箱の中にしまつたような気がする。

六月二〇日の晩は、井尻は飯場に寝たと思う。定男の手術のために金を借りたのは、その二、三日後と記憶する。」旨

証言した。(特別弁護人、地主、井尻も反対尋問している。)さらに、石塚は、被告人石塚守男、同中村誠に対する火薬類取締法違反等被告事件の第五回公判期日である昭和二八年八月二六日、被告人として、

「以前に井尻正夫から火薬を持ち出してくれと頼まれていたが、三坑に移つて初めての日、たまたま思い出したので持ち帰つた。火薬を持ち帰る時、藤谷、井尻昇は知つていたと思う。飯場で井尻に『この間、頼まれた火薬を持つて来た。』と声をかけた。井尻は『そうかい。』と返事をした。リユツクは井尻正夫のものである。」旨

述べた。

石塚は自己の火薬類取締法違反被告事件において公判廷で自白したわけである(そうして右被告事件について有罪判決を受け、一審限りで確定した。)

石塚は昭和二八年八月二六日右被告事件で勾留中、保釈許可となつて釈放され、内縁の妻静江のところに帰つた。

井尻正夫、地主照に対する爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険等被告事件の第一回公判期日は昭和二八年一〇月九日に開かれた。

その後である一〇月二七日、金田検事は石塚の稼働先である北海道上川郡上川町層雲峡に出向いて、石塚を取調べたところ、石塚は、

「井尻から火薬を頼まれたのは、六月二九日魚獲に行つた翌日頃のお昼頃のことである。三坑現場から井尻飯場に火薬を持つて行つたのは七月で最初に働いた日、七月四日の二番方が終つてからのことである。

鉄道爆破のことについて話を聞いたのは、井尻が仕事を休んでいた七月一二日と一三日である。井尻は仲間に入らないかと言つた。

七月二九日、私は飯場に帰つて風呂に行き飯を食つた後、井尻光子から映画に行かないかと言われ、光子より後から藤谷と二人で事務所で、たばこ代をもらつて、それで油谷会館に行つて映画を見たと思うが、七月二九日は藤谷は映画に行かないような気もする。井尻正夫が一緒にいかなかつたことは絶対に間違いない。井尻からそれ以前に『二九日に鉄道爆破に行くんだ。おれもおりる。』と言われて二九日ということが頭にあつて、井尻がその日、夕飯の時いないので姐さんに『何処へ行つたのか。』と聞いたのだから、二九日に井尻が油谷にいなかつたことは間違いない。

八月七日、七夕の夜、私が前に申し上げた以外のことについては自分としては聞かないと思う。そんなに多く話しているとは思わない。藤谷と井尻がその席で話をしていれば自分も知つていると思うのだが、特別な話をしたというようなことは知らない。別な時に藤谷が井尻から聞いているのではないだろうか。私の言つたことは絶対に作りごとではなく、自分で見たり聞いたりしたことに間違いない。」旨

七月二九日夜、藤谷一久と一緒に映画を見たとの従前の供述部分は、不確であるが、その余の部分は、間違いないことを再確認する供述をなし、

さらに、同日、別の機会に、同検事に対し、

「昭和二八年八月二六日保釈で出所し、行き場がなく中村誠の家で一〇日くらい世話になつた。八月二八、九日頃のこと、中村の姐さん(誠の妻秀子)が『藤谷さん今日も話して行つたんだ。藤谷が警察や何かの調べについて言つて来たことは本当のことだが、石さんが帰つて来たら口を合わしてひつくり返してやるというようなことを言つていた。』と話していた。その後、藤谷と会つたが、藤谷自身からは聞いていない。中村秀子や井尻光子の話を聞いて見ると藤谷は『鉄道爆破について、おれは何も話してこない。石塚がしやべつたんだ。』と言つているようだつた。」旨

保釈出所後の模様を供述した。

以上のとおり、石塚は捜査段階では、終始一貫した供述をした。

第一九、昭和二七年六月二〇日頃、石塚は井尻飯場に泊つていたか

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

前掲したように、石塚守男の供述の要旨は「昭和二七年六月二〇日頃、私達が捲小屋にいると、一六、七歳くらいの安全灯係をしている原田のオンチヤンという子が、午後二時過頃来て、井尻正夫に対し『井尻さん用事のある人が来ているから帰つて下さい。』と迎えに来たので、井尻は私達より一足先に帰つた。それから一〇分ほどして、私も帰つたが、井尻飯場に帰つて来た時は、午後二時半を過ぎていたと思う。私は自分の部屋に入ろうとして、左隣の井尻正夫の部屋の弁当差出し窓の台の上に左手をついて、鷹匠足袋を脱ぐため、かがんだら、その窓から井尻の部屋の中が見えた。何げなく見ると地主と大須田と井尻正夫と井尻の妻およびもう一人知らない男がいて何か話していた。弁当差出し窓のすぐ近くに、これを背にして井尻正夫の後姿が見え、その右隣に私達の部屋との境のベニヤ板の壁を背にして年の頃二四、五歳の小肥りのインテリくさい男が座つている横顔が見え、その右隣に、その板壁を背にして地主が座つており、地主と対面して大須田が座つており知らないインテリくさい男の前の方には、井尻の奥さんが、この男と向いあつて座つて話をしていた。私は私の部屋に入つて風呂に行こうと思い仕事仕度をといて、丹前を着て出かけようとしたが、その着替をしている時、隣の井尻の部屋から、地主の声で『火薬を使うことができたから、何とか都合できないだろうか。』と言うのが聞え、井尻の声で『自分は火薬を取り扱つているから、自分の手で持出すことは出来ない。』と答えているのが聞えた。私はそだれけ聞いて、風呂に行つたので、その後の話は、わからない。」というのであり、右供述は昭和二八年三月一三日、中村繁雄巡査部長に初めてなされて以来、同年八月三日の裁判官の証人尋問に対する証言にいたるまで、終始一貫している。ところで石塚は、当初「昭和二七年六月なかば頃まで竹田源次郎方に世話になつていたが、その後、井尻飯場に引越し、井尻飯場では階下六畳三間の真中の部屋に起居していた。」旨(甲第四三九号証、検供28・3・31参照)述べていた。

そこで、石塚が果して昭和二七年六月二〇日頃、井尻飯場の井尻正夫の隣の六畳の間に起居していたかどうか、その頃、地主、および二四、五才の男、大須田が来た事実があるかどうかが検討されねばならなかつた。

ところで、井尻正夫は、自己の火薬類取線法違反(新白梅ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本位を不法所持)の事実をも全面的に否認していた勾留後二〇日ばかりの昭和二八年四月二〇日、検察官に対し、依然として犯罪事実は否認しながら、「第二飯場の右側の部屋は一二畳であつたが、昭和二七年六月中頃二つに仕切り家族持ちを入れるようにベニヤ板を境に作りかえた。私の部屋の炊事場の方に向かつた板壁の下の土間から三尺くらいの高さの処に、硝子美濃版位の大きさの窓が設けてあり、弁当を載せる位の棚が出ている。硝子がこわれて昼間は硝子戸なしのままにして置いた。隣の六畳の間には、石塚、夏井茂夫、村上忠吉、高橋某が寝泊りしていた。石塚は私の飯場に六月初頃来て八月一〇日馘になるまでいた。地主は明鉱で働いていたときから、懇意にしている人で昭和二七年五月から七月頃にかけて、六、七回訪ねて来た。大須田は五月頃と六月頃一回づつ二回訪ねて来た。昭和二七年六月、岩城定男が腹痛を起した頃のこと、昼頃地主が子供を連れその他に、二二、三才位の五尺一寸位、中肉で硬い髪の毛で油気ない髪を七・三に分けている男が私を訪ねて来た。そして私の部屋で一時間程、話をして帰つた。」旨の供述をし、四月三〇日、検察官に対し「六月一八、九日頃原田鐘悦が六坑捲上機室付近で『姐さんが用事があるから早く帰つて来いと言つている。」と伝えた。帰つて見ると大須田が来ていた。そのうち地主が野田を連れて私のところを訪ねて来た。地主と野田は私の部屋と隣の石塚の部屋の境のベニヤ板を背にして並んで座つたように思う。平岸の工場の解体問題の話もでて大須田だつたか地主だつたか『今、口をかけているのだ。』と言うので、私は『その作業に火薬を使つてやるのか。』と尋ねたところ『煙筒を倒すのに火薬を使つてやれば、はかどるのだが、付近に高圧線が通つていて具合が悪いのだ。』と話していた。」旨の供述をなした。

井尻正夫の妻井尻光子も同年四月二三日、検察官に対し、『井尻飯場は六畳とベニヤ板を境に一二畳になつておつたが、五月末頃六畳二間に改造した。米森が大工をするようになつた時であつた。境はベニヤ板一枚で区切つてあり隣室の会話は小さい声でもよく聞える。隣室には石塚、村上、夏井がいた。夫の処に出入りしていた人は大須田、三井炭鉱をパージになつた山内、地主が泊つていた西芦別の阿部兼三郎及び二五才位で五尺二、三寸のやせ型、面長、髪をのばした人で阿部が連れてきた人であつた。」旨供述し、更に同年五月一日、司法警察員に対し「昭和二七年七月中頃の午後、大須田が尋ねて来たことがある。大須田に『うちを呼んで来ましようか。』と言つて誰か呼びにやつた。正夫はいつもより早く帰つて来た。」旨、日時の点は相違するが、外形的には符合する供述をした。

原田鐘悦も同年四月二〇日、司法巡査に対し、同年七月七日、検察官に対し、いずれも、「昭和二七年六月中頃午後一時過ぎ頃、事務所に井尻の奥さんが子供を背負つて来て『家へお客さんが来たから、父さんを現場まで迎えに行つて来てくれないか。すぐ帰つて来るように話して来てくれ。』と言つた。六坑捲小屋の休憩所に行つたら、斉藤福太郎が一人いた。井尻は坑内に入つているとの事で、私は坑口に行つて『井尻さん用事あるよ。』と呼んだ。井尻は『今すぐ行くから。』と返事して二分位してあがつて来た。井尻は三好係員に断つて帰つた。」旨供述した。

これに対し、井尻飯場の来客とされている大須田卓爾も同年八月二五日、司法警察員に対し、「井尻飯場へ五月末頃から三回行つたが、二回目の六月末か七月初頃井尻の妻君がチンケという若い男に『お客さんが来たから。』と現場へ井尻を迎えにやつたことがある。地主は私より後に来たと思うが、写真の男(野田こと衣川の写真を示す)は来ていないと記憶する。その時平岸炭素解体を請負う話をしたかも知れない。火薬を使つて爆破すれば手取り早いと自慢げに話したかも知れない。帰りには地主と一緒に出て油谷の見張所で別れた。」旨、八月三一日、検察官に対しても「平岸の炭素工場解体作業の話を井尻にした記憶がある。日は昭和二七年六月二七、八日頃と思う。雑談中、井尻が関川が平岸の解体作業の下請をするかも知れないと言つたので、あれは俺の方でやるかもわからないと話した。井尻は『まだ、はつきりしないのだなあ。』と申していた。工場解体には火薬は使う必要はない。火薬を使う話は出なかつた。」旨、同年九月五日司法警察員に対し、「井尻のところに行つたのは六月二七、八日頃だつた。井尻はいなかつたので、井尻の妻君が確か背の小さい若い者にチンケを呼んで『父さんを呼んで来てくれ。』と言つた。私は室に上つてから『迎えに行つて来てくれ。』と言つたと思う。井尻は二時頃帰つて来た。私と井尻の話が終わつて地主が来たと思う。地主と会つて、地主とは油谷の入口で別れたような気がする。」旨、各供述し、日時の点と野田こと衣川が地主と一緒に来たことは否定するものの、大須田、地主が井尻飯場で、同時に会したことを認める供述をした。

また井尻飯場に寄宿していた藤田長次郎は同年七月四日、検察官に対し、「石塚守男は昭和二七年の山祭(五月一二、三日頃)の少し前頃から井尻飯場に出入りするようになつた。石塚は知人の家に寝泊りしていたが、毎日と言つてよい程、飯場に出入りし、時々夕食を食べることもあつた。井尻飯場の一二畳の部屋を二つに仕切つたのは六月中旬頃のことで、米森順治がベニヤ板で仕切りをつけた。」旨、部屋の改造の時期に関し井尻供述と同様な供述をした。

以上のように、六月二〇日頃井尻の隣室は間仕切りができており、井尻のところへ地主、大須田らが来たとの石塚供述を裏付けるに足る供述が出た。

米森順治は同年七月一六日検察官に対し、「三菱病院に入院して五月下旬退院し、当分自宅でぶらぶらしていて六月中旬頃から仕事に出はじめるようになつた。はじめは坑内仕事が出来ないので大興商事の組の仕事として大工をやつていた。確か六月下旬のことで七月には入つていなかつたが、私一人で井尻飯場の階下一二畳一間をベニヤ板で仕切りをつけた。その仕事に二日かかつて六畳二間に改造した。そのころ、石塚、藤谷が出入りし、一番方が終わつて風呂に入るため出掛ようとするのを見掛けたことがある。」旨供述した。

また井尻飯場に寄宿していた福田米吉も同年七月一一日検察官に対し、「石塚は六月二〇日前頃丸勝のそばの長屋にいた。ご飯だけ井尻飯場に食べに来ていた石塚が飯場に飯を食べに来るようになつたのは六月中頃からで、七月近い頃から井尻飯場に引越して来たんだと思う。」と供述した。

もつとも、これより先、同年四月二五日、石塚が泊つて厄介になつていたという竹田源次郎から、司法巡査が「石塚守男は約二ヵ月位泊つたが、七月一〇日頃私が病気のため休養する五日位前、大興商事の第二飯場へ移つた。たしか七月四日頃であると思う。」旨の供述、さらに同年六月二七日、「石塚は食事は大興商事の飯場へ行つて食べるということで五月四、五日頃から泊めることにした。七月一〇日に石塚が一番方で現場へ行つたまま帰らなくなつた。私の日記帳に記してあるとおりである。」旨の供述を得ていた。三沢検事は同年六月三〇日、右竹田源次郎の日記帳と称する手帳を領置した。右手帳の7・10欄には「石塚7月10日出ル」との記載があつた。三沢検事は右手帳の記載について竹田源次郎を取調べた。同人は同日、三沢検事に対し「私は六月一〇日頃現在の家に移転したが、移転の際、石塚も一緒に引越し、荷物を運んでくれた。七月一〇日朝一番方に出たまま帰つて来ず、変に思つて娘の加陽子(一〇才)を迎えにやつたところ、井尻飯場にいることがわかつた。それつきり私方に来ない。手帳には七月一二、三日頃私がボールペンで書いた。手帳は前の方何枚かは破つて捨てた。七月一〇日以前の欄が半分位の部分切つてあるのは、子供に配給所へ行つて米を買わせるとき米の量を何瓩と書いて持たせてやるために切り取つたものである。」と供述した。(右手帳は6・26欄より7・4欄まで日付欄を残して鋏で切り取られており、7・11より7・14までは何らの記載がない。なお六月二六日以前に石塚関係の記載はない。)

竹田源次郎の妻、竹田イシは、同日、金子誠二副検事に対して「石塚の食事は長女が朝晩、寮から運んでいた。石塚は六月末頃まで私方にいたのではないかと記憶する。この間、上芦の次郎長の静江のところに泊つたのが三回位で、六月中には一週間に一、二度位井尻飯場に遊びに行つていた。石塚は上芦別に魚とりに行つて来ると言つて現場から帰つたままの格好で出て行き、四日目に帰つて来たことがある。その後、一週間位して寮に移つた。」と供述した。

前示米森順治、福田米吉、竹田源次郎および竹田イシの供述によれば、井尻飯場階下一二畳の間が、ベニヤ板で仕切られた時期は、あるいは六月下旬ではなかろうかとの疑問が生ずるわけである。

その疑問を解決する資料は同年五月二日、大興商事の職員酒井武から任意提出され、同日司法巡査によつて領置されていた操業証以外になかつたところ、米森順治が坑外で稼働した旨の記載は、七月分坑外操業証綴中の七月三日分に水洗土場整理、水洗作業、工数〇・五および〇・四とあるのみで、七月四日からは七月分操業証綴に三坑二番層向堀坑夫として稼働した旨の記載がなされているが、六月分については、坑外操業証綴はなく、六月分の稼働状況を確認するよすがは存在しなかつた。

井尻飯場階下一二畳の間が、昭和二七年六月二〇日当時六畳二間に間仕切りされていたとの確実な裏付供述は得られなかつたのである。ただ、米森は検察官に対し「病後で通勤するのが困難だつたので、自分が是非飯場に入りたいと思つて間仕切りしたが駄目になつた。」と供述しているのであり、しかも七月四日からは、坑内作業に従事しているのであるから、間仕切りは病後出勤するようになつて間もなくであつたとみられるのである。また、竹田源次郎も同年七月一日、三沢検事の再度の取調べに対し「石塚は時々夕食を井尻飯場で食べて来たことがあつた。また時々夕食後飯場へ遊びに行き、そのまま泊つて帰らなかつたこともある。公休日の前の日には上芦の次郎長へ行つて泊つていた。上芦別の堰提へ鯉を獲りに行つて四晩くらい私方に帰らなかつたこともあつた。石塚は話下手であまり口をきかず、ほらを吹くようなことはなかつた。」旨供述し、井尻飯場の寄宿者である坂下真彌も七月八日、検察官に対し「私は六月五日から井尻飯場に寝泊りしていた。井尻正夫の隣の部屋一二畳は多分七月に入つてか、六月中であつたか米森順治がベニヤ板で境を作つた。石塚守男は私が井尻飯場に入つた頃から飯場で食事をしていたが、その後六月中旬頃から時々井尻飯場で寝泊りするようになり、一二畳を区切つてからは井尻正夫の隣の六畳に入つて寝泊りした。石塚と井尻とは仲が良かつた。」旨供述し、石塚もまた、井尻正夫、地主照等の火薬類取締法違反被告事件の同年八月一〇日の公判準備において、証人として「竹田方にいた当時も時々飯場に遊びに行つていたし、また飯場に移つてから後も二、三度竹田方に遊びに行つていた。」旨証言し、八月一四日、同じく証人として「六月二〇日当時、皆大部屋に寝泊りしており、真中の六畳間に寝泊りする者はいなかつた。私はただ、まかないを解くためにその部屋に入つたのである。その晩、寝るときは大部屋で寝た。」旨証言している。

また石塚は八月二一日三沢検事に対し「私は井尻飯場に移る前から、時々飯場の階下の大部屋によく泊つたことがある。竹田方からは何時移るともなく移つたので、はつきり、けじめがつかない。飯場へ移つたのは一二畳を仕切つた後であつた。米森は所長の部屋を作つてから、飯場の間仕切りをした。魚を獲りに行くという話しを竹田にしたことがあるが、多分飯場に移つてから竹田方に遊びに行つたとき話したと思う。」旨供述した。

石塚は同年八月三日、裁判官の証人尋問の際、裁判官から「井尻飯場に移つた日は、はつきり記憶しないか。」と問われ、「よく考えてみると、六月二八日の土曜日の晩、魚を獲りに行つたことがあつて、その頃、飯場に泊つたり竹田のところにも泊つたりしたことがあるので、竹田のところに、その頃までいたようにも記憶する。井尻飯場に移つたのは、明治鉱業所で働いた時、友達になつた井尻昇がいて、飯場から、ご飯を届けて貰うのであれば、布団もあるから飯場に来た方がよいだろうと言われたからである。その移つた時は最初行つたり来たりしていて別に竹田さんに今日から移りますと言つて移つたのではなく、ずるずる井尻飯場に落ちつくようになつたわけであるから、荷物も竹田さんに置いたままになつていて、その荷物を七月七、八日頃、竹田さんの女の子に持つて来てもらつたような次第である。」旨証言している。

以上の資料の中には米森順治供述のように、井尻の部屋の隣の一二畳の間の間仕切りが出来たのは、六月二〇日以後であるかのような供述もあるが、六月分工数簿、七月分坑外操業証、三坑七月分操業証の記載によるも、米森が最後に坑外作業に従事したのは七月三日で、同月四日からは、坑内作業をしていることが窺え、六月中の坑外作業についての記載はないのであるから、結局米森供述も単なる記憶による供述に過ぎないということになり、かねて井尻飯場に住みついており、いわば家主ともいえる井尻夫婦の供述や藤田長次郎の供述の方が信頼できるわけであつて、そうすれば、六月二〇日までには、大部屋の間仕切りはできていたということになるのである。福田米吉の供述も記憶にもとずくものであり、同人も石塚が六月中旬から食事に来ていたことは供述しているのであるから、石塚が六月二〇日頃、井尻飯場に完全に引越さないまでも屡飯場に泊つていたとみることのさまたげにはならない。さらに竹田源次郎所有の手帳の「七月一〇日石塚出ル」との記載も、石塚が供述するように、竹田方からいつ移るともなく移つたので、はつきりけじめがつかないし、飯場に移つてからも竹田方に遊びに行つていたというのであつてみれば、竹田夫婦も六月中、石塚は屡々飯場に遊びに行つたり泊つたりしていたことは認めているのであるから、移転したのか、遊びに行つたのかは石塚の気持次第で、もともと布団すら持たず、所持品は身の廻り品のみで、竹田の女の子(小学生)に荷物を運んでもらつて、全く竹田方に泊らなくなつた日が七月一〇日頃であると解すれば、石塚が六月二〇日頃井尻飯場に泊つたことのさまたげになる資料ではないということになる。将来下宿料を徴収するにも一〇日というのが、きりがよいと竹田が考えて記載することも十分あり得るのである。

第二〇、井尻正夫の賃金交渉について

(証拠省略)によれば次のとおりである。

井尻正夫は昭和二八年九月一三日、館警部補に対し「石塚や藤谷の証言はでたらめである。七月四日の晩一〇時半頃は、俺達は大野所長を中心に大興商事の事務所で一二時頃まで、賃金支払問題で会議をもつたから、俺が飯場にいる訳がない。」旨供述した。

捜査官らは、本件鉄道爆破事件起訴後の同年九月二五日から同年一一月二五日まで、大興商事の関係者である藤田長次郎、田中武雄、原田文雄、原寅吉、江戸善一、高橋金夫、佐藤照一、佐々木玉蔵、大野昇、田大啓一らにつきこの点を確めた。同人らの供述するところは、ほぼ次のとおりである。「七月一日札幌の大興商事株式会社の本社に、労務者の代表一〇名が賃金交渉に行つたが、井尻正夫もその代表者の一人であつた。しかし七月二日朝早く油谷に帰つて来た。本社での交渉で七月六、七日頃未払賃金を支払うとの協定が出来たので、七月六日頃までは賃金交渉に関して飯場に労務者(坑内夫、坑外夫等)らが集まつて会議を開いたこともないし、油谷の大興商事の事務所で賃金支払の交渉をしたこともない。また六月末から七月上旬にかけて、大興商事の飯場や事務所で、労務者の会議を開いたり、賃金支払の交渉をしたことが何回かあるが、いずれも翌月の稼働にさしつかえるので午後九時か一〇時頃までには終わつた。七月三、四、五日に未払賃金支払のための交渉をしたことはない。」というのである。

また、井尻正夫は昭和二八年五月二八日、小関副検事に対し「札幌本社へ七月二日と七月一二、三日頃出かけて行つて交渉した。」旨供述し、同年六月四日、同副検事に対し「七月一二日か一三日にも一度賃金交渉で札幌へ行つたが、このときも泊らずに帰つた。」旨供述し、同年九月一〇日裁判官の証人尋問に対し「七月一一日から札幌に交渉に出た。」旨証言していた。

起訴後、高橋金夫は、同年九月二七日、司法警察員に対し、「七月一一日、一二日、一三日と三日にわたつて札幌本社に賃金交渉に出かけている。」旨供述し、その旨の記載のある手帳を提出し、藤田長次郎は九月二五日、司法巡査に対し「七月一〇日頃札幌本社へ行つて、一晩泊つて翌日会社側の大野所長等と私達代表一〇名が交渉し、同日午後一〇時札幌発の列車で芦別に帰つた。」旨供述し、田中武雄は同年一〇月二日、副検事志村利造に対し「手帳によると一一日に札幌行きと記載してある。」旨供述した。

七月四日の夜、井尻が飯場にいなかつたとの井尻の前記供述は前段の各関係人供述によつて覆されている。

また、七月一一日から札幌に賃金交渉に出たとしても、高橋の手帳の記載と藤田供述を合わせ考えれば、七月一一日に油谷を出て七月一三日早朝には油谷に帰つたことになるので、石塚の七月一二、一三日頃、井尻と話合つたとの供述も、日時の記憶は一般に困難であるから、一日の記憶違いがあるとみても不当ではなく、一三、一四日の記憶違いとみれば、井尻が石塚と七月一三日と一四日の二回にわたつて話合うことができるわけで、右供述は右手帳の記載と矛盾するところはない。したがつて石塚供述が信用できないものではない。

第二一、藤谷一久の供述について

(証拠省略)によれば、次のとおりである。

前記浜谷博義の司法警察員に対する昭和二八年二月一〇日の「昭和二七年六月二九日の公休日に藤谷達四、五人が上芦別のダムでダイナマイトを使つて魚を獲つたことを知つている。」旨の供述と石塚守男の司法警察員に対する昭和二八年三月一一日の「昭和二七年六月二八日午後五時頃、藤谷一久、中村誠、福田米吉と私の四人が一緒で魚を獲りに行く相談をして、中村誠が六坑捲上機室物置に入れてあるダイナマイト三本、鉱業用雷管二本を盗つて持つて行き、その晩一一時頃、四人が上芦別の堰提で発破をかけ小魚(ウグイ)を二、三〇匹獲つた。」旨の供述および前記のように、藤谷一久自身も中村誠、石塚守男らと魚獲りに行つたことは自認していたので、これらを資料として、芦別町警察署司法警察員は昭和三八年三月一六日逮捕状の請求をなし、同月一九日「中村誠外二名と共謀のうえ、昭和二七年六月二八日上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト三本、電気雷管二本を魚を獲る目的で同貯水池に仕掛けて、これを爆発させて火薬類を所持使用した。」との容疑で逮捕し、藤谷は三月二二日より同年四月一〇まで勾留された。

藤谷一久は逮捕後八日目の昭和二八年三月二六日、芦別町警察署捜査課長司法警察員警部芦原吉徳に対し、「昭和二七年八月七日午後六時過頃石塚の部屋で三人が飲んだ時、井尻が二人の前で主に石塚に向つて『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、あれは鉄道爆破に使つたのだから絶対にだれにも言うなよ。」と話した。その場で井尻は、鉄道爆破に使う前だつたか使つてしまつた残りだつたかはつきりしないが、『その火薬をだれかにわけてやつた。』と言つていた。

昭和二七年九月六日、当麻ダム工事場に働きに行き、東口現場まで見に行き、井尻を真中に私と石塚が帰る途中、井尻は『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが爆破に使つたんだから、こんなことは口がくさつても知らない人が多勢だから、誰にも言われないなあ。』と話した。私も「そうだ、そうだ。」と返事はしておいた。九月八日頃の晩五時半か六時頃当麻市街に下り、日の出屋飲食店で酒を飲み、それから私と井尻と石塚の三人がラーメン屋に入り注文して座つていると井尻は『おい、飲んだら何でもしやべりたがるんだが、あのことは誰にも言わないんだぞ。』と言つた。井尻が何か関係があるように思われる。」旨

石塚の供述を裏付ける供述をした。

ちなみに、前に掲記した石塚の同年三月一七日までの供述と、右藤谷の供述を得た段階で、芦別町警察署警察官らは、井尻正夫および地主照に対する火薬取締法違反被疑事件の逮捕状を得て、昭和二八年三月二九日、右両名を逮捕(この点当事者間に争いがない。)した。

藤谷は三月二九日、同警部に対し、

「昭和二七年六月二五日頃午前一一時半頃三坑坑口付近の草原で昼飯後、私を中に左に井尻、右に石塚とならんで雑談中、井尻は私達二人に対して『火薬がほしいと人に頼まれているんだが、何とか都合してくれないか。』と頼んだ。七月四日、二番方で私と井尻昇が六坑捲上室まで火薬をとりに行つた。井尻に頼まれていたので、あるだけ全部、黒ズツク製の石塚のリユツクに入れた。新白梅二〇本入、三箱、電気雷管箱入、三、四〇本あつた。現場で新白梅三、四〇本使い雷管一五、六本使つた残りを午後一〇時頃石塚が現場から井尻飯場まで塊炭三つ位上にのせて背負つて帰つた。石塚は石炭をかまどの前に出し、ダイナマイトの入つたのは、かまの前の物置に置いた。七月一〇日か一一日頃入坑するとき、中村誠から『井尻に頼まれて地主と一緒に上芦の三菱停車場まで火薬を持つて行き地主の知合二、三人に手渡したよ。』という話を聞いたが、何に使うか聞いても見なかつた。

七夕の夜、焼酎をご馳走になつたとき、井尻は『石塚の持つて来た火薬は全部、地主にやつた。あれは鉄道爆破に使つたんだから誰にも言うなよ。言われないな。』と言い、『それには中村も入つているんだからなあ。』と付け加えたのを思い出した。」旨

同年四月三日、さらに、

「六月二五日頃のお昼頃三坑坑口草原で、井尻から火薬を都合してくれと頼まれた時、その外に『その火薬は今日、明日、使うものではないんだよ。近々に使うのではないんだ。』といい、更に『三坑の方へ一つにかたまるようになつてからは都合つきづらいから、六坑を引きあげるときのごたごたを利用した方がよいのではないか。』と言つた。私は『何とかして都合してやる。』と言つたので石塚も知つているはずである。七月二六、七日頃一番方の帰り途、油谷炭鉱の火薬取扱所付近に来た時、右手の畑に井尻が下りて小便しながら、『石塚君ちよつと待つて。』と呼び止めて、井尻と石塚が歩きながら、話しているのを聞くと、井尻が石塚に対して『石塚君、お前が持つて来た火薬は地主にやつたんだ。』そして『俺も二九日には下るんだ。』と語尾ははつきりしないが聞きとれた。」旨

の各供述をし、

同年四月九日にも、

「昭和二七年八月七日、七夕の夜、石塚の部屋で焼酎をご馳走になつた時、井尻は『二九日は俺も下に行つて来た。行つた処は、芦別と平岸の間で芦別よりの方だつた。地主も来ていた。帰りには、あわてて持つて行つたのを置いて来て失敗したぜ。』と言つていた。」旨

いずれも、石塚供述に符合する供述をしていた。

藤谷に対する前記勾留期間が満了し、滝川区検察庁検察官事務取扱検察事務官高橋始は昭和二八年四月一〇日、藤谷を「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日、芦別市御料地油谷炭鉱六坑捲上機室横の大興商事芦別現業所火薬保管箱より右大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び鉱業用電気雷管二本を窃取した。」との容疑の逮捕状により逮捕し、藤谷は四月一二日から同年五月一日まで勾留されることになつた。

藤谷は同年四月一〇日、司法警察員巡査部長中田正に対して、

「八月七日夜、焼酎を飲んだ時マツコ(井尻のこと)から『二九日爆破事件に行つて来たんだ。おれと地主がやつた。地主とは芦別で落合つたんだ。』と言つていた。『人の気配がして、あわてて持つて行つた物を置いて逃げて来て失敗した。』と言つたように思つているし、聞いた記憶もあるようだが、この外、何んぼ考えても思い出さない。警察の方で勝手につけてくれというような気持になる。」旨

供述した。

井尻正夫、地主照からは、何らの供述は得られなかつたが、石塚守男、藤谷一久のこの段階までの供述及び、その他、前掲各関係人の供述が得られたので、検察官は同年四月一八日、井尻、地主の両名を札幌地方裁判所岩見沢支部に前項説示のように火薬類取締法違反被告事件で起訴した(右起訴の点ついては当事者間に争いがない。)

ところが、同年四月二一日、藤谷は検察官副検事好田政一の取調べを受け、同副検事に対し、

「昭和二七年七月四日頃井尻昇と二人で六坑捲上機室の火薬置場へダイナマイトや雷管を取りに行き三坑の立入に持つて来たことはある。それ以外のことは申し上げられない。七夕の夜の話の内容は思い出せない。早く帰してもらおうという気になり、うまく種々の場面を頭で考え警察の人から尋ねられる都度、思い出したように故意と作り話を申し上げた。全部でたらめである。石塚がどんなことを申し上げているやら、また井尻がどのようなことを申し上げているのか全然見当がつかなかつた。誘導されたことはないが、種々の場合を想像して勝手に作り上げて述べたのである。」旨従前の供述を否定して嘘であつたと供述した。

しかし、四月二六日、同副検事に対し、

「作話と言つたのは、うそで、警察で申しのべたことは大体間違いないが一部、想像して申し上げた点がある。

中村が地主と一緒に火薬を下まで下げて地主の知り合いの若い者二人に渡したんだよと言つたというのは全くうそであるが、それ以外は全部間違いない。

昨年六月二五日頃三坑坑口の草原で井尻に火薬を頼まれたのは間違いない。月日ことは多少の記憶違いもあるかもしれない。井尻は『兄も頼むぞ。』と申し、私は『うん。』と返事した。七月四日の夜、石塚がダイナマイトや雷管をリユツクに入れたまま、カマドと物置の間に置いたのを見た。その後、どうしたかわからないが翌日は見当らなかつた。七月五日に私と石塚は二番方を終えて午後一〇時半頃入浴に行つてもどつて来た。石塚は井尻の部屋に話しに行つた。井尻の声で『お前たちに持つて来てもらつた火薬、係員にまだ気付かれないようか。』と話しかけているのを耳にした。」旨供述した。

藤谷は同年五月一日、札幌地方裁判所岩見沢支部に「石塚守男、中村誠、福田米吉等と共謀の上、法定の除外事由がないのに北海道知事の許可を受けないで昭和二七年六月二九日頃、芦別市字剛芦別公園上流附近の空知川において火薬類であるダイナマイト二本位、電気雷管二本位を使用して爆発させた。」との火薬類取締法違反被告事件で起訴され、同日以降同年七月三一日まで被告人として勾留された。

藤谷は同年五月一八日、金田検事に対し、

「井尻が言つたことを判で押したように覚えているわけではないので、でたらめだと言つたが言葉の綾は別として井尻から聞いた本筋は間違いない。

六月末頃魚獲りをした前後昼休みに六坑つり下し現場のズリ捨場横の山手の草原に休んでいたとき、井尻が真中で左側に石塚、右側に私が寝ていた。井尻は石塚に『石さん実は人に火薬を頼まれた。何とか都合してくれないか。急いで使うものではないが。』『六坑を熊谷組に引渡して三坑に一つになつてしまうと面倒だから六坑の現場を切りかわる時のゴタゴタを利用して都合してくれ。』というような意味のことを言つていた。石塚は承諾した。

八月七日七夕の夜、飲みながら、井尻は石塚に『石さんが持つて来た火薬は全部地主にやり地主が何ぼか、よそに分けてやり残りは鉄道爆破に使つたんだから、誰にも言わないでくれ。』『二九日には俺も行つた。芦別で地主に会つて行つた。』『行つた場所は芦別と平岸との中間で芦別よりの方である。』『現場で俺と地主が発破をかけてから、人が来たので物を置いて来て失敗した。』と言つたのを記憶している。爆破の現場に、その外誰か行つたというようなことは聞いていない。」旨

石塚供述に副う供述をした。

ところが、藤谷は、五月二三日にいたり、金田検事に対し、

「六坑捲上室から残火薬を井尻昇と三坑立入に持つて来たことは間違いない。その後石塚がリユツクを持つて行つたのを見ているけれども火薬がどこへどう廻つているのか自分としてはわからない。七夕の日に飲んだことは間違いないが警察で言つたことは嘘である。

好田検事や中田部長、工藤巡査に嘘だと言いたかつたが言えなかつた。それは取調べに対しても、あまり親切だつたからである。」旨

五月二五日、同検事に対し、

「七月四日だと思うが、昇と六坑捲小屋で昇が木箱の中から火薬の箱と、箱に入つた雷管をスツコに入れた。

ダイナマイト二〇本入三箱とバラで七、八本から一〇本位あつた。捲小屋にあつた火薬は全部持つて行つた。当日ダイナマイトは二七本ないし三〇本、雷管は一四、五本で間に合つた。ダイナマイト一箱とバラ七、八本と雷管五本束三つ位をスツコから出した。雷管の箱はスツコから出さなかつた。帰る時スツコは石塚が背負つて行つた。飯場に帰つてスツコは物置に置いたか、物置の棚に置いたような気がする。井尻は寝ていたかどうかはつきりしない。」旨

五月二六日、同検事に対し、

「七月の末“地獄の門”を見た日に、大興商事の鷹田から二、〇〇〇円借りた。岩城雪春に『おれは今日、映画見て行くから持つて行つてくれ。』と金をことずけた。夕方から井尻夫妻子供二人、石塚、福田と私で油谷会館に行つた。階下スクリーンに向つて左側に並んで座つた。八時半頃映画が終わつて帰つた。翌日は飯場からマツコ(井尻)と石塚と自分と三人で仕事に行つた。」旨

五月二八日、同検事に対して、

「警察で、『一月でも二月でも思い出せ。記憶を尊重するから。』と言われたが、わからないものはわからない。井尻に聞いてくれと言つたのだが、『お前たちは聞いているのだし井尻を呼ぶ必要はない。』といわれた。それで井尻にくつつけてしまつた。七夕の夜、焼酎を飲んだ時、席を外した記憶はない。嘘を言つてしまつたんだし、今になつては仕方がない。」旨

同年六月一日、同検事に対し、

「井尻の処で北海タイムスを取つているが、新聞に、鉄道爆破事件のことが書いてあつたとき、『ひどいことをする、何のためにあんなことをやつたのか、機関車を転覆させるためにやつたのだろうか。』というようなことも聞いたこともあるが、後は別に話をしていない。大須田から事件後、『芦別での市街放送で鉄道爆破事件は思想関係がやつたと聞いたので、文句を言つて来たことがある。』と言うことを聞いたことがある。石塚から大興の所長の手紙を持つて来て見せてもらつた。兎に角、自分等を首にしたことを書いてあつた。発破器も無くなつたし、発破器が鉄道爆破事件に関係するとか、それで馘にしたというもので、鉄道爆破事件ということは書いてあつたように記憶している。発破器のことは間違いなく書いてあつた。それで自分は写した。それを井尻のところへ持つて行つて見せた。自分としては事業縮小で馘にしてから、何でこんなことを言うのかと思つたが大して気にもしなかつた。鉄道爆破事件について今まで井尻が疑われているということを聞いたか、どうかはつきりしない。記憶がないということである。日も経つているし何ぼ考えても判らない。」旨

六月三日、同検事に対し、

「警察で一週間か一週間以上かかつて、嘘のことをこしらえてしやべつた。警察官は別段こういうようだ、ああいうようだということは言わないが、水をさして助け舟を出してもらつたままである。

知つていて知らないと言つたのは四日の日の火薬のことと川のことだけである。四日の日、火薬のことは、運んだとはつきり言えばよかつた。」旨

いずれも、当初の供述を覆し、僅かに七月四日、石塚が三坑から残火薬を井尻飯場に持ち帰つたことを知つていることのみ供述していた。

ところが、藤谷は六月九日にいたり、司法警察員巡査部長中村繁雄の取調べを受け、同巡査部長に対し、三転して、

「ただ今の心境は元の素直な心に帰つた。七月三、四日二番方で働いた時六坑捲座に火薬を取りに行つた。午後七時頃で熊谷組の人が立会つた。箱の中にあつた火薬全部持つて来た。ダイナマイト三箱とバラのダイナマイト一〇本位と雷管の箱の中に入つているのを全部持つて来た。その日、孔は一三、四本位穿つたからダイナマイト三〇本位は使用した。剰つた火薬は帰りに石さんがスツコ背負つて帰るのを見たから持つて帰つたと思う。

七夕の晩の話やズリ山で正夫が話したことを思い出して見れば、井尻が石塚に頼んだと思う。ズリ山の話とは六月二五、六日頃石さんと井尻と自分の三人が寝転んでいた時、井尻が石塚に『火薬頼まれているんだが、何とか都合してくれないか。』という話である。』旨

当初の供述と同様な供述をするようになつた。

藤谷は六月一〇日、同巡査部長に対し、

「井尻の身をかばつたからである。親戚でもあるし、末長く面倒みられるだろうという考えもあり、自分の口から何でもしやべつたことを親戚の者にでも判つたら困ることもある。内輪騒動にでもなりやしないかとハンカくさい(馬鹿くさいとの趣旨)考えで心が変つた。七夕の夜『石さんが持つて来てくれた火薬は地主に頼まれていたんだ。地主に渡した。実は鉄道爆破に使つたんだ。』『失敗した。』と言つたような気がする。」旨

供述を変えた心境を供述した。

六月一三日、金田検事に対しても、

「本当は井尻から聞いて知つている。自分としては知らないとは言えない。自分の口から親戚のくせに井尻から聞いたと言つたということを知られたくなかつた。そういうことを知れた場合内輪もめするのではないかとつまらぬことを考えており、嬶の妹は岩城のところへ嫁に行き、今、岩城の処に世話になつているのだし、鉄道爆破のことについて井尻から聞いたと以前に言つたことは本当である。六月末近く、ズリ山の処で私と井尻と石塚と三人いる処で、石塚が井尻から火薬を頼まれたこと、あと七夕の夜、井尻から鉄道爆破の話を聞いたことは本当である。」旨

供述した。

六月二一日、同検事に対し、

「岩城雪春が仕事に来ていたから七月末頃と思う。朝一番の三菱鉄道で油谷に上つたが、組の者が乗る貨車に乗つたところ、井尻は普段の服装で両前の紺の縦縞の上衣、黒ズボンをはいて座る場所がなく誠のスツコに腰掛けていた。』どうしたんだ。』と言葉をかけたら『芦別で飲んで油谷へ行く便もなくなつたので、駅長しようと思つたんだが、上芦まで歩いて来た。そして隠居の所へ泊つた。』と言つた。トンネルに入つたとき、井尻は、ハンケチで口をふさいでいた。その時は貨車の、すみつこの方に、腰掛けていた。私は雪春と事務所へ行つたが、井尻はそのまま飯場に行つたと思う。」旨

いまだ誰の供述にも現われない新事実を供述した。

藤谷は同年七月三日司法警察員巡査部長中田正に対し、

「中村誠が腹痛起して二日休んだことがある。工合がよくなつて現場に出て来た。この日、何時ものように三菱鉄道の貨車に乗つたところ、井尻のマツコも一緒に乗つていた。誠が『井尻さん、よごれるから、俺のスツコ敷いたらいいさ。』と言つてマツコにスツコを尻の下に敷かせたのを憶えている。トンネルでマツコはハンカチで口を押えていた。

“地獄の門”を見たのは上芦だ。上芦の劇場は親戚がやつているので、ただで入れる。当麻に行く前に今の中に見ておこうと思つて見たような記憶がある。油谷では“地獄の門”を見ていない。畠山と働いた日には、やつぱり上芦別に帰宅している。どこへも出かけていない。私と井尻で“地獄の門”の映画の話をしたことがある。上芦の街に“地獄の門”のビラが貼つてあつたもんで何ということなく話した。マツコは、ただ、『ウン、ウン』と肯ずいて聞いていた。」旨

供述し、

七月四日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜三人で飲むようになつたのは大興商事の事務所で賃金を少しでも貰いたいとねばつたが一銭も貰えなかつたので、飯場へ寄つて話しているうち焼酎が出たのである。井尻は駐在の上田巡査から三〇〇円借りたとか、もらつたとか言つて、これで焼酎買つて来たんだと言つていた。飯場へ帰るとき警察の人が五、六人どやどやと飯場から出て来るのに会つた。マツコが『警察何んしに来たんだろうなー。』と言つたり、『二階からダイが出て来た。』とも言つていた。こんな話をしているときマツコが『石さん等が持つて来た火薬は地主にやつて鉄道爆破に使つた。』との話しが出たのである。できたものは仕様がないので、隠せるだけ隠そうと話した。マツコは私も石塚も当然火薬を運んで関係もあるので人にしやべらんと思つて心を許して話したと思う。ダイナマイトに穴をあけるときは木のキユウリンを用いるのであり、金属類は駄目と注意されているが、手近な釘で穴をあけて雷管をつめていた。」旨

七夕の日の具体的状況を供述した。

同人は七月九日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜、私は井尻に『鉄道爆破に使う火薬なら人に頼んで(他人に頼まなくてもの趣旨)何故自分で持つて来ないんだ。』と言つた。井尻は『そりや六坑で働いているんだから、六坑から真すぐ持つて来れるけど、それじやすぐわかるんだ。それで石さん等に頼んだんだ。』と言つた。『三坑から持つて来た方がわからんし、わかつても三坑で使つたことにすれば、わからんと思つて石さんに持つて来てもらつたんだ。』と言つたようであつた。七月三日の二番方の時、マツコと私ともう一人だれかと一緒であつた。午後八時頃二人になつた時マツコは『今日は、火薬を使わないが、明日でも発破をかけるとしたら六坑捲座の下に火薬があるから全部持つて来ておかんと駄目だ。あそこは熊谷組に渡したんで、あそこに置いたつてしようがないから、三坑に持つて来ておかなきや駄目だな。』と言つていた。それで翌日二番方で石さんと井尻昇と三人で入坑し、火薬を使うとき、私と昇と六坑捲座に取りに行つたのである。

七夕の夜、井尻は『俺が持つてこればこれるけど、俺は目をつけられているので、やればわかり易い。それで石さんに頼んでつて来てもらつたのだ。そうすると場所と人が変るので、あとがわからんので、俺が直接やらんで頼んだんだ。』と言つた。その時『爆薬物を川にかけたら罪が重いんだ。進駐軍の許可がいるんだ。お前等も川に火薬を持つて行つているし、また兄の持つて来た残り火薬を持つて来てもらつて鉄道爆破に使つたのだから人に言われん。若ししやべつたら罪が重いんだ。』といわれた。私が一番最初に警察で調べられて一旦帰されたとき大須田の所に寄つたところ、そこで井尻は『警察が何ぼ調べても、思想関係だと言つているが、そんなもん、なんぼしたつてわかるもんか。まあ迷宮入だなあ。』と言つていた。」旨

七月一一日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜、マツコは『誠さんにも火薬を地主と一緒に下げてもらつたんだ。』と言つた後、『誠さんに火薬以外のその他のものも仕度してもらつた。』とか『そろえてもらつた。』とか言つておつた。私が『火薬以外のものとは何か。』と聞いたら、マツコは『火薬についているもんだからわかるべあ。』と言つた。私は『誠さんがどういうふうにして持つて来たべか。』と聞いたら『向堀の現場から持つて来た。』と言うのである。『どこの発破器だ。』と聞くと、マツコは『現場のだ』と言うだけで答えなかつた。このことについてマツコはあまり、しやべらないのである。『どうせ持つて来るんなら、ハンドルも持つてこいばよかつたんでないか。ハンドルあるばかりに福士に言われて坑内をさがしたんだ。』と言つてやつたら、マツコは『ハンドルは必要ないんだ。』『安全灯のオンチヤンに持つて来てもらつたんだ。』と言うのである。『オンチヤンどうして持つて来たんだ。』と聞くと、大興商事の事務所の福士さんの机があるが、『福士の机の抽出から持つて来てもらつたんだ。』ということであつた。」旨

七月一二日、同巡査部長に対し、

「魚獲りに行つたときは電池を使つたことは間違いない。誠は川には発破器を持つて行つていない。川に行くころは発破器はなくなつていた。」旨

七月一三日、同巡査部長に対し、二回にわたつて、

「マツコは七夕の夜、『母線も誠さんに現場から持つて来てもらつたんだ。』と言つている。福士が六月末に札幌に行つて代番できた出町幸雄から三坑立入の現場で真新しい緑色の発破線一把三〇米もらつた。それで今まで使つていたものを向堀で専用で使うことになつた。それなのにマツコは『誠さんに母線をやつたわ。』とも言つたことがあつた。」旨

「マツコは七夕の夜『党で関係あることで、誰にも言えないが、大須田さんも関係しているし、山内さん(この人はパンを持つて来た人だとも言つていた。)正夫さん(大須田の姐さんの弟だという眼鏡はめた人)その他知らない名前の人が二、三人関係しているんで、この人等と相談してやつたことなんだ。』という話だつた。『兄も大須田さんを覚えているから、このことは調べられても、聞かれても知らん知らんということにしよう。』と言われた。だれが現場に行つたとは言つていない。

七月一〇日頃と思うがはつきりしない。私と一番方の時、現場終わつて今日会議あるので芦別に行くと言つてバスで下つたことがある。」旨

各供述した。

藤谷は七月一六日、同巡査部長に対し、

「六月末昼飯後、マツコと石塚と三人で昼寝をした。その時、石塚はどうか知らないが、私は眠つていて、火薬を頼まれたことはない。

火薬は地主にやつたんだと言われた七夕の日、『火薬は誠さんに下まで下げてもらつた。地主も一緒に。』『上芦別の大須田のところへ下げ、鉄道爆破に使うだけ地主のところへ持つて行き、あとは大須田のところへ置いてあるんだ。』『平岸の仕事をやるのに使うんだ。』と井尻は言つていた。兎に角火薬は平岸の解体作業に使うのを大須田のところに都合したということである。『誠に三菱の駅まで下げてもらい、党といつたか党員といつたか、また同志といつたか、この人等に渡してくれと頼んだ。』と言つていた。中村誠からは『地主と一緒に三菱駅まで下げて西芦の人らしい人に渡した。』というだけの話を聞いた。」旨

従前の供述を一部変更し、六月末昼飯後、井尻、石塚と三人で昼休みはしたが、火薬持ち出しを頼まれたことはないと供述した。

七月一七日、同巡査部長に対し、

「マツコは『誠さんの火薬は党の人に持たせて西芦別に持つて行き、地主の火薬は直接大須田さんに渡した。』という話しであつた。大須田のこと、しやべらなきやよかつた。無鉄砲な人で何されるか、おそろしくなる。『山内の会議で大須田、地主、正夫さん、山内、あと名前忘れたが二人位の人たちが来ていて、鉄道爆破の相談をしてやつたんだ。』ということであつた。この時に『山内の会議の時に、何月何日にやるという話が出て何日にやつたんだ。』とも言つていた。奴等の形にはまつた言葉で『決定した。』というような話しだつた。マツコの話では『それらの人が現場に行つてやつたんだ。』と言うことであつた。色々なことから見て、あいつらやつたのに間違いない。」旨

火薬の運搬方法、運搬先について、中村誠と地主がそれぞれ別のところに運んだともとれる供述をし、井尻、地主らの謀議について、井尻から聞いたことを供述した。

七月一八日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜、井尻は『党の会議で決つたのでお前等に色々なものを仕度してもらつたんだ。』と言つた。マツコは『誠さんより都合してもらつた発破器や何かは三菱の人と三井の人等が、俺とこにとりに来て上芦別に持たせてやつた。』とか、『上芦別の大須田さんとこまで持たせてやつた。』とか言つていた。」旨

供述した。

藤谷は同月二一日、同巡査部長に対し、

「七夕の夜、マツコは母線もカツパラつて来たと言つたことがある。三坑からカツパラつたと言つた。三坑とは繰込伝票をおくところで、道具なんか借りるところである。持つて来たのは、誰かと一緒だつたといつたような気がする。徳田のオジだと聞かされたような気がする。徳田に盗らしたとか、徳田が盗つて来たとかいつただけである。」旨

供述し、この供述が後記するように徳田敏明の逮捕の緒となつた。

さらに七月二三日、同巡査部長に対し、

「七夕の晩に『兄達の火薬は地主に頼まれて、地主にやつて鉄道爆破に使われたんだ。誠さんに地主と一緒に下げてもらつたんだ。』と言われたので、私が『マツコが誠さんに用があると言つた時に、誠さんに頼んだやつか。』と聞いたら、マツコが『憶えてたか。』と言つたので、『誠さんに聞いて知つていたんだ。』と言つたら、びつくりしたように、『誠さんそんなこと言つたのか。お前だけか。』とか『他に誰かいなかつたか。』とか『誰にも言つてないべなあ。』とかしつこく聞くので『俺よりいなかつたんだ。』と言つてやつた。マツコは『誰にも言わんでくれ。』と言つた。

中村誠は『どこにどう使われるか全然わからんが、火薬を井尻に頼まれ、地主と一緒に三菱まで下げ、おれの知らない人だが、地主の知つている人に渡して来たんだ。』『井尻からこのことは、誰にも言うなと言われているから、藤谷さんもこのことは、誰にも言わんでくれ。』と言つていた。」旨

供述した。

藤谷は七月二五日、同巡査部長に対し、

「やはり何というか聞いたことより少くしやべりたいのが本当で、オジ(徳田敏明のこと)のことも先日の取調べのときに頭にはあつたが、やはりずるい考えで言わなかつた。

井尻は『徳田のオジと行つて母線を持つて来た。』と言つた。『他に持つて来たというようなこと聞いてるな。』『オジのやつ早いもんなあ。』とか言つていたから。『オジも手が早いなあ。』とか『なれたもんだな。』とか言つてオジを連れて二人で行き母線と一緒に火薬と管を抱えてきたんだということであつた。それで私は、私達をペテンにかけて火薬を持ち出させていて、また火薬をどうするんだと思つて『石さんが持つて来たやつも火薬と管だべー。また持つて来たのか。』と聞いた。そしたらマツコは『オジ、母線と一緒に持つて来たから、そのまま持つて来たんだ。』と言うことで、マツコが特に頼んで盗らしたような口ぶりではなかつたようである。『オジが持つて来たという火薬も下がつちやつたのか。』と聞いたら、『三井、三菱の人が来て皆、上芦別の大須田のところに下げた。』ということであつた。」旨

述べ、最後に「部長さんもうこれだけですよ。あと何を聞いても知つていることありません。今度こそ本当です。」と供述している。

同年七月三〇日金田検事は、右藤谷の端片的供述を確認、総括して、要旨つぎのような供述を得た。

「八月七日、七夕の日、焼酎を飲んだとき、井尻は『火薬は地主と一緒に誠さんに下げてもらつたんだ。』と言つた。『火薬の外のものは誠さんに都合してもらつたんだ。』と言つたので私は『火薬に点火させるものか。』と聞いた。井尻は『そうだ。』と言つたので『何処から持つて来たんだ。』と聞いたら『現場から持つて来たんだ。』と言つた。それで自分は『現場から持つて来たつて立入のやつか。』と言つたらマツコは『立入のやつを向堀へ持つて来て、向堀から持つて来た。』と言つた。『何でハンドルを置いて来たんだ。』と聞いたら、マツコは『把手は要らなかつたんだ。』と言つた。『したら把手はどうしたんだ。』と聞いたらマツコは『把手は福士の机の中に入つていたやつをオンチヤンに持つて来てもらつたんだ。』と言つた。『オンチヤンて誰だ。』と聞いた。すると『安全灯を運搬している原田のオンチヤンだ。』と言つた。

それから母線の話になつた。マツコは『誠さんに一本都合してもらつた。おれも一本持つて来たんだ。』と言つた。自分が『そんなに何処から持つて来たんだよ。』と言つたら『三坑から持つて来た。』と言つていた。三坑というのは三坑の坑務所のことである。続いてマツコは『行くにはオウジと一緒に行き、母線一本と罐管も持つて来た。』と言い、また『オウジも早いやつだ。とに角、母線と火薬や何か抱えて出て来たんだ。』と言つていた。

自分は『誠さんに頼んだつて、それは誠さんに用があると言つた時、誠さんに頼んだやつか。』と聞いたらマツコは『兄は覚えていたか。』と言つた。自分は『誠さんに聞いた。』と言つた。井尻は、『誠さんは知らないけど地主の覚えている人で、地主と一緒に下げてもらつて、その誠さんの知らない人に渡してやつてくれと頼んだんだ。』と言つた。『地主が外にその火薬のうち何ぼかやつた。』というようなことを言つた。それで自分は『外つて何処だ。』と聞いたら、マツコは『上芦の大須田の処へ持つて行つたんだ。』と言つていた。『平岸の解体作業を聞いているだろう。』と言うので『聞いている。』と答えると『雪春とは別だ(岩城雪春がその仕事をするとの話しがあつた。)けど、大須田さんの方もやるんだ。それで大須田さんの処へ解体作業に使うんで持つて行つたんだ。』と言つた。それから『発破器や母線なんかは三菱だか三井の奴が来て、上芦の大須田の処へ持つて行つたんだ。』というようなことを言つた。『会議があつて、お前達に知れないように物を集めたのは会議で決つたんだ。その会議には大須田さん、山内さん(パン屋さん)、正夫さん(斉藤正夫)、地主、その他二、三人(三井とか三菱とかの人)が皆で相談してやつたんだ。』というようなことを言つた。『何でも共産党にでつちあげるので、反撃とか復しゆうのためにやることにしたんだ。』と言つていた。

それから鉄道爆破のことでマツコは『おれと地主は芦別で会つたんだ。その時、地主が火薬を持つて来て、発破器や何かは正夫さんが持つて来たんだ。』『やつたのはおれと地主だ。』と言うことも言つていた。七夕のずつと前にマツコから『今日党の会議があつて芦別に下らなければならないんだ。』と言つたことが現場の帰らしなや、飯場で二、三回あつた。『山内で会議がある。』とか聞いているが気にしていなかつた。」

と言う趣旨である。

藤谷に対する前記火薬類取締法違反被告事件の起訴にともなう勾留期間(一回更新を含む)は、同年七月三一日満了し、芦別市警察署は、同日、藤谷を「昭和二七年一〇月上旬頃より同月一八日頃までの間において空知郡歌志内町字仲村三興土建会社労務者宿舎において、井尻正夫から布団一組を預り保管中、昭和二七年一〇月上旬頃より、同月一八日頃までの間に空知郡歌志内町質店に入質し、以て横領した。」との事実で逮捕し、藤谷は同年八月三日から同月二二日まで勾留されることになつた。

藤谷は同月三一日、金田検事に対し、

「兎に角七夕の日、初めて井尻から鉄道爆破の話しをされ、お前らに何んだかんだダイナマイトにしても集めてもらつたんだと一度に言われ、自分は大変なことをしたと思つた。それで井尻から色々と聞いたのである。」旨

供述し、

同年八月一日、同検事に対し、

「七夕の日、飲んでいるとき、私は石さんに『火薬を何処からどうやつて持つて来たんだ。』と聞いた。すると石さんは『藤谷さんが昇さんと一緒に火薬を六坑から三坑へ持つて来たやつをスツコに入れて飯場へ持つて来たんだ。』と言つた。

井尻達が賃金渉で札幌へに行つて来た時で七月三日頃となる。井尻が二番方へ連勤し徳田も一緒に出ていたと思う。その時、三坑立入現場で井尻は『明日の一番方は火薬を使わないから二番方のお前達が火薬を使うのだが、六坑は熊谷組に引渡し火薬はあそこへ置いても仕方がないから三坑へ持つて来ておかなけりや駄目だ。』と言つた。自分は『そうだな』とあいづちをうつた。

七夕の日、井尻からお前等にわからないように計画的にやつたと聞かされた。

捲座の差掛け小屋にはダイナマイトの箱が六箱位あつたかも知れない。昇のスツコのふくらみ具合から考えて見ると三箱より多かつたように記憶する。

七夕の日に石さんに言われて、その時石さんが火薬を井尻飯場へ持つて来たことが初めてわかつた。自分は石さんのスツコの中には石炭が入つているのだと思つていた。七夕の日それから『火薬以外のものは誠さんに都合してもらつた。』と言うことや井尻もオジと母線を一本、三坑坑務所から持つて来たこと、ハンドルの話等を聞かされた。

井尻は『火薬にしても母線にしても自分でやらんで人に集めてもらつたんだ。自分が持つて来えば来られるが、おれがやれば目をつけられ易いし。』と言つて弁解した。自分らは人にしやべらないと言うようなことを話合つた。大須田については『兄も覚えている人なんだから絶対に言うなよ。』と言うことも言われた。

火薬のうち『地主のは大須田さんの処へ持つて行つてもらつたんだ。』と言うようなことを言つていた。誠さんが渡したのは三井とか三菱の人とかで二人位であつたようだつた。名前は言わなかつたように思う。」旨

供述し、

八月二日、同検事に対し、

「私が『どうしてそんなことをやつたのか。』といつたら井尻は、『それは言われん。』と言っていたが、自分が文句を言ったら、井尻は『それは会議で決ったんだ。お前達に知れないように物を集めたのも会議で決つたんだ。』と言つた。会議があるということは五月末、六月中過頃、七月中頃か末頃にも聞いている。井尻が芦別へ行くと言つて下つたのは七月中頃になると思う。五月と六月のときは下つたかどうかはつきり覚えていない。会議は皆、芦別で、上芦別であるとは聞いていない。『会議には大須田、山内、正夫さん、地主、その他二、三人が集まり皆で相談してやつたんだ。』と言つていた。『やることなすことすぐ思想関係、共産党に持つて来て何んでもかんでもでつち上げる。それで反撃とか復讐反動とか、そのために吾々労働者の利益のためにやつたんだ。』と言うようなことを言つていた。

鉄道爆破に行つたメンバーとして、こういう人達と行つたとは言わなかつたが『皆で相談してやつたんだ。』そしてその人達とやつたんだというようなことは聞いた。」旨

井尻、地主らの、共同謀議の事実について供述した。

八月五日、同検事に対し、

「七夕の日、鉄道爆破に使うのだつたら、石さんだつて、誠さんだつて迷惑ではないかと井尻に言つたら、井尻は『俺が持つて来れば来れるのだが、俺は目を付けられやすい。場所と人が変るし、三坑で使つてしまつたともいえる。』というようなことを言つていた。

発破器が六月中旬頃なくなつた。なくなつた発破器は四角いジエラルミンの鈍い色の物で提革は付いていた。革の提革をつけるところは、ボタンのようになつていて鉤ではなかつた。その発破器を見ればだいたいわかる。

平岸の炭素工場解体の話しは雪春からも井尻からも聞いていた。大須田もその話しをしていたことがある。井尻は『雪春さんの親方(関川)にはその仕事は落ちないのではないか。』と言つていた。

七夕の日、井尻が細いことを言つていたのは、自分がつつこんで聞いたからで、井尻は答えたくなかつたらしい。

井尻から聞いたのは事実であつて、どうしても聞かないとはいえないのである。」旨

供述した。

藤谷は井尻正夫、地主照に対する前掲火薬類取締法違反被告事件の同年八月一一日の公判準備において、被告人井尻、同地主、特別弁護人中川静夫立会のうえの証人尋問の際、証人として、

「六坑幅斜坑ズリ坑捨場付近の草原で井尻、石塚と三人で昼休みをしたこともあつたが、井尻から石塚に対しダイナマイトを持出してくれと頼んでいること聞いたことは全然ない。三坑で使うダイナマイトは捲上機室の差掛け小屋の木箱の中に、六坑で使つたダイナマイトの残りと一諸にして保管していた。井尻から確か七月三日であつたと思うが、六坑の現場も切上げになつたから、火薬を三坑へ移しておいた方が良いだろうという話があつた。特に命令された訳ではない。翌四日二番方で作業中午後六後半か七時頃、差掛け小屋の木箱に残つていた手つかずのダイナマイトの箱六箱、バラのもの一〇本、雷管一箱を取出し、私等がスツコと呼んでいる袋に入れて三坑立入の現場まで運んだ。木箱には残りはなかつた。当日、石塚、井尻昇と組んで働いたが、私は、そのダイナマイト雷管を袋に入れたまま、石塚に渡した。その中、ダイナマイト三〇本位と雷管一五本位を作業に使つた。当時三坑立入内には火薬の保管設備はなかつたから、そのままほつて帰つたとは思われない。石塚は帰る時、スツコを背負つて帰つたが、その中に火薬を入れて帰つたかどうか私は見ていないのでわからないが、何か入つていたことは事実である。

私と石塚と昇と三人で井尻飯場まで帰り、その夜は石塚の部屋に一諸に寝た。ダイナマイトはバラは確か新桐で箱は新白梅であつたが、一箱位は新桐が混つていたかも知れない。ダイナマイトを取りに行つたのは私と昇である。三坑で石塚は最初にバラのダイナマイトを取出し、その後で手つかずの新しいもの一箱を出した。私はダイナマイトに四寸釘を使つて穴をあけた。四寸釘は何時も坑内の笠木の上にのせてあるのを使うが、その時も笠木の上にあつたのを使つたと思う。」旨

証言した。

検察官は藤谷一久の供述の重要性に鑑み、刑事訴訟法第二二七条にもとづき裁判官に証人尋問を請求した。

藤谷は同年八月一三日、裁判官伊藤武道の尋問に対し、証人として、

「失くなつた発破器は四角なもので古い提革がついており、提革に穴があいてボタンで止めるようになつていた。カギになつていなかつた。アルミのようなつやの余り光のないもので一番上の方に製作所の名前か、または番号でもついてあつたらしく、はげたような跡があつた。

七月二〇日過ぎ頃千代の山一行の角力があつた三、四日位前に午後四後頃上芦別の学校の横の方を廻つて来る時、誠から『実は火薬を下げてくれと頼まれたから火薬を下げたんだ火薬を下げたとき地主も一諸に来た。自分は知らない人だが地主の知つている三菱とか三井の人らしい人にその火薬を渡した。』と聞いていた。

昭和二七年九月初旬頃警察で調べられたとき、井尻は七月二九日映画を見ていたと答えたと言つていた。私は九月一、二日頃上芦別映劇で一人で“地獄の門”を見た。その映画の筋を一〇月中過ぎ頃の夕方、上芦別の街を歩きながら井尻に話したことがある。」旨

付加したほか、従前司法警察員、検察官に対して供述した内容と、同様の証言をなした。

藤谷は、八月二一日、金田検事に対し、

「七月二九日は嬶の病気が悪くて看病した。大興商事から二、〇〇〇円借りて帰つた。油谷で地獄の門は見ていない。長男守が油谷に来たことは一、二回あるが、私と一諸に油谷で映画を見たことはない。守が油谷で光ちゃん(井尻の妻)に映画見につれて行つてもらつたことはあると聞いたことがある。」旨

従前の供述に付加して供述した。

第二二、井尻正夫が中村誠を介して大須田卓爾に火薬類を渡したとのことを藤谷が聞知した点について

(証拠省略)によればつぎのとおりである。

藤谷一久は昭和二八年六月一九日、検察官に対し「日は、はつきりしないが、空車を押して来るとき中村誠に会つたので『井尻がお前に用があると言つていたぞ。』と言った。それから一、二日おいてから『誠さん、井尻から用があると言われたが、何を頼まれたのだ。』と聞いたら、中村は『火薬を頼まれて下まで下げて来た。地主と西芦から来た二、三人に渡したんだ。』と言つていた。それは七月中頃であつたと思う。七夕の夜、井尻が『お前らの持つて来たのを誠に下まで下げてもらつた。』と言うことを聞かされた。」旨供述し、同年七月六日、中田巡査部長に対しても「中村誠が井尻に頼まれて、地主と三菱まで火薬を下げたと言うことは、中村から聞いてる。その日は、はつきりしないが、上芦別に千代の山の相撲が来た日の前頃だと思つている。」旨

供述していた。そして藤谷は、捜査段階の最後まで、右と同趣旨の供述をして、譲らなかつた。

しかし、一方中村誠は、井尻に頼まれて、火薬らしいものを上芦別に下げたことは、認めつつも、藤谷供述とは、異なる供述をしている。

すなわち、中村誠は同年八月一日、司法警察員に対し、

「昭和二七年七月七日頃仕事を切りあげて、二時頃坑外へ出たところ、井尻が、『大須田さんのところへ石炭のサンプルを持つて行つてくれ。』というので大興商事の石炭置場へ行つて井尻の背負袋に洗炭した少し荒い粉炭を七寸位つめたのを背負つて井尻飯場に寄つた。私は背負袋を土間におろして大部屋二階に上つて部屋の針金を外にして、持つて下りたら、井尻は持つて行かないでくれと言つた。この背負袋を背負つて、飯場を出るとき、井尻は『サンプルのことは大須田さんに前に話を付てあるから持つて行けばわかるが、うるさいから誰にも言うな。』と口どめした。大須田に『井尻がよこしたサンプルだから。』と言つて渡し、『背負袋は明日でも良いから。』と言つて袋を置いて来た。石炭のことで、うるさいから誰にも言うなと口どめするのは不審である。私が二階に針金を外しによつている中に、石炭のサンプルの中に火薬の三〇本や四〇本隠して入れたとしても私には判らない。」旨述べ、

同年八月二〇日、司法警察員に対し、

「昭和二七年七月七日頃の一番方の帰りに大須田のところへサンプルを頼まれたとき、井尻から『サンプル以外の物も入つているからな。』と言われた。ダイナマイトならサンプルの中にバラにして二〇本や三〇本入れてもわからない。

七月中旬頃上芦の三菱駅から鉄道線路を通つて自宅へ帰るとき、藤谷から『この間マツコから何か頼まれなかつたか。』と聞かれたので、私は『火薬を頼まれて下げた。』と言った記憶がある。

『サンプル以外の物も入つているからだれにも言うな。』と口止めされたことから、火薬だと信じたので、藤谷に火薬を頼まれたと言った。」旨

また同年九月六日にも、司法警察員に対し、ほぼ同旨の供述をしている。

検察官は、中村の供述するところが、前記藤谷供述と食違うので同年九月二三日、中村をさらに取調べ、この点について確認するとともに、食違いを問いただした。中村は検察官に対し、

「七月七日頃一番方を終えて帰る途中、三坑事務所付近の石炭置場で、井尻が私に『サンプルとして大須田さんのところへ持つて行つてくれないか。』と言って、井尻のリュツクに三分の一位沈粉の荒石炭を入れたことがある。時間待ちのため一応飯場に寄つた。私は銅線をとりに二階に上つて二〇分位して階下に下りた。井尻の妻から岩城雪春に米を持つて行つてくれと頼まれ、その際私も米二升位を借りた。米の風呂敷包は粉炭の入つているリユツクの上に古新聞一枚をおいて、その上に入れた。藤谷とともに表口から出ようとしたが、その時、井尻は『うるさいからだまつていれよ。』とか『サンプル以外の物も入つているからだまつておれよ。』とか口止めされた記憶がある。大須田の宅で大須田にリユックを手渡し、翌日大須田からリユックを返してもらつた。大須田はリユックにまだ少し入つていた石炭をあけ『燃料炭にするのだ。』と言いながら石炭小屋に開けて返してくれた。藤谷の言つていることと違うので、藤谷に会わせてもらつたところ、藤谷は私に火薬類を下げた話を聞かせてくれたのではないかと言つたが、天地神明に誓つて左様なことはない。」旨

供述、中村供述と藤谷供述は、最後まで食違つて一致しなかつた。

これに対し、大須田卓爾は、石炭のサンプルは受取つたが火薬は受取つてはいないと、つぎのように言うのである。すなわち、

同人は司法警察員に対し、同年八月二五日、「井尻のところから中村が石炭のサンプルを頼まれてリユックに入れて来たことがある。七月二〇日頃だつたと思う。井尻に賃金の代わりに炭でももらえば売つてやると言つたから持つて来たのである。」旨述べ、八月二九日「七月二〇日頃、家内が井尻からサンプルが来ていると言つたので、庭で蜜柑箱に空けたが、中には何も入つていなかつた。」旨述べ、八月三一日検察官に対しても同旨の供述をした。中村供述とは、日時の点も異り、受取つたのも、自身でなく妻であると、微妙な食違いをみせている。

中村誠が、井尻に頼まれて石炭のサンプルを大須田のところに運んだことは事実であるが、そのサンプルの中に火薬類が入つていたかどうかは明らかではなかつた。しかし藤谷が中村から火薬類を運搬したと聞かされた点については二人の供述は一致していた。

第二三、発破器のハンドルを原田鐘悦が井尻に交付したことについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

発破器のハンドルが、何処で作製されたか何処の所有のものかは、捜査員の広範囲な聞込み捜査によつても判明しなかつた。しかし、油谷炭鉱内の大興商事の作業現場である第二露天で坑夫をしていた藤田長次郎は昭和二八年三月二三日、司法巡査に対し「私が露天現場で使用したのは角い発破器で紙ヒモで鉄のハンドルが付けてあつた。このハンドルは握り具合が悪く、握る部分が一方長く一方短くなつていた。警察の方から見せられる鉄のハンドルは、これだと断定はできないが、大興の露天で使用した物と同一の物のような気がする。」旨供述し、同人は検察官に対し、同年七月四日、「昭和二七年二月中旬から三月中旬までジエラルミンの発破器を掛けたことがある。ハンドルは全部鉄でできていたものであつた。お示しのハンドルは、私が当時使つたものによく似ているが、横の方が少し長いような気がする。昭和二七年九月頃、福士佐栄太郎が「警察の者がうるさく発破器やハンドルのことで調べにくるので、この間、木の柄のハンドルが机の抽斗の中にあつたので、それを出して見せて誤魔化したことがあった。」と言つていたことがある。」旨供述した。

ところが七月一一日、藤谷一久を取調べていた中田巡査部長が、同人から「井尻正夫が、ハンドルは『安全灯のオンチャンに持つて来て貰つたんだ。』『事務所の福士の机の抽出から持って来て貰つたんだ。』と言っていた。」旨の供述を得た。(なお、オンチャンとは、原田鐘悦のことである。)検察官は、藤田長次郎と同じ作業現場である第二露天の発破係員助手佐藤光男についても鉄製ハンドルの存否を確めてみた。同人は七月一五日、検察官に対し、「ハンドルは発破器と別にして大興商事の事務所の係員の机の抽出の中に入れてあつた。全部で四個のハンドルを入れてあつたが、四個とも握るところが木製であつた。事務所に鉄製のハンドルがあつたことは知らない。」旨、鉄製のハンドル自体の存在につき否定的な供述をした。七月一六日、他の係員助手浜谷博義を取調べたところ、同人は「昭和二七年四月頃、露天現場休憩小屋ストーブの側で、発破器の横に鉄のハンドルがあるのを見たことがある。そのハンドルは持つ所の左右の長さが違つているものであつたように思う。」旨供述した。ここにおいて、右佐藤の否定的供述であるものの、大興商事の現場、または休憩所等に形は兎も角、全部鉄で出来たハンドルが存在していたとの裏付資料はあつたわけである。芦別市警察署の司法警察員は、七月二九日、原田鐘悦を「昭和二七年六月末頃午後一時頃油谷炭鉱用地内大興商事芦別出張所事務室において発破係員福士佐栄太郎所有の発破器用鉄ハンドル一丁を窃取した。」との容疑で逮捕して、ハンドルについて取調べた。原田鐘悦は翌三〇日、巡査部長中田正に対し、「石狩土建の事務所で誰だつたか係員が鉄ばかりのハンドルを発破器に差込んで廻わし、私に『オンチャンここへ手をやってみれ。電気がくるぞ。』と言つてかけたことがある。鷹田係員の机の上では、このハンドルをはっきり見ている。(同巡査部長は遺留品の鉄製ハンドルおよび油谷炭鉱より借用した小型の鉄製ハンドル二丁を示して、選択させたところ、直ちに『これと同じような奴だ。これと太さが同じだなあ。』と言つて遺留品の鉄製ハンドルを選んだ。)岩城の弟が腹痛を起す少し前ぐらいの午後五時頃、井尻さんが、係員から言いつかつて来たとか言って『発破器のハンドル、その辺に無いか。』と言うので、私がハンドルの掛っている柱や鷹田さんの机の抽出や入口の係員の机の抽出を探した。この時左側の抽出の手前の左隅の方に伝票や操業票なんか入つていて、鉄のハンドルが入つていたので、これを井尻さんにやつたことがある。その後、私が大興商事をやめるまで、事務所で見たことはない。」旨供述し、同年八月三日、「鷹田さんの机の上の大きなクモリでない電球に赤い字で大興と書いたものや書類なんかと一諸に鉄のハンドルが、暫く置いてあつた。井尻に渡したのは、六月一〇日頃の、二番方のときだつた。ハンドルがあつたのは、誰の机かわからない。」旨供述し、八月六日、検察官に対し、「岩城定男が腹痛をおこした少し前頃の午後五時頃大興商事の事務所で、井尻に『係員に頼まれて来たが、その辺に発破器のハンドル無いか。』と言われ、係員の座る机の抽出を開いてみたら、全部鉄で出来たハンドルが一丁あつたので井尻にやつた。ハンドルを渡したのは一回だけだから記憶違いはない。木のハンドルは鉄棒が真中にないが、井尻にやつたのは、鉄棒が真中にある。誰にやつたか、すぐには思い出さなかつたが、井尻にやつたことを思い出し、ぼくから井尻にやつたと言つたのである。ハンドルは誰のものか知らないが、係員個人の持物ではないかと思う。」旨詳細に供述した。検察官は大興商事に鉄製ハンドルがあつたか否かについて、さらに係員福士佐栄太郎を取調べた。同人は八月七日、検察官に対し「全部鉄で出来たハンドルが一丁あつた。事務所の二階の階段裏の押入のようなところに発破器に差してあつた。私が事務机の上で、鉄のハンドルを文鎮代わりに使つたことがある。押収されているハンドルは私が見たハンドルに似ている。」旨供述し、本件鉄道爆破事件の起訴後ではあるが、同年一一月二二日にも、司法警察員に対し「鉄のハンドルを警察で見せられたとき何処かで見たことがあるなあと思つたが、見当がつかなかつた。見張か大興商事の事務所で見ているような気がする。事務所の階段の蔭に鉄のハンドルが発破器にささつて置いてあったことがあり、また工数薄の上に鉄のハンドルを重しのために置いたような気もする。このハンドルは見たことは確かなんだが、どこからどう入つたかわからない。どこへやつたかも憶えない。」旨供述し、右原田の供述を裏付けるとともに大興商事に鉄製ハンドルが存在したことを認めたわけである。遺留品のハンドルを原田鐘悦が昭和二七年六月中旬頃井尻正夫に交付したとの資料が出た。

第二四、油谷炭鉱二、三坑坑務所倉庫から雷管、ダイナマイト、発破母線が紛失したことについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

本件鉄道爆破事件後間もない昭和二七年八月七日油谷炭鉱二坑発破係員西浦正博は、司法警察員に対し、

「昭和二七年七月七日頃から一〇日頃までの間に、何時も使用する量の倍量を火薬庫から貰い受け、油谷炭鉱二坑と三坑の中間ぐらいの坑外にある現場見張所の佐野留之助が管理している倉庫に、私がダイナマイト新白梅四〇本(ボール箱二箱)と雷管二〇本位を一時保管していたところ、新白梅ダイナマイトも雷管も半分位になっていた。」旨供述していた。

その後、同人は昭二八年九月一八日、検察官に対し、同趣旨ながら前後の事情を詳細に供述し、さらに同月二一日裁判官の証人尋問を受け、要旨つぎのとおり証言した。

「昭和二七年二月五日から昭和二八年一月三一日まで二坑発破係員をしていた。火薬日報を調査したところ、昭和二七年七月七日頃から一〇日頃まの間に、何時も使用する量の倍量のダイナマイトと雷管を火薬庫からもらい受けて、二、三坑坑務所の資材置場の棚に保管していたことが確められたが、その期間中に保管中のダイナマイト二〇本入一箱と六号電気雷管一〇本一束が紛失したように思われる。紛失したらしい日は七月七日から一〇日までの間で、時刻は二番方(午後三時から一一時まで)と三番方(午後一一時から午前七時まで)の終る時間内であると思う。雷管の特長は脚線に近い末尾に二本の溝があること、脚線の充填部が硫黄で固められていることであつて、普通の雷管はその部分が鉛で固められている。お示しの五本の雷管は、脚線が付けられている根元に近い溝の部分に先端に向け、稍斜めに「5」と刻まれているので、いずれも当時私が使用しておつた雷管に相違ない。その二、三日前に係員の皆川和夫から、ダイナマイト二〇本と雷管一〇本を借り受けたことがあるので、足りないと気付いたとき皆川が持つて行つたのではないかと思い、多分七月の中旬頃、皆川に『お前知らないか。』と尋ねたが、皆川は『そんな物、知らない。』と答えた。」というのである。

また、二、三坑坑務所の資材道具係の佐野留之助は昭和二八年四月一〇日司法巡査に対し、

「昭和二七年六月末頃、係員の請求があつて発破母線を渡そうと思って、二、三坑坑務所の倉庫の中に行つて見たところ、前日に確実にあつた五把の発破母線が、一把か二把無くなつていた。」旨

供述し、同年六月二七日司法警察員に対し、

「盗まれたのは七月七、八日頃で、数量は二、三本である。発破母線は緑色電話線で屋外ラバー線と呼んでいる種類のものである。」旨

訂正して供述した。

右佐野は同年九月一八日、検察官に対し、

「私は、二、三坑の資材道具係をしていたが、昭和二七年六月三〇日頃から約五日間位、会社を休んだ。休み中は私の仕事の代りを山田久男にやつてもらつた。二、三坑坑務所資材置場には三〇米の発破母線二把があつたのを引継いで行つた。山田は私の休み中に一〇〇米の母線を会社からもらい受け、二五米づつ四本に切つて、一把は係員に出してやつたということを出勤して聞いた。私は資材置場の五把の母線を帰つて引継いだ。その後四、五日たつて資材置場の母線を見たところ、前日まで五把あつたのに、急に三把になつていたので変だと思つて色々の人に聞いたが、わからなかつた。母線は緑色の被覆電話線で、油谷ではこの一種だけを使つていた。二、三坑坑務所には午後四時過からは誰もいなくなり、二番方が帰るとき入口の錠をして帰ることになつている。」旨供述した。

右各供述により、昭和二七年七月上旬頃二、三坑坑務所資材置場からダイナマイト、雷管および発破母線が紛失したとの資料が得られた。

第二五、徳田敏明の供述について

(証拠省略)を総合すると、つぎのとおりである。

前記のように、司法警察員は藤谷一久から、昭和二八年七月二一日および同月二五日、「井尻正夫が徳田敏明とともに三坑坑務所に行つて母線を持つて来た。徳田は手が早くて母線と一諸に火薬と雷管も抱えて来た。」旨の供述を得たので、この供述と前項でみた佐野留之助および西浦正博の各被害供述を資料に、芦別市警察署司法警察員警部芦原吉徳は、同年八月二八日、徳田敏明に対する逮捕状を請求し、同年九月五日、同人を「昭和二七年七月初旬頃、空知郡芦別町油谷炭鉱二、三坑坑務所資材及び道具物置内において佐野留之助保管に係る発破線(緑色ゴム線)二把を窃取した。」旨の容疑で逮捕し、同人は同月七日から同月二三日まで勾留された。

徳田敏明の逮捕された翌日の九月六日司法警察巡査部長中田正に対し、「昭和二七年二月頃から七月二〇日頃まで石狩土建で働いていた。六月は三坑向堀で中村誠についていた。七月になつて井尻正夫が三坑立入に来て、立入にも入つて働くようになつた。六月の終りか七月初頃二番方のとき午後九時から一〇時頃一度、坑内から出て六坑の捲座か休小屋かに休んでいるとき、井尻が私に「お前、三坑に行つて発破母線持つて来い。」と云つたので、三坑の向堀か立入かどつちの現場だかよく憶えていないが、持つて来てやつたことがある。向堀で確か係員から新しい母線を貰つたばつかりであつて、その線を持つて来たと思つている。「オジ勾配早いなあ。」と云われたことがある。」旨

被疑事実を否認した。

さらに、徳田は九月八日、同巡査部長に対し、二回にわたつて

「井尻に云われ立入でイカレタ母線を何箇所かつないであつたのを外して持つて来てやつた。肘と手首で五回か六回巻かさつたのを持つてきてやつた。井尻は、俺からとつて椅子だか、柱だがにパンパンと叩いて石の粉を落してリユックに入れていた。洗濯物干すのに使うんだと云つていたようだつた。」とか、あるいは「井尻の姐さんに洗濯物を干すと言われて古いイカレタ発破線があつたのを持つて来た。七月初頃三坑向堀現場で働いたとき、管をつめて二本か三本余つたので、火薬置場へ返せと云われた。これをポケットに入れ、返すのを忘れて帰る途中、返すのを忘れたからと云つて井尻のポケットに入れてやつたことがある。しかし母線や火薬を三坑坑務所から持つて来たことはない。」旨

種々述べて否認をくりかえした。

そうして九月一一日、同巡査部長に対し、

「ハンマーやピックにさす油を貰いに三坑坑務所に行くことがあつた。井尻から、その油をとりに行くときに、火薬を持つて来いと云われたのでないかと思う。現場は三坑立入で後山は私と藤谷でなかつたかと思う。事務所の中の机の下に空箱があつたようだ。その箱から火薬を持つてきたと思う。管は揃つて一束になつていた。ダイナマイトの箱の中にまだ火薬は入つていたと思う。火薬は飯場へ持つていつたような事はないし、坑内現場に持つていつた事もない。どう考えても道端で渡したと思う。母線は持つて来たことはないので、本当に知らない。」旨

一部認めるような供述をした。

徳田は九月一三日検察官副検事金子誠二に対し、

「六坑から三坑立入に入つた直後の七月初旬頃、先山が井尻で後山は私と藤谷でなかつたかと思う。二番方で午後八時頃食事を終えて間もなく、井尻から『油を取つて来てくれ。そしてダイナマイトも一諸に持つて来てくれ。』と云われたと思う。井尻に坑務所の何処にダイがあると教えられた記憶はないのである。兎に角、事務所の室内に空箱が一つあり、その中にダイの入つているボール箱があつたのと雷管が七、八本束になつたのがあつたのを見たので、両方とも箱から取り出して、右手に油の瓶を持ち、左手に雷管を持ち、左の小脇にボール箱をはさんで現場に戻つた。三坑坑口に井尻が待つていたのでダイと管をやつた。私は『ダイを持つて来てくれ。』と言われたが、管は当然いると思つたので持つて行つた。」旨

ほぼ警察における供述と同様の供述をしていた。

ところが、翌一三日同副検事に対し、

「坑務所の事務室の何処から持つて来たか、どうも判らない。夜、井尻と二人で行つて発破線なんか持つて来たことがあつた。井尻が奥に入つて行き発破線なんかを持つて来て、おれに火薬を寄越して母線は井尻が持つていた。私は事務室にいた。ボール箱に入つていた火薬と管を寄越した。発破線は束にまるめてあつた。油を取りに行つたときと言つたが、油は関係ない。ダイや管は現場に持つて行つて井尻に渡した。その夜、ダイや管は使わなかつた。ダイは二〇本入位の重さで、管は七、八本だつた。井尻が三坑に移つてからの七月初頃であつた。」旨

九月一五日、同副検事に対し、

「おれが事務室にいたというのは間違つていた。井尻と一諸に入らず、建物のアンコ場の方の角にいた。井尻が待つておれと云つたので待つていたと思う。係員がスコを持つて出たり入つたりするのを見たことがあるので奥にダイがあると思つていた。二、三分くらい待っていると井尻が発破線やダイや管を持つて来て、私にダイや管を渡したというのは間違いない。井尻が何処で誘つたのか判らないが、坑務所へ行つたのは三坑からだつた。飯場に帰つて、かまどの前で大部屋の裏の食糧倉庫の入口で渡したような気もする。管は子線で束にしてあつたが、一束一〇本のものであつたかもしれない。」旨

自己が持ち出したものではなく、井尻が持ち出して、ダイナマイトと雷管を運んだのみであると供述を変更した。

同副検事は翌一六日さらに徳田に確めたところ、同人は

「七月二〇日まで三坑で働いた。七月に入つてからは三坑立入では、先山は中村誠、後山は牛山、遊佐、石塚等であつたが、中村が休んだり、人の都合で井尻が先山をしたこともあつた。六月の下旬か七月の初ころ午後八時半頃、井尻に云われて二人で二、三坑坑務所に行つた。井尻が発破母線を持つて来たものではない。井尻に云われて三坑坑務所に行き、井尻が中から発破線やダイや管を持つて来て私にそのうちダイと管を持たせたことは絶対間違いない。私が井尻にちよつと待つてくれと云われて、坑務所のアンコ場寄りの角で待つていたことも間違いない。井尻が出て来た時、発破線やダイや管を持つて来たので「あれつ。」と思つた。大興の事務所に行くのが、当り前なのに関係のない三坑坑務所から、そんな物を持つて来たからである。ところで、それから井尻とそのダイや管を何処へ持つて行つたか、それがはつきりしない。どうも飯場に持つて行つたような気も強い。記憶がわるいが、井尻と一諸に三坑の現場から夜、坑務所に行つて井尻が母線やダイや管を持つて来たこと、私がダイと管を渡されたこと、その時変に思つたことだけは絶対に間違いない。」旨

供述し、

さらに翌一七日、徳田は、自ら供述書を認めて、同副検事に提出しているが、記載内容は九月一五、一六両日の供述の内容と全く同一である。なお徳田は右供述書提出に際し、留置場の巡査等から教えられて書いたものではなく事実間違のないことを書いたと申添えている。

そうして同日、検察官の刑事訴訟法第二二七条の請求による裁判官の証人尋問を受けたが、その際も

「六月末か七月の初めであつたかは記憶ない。時刻は晩飯を終えて一休みをしておつた時であつたと記憶しているので午後八時頃か八時半頃であつたと思う休憩しておつた場所は見張であつたか、会社の休憩所であつたか、これもはつきり記憶しておらないが、井尻が休んでいる私の所に来て三坑の坑務所まで一諸に行つてくれと云われたのである。」旨

訂正したほか、従前の供述と同趣旨の証言をした。

ところで、昭和二七年七月分三坑操業証は、昭和二八年五月二日酒井武によつて警察に任意提出され、同日領置されているが、右操業証には七月一日から同月一〇日頃までの間に徳田と井尻が同時に二番方で稼働した旨の記載はない。また、徳田を取調べる当時、捜査機関が、すでに了知していたと思われる油谷鉱業所作成の大興商事関係の同年七月分工数薄によるも、同期間に徳田と井尻が同時に二番方で稼働したとの記載は、七月三日の二番方以外にないところ、右二番方はチエツクされているが、その意味は明らかではない。油谷鉱業所作成の六月分工数薄は昭和二八年五月三日に領置されているが、これにも六月下旬、徳田と井尻が同時に二番方で稼働した記載は見当らないし、六月分六坑副斜坑操業証には、六月下旬徳田が六坑副斜坑で稼働した記載はない。なお六月分三坑操業証は存しないから、その稼働状況を知る由もない。

油谷鉱業所作成の工数薄、大興商事の操業証の各記載は、随所に符合しないものが見られ、その記載は、いずれも必ずしも正確でないこと後でみるとおりである。同副検事は本件鉄道爆破事件起訴後の九月二一日、かさねて日時を確めたところ、徳田は、「私と井尻が二、三坑坑務所に行つたのは井尻が札幌に賃金交渉に行つて帰つた後の七月上旬である。誘われた場所は油谷会社の休憩所であつて食事が済んでからであつたから、午後八時半頃であつた。その夜は井尻は一、二番と連勤したのではなかつたかと記憶する。」旨

供述したが、ひにちについては、はつきりした供述は得られなかつた。検察官は、井尻と徳田が、七月初旬、二、三坑坑務所から発破母線・雷管・ダイナマイトを盗み出したとの資料を得たわけである。

第二六、発破母線を中村誠が井尻と交換して交付したことについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

中村誠は、昭和二八年六月二八日、三沢検事に対し「現場が三坑のみになつてからは、発破母線は福士から新しい緑色被覆線長さ二五米くらいのものを受取つて向堀と立入の現場で交互に使つていた。」旨述べた。ところが、同年七月一〇日、司法警察員藤田良美巡査部長に対し、二回にわたり「三坑向堀では発破母線の専用がなく、六坑の母線を持ち廻つて使つていた。私は福士係員に専用の母線一本をもらい度いと頼んでいた。福士は講習に行く前の六月二一、二日頃、新しい母線を持つて来て『二五米あるんだから、間に合うべ。』といつて置いて行つた。古いボロボロの母線五、六米のものがあつたので、切羽のいたむ方に古い母線を継いで三〇米余りにして使つた。井尻は七月三、四日頃の午後ひよつこり私の現場に来て『誠さん、新しい母線をもらったべ。それ、おれの方にくれないか。』といつた。井尻は大先山で仕事の点では叶わず一歩譲つていたので、やることにした。私は三坑立入の井尻の現場へ行き新しい母線を井尻にやり、代りに古い母線を外して輸にして私の現場へ持つて来て使つた。私は新しい母線を三回位しか使つていない。七月下旬ごろ井尻の現場へ行つたら、発破をかけるところであつたが、井尻は『母線が悪くて。』と言つていた。私がやつたものではなく古いもののようであつた。井尻が六坑で使つていたものを使つていたのに違いないと思う。」「新しい母線は井尻にやつた当時は新品同様で、その後、井尻が使つていなければ、新しいままになつてると思う。ペンチを使わないで手斧で叩いて被覆を剥いである。お示しの新しい方の発破母線(遺留品中の新しい緑色被覆電線)は被覆のむいてある状況、芯線のよじれからして、私が手がけたものに間違いないと思う。お示しの古い方の発破母線(遺留品中の炭塵付着の短い被覆電線)は炭塵がついていて私の現場で使つたものではない。井尻にやつた母線とは全然違う。」旨供述した。七月二一日さらに同巡査部長に対し「この間、示された発破母線には擦れた跡があつたが、私が笠木と天盤の間に食い込んだのを引張つたところ、被覆の表面が切羽近くなつて擦れたことがあつたので、間違いないと思う。」旨特長について付加して供述した。中村は同年八月二八日金子誠二副検事に対しても、右藤田巡査部長に対して述べたのと、ほゞ同趣旨の供述をなした。さらに検察官の刑事訴訟法第二二七条による請求にもとずく、同年九月一日の裁判官の証人尋問に対しても「井尻と七月三、四日頃発破母線を交換した。母線の特長はグリーンの濃い色で、使用する際は、坑道の壁と笠木との間に長く這わせて使用していたが、その線を取り外すとき、無理に引張つた関係で真中から幾らか先端寄りに一尺五寸くらいの長さに、はつきりと岩磐に擦りむいた跡があり、そこは被覆の塗料がはがれて、その間、生地が白ぽいようになつていた。私は古い五、六米くらいの長さの線をその新しい線に継ぎ合わせて使つていた。その継ぎ合わせについては、両方の線を一寸くらい互違いにして、その合わせた線を、そのままの型で、ゆるく二、三回捻り、岩石におさえられた古い線と母線の新しい線が容易に離れるようにしていたので、その先端の部分は割り方、損傷が少ない。次に古い線の継ぎ目と発破器に取りつける先端を出すのに、被覆が相当固いので私は線をレールの上に置いて、その先端を手斧の反対側で軽く叩き被覆が崩れてゆるくなつたので、それを手でむしつて二、三寸くらい出し、その中のゴムでくるんだプラス、マイナスの各線のゴムを引張つて延ばし折曲げると延びたゴムの線の当る処に穴があく。それでさらに延びきつたゴムを線にそつて引き下ろすと、延びきつたゴムが切れるのと残された線を包んであるゴムに一寸近くの破れ目がくつきりと残つていることである。また引きちぎつたゴムの跡も刃物で切つたのと違つて、きれいにはならず凸凹に跡が残つている。お示しの発破線は井尻の要求によつて同人に交付した母線に大体間違いないと思う。この線には擦れた傷跡がはつきり残つており、先端の被覆がよれよれにほぐれているのと中のゴム覆を引きむしつた跡として残つたゴム覆に破れ目がはつきりしるされており、また先端の線自体の捻り方がゆるく使つておつた関係で、さほどに損われていないこと等によつて証明づけられると思う。」旨特長について詳細に供述したほか、従前と同様の供述をしている(なお、右供述は仔細に検討すると、発破母線の両端に、特長が残つているというものではないことが明らかである。)。右中村誠の供述を裏付けるように、福士佐栄太郎は検察官に対し同年九月九日、一〇日の両日にわたり「三坑、六坑では発破母線を兼用していた。私が講習に出掛ける前、六月中過頃、長さ二五米か三〇米の緑色新品母線一本を向堀の先山、中村誠にやった。」「遺留品の母線は色が緑色で私が向堀の中村にやつたものと思われる。色の具合も殆んど同じで同一品と申しても差支えない。」旨供述し、油谷炭鉱の資材係佐野留之助も同月九日司法警察員に対し「昭和二七年七月二三日、石狩土建に発破母線三〇米一把出している。向堀用と書いてあるが、高橋区長から石狩土建から来たから渡してくれと云われ、聞いて書いたものである。これ以外に福士に渡したことが一、二回あると思う。それは帳面には忘れてつけていない。」旨供述した。もつとも、三坑向堀坑内夫の遊佐春雄は同年七月二四日、検察官に対し「三坑向堀で、発破係の福士が講習で札幌に出掛ける前、中村が何処から持つて来たのか知らないが、茶色がかつた二本の母線を持って来て爾来、向堀では私が辞める昭和二七年六月二八日までの間、発破母線の専用ができた。中村が係員から貰つて来たものと思つていた。新しいものででもなく、余り古いものでもなくいたんでいなかつた。長さは二〇米位なものであつた。中村が福士から新しい母線をもらつたということは聞いていない。」旨供述しているが、同人は後山で発破作業に余り関心がないと思われる。六坑坑内夫福田米吉は、同年七月二二日「井尻が母線を交換したことは知らない。六坑を切り上げる二日か三日前に福士が六坑現場へ新しい銅線を持つて来て井尻にやつたら、井尻は今持つて来ても仕方がないと云つて、その場で福士に返えしてしまつた。六坑では新しい銅線は使わなかつた。」旨の供述をしている。しかし、同人も後山で発破作業に余り関心がないと思われるし、井尻が福士からもらつた新しい母線を返えした旨の供述も、切り上げることがきまつている現場に新しい母線を持つて来たということ自体不自然で信用し離いし、六月末頃は福士は札幌に行つていないはずである。いずれにせよ同人の記憶は確かなものではないと思われる。

捜査官は遊佐、福田の各供述を信用しなかつたであろう。

以上により中村誠が昭和二七年七月三、四日頃、遺留品の緑色被覆電話線(発破母線)を井尻に対して交換交付したとの捜査結果となつたとみられる。

第二七、大興商事で紛失した発破器の再捜査

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

証第二一号の発破器は、大興商事で紛失した発破器とは関係がないと考えて、大興商事についての発破器の捜査を一旦中止していた捜査官らは、昭和二八年三月一三日の石塚供述(前掲)により、大興商事の井尻正夫らの周辺に疑惑を抱くようになり、あらためて大興商事の発破器紛失について再検討することとなつた。

昭和二八年三月一四日、司法警察員は、発破係員助手浜谷博義から、三坑、六坑で発破器が盗難により紛失した旨、第二露天で発破器が一台紛失しているが、埋没したものではなく、盗難にあつたのではないかと思う旨、三月二三日、第二露天の坑夫藤田長次郎から、第二露天には昭和二七年五月一〇日頃までは発破器が二台あつた旨の供述を得、第二露天の一台が埋没したことは疑わしいことを探知した。

かようなとき金子誠二副検事は同年四月一九日、岩城定男の開腹手術をし、生命の安否が案ぜられたので、同人から手術前に、言いおくことはないかと聞いておいたという玉川三男医師から、岩城定男が同年三月一八日「捲上機小屋にあつた発破が盗まれた。このことは井尻がくわしい。遺留品の発破器(証第二一号)は、自分達が使つていたものに間違いない。」といつたことを聞いた旨の供述を得た。

三沢検事は、手術で一命をとりとめた岩城定男から四月二二日、遺留品の発破器は、自分が六月中旬頃、捲上機室から三坑立入に運んで行つて、行方不明になつたものにジエラルミンの色合とか古さの程度、提革の止め鋲がよく似ているが、自分が運んだ発破器には蓋の上側に番号を書いたブリキ板がついていた旨の供述を得た。

三沢検事は、四月二三日、福士佐栄太郎から、同人の手帳の記載によれば六坑捲上機室にあつた発破器は、一五三五九号であるが、遺留品の発破器は自分達が使つていたものによく似ている旨(紛失した発破器は一五三五九号であるといいながら、その型式については、これと異なる証第二一号のジエラルミン製発破器に似ているとの矛盾した供述である)、同年五月二日、三坑で先山をしていた岩城雪春から、遺留品の発破器は自分が使つていたものと形式は全く同じで、ジエラルミンの色合と古さ加減、提革の止め鋲も同じである旨の供述を得、金子誠二副検事は、同年六月一四日、岩城定男から、六坑捲上機室に発破器は二台あり、一台は係員が、どこかに持つて行つたらしい旨、六月二七日、同人から発破器は二台ともジエラルミンで古ぼけたようなもので、提革の止めは二台とも鋲であつた旨、六坑、三坑で先山であつた坂下真弥から同年七月三日および八日(ただし八日は三沢検事)の二回にわたり六月中旬、六坑、三坑で使用していた発破器は証第二一と同色、同型のものであつた旨(坂下は証第二一号発破器と一五三五九号発破器を示されている。)、さらに、同年八月七日、福士佐栄太郎から一五三五九号発破器が、昭和二七年四月末頃具合が悪く誰かが、大興商事の事務所から一台発破器を持つてきて使つていたということであり、三、四日して一台返したと思われ、捲上機室には一台しか残つていなかつたが、六月下旬頃失くなつた発破器が、一五三五九号であるかどうかわからない旨(当初、捲上機室にあったのであるから、紛失したのは一五三五九号であるといつていたのに、紛失したのが、一五三五九号であるかどうかわからないとの供述に変つたわけである。)の各供述を得た。

昭和二七年六月中に大興商事の六坑、三坑で使用中紛失した発破器はジエラルミン製で、おそらくは証第二一号発破器であろうと推測される資料が出たわけである。

第二八、一五三五九号発破器の発見

(証拠省略)によると、つぎのとおりである。

捜査官らが、関係人らの供述から三坑で紛失したという発破器はジエラルミン製で提革の止め金が鋲式になつているものであつたとの資料を漸次蒐集していた矢先、昭和二八年五月一六日、たまたま油谷芦別鉱業所の二、三、六坑坑務所に捜査のため、立寄つた中田正巡査部長が、同鉱業所の発破器の貸与台帳を閲覧したところ、一五三五九号の発破器が発破係員柴田正義に貸与され、同人が使用中であることを発見した。事情を聴取すると、同鉱業所の現場係員斉藤伝三郎が昭和二八年一月五日ごろ三坑立入坑道、向堀掘進現場を巡視中、これを発見した由であつた。斉藤伝三郎の後日の供述によると「昭和二七年一二月二八、二九日頃の午前三坑立入坑道を保安巡回中、三坑坑内で、もと大興商事が作業していた向堀と二番層坑道(本件各関係人らが三坑立入と呼んでるところ)の途中坑道で、両現場に通ずる三坑坑口より約二三〇米くらい向堀側に入つた右手の古い漏斗のちよつと手前の右側の土べらで高さ五尺くらいの処の矢木の陰に丁度かくして置いていた風になつている発破器を発見した。一〇発掛鳥居印でナンバーもあり、レザーのような相当古い提革がついていたが、湿つぽくなつていた。大興商事は向堀と二番層坑道の二個所で作業をしていたので、両現場の中間の位置で両方に使用するのに便利なところに置いたものではないかと思う。」とのことであつた。

右一五三五九号発破器は福士佐栄太郎が当初三坑立入で紛失したと供述していた発破器であつた。

しかし一五三五九号発破器は五桁の番号の付せられた真鋳または銅にメッキした提革の止め金が鉤型の発破器で、前記各関係人らが、六坑、三坑で使用中、六月二〇日頃、三坑立入現場で紛失したというジユラルミン製で提革の止め金が鋲式の発破器とは全く型式の異つたものであつた。また、それが発見されたという個所も、三坑立入ではなく三坑向堀に近い場所であつた。

同巡査部長は、これが任意提出を受けて、領置した。

右一五三五九号発破器の発見により、同発破器は三坑向堀坑道に置き忘れられたもので、それが、たまたま発見されたのであり、昭和二七年六月二〇日頃三坑立入で紛失したジユラルミン製のナンバープレートのない発破器とは、関係がないと推測されることとなつた。

第二九、第二露店で発破器が埋没したか

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

昭和二七年二月頃から第二露店の坑内発破係助手をしていた出町幸雄は、昭和二七年八月二八日司法警察員に対し「昭和二七年二月頃、第二露店には発破器が二台あつて、いずれも鳥居式であつた。このうち一台は昭和二七年四月二九日の二番方の時に露店B採炭現場の崩落により埋没した。あと一台は故障のため、修理に六月頃、事務所に持つて行つたところ、この発破器を油谷炭坑より借用し、三坑で紛失した発破器の代品として会社に返納したと鷹田から聞いた。」旨供述していた。

ところが、昭和二八年三月一四日、浜谷博義は司法警察員に対し「三坑で発破器を盗られたが、これが油谷鉱業所から借りたものであつたので、返すのに困り、八月一〇日頃、大興商事事務所で鷹田、福士、佐藤光男、出町幸雄と三好吉光、酒井武が集つて、第二露店に二台あるから内一台返したらよいではないかという話になつた。ところが、出町が『一台しかない。一台なくなつているんだ。』といつた。佐藤光男が盗られたとなると警察がうるさいから坑内で埋つたことにしたらではないかというので皆が、そうしようと相談し合つた。盗られたのでないかと思う。第二露店の坑夫江戸善一も『実は第二露店の発破器もあれは埋つてないんだ。盗られたのではないかなあ。』と洩していた。」旨供述し、第二露店の坑夫藤田長次郎も三月二三日司法巡査に対し「昭和二七年四月中頃から五月一〇日か一一日頃まで露店NO5で働いたが、発破器はあつた。」旨供述した。ちなみに昭和二七年九月二日原寅吉も司法警察員に対し「昭和二七年四月末頃、露店NO5で崩落により発破器が埋つたということは聞いていない。」旨述べていた。

出町幸雄は昭和二八年七月一日に至り、金子副検事に対し「大興商事には同型の鉛色の発破器が三台あつた。私は昭和二七月二月頃から露店の係員をしていたが、私の現場で発破器が失くなつたことはない。現場で崩落埋没したことはないが、私の責任のように感じ、ついありもしないことを云つた。」旨、従前の崩落埋没の供述を訂正変更した。

大興商事の事務職員酒井武も七月三日金子副検事に「発破係員が集つて発破器を坑内で埋没させ失くしたことにしようと話合つたことがある。」旨供述し

昭和二七年三月中頃から第二露店で発破係助手をしていた佐藤光男も、同日同副検事に「第二露天には発破器が二台あつた。いずれもジユラルミン製で提革は、一個は発破母線のようなものを代用していた。五月に入つて一台の発破器は発火の具合が悪く、外記に修理させた。六月中頃、六坑で使用していた発破器が失くなつた。失くなつた発破器の代用として第二露店の二台のうち一台を廻わすようにとの話が出たが、実は第二露店でも一台なくなつて代用にまわすことができず、係員の福士、浜谷、出町、三好、私らが集つて相談し、出町が『自分が一台埋めたことにしておく。』と云い出した。一同そうしようという話になつた。これは嘘で私が第二露店で働いている期間中、崩落によつて発破器がなくなつたことはない。第二露店の発破器が失くなつたことは間違いないが、何時、いかなる時に失くなつたかわからない。」旨供述した。

右各供述によれば、第二露天で発破器が一台崩落により埋没したというのは虚偽で、時期は確定し難いが、三坑で発破器が紛失した時より前の昭和二七年五月一〇日以降、一台の発破器が紛失しているとの捜査結果となつた。

第三〇、第二露店の発破器が、六坑、三坑に転用されることがあつたとの点について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

第二露天の坑内発破係員助手出町幸雄は、昭和二八年七月一日金子副検事に対し「大興商事には同型の鉛色の四角な発破器が三台あり、必要に応じて各現場で使つていた。特に現場を決めて使つていたのではなく、使用済みのうえは事務所に返していた。三台とも色合は警察で見せられたのと同じものであつた。」旨供述した。

六坑、三坑の発破係員福士佐栄太郎は三沢検事に対し「六坑、三坑で使用していた発破器は油谷炭鉱のものであつたが、発火具合が悪かつたため、別の発破器一台を大興商事事務所から持つて来て二、三日間使つたような気もするが、これも具合が悪かつたため、誰かが大興の事務所に返したものと思う。」旨述べ、同年八月七日、金子副検事に対し「三坑、六坑で使つていた一五三五九号発破器が、四月末頃から発火の具合が悪く、私の反対番の係員の誰かが大興の事務所から一台の発破器を持つて来て使つた。私も現に六坑捲上機室で二台あつたのを見ており、その持つて来た一台を使つたことがある。三坑、六坑では二台の発破器を使つたことがあり、捲上機室にはまた一台しかなかつたので、誰かが一台を大興の事務所に返したのだと思う。」旨述べ、岩城定男は昭和二七年八月三日司法巡査に対し「発破器は五月中頃には捲小屋に二台あり、一台は破損して使用不能であつた。」旨述べ、昭和二八年四月二二日、三沢検事に対し「昭和二七年五月頃までは二台の発破器が六坑捲上機室にあつたが、うち一台は始ど使うことができず、六月初頃には係員が何処かへ持ち運んだ。」旨述べた。

本件鉄道爆破事件の起訴後の同年一一月二七日、梅里邵兵は、司法警察員に対し「三坑、六坑では、古いジユラルミン製の発破器とジユラルミン製でなく真鋳にメツキした発破器の二台を使つたことがあり、自分が六月一二、三日頃辞めるころ、古いジユラルミン製発破器が六坑捲上機室に置いてあつた。」旨供述した。

以上により第二露店の発破器一台が六坑、三坑に転用されていたとの資料が集められた。

第三一、三坑で紛失した発破器は証第二一号の発破器であるとの点について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

遺留品の証第二一号発破器は、ジユラルミン製で提革の止め金が鋲式になつているほか、ナンバープレートが剥離していることが特長であつた。昭和二七年二月一一日から同年三月末頃まで、僅か一ヶ月足らず石狩土建の係員助手をしていた北崎道夫は、金子副検事に対し昭和二八年七月三一日「石狩土建にいたとき、発破器は四台見ている。一台は事務所に置いてあつて修理しなければ、使えないもので、私も珍しいのでよく手にして発火試験をしたが、ナンバープレートがなく、吊手もなく蓋がグラグラしていて、発破子線で上下にしばつてあつた。他の三台より大型で吊手を丸鋲で止めるようになつていた。蓋の部分のネジ釘が片方無くグラグラしていた。外記重弘が修理したが直らなかつたということであつた。前に芦別警察署でも見せられたが、証第二一号の発破器は、私が申上げている発破器に間違いないと確信をもつている。」旨供述した。

金子副検事が右供述を得るより約一週間前の七月二三日、三坑向堀の先山であつた中村誠は司法警察員に対し

「岩城定男が現場で腹痛みして騒いだ六月二〇日の直前、私が発破器をかけ終つてから坑外へ発破器と発破母線を持つて行つて、六坑捲上機室横で井尻正夫がダイナマイトに雷管を仕込んでいたところで、私が発破器と母線を渡した。私が、このとき「この間の平岸の仕事はどうなつたか。」と聞いたところ、井尻は「まだはつきり決つていないが、はつきりすれば、これが必要だから。」といつて井尻は発破器を手にとり、「これを持つて行く。」といつた記憶がある。それ以来、発破器がなくなつてしまつたので騒ぎ出した。私は井尻が持つて行ったことは知っていたが、誰にも話さなかつた。」旨供述した。

藤谷一久は刑事訴訟法第二二七条による裁判官の証人尋問を受け、同年八月一三日、証人として「失くなつた発破器は形は四角であり、古い提革がついていて、提革は革には穴があいていてボタンで止めるようなやり方であつた。鉤にはなつていなかつた。アルミのような、つやのない色で鈍い余り光のないような状態であつた。一番上の方に製作所の名前か、または番号でもついてあつたらしく、はげたような跡があつた。」旨証言した。

中村誠は、同年九月一〇日、金子副検事に対し、

「私が井尻に発破器を渡したのは六月一六、一七日ごろと記憶する。朝から井尻に発破がすんだら貸してくれと言われていた。午前一一時近く井尻が六坑捲座前でタマ作りしているところで発破器等を渡した。その時、私が「平岸の仕事はどうなつたか。」と聞いたら 井尻は「まだはつきり決つていない。若し決つたらこれが必要だ。」と言つて私から受取つた発破器を示した井尻はこれを現場に持つて行つた。一休みして仕事に入ろうとしたところ、井尻も上つて来たが、発破器や母線は持つておらなかつた。いつも一諸に帰るが、その日は一諸に帰つた記憶はない。発破器はこの頃から見えなくなった。大興商事としては一台もなくなつたので、福士が札幌から一台買つて来るまで、キヤツプランプで発破をあけていた。

その発破器は鳥居式でジユラルミンの古ぼけたようなもので、ナンバープレートが剥離されていた。プレートのない発破器であつたことは、現場でドリルが無くなつたとき、ドリル、ピツク等に番号が入つていたところから捲小屋の板壁に、それらの番号を書き込んだが、その時、発破器の番号も書込んで置こうと思つて発破器を見たところ、ナンバーが剥離されていることに気付いた。また発火の具合が悪く捲の運転手梅里某が分解して見たことがある。私も見たがコイルが両端にあつて黒光りしており、コイルの中間に茶褐色の裸線が黒光りしているのが見えておつた。福士係員がコイルがしけつているのではないかといつてストーブで乾かしていた。お示しの証第二一号の発破器は私が捲座で昨年六月過ぎ頃井尻に渡したものに間違いないと思われるぐらいである。この発破器は底部に真中に円く引こんでいるが、私等の扱つていた発破器も、そのように底部が引こんでいたことを思い出した。違うところは発破子線が巻いてなく提革がこれより少し狭く、こんなゴツゴツした感じの革ではなかつた。この発破器を井尻にやつたと確信を持つて申上げられる。」旨供述し、同月一四日、裁判官の証人尋問を受け、証人として

「今年の春頃上芦別の部長派出所で高松巡査部長と中森巡査がちよつと見せたいものがあるから来てくれと言われて別の発破器を見せられたことがあつた。「これではないか。」と確められた。その発破器はナンバーペレートがついており、プレートは堀込みになつていて製作所名、能力、何発がけ、ナンバーの算用数字が入つていた。その底に丸型の窪んだ印がついていた。直径一寸位の円型が二つ横に並んで中央につけられてあつた。しかし私達が使用していた発破器の底には、その円より小さい直径七、八分位の円型が三つ程、重つてはつきりつけられておつたのを記憶している。発破器の特長は昭和二七年八月頃札幌方面隊の警察官にも申し上げたところであつて間違いない。お示しの発破器は六月一六、七日ごろ井尻に渡した発破器に間違いない。」旨証言したほか、前記金子副検事に対する供述と同趣旨の供述をした。

前に掲記した三坑で先山をして度々発破器を使用したことのある岩城雪春の供述、僅か一ヶ月足らずではあるが、発破器が珍しく発電実験をしたという北崎道夫の供述、三坑向堀の先山で屡々発破器を使用したことのある中村誠の供述、先山ではないが発破器を扱つたことのある藤谷一久の供述によつて、大興商事にジユラルミン製で提革の止め金が鋲(ボタン)式で、ナンバープレートの剥離された顕著な特長を有する発破器である証第二一号が存在し、それが六坑、三坑で使用されていたとの捜査結果となつたわけである。

第三二、井尻正夫が三坑現場で発破器を窃取したとの点について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

井尻正夫は、同年八月二五日館耕治警部補に対し「発破器は平岸の作業に必要と考えて持つて帰つた。発破器を持つて来たのは、昨年六月二一、二日頃の午後二時半頃である。私は自分の現場を引揚げて三坑に行つた。そのとき藤谷らは、三坑現場の奥の方で何かしておつたようであり、発破器は、そこの火薬置場の所にあつたが、そのときは誰も、その付近に見ている者もなかつたので、私は自分の持つておつたスツコに、その発破器を入れて、そのままそこを出て捲場(捲上機小屋)まで来て皆を待つて一諸に帰つたが、途中で何時もと同じようにスツコに石炭を入れて帰つた。自分の現場から直すぐ持つて来るということは後になつて都合が悪いのである。その発破器の図面は書ける。(井尻は、そのとき提革付きで、提革の止め金が鋲(ボタン)式と見える発破器の略図を自ら書いて提出した。)」旨の供述をなした。

第三三、大興商事のすべての発破器の台数とその入手経路についての検討

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

石狩土建が油谷炭鉱で事業を始めた当初から昭和二七年六月二〇日前後に至るまでの石狩土建ないし大興商事の発破器の推移についての各関係人の供述は、つぎのとおりであつた。

昭和二六年六月頃から同年九月五日まで石狩土建の発破係員をしていた阪井亀次は、昭和二八年七月三日金子副検事に対し「第二露店で使用していた発破器は、ジユラルミン製角型一〇発掛のもので、石狩土建常務大野則勝から渡されたものである。その発破器は昭和二六年九月五日、石狩土建を辞めるとき、小松田幸雄に引継いだ。」旨供述した。

昭和二六年八月二五日から翌昭和二七年三月一〇日まで、第二露店発破係員助手をしていた小松田幸雄は、昭和二八年六月二〇日、中田正巡査部長に対し、同年七月四日、金子副検事に対し「石狩土建には発破器が二台あつた。一台は阪井亀次からもらつて来た。他の一台は石狩土建が何処からか手に入れたものである。昭和二七年二月から六坑を油谷炭鉱から下請したが、六坑の分は油谷鉱業所の開発区長京家清蔵から借りて使つていた。この発破器は六坑の係員北崎道夫に引継いだ。第二露天で使つていた二台は鉛色の鈍いジユラルミン製の四角なもので、提革がつき止めは鋲(ボタン)であつた。提革が切れて発破母線で代用していたような記憶もある。露天の一台は発火具合が悪く一台だけ使つていた。証第二一号は私が第二露店で使つていたものと色合、形、大きさ殆ど同じである(証第二一号発破器と一五、三五九号発破器を示している。)。」旨供述した。昭和二七年二月一一日から三月末ごろまで石狩土建係員助手をしていた北崎道夫は、昭和二八年七月三一日、金子副検事に対し二回にわたり、「石狩土建にいたとき発破器は四台見ている。一台は事務所に置いてあつた修理しなければ使えないもので、私もよく手にして発火試験をしたが、ナンバープレートがなく、吊手もなく蓋がグラグラしていて、発破子線で上下にしばつてあつた。他の三台より大型で吊手を丸鋲で止めるようになつていた。蓋の部分のネジ釘が片方無くグラグラしていた。外記重弘が修理したが、直ちなかつたということであつた。押収されている吊革付発破器(証第二一号)は事務所においてあつたものと思われる。色具合がジユラルミンのようでザラザラしており、この発破器に間違いないと確信をもつている。一坑で使つていたのは福士が管理していたが、何処から手に入れたかわからない。油谷鉱業所から借りたと聞いている。第二露店の発破器は小松田が管理していたが、野城所長代理が買つて入手したと聞いている。六坑の発破器は小松田が油谷鉱業所の開発区長京家清蔵から借りたもので、私が引継いだものである。私の手帳の記載によると一五三五九号である。押収されている麻紐付の発破器は各現場で使つていたのに似ている。三台ともそのように小型であつたと思う。私の手帳に一〇〇円一五、七五六と記載されているのが、一坑の発破器と記憶する(証第二一号発破器と一五三五九号発破器を示している。)。」旨供述した。

昭和二六年一一月ごろから昭和二七年二月ごろまで石狩土建株式会社芦別出張所長代理を勤めた野城利春は、昭和二八年八月八日、中田正巡査部長に対し「第二露店で阪井亀次が発破器一台を使つていたが、同人が九月に辞めて本間亀老が責任者になつた。そのころ油谷鉱業所から発破器を返せと催促を受け返すこととし、三井芦別炭鉱の川辺久太郎に頼んで、昭和二六年一一月六日、二台都合してもらつた。油谷鉱業所から借りた発破器はおそらく返したはずである。」旨、供述した。

川辺久太郎は、同日「野城に昭和二六年一〇月頃、発破器がなくて困つているが、一台でも二台でも都合してほしいと言われ、三井芦別鉱業所の発破器修理をしている山家広七に頼んで、二台の発破器を世話してやつた。」旨供述し、山家広七は同年八月九日「昭和二六年一〇月か一一月頃、川辺久太郎に廃品の発破器を色々組合わせて二台渡した。先に渡した発破器はジユラルミンで後程、警察から返して貰つた。二回目に渡したのは銅製のケースであり、メーカーもナンバーもあつた。」旨供述した。

昭和二六年八月頃、石狩土建に入り、後に発破係員助手になつた浜谷博義は、昭和二八年七月一六日、金田検事に対し「昭和二六年頃までジユラルミン製で提革がなく発破子線で提げるようにした発破器が一台あつた。同年一二月に一台発破器がふえて二台になつた。いずれも露店で使用していた。

後からふえた分もジユラルミン製で新しく、革の提革がついていて、止めることは、ボタンのような型であった。後から、ふえた分は福士が買つて来たような気がする、実際はわからない。

昭和二七年四月頃、露店では発破器が一台しかないということで、私が購入依頼したが、購入したかどうかわからない。

同年六月頃、発破器が一台故障で修理するため事務所に一ヶ月半ぐらい置いてあつたのを見ている。その発破器を紛失した発破器の代りとして油谷鉱業所に渡したと聞いている。昭和二六年一二月頃、福士が発破器を買うのだといつて、発破器を持つて来たことがある。どんな発破器だつたかわからないが、小松田も知つている。福士は品物をいろいろ買う仲介をしていた。油谷鉱業所の係員で佐々木という若い男からオーガーという器具を大興商事が買うのを斡旋したこともある。三坑と六坑でかけ持ちで使つていた一台の発破器は露天のと同じ大きさのものでアルミニユームでできており、提革がつき止めることは、ボタンのようになつており鉤になつているものではなかつた。」と供述した。

昭和二六年九月末か一〇月に石狩土建に係員として入社した福士佐栄太郎は、昭和二八年八月七日、金子副検事に対し「昭和二六年一一月中旬、二の沢、三の沢に発破器が一台あった。これは野城所長代理が買入れたものである。同年一二月末頃、第二露店に一台あつた。これも野城所長代理が買入れ、阪井亀次から小松田が引継いだものである。昭和二七年一月に一坑、五坑で発破器が一台あったが、本間亀老が油谷鉱業所から借用証を入れて借りたものである。(福士の昭和二七年九月一日付司法警察員に対する供述調書―乙第二九四号証―によれば、これは昭和二七年三月頃返還された。)昭和二七年三月初頃、六坑を請負つたとき油谷鉱業所から一台借用した。これが一五三五九号である。一五三五九号は警察で見せられた。これは真鋳であるが、二の沢、三の沢で使用した分と第二露店で使用した分はジユラルミンの古ぼけたようなものである。」旨供述した。

以上の各供述によれば、石狩土建では昭和二六年九月以前に油谷炭鉱から発破器一台を借り受け第二露店で使用していたこと、油谷炭鉱からその返還を求められ、野城利春が川辺久太郎を通じて山家広七から同年一一月頃、発破器二台を入手し、先の発破器を油谷炭鉱に返納したこと、山家から入手した発破器は一台はジユラルミン製ケース、一台は銅製テースであつたこと、また、昭和二六年一二月から昭和二七年三月頃まで、一五七五六号発破器を油谷炭鉱から借用して一坑、五坑で使用したこと、昭和二七年三月初頃、三坑、六坑の作業を始め、その際、一五三五九号発破器を油谷炭鉱から借用したこと、一五三五九号発破器の行方が不明となつたとき、第二露天の一台である九三三〇号発破器を油谷炭鉱にその代りとして返還したことを認め得る資料が蒐集されたわけである。

ところで、本件遺留品の発破器(証第二一号)が第二露天にあり、後に六坑、三坑で使用されていたことは、右小松田の供述および従前の捜査の結果にあらわれている。そして山家から出た発破器は右の九三三〇号(原審証人中田正の証言によれば、四桁の番号はジユラルミン製であることが明らかである。)と銅製ケースのものである。しかして本件発破器はジユラルミン製のものであるから、山家から出たものとは異るわけである。また、山家から出たとみられる銅製ケースの発破器が大興商事に存在していないことも捜査の結果から明らかである。

この銅製ケースの発破器と、本件遺留品の発破器(証第二一号)とが、何時しか取り替えられたものと推測するほかない。そしてその間の事情を明らかにする資料は見出せず、結局本件発破器の入手経路は不明のままとなつた。

第三四、証第二一号発破器と八七五〇号発破器との推定の関係

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

本件鉄道爆破事件発生直後の捜査の初期において、遺留品の発破器である証第二一号は油谷鉱業所が所有していた八七五〇号発破器であると推定され、八七五〇号発破器は猿山洋一によつて窃取されたこと、それが高橋鉄男に売却されて同人の手に渡つたこと、高橋からさらに亜東組に売却されたこと(もつとも警察官らは亜東組に売却されたか否かはわからないという。)までは追跡されたが、その後の行方はわからなかつた。

遺留品の発破器証第二一号発破器が、八七五〇号であるとの推定にたてば、高橋鉄男、あるいは亜東組から、如何なる経路によつて、何時、石狩土建または大興商事に流入したかについては、明らかにならなかつたわけである。すなわち、もと油谷鉱業所のものであつた八七五〇号発破器が石狩土建または、その後身である大興商事に入手されたとの資料は出て来なかつた。

しかし、また、本件発破器の入手経路も不明であつたから、本件発破器が八七五〇号発破器である可能性が全くないとみることもできなかつた。このため本件証第二一号発破器が八七五〇号発破器であるとの推定が覆えされる捜査結果にはならなかつた。

第三五、発破器に関する中村誠の供述について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

中村誠は、一五三五九号の発破器が発見された直後の昭和二八年五月二五日、金子副検事に対し「大興の現場で使つていた発破器は、提げ革の止め金が外側に向いて鉤型のもので、福士が分解修理しようとし、鋲(横のもくねじ)を外すのに釘をつぶしてドライバー代りとし開けたとのことで、無理して鋲をいじつたようだから、鋲の部分が相当痛んでいるのでないかと思う。一週間ばかり前、中村部長や中田部長らに麻紐のついたメツキのはげた真鋳色の角型の発破器(証第一二九号、一五三五九号発破器と思われる。)を見せられたが、あの位の大きさのものであつた。あの発破器はずい分古いように思われたが、全般の感じはあのようなものであつた。私は五月の中頃から六月の初頃までの間に二、三回より使わない。」旨供述し、同人が検察官に対し昭和二八年九月一〇日なした供述および同月一四日裁判官の証人尋問に対して証言した三坑、六坑で使用していた発破器は、ナンバープレートがなく、ジユラルミン製で提革の止め金が鋲(ボタン)式であつた旨の供述とは、明らかに矛盾抵触するようにみえる。

しかし、中村は、五月の中頃から六月の初頃までの間に二、三回しか使わなかつたというのであつて、中村がその後同年七月一七日および七月二三日、藤田良美巡査部長に対して、証第二一号の発破器を井尻に渡したというのは「六月一五、六日頃」または「岩城定男が現場で腹痛みして騒いだ六月二〇日の直前頃」というのであり、いずれも六月中旬頃のことであつたと供述しているのであるから、同一の発破器について述べたものではないと解せられるわけである。

しかも、岩城定男は、検察官に対し昭和二八年六月一四日「六坑捲上機室には発破器が二台あつた。」旨、出町幸雄は検察官に対し同年七月一日「大興商事には同型の鉛色の四角な発破器が三台あり、必要に応じて各現場で使つていて、特に決めて使つていたのではない。」旨、梅里邵兵は司法警察員に対し同年一一月二七日「三坑、六坑では、古いジユラルミン製の発破器と真鋳にメツキした発破器の二台を使つたことがあり、自分が昭和二七年六月一二、三日頃辞めるころ、古いジユラルミン製発破器が、六坑捲上機室に置いてあつた。」旨供述しているのであつて、昭和二七年五月中頃から六月初頃までの間、六坑捲上機室には、一五三五九号発破器とジユラルミン製提革の止め金が鋲式の発破器が、置いてあつたことがあり、これが六坑、三坑で同時に、また交互に使用されていたこともあることが窺知されたのであるから、中村誠が、一五三五九号発破器をも三坑で使用したことも十分あり得ることであり、昭和二八年五月二五日になした供述も記憶のまま述べたのであり、これと抵触するかにみえる同年九月一〇日以降の供述も記憶のまま真実を述べたもので、そこには何らの矛盾はないとみられる資料が存しているわけである。

第三六、井尻正夫の昭和二七年七月二九日夜のアリバイについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

一、井尻正夫は、昭和二八年五月一一日、好田政一副検事に対して「昭和二七年七月二九日夕方から油谷会館に映画“豪傑三人男”を見に行つた。油谷会館には、妻光子と子供が行つており、石塚守男、藤谷一久、福田米吉も行つていた。映画を観て午後八時半頃、石塚らと一諸に帰つた。」旨、本件鉄道爆破事件当夜のアリバイを主張する供述をなし、以来終始、この主張を変えなかつた。

そうして、井尻の妻光子も、同年四月二三日、金子誠二副検事に対し「七月の終り頃、油谷会館で映画“地獄の門”を見るため、午後六時頃から席を前取りに行き、後から藤谷、石塚等が来て一諸に“地獄の門”を見た。会館の中で築別の後藤忠助夫婦に会つた。」旨供述している。

なお油谷会館で「地獄の門」が上映されたのは、油谷鉱業所の厚生係永田松太郎の答申書には、昭和二七年七月二九日午後〇時半から一九時までであつたとの記載がある。

石塚守男、藤谷一久は、それぞれ前記同人らの各供述の項で見たように「七月二九日の夜、井尻正夫と一諸に“地獄の門”を見たことはない。」旨供述している。(当初「七月二九日夕方から井尻夫婦とその子供二人、石塚、福田と油谷会館で“地獄の門”を見て午後八時半頃、飯場に帰つて来た。」旨供述していた藤谷は後に、供述をあらため「地獄の門を見たのは上芦の親戚の劇場で当麻に働きに行く前であつた。油谷会館では見ていない。」と供述し、上芦別で劇場を経営している前田米蔵は右供述に符合するように、昭和二八年七月二二日、検察官に対し「藤谷とは親戚である。上芦別映画劇場で“地獄の門”が上映されたのは、昭和二七年九月三日、四日と、一一月二〇日、二一日であつた。」また、はじめは油谷会館で“地獄の門”を藤谷と井尻光子と子供と一諸に見た。」旨供述していた石塚も、昭和二八年一〇月二七日、検察官に対し「藤谷と一諸に映画に行つたのは、油谷で一回だけだと思うが、七月二九日は、藤谷は映画に行かないような気もする。」旨記憶がさだかでないと供述を変更している。)

井尻正夫が一諸に行つたという福田米吉は、昭和二八年三月二七日司法警察員に、同年七月二二日検察官に対し「井尻や藤谷と映画に行つたことはない。先に行つて席をとつてやつたこともない。“地獄の門”は券をくれなかつたので行かなかつた。油谷会館で映画を見るとき井尻正夫と一諸になつたことは一度もない。井尻の奥さんと一度、会館で一諸になつたとき、子供からキヤンデー一本もらつて食べたことがあるが、この時は二階で奥さんの隣に夏井、徳田が椅子に坐つていた記憶がある。」旨、

井尻光子が油谷会館内であつたという後藤忠助は、同年四月二四日および、同年六月四日、いずれも検察官に対し「油谷会館に“地獄の門”を見に行つたことがある。正午から午後二時ごろまであつた。会館前で井尻正夫ともう一人の男に会つた。井尻は『お前は二番方か。』と言つたので、私は『そうだ。』と答えた。家内と一諸だつたか、家内の妹信子と一諸だつたか、はつきり記憶がない。井尻は昼間見かけたことはあるが、夜、会館に来ていたのを見たことはない。」旨

伊藤信子(右後藤忠助の妻の妹)は、同年五月二〇日司法巡査に、同年六月二日検察官に対し「昭和二七年七月か八月ごろ、昼間の一二時頃から油谷会館に子供を連れて映画を見に行つたことがある。会館の中で井尻正夫、藤谷一久が映画を見ていた。そのとき井尻は上半身裸で手拭を首にかけていた。井尻の男の子もいたが、見ていた場所は階下中央の席であつた。昼間であつて夜でないことは間違いない。」旨

村上忠吉(井尻飯場の寄宿者)は、同年六月五日検察官に対し「井尻の姐さん、井尻正夫、夏井茂夫、井尻の子供二人と油谷会館に映画を見に行つたことが一回ある。しかしそれは昼間であつたことを覚えている。」旨

佐藤光男(大興商事の係員助手)は、同年七月一五日、検察官に対し「私は“地獄の門”という映画を晩に見た。油谷会館の二階で見たが、付近には井尻正夫はいなかつた。」旨、

本件鉄道爆破事件の起訴後ではあるが田中武雄(大興商事の坑夫)は同年一〇月二日および同年一一月二五日いずれも検察官に対し「七月二九日の晩、油谷会館に“地獄の門”を見に行つた。そのとき井尻正夫や藤谷一久、石塚守男、井尻の奥さんに会つたことはない。“地獄の門”は二階の映写室の前あたりで見た。」旨

山本実(大興商事の坑夫)も、同年一〇月一七日および同年一一月二五日いずれも検察官に対し「“地獄の門”とという映画を見に行つたことがある。神田玉蔵、田中武雄外数名で油谷会館の二階で見たが、井尻正夫と会つていない。その晩、会館で原寅吉とも出会つた記憶はない。」旨

それぞれ供述した。

右のように、井尻正夫や妻光子が一諸に映画“地獄の門”を見たという人、井尻正夫を、かねて見知つている人の誰一人として、本件鉄道爆破の当夜である七月二九日の夜、油谷会館で井尻正夫を見かけたという者はなかつた。もつとも、岩城定男は昭和二八年六月二七日、検察官に対し「七月二九日は事務所に兄雪春と米をもらいに寄り、仲々ひまどられ、午後六時の汽車で帰つた。井尻正夫が五時頃、石塚と二人で丸勝の事務所と労組の間の道路を油谷会館の方へ歩いて行く後姿を見た。米をもらつていた時、姉の光子(井尻光子)が藤谷の子供を連れて来て、雪春兄に連れて帰つてくれと言つた。」旨、井尻正夫と石塚が、油谷会館に映画を見に言つたことを推測させるような供述をしているが 岩城定男は井尻正夫のその後の行動を見届けているというのではないし、自ら油谷会館で映画を見たといつているわけでもないから、前掲の各供述と抵触する供述をしているとも認められない。

以上により、井尻正夫が主張する本件鉄道爆破事件の当夜、井尻が油谷会館で映画“地獄の門”を見ていたとのアリバイは成立しないとの捜査結果となつた。

二、また、岩城雪春は昭和二八年七月八日検察官に対し「昭和二七年七月下旬、中村誠が下痢で休んで出て来た日の朝の汽車で井尻正夫と一諸になつたことがある。正夫は紺の平ズボン、進駐軍の国防色の上衣を着て、地下足袋を履いていた。正夫は、その前の日の夕方、六時の汽車で油谷から上芦別(三菱芦別駅)に下つた。大橋組の佐藤さんと車の中で一杯気嫌で話し合つていたのを記憶している。上芦で下りて爺(岩城雪春の父で、井尻正夫の岳父)の家の前まで行つたが、自分は家内のやつているマーケツトに行つたので、その後のことは知らない。」旨供述した。

岩城定男も、すでに同年六月二七日、検察官に対し「七月三〇日か三一日か、兎に角、中村誠が下痢で休んで出勤した朝、井尻正夫と一諸になつた。正夫は朝六時二分の汽車で芦別から上芦の爺さんの処へ来た。正夫はそのとき、『酔払つて芦別の駅のコンクリートの上に寝ていたら巡査に起されて、駅の椅子に寝れと言われて寝て来た。』と言つていた。正夫は紺色のニツカーズボン、縦縞のダブルの背広上衣を着ていた。靴は村上忠吉のチヨコ色短靴であつた。中村が休んだ次の日であることは間違いない。」旨供述していた。そうして中村誠は翌二八日、検察官に対し「油谷炭鉱の稼働伝票にもとずく工数薄の記載によると七月二九日は、私は休んだことになつている由であるが、兎に角、七月末近い日下痢で一日休んだことは間違いない。」旨供述した。

米森順治も同年七月一六日、検察官に対し「千代ノ山一行が来た後、朝の汽車で井尻と一諸になつたことがある。私が『何処へ行つて来たの。』と言つたら、井尻は『岩城』とか『明鉱』とか言つていたような気がする。ペンケ駅(油谷)についてから、事務所の方へ行く途中で、井尻は『飯を食つて行くから。』と言つて私達と別れて飯場の方へ行つた。井尻は上衣は着ずシヤツを着ていたような気がする。」旨供述した。(ちなみに、清原肇作成の答申書によれば、明治上芦別炭鉱で千代ノ山一行の相撲興行があつたのは七月二六日である。)藤谷一久も同年六月二一日検察官に対し「七月末頃、朝一番の三菱鉄道で油谷に上つたが組の者が乗る貨車に乗つたところ、井尻は普段の服装で両前の紺の縦縞の上衣、黒ズボンをはいて座る場所がなく誠のスツコに腰掛けていた。『どうしたんだ。』と言葉をかけたら『芦別で、飲んで油谷へ行く便もなくなつたんで駅長しようと思つたんだが、上芦まで歩いて来た。そして隠居の所へ泊つた。』と言つた。トンネルに入つたとき井尻はハンケチで口をふさいでいた。その時は貨車の隅つこの方に腰掛けていた。私と雪春は事務所へ行つたが、井尻はそのまま飯場に行つたと思う。」旨供述した。

また中村誠は、本件鉄道爆破事件起訴後ではあるが、昭和二八年一〇月三日、検察官に対し「七月二八日は腹が痛くなり、仕事の終る午後三時近くまで三坑入口の休憩所で休んでいた。その翌日は腹が痛かつたので仕事に行かずに休んだような気がする。七月三〇日午前六時二〇分前頃、岩城辰男方へ行つたところ、井尻と岩城定男が表に出ていた。一緒に有蓋貨車に乗つて油谷に行つたがその車には私、井尻正夫、岩城雪春、藤谷一久、岩城定男、米森順治、それから外記も一緒であつた。井尻は紺色縦縞ダブル上衣、黒半ズボン、靴は茶色か黒色ズツクであつた。私はスツコを出して『これを敷けや。』と言つた。トンネル通過のとき井尻はハンカチで口を塞いでいたようなことを思い出す。井尻は油谷駅に下りて『かかあの気嫌とる。』とか言つて聞谷商店で飴玉を買つた。そうして『後から行く。』と言つて飯場に帰つた。井尻は私がまだ事務所にいる間にやつて来た。」旨供述した。

以上により、井尻が七月二九日夕方六時頃の汽車で油谷から上芦別に下り、翌七月三〇日午前六時過ぎの上芦別から油谷へ上る三菱専用鉄道の有蓋貨車に乗つて油谷ペンケ駅に着き、一旦自宅に帰つたとの捜査結果を得た。前段の油谷会館で映画“地獄の門”を見ていたことがないとの捜査結果とともに、井尻は七月二九日夕方から七月三〇日朝まで芦別町付近にいたものと推定できる捜査の結果となつたわけである。もつとも岩城雪春が、前日の夕方六時の汽車で井尻が油谷から上芦別に下る際、車中で井尻と一杯気嫌で話合つていたという佐藤弘は、本件鉄道爆破事件起訴後の昭和二八年一二月六日、司法警察員に対し、「七月下旬ごろペンケ駅(油谷)で井尻正夫が上芦へ行くというのと逢つた記憶はない。井尻と二、三回逢つたことはあると思うが、どのようなとき、どのような話をしたか聞かれても記憶がない。また岩城雪春は知らない。」と供述しているが、井尻と逢つたことを全然否定するわけではないし、一杯気嫌であつたとすれば、一年数ヶ月も経てば、忘れることもあり得るから、岩城雪春供述を否定する資料とはみられない。

三、井尻は、七月三〇日早朝上芦別から油谷に上る際、岩城定男や藤谷一久に、七月二九日夜飲酒して酔いつぶれていたように話したので、七月二九日夜、井尻が芦別市街で飲酒したことがあるか否かについても捜査がなされた。すなわち、

進藤藤雄は昭和二八年九月一七日司法警察員に対し「七月二四、五日頃午後から井尻飯場の友人夏井のところへ行き、井尻正夫と原田文雄兄弟、夏井と私で芦別市街に出て、別々の店で飲んだ。最終バスが行つた後で、停車場前の道路で夏井と会つたので、皆どこへ行つたかと聞いたら停車場に寝ているというので行つてみた。待合室の長椅子に井尻達が横になつて寝ていたので、私も長椅子に横になつて寝た。そして翌朝、皆で一番の午前七時のバスで油谷に帰つた。このとき夏井が上芦別で相撲があるんだと言つていた。」旨供述し、同人は翌一八日検察官にも同旨の供述をしている。

一方、進藤、原田らが飲んだ飲食店の主人野城利治は同年八月二八日司法警察員に対し「原田文雄が友達四、五人と飲みに来たのは七月二四、五日頃で、その二、三日後に鉄道爆破事件があつたことを聞いた。」旨供述した。

芦別事件起訴後の継続捜査によれば、右関係人らから、つぎのような供述が得られた。

進藤藤雄は昭和二八年九月一九日、および二一日検察官に対し「井尻正夫と夏井茂夫、原田文雄兄弟とで芦別市街に飲みに行つたのは、七月二四、五日か、八月とすれば、一七、八日頃である。組の会計(賃金支払)があつて二、三日後だから、そういうことになる。」旨供述し、

原田文雄は同年九月二一日司法警察員に、同年一〇月二日中頃、井尻と芦別市街に飲みに行つた。帰るバスもなくなり、駅の長椅子に横になつて寝てしまつた。井尻は短い浴衣であつたので風が悪いと言つて、尻をまくり上げていた。芦別発一番のバスで井尻と私と夏井と進藤で一緒に油谷に帰つた。行つたのは八月のお盆頃である。弟福治が怪我をしていたとき飲みに行つたと思う。」旨

原田福治(原田文雄の弟)は同月二一日、司法警察員に対し、井尻と芦別市街のマーケツトで酒を飲んだのは八月一七、八日頃である。八月一四日頃、硝子窓で右手を傷した後であるので憶えている。」旨各供述した。

前記の野城利治の妻、野城綾子は同年一〇月一七日検察官に対し「飲食店“喜多八”に原田が三人ぐらいで飲みに来たのは、鉄道爆破があつた一日か二日前であつた。」旨、夫の利治とほぼ同様のことを供述したが、野城綾子の弟で、姉のところに遊びに来ていて店の手伝いをしていたという長谷川留男は、同月二三日、司法警察員に対し「大和田炭鉱のお盆休が八月一四日から一六日まで三日間あつたので留萠から芦別の義兄野城利治のところへ遊びに来て、八月一九日か二〇日頃までいた。帰る一日前の晩四人連れの客が兄の店に来て飲んだ。油谷の人らしく「原田、原田」と呼んでいた。」旨供述した。

これらの供述によれば、井尻が原田文雄や夏井茂夫、進藤藤雄らと芦別市街へ飲みに行つたのは八月一七、八日であつたかも知れない。

井尻が七月二九日夜、芦別市街で飲酒したものでないとの捜査結果となつた。なお、井尻正夫の知人平山隆も昭和二八年一二月二五日司法警察員に対し、「昭和二七年七月末頃石炭の話で井尻正夫と酒を飲んだことは全くない。安い石炭で一儲けしないかという話があつたのは昭和二六年の秋のことである。」旨供述した。

四、以上のとおり、本件鉄道爆破事件の発生した昭和二七年七月二九日の夜、井尻正夫は上芦別に下つて油谷にはいなかつたし、芦別市街で飲酒していた事実もなく、七月三〇日朝油谷にもどつたとの捜査結果になり、アリバイは成立しないということになる。

第三七、地主照の昭和二七年七月二九日夜のアリバイについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

地主照は、昭和二八年五月二七日、検察官に対し「昭和二七年七月二九日は阿部兼三郎のところにいたと思う。」旨供述し、同年九月一日、検察官に対し「昭和二七年七月二〇日頃は西芦の阿部兼三郎のところにいた。七月末頃も阿部のところにいた。また上芦の新井の処にも行つていた。住所は阿部兼三郎の処にしていた。七月末、小樽の母親の処へは行つていないであろう。」旨、本件鉄道爆破事件当日のアリバイを主張する供述をした。ところが、阿部兼三郎は同年六月一九日、検察官に対し「地主は昭和二七年七月二九日の二、三日前から私方に姿を見せなかつた。」旨供述し、同年七月一六日、司法警察員に対し「地主が七月二九日の晩、私宅に泊つていないことは、はつきりしている。」旨、供述し、同年七月三〇日、司法警察員に対し「七月二九日の夜、及川と野田と私と三人で映画を見に行つたが、及川は途中で出て行つてしまい、私と野田が映画を観て帰つて休んでから、及川が再び私方に来て鉄道爆破事件のことを知らせた。早く党の人に知らせたらよいと考えたので、わざわざ来たのではないかと考えている。当夜、地主は私の処にいなかつた。」旨、供述している。

一方、地主供述の新井とは、目時政雄であるところ、同人は、昭和二八年六月一四日、検察官に対し「地主は、雄武から、ひよつこり帰つて一泊して奈井江に行くと言つて翌朝出て行つたことがある。地主は七月三〇日にも来た。そうして八月七、八日頃まで泊つていた。」旨供述している。しかし目時も地主が七月二九日夜、同人方にいたとは供述しないのである。

地主照の母地主ヨネは同年六月一七日司法警察員に対し「照が子供を連れて帰つたことがあるが、お盆前であつたか、お盆過ぎであつたかははつきりわからない。照はいつも月末にばかり来る。照が来たのは、お盆前のような気がするから七月末だと思うが、日は何日かわからない。」旨供述している。

以上により昭和二七年七月二九日夜の地主照の所在は不明に帰し、地主が同夜芦別町付近にはなかつたとの資料はなく、アリバイは成立しないとの捜査結果となつた。

第三八、井尻正夫の供述について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

井尻正夫は、昭和二八年三月二九日、「地主照と共謀の上、昭和二七年七月頃、芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所附近に、当時あつた大興商事株式会社第二寮(井尻飯場)等において火薬類である新白梅印ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本位を所持した。」との火薬類取締法違反罪の容疑で逮捕された(この点当事者間に争いがない。)が、右事実については供述拒否または否認のまま、同年四月一八日、同罪により起訴された(起訴されたことは、当事者間に争いがない。)。ところで、井尻は四月二〇日にいたり検察官好田政一副検事に対し、

「第二飯場の右側の部屋は一二畳であつたが、昭和二七年六月中頃二つに仕切り家族持ちを入れるようにベニヤ板を境に作り変えた。

私の部屋の炊事場の方に向つて板壁の下の土間から三尺位の高さの処に硝子美濃板位の大きさの窓が設けてあり、弁当を載せる位の棚が出ている。ガラスがこわれて昼間はガラス戸なしのままにしておいた。隣の六畳に石塚、夏井茂夫、村上忠吉、高橋某が寝泊りしていた。

私の飯場に最初から終りまでいたのは徳田敏明、葛西弘、克二兄弟で、井尻昇は三月末から七月頃までいた。石塚は六月初頃来て八月一〇日馘になるまでいた。

地主は明鉱で働いていたときから懇意にしている人で五月から七月頃にかけて六、七回訪ねて来た。大須田は五月頃と六月頃一回づつ二回たずねて来た。

昭和二七年六月頃岩城定男が腹痛を起したころの昼頃、地主が子供を連れ、その外に、二二、三才位の五尺一寸位の中肉で硬い髪の毛で油気ない毛を七・三に分けている男が私を訪ねて来た。そうして一時間程話して帰つた。」旨、

一部、石塚守男の供述に符号する供述をはじめた。

四月三〇日、同副検事に対し、

「昭和二〇年二月現役兵として入営し、満州へ派遣され、工兵教育を受け橋梁爆破、水中爆破、鉄道爆破作業の要領を教えられた。

昭和二七年六月二〇日、定男が腹痛を起したとき会社で金を借り、定男方へ後から金を持つて行つたとき三菱鉄道ペンケ駅で、一日か二日前、地主と一緒に来たことのある野田に出会つた。

六月一八、九日頃原田鐘悦が六坑捲上機室の付近で、『姐さんが用事があるから早く帰つて来いと言つている。』と伝えた。帰つてみると大須田が来ていた。そのうち地主が野田を連れて私のところをたずねて来た。

地主と野田は、私の部屋と隣の石塚の部屋の境のベニヤ板を背にして並んで座つたように思う。私は地主の真向に座つた。地主が油谷の現場について質問したので、私が、「坑夫たちに自由発破をかけさせている。危い火薬の取扱いが非常にだらしない。」というような話をした。さらに平岸の工場の解体問題の話も出て大須田だつたか地主だつたか『今、口をかけているのだ。』と言うので、「その作業に火薬を使つてやるのか。」と尋ねたところ、『煙筒を倒すのに火薬を使つてやれば、はかどるのだが、付近に高圧線が通つていて具合が悪いのだ。』と話していた。」旨

石塚供述と、ひにちは異るが、六月一八、九日頃、原田鐘悦が、迎えに来て、帰宅してみたら、大須田が来ており、後から地主と野田が来た旨の供述をした。

しかし、同年五月一一日、同副検事に対し

「七月二九日は一番方で三坑立入に入坑した。帰つて私一人で第一飯場に行き三〇分位雑談して事務所に立寄り鷹田と三〇分位話をして油谷会館に映画を見に行つた。二階は座るところがなく階下を見ると妻光子と子供が座つているのを見つけて、腰掛をゆずつてもらつて妻の右側に腰をかけた。左側には石塚、福田がいた。映画は多分「豪傑三人男」という題であつた。午後八時半頃石塚等と一緒に帰つた。

石塚は六月に入つてからは毎日のように飯場へ遊びに来ていた。夕食後、大部屋で花札をしたことがある。」旨

本件鉄道爆破事件当夜は、油谷にいて、映画を見たとアリバイがあるとの供述をした。

高木一検事は右のように井尻正夫を取調べた好田政一副検事(原審における控訴人高木一の供述によれば志村副検事とあるが、志村副検事が調べたのは、昭和二八年九月以降であつて、好田副検事の誤りと認める。)から、井尻が否定しているので、次席検事も自ら当つてみて欲しいとの依頼を受けた。高木検事は井尻を取調べる前には従前の同人の供述調書は全然見なかつた。(事実この段階では井尻の供述調書は、殆んどなかつた。)ので、供述内容については白紙でのぞんだ。しかし、当時本件鉄道爆破事件と殆ど平行して捜査していた、いわゆる白鳥事件の捜査官であつた安倍治夫検事から、同事件の関係人である共産党空知地区役員の追平某が、「井尻正夫が共産党員である。」と言つていた旨聞知していたし、さらに芦別警察署員からも、芦別周辺の党員の名前七、八名ぐらいは聞いていた。当時、前掲のように捜査官らは、石塚の供述から、「鉄道爆破に行くのは、井尻と地主と大須田と若い西芦から来た男、油谷でパン売りしていた山内という男、斉藤という明鉱をパージになつた男、三菱でパージになり大興で働いていた男であるが、石塚も仲間に入らないかと井尻から勧誘を受けた。」旨および「同じメンバーが昭和二七年七月二九日、鉄道爆破の実行行為をした。」旨の供述を得ていたし、藤谷からも「石塚が持つて来た火薬は、地主に渡したと井尻から聞いた。」旨の供述を得ていたところ、これらの共犯者は、いずれも共産党またはその同調者であると考えられていたので、高木検事は当初から犯人の範囲を特定する方法としても、共産党関係ないし背後関係を取調べる必要があると考えた。同年五月二〇日高木検事は、初めて、井尻正夫を取調べた。同検事は、共産党に関し、井尻につぎのような問いを発し、井尻も逐一これに答えた。すなわち

問 君は何時共産党に入つたのか。

答 昭和二五年、二三年とに角、築別からこちらに来て明治へ入つてからです。入つたと言つても、はつきり党員に成つたというわけでもなく、党へ出入りする様になつただけです。

問 入党手続は。

答 入党申込み書やなんかは出ていません。

問 党費は。

答 党費と言つて納めたことはありません。カンパしただけです。米をやつたこともあります。

問 追平知つているか。

答 知らんです。

問 衣川の前の男さ。

答 知らんです。どういう名前で来ているか判らないしさ。衣川のことだつて野田だと言つていたんで、衣川と聞かされても判らなかつたんだ。野田というのも写真見せてもらつて判つたんです。

問 とに角、衣川の前の男さ。

答 あの人の前は大橋さんです。背の小さい五尺あるかなあと思う位の人で頬のこけた人です。ああ「オツペエ」と言う人は知つております。

問 その人だよ。

答 あの人ならカンパの金やつたこともあります。昭和二五年頃この芦別地区委員会へ来ておりました。竹原勇さんの所におつたのです。

問 その人が君のことを党員だと言つてるよ。

答 しかし、どうも書いたことがないなあ―。地主から入党申込書を書けとか決意を書けとか言われたことは覚えているが、書いたかなあ―。斉藤正夫や外記弘等と一緒に党に入つたんだけど、ああ決意は書いたです。地主に教えられて労働者の何とかと書きました。それは入党申込書の中に、そういう決意を書く欄があつて、そこへ書いたんだから、申込書も書いているんですね。ぼくは仮名書けるけど字は余り書けませんので地主に書いてもらつたかも知れません。

問 それは正確には何時か。

答 それは二三年一二月ごろだと思います。

問 そうするとカンパというのは。

答 実は党費です。

問 どうしてそんなカンパとうそを言つたのか。

答 余り判然り党員だと言いたくなかつたからです。

問 君は今、党をどう思つているか。

答 ぼくは裏切り者に成ると言うか脱落者に成ると言うか怪我して後、何も党の仕事はやつておりません。地主にも昨年の九月末ごろ、そのことは言つております。大興の賃金遅配斗争の時にそう言う風に成つたのでそれでぼくは地主等の押かけ要求等に入らず、労働基準局を仲に入れて話をしましたが結局ぼくの方が損をしたのです。

問 現在の党に対する気持は。

答 恨んでおります。やつ等が出入しなければ、こんなことに成らなかつたし、地主等真面目に働きもせず、やつと生活している労働者の所へ来ては飲み食いしたり、泊つたりして党の活動をだしにしてやつているのです。今考えると党の活動するのを嫌さにパチンコやりに行つたり飲みに行つたりして家をあけて連絡出来ないようにして、自然脱党の形にしたいと思つていたのが卑くつでした。そのために、かかあや子供等に迷惑をかけ、かかあからも、こぼされたことがあります。今度出たらはつきり脱党を表明して、はつきりやつて行く積りです。と答えている。

なお、井尻は右問答につづいて「この事件は反共の奴等がやつたと思う。大興商事の所長大野昇が“次郎長”のマダムに出したラブレターの中に「撲等が鉄道爆破事件に関連しているから辞めさせる。」という趣旨のことが書いてあつた。石塚や藤谷のバツクにこう言う大きなもの(大興商事さらには油谷鉱業所)がなつて、石塚や藤谷に撲が、やつたように言わせているのではないだろうかと思う。今日、初めて反共と言うことを言つたのであるが、勿論、後半分は共産党でないかという気もある。あの当時、油谷炭鉱で全面的に斗争が行なわれていたので、党では、ここに力こぶを入れて全体的な拠点を作ろうと頑張つていた傾向があり、野田、地主、阿部等が来て、撲の所へ寄つたり、地主は原寅吉、江戸善一、青木、飛島組を泊り歩いて活動していたので、それ等でないかとも思う。それ等の連中が火薬等を持つて行つたのではないかと思うが、鉄道爆破のことではない。爆発をやつたとすれば、その火薬を利用したという意味だけで全く別のことである。」旨の供述をなしたが、自己が火薬類を所持した事実については、かたくこれを否認していた。

井尻は、同日、機会をあらためて、さらに同検事に対し、「野田や地主が、しよつちゆう出入していたことは、事実である。おれが野田に会つたのは、二回きりだが、おれの留守に五回程来たと、かかあが言つている。地主は、もつと来ている。かかあが仕事場へ原田という事務所のあんちやんを使いによこして、『お客さんが来たから。』と伝え、呼びに寄越した。もう仕事も終つて帰る頃だつたので帰つて見たら、大須田が来ており、間もなく地主が知らない人を連れて来て、『この人は党のオルグだ。』と言つて紹介した。その人から坑内の作業は、どうだと聞かれたので、『坑内は設備が悪くて空気が悪くて困る。爆破作業も自由作業やつて坑夫が誰でもやつており、ダイナマイト等も坑内にほつたらかして行く奴もあつて坑内保安はうまく行つていない。』と話してやつた。旨、同検事に対しても、大須田、地主、野田が、井尻飯場に来たことを認める供述をした。

同検事は翌々五月二二日、井尻を再度取調べている。同検事が調室に入つたところ、井尻は「紙と書くものを貸して下さい。」と申出た。同検事が紙と筆記用具を渡すと、井尻は、その場で脱党届を書いた。そうして「どこ宛に出すんですか。」と聞いたので、同検事は「僕にはわからない。君の所属するところへ出したらいいのではないか。」と答えた。井尻は宛名を札幌地区委員会と書いた。そこで同検事は、つぎのような問いを発し、井尻は、これに対し、逐一、答えて行つた。煩をいとわず、その問答を以下そのまま掲記することとする。

問 脱党届を出してしまつてどんな気持かね。

答 さばさばした気持です、前からそういう気はあつたが意思が弱かつたんです、ふんぎりがついた様な気がします。党の仕事がしたくなくて逃げて歩いていた時に、かかあにも「きちんと断つたら良いんでないの。」と言つて怒られたこともありますが意思が弱くてそれさえ出来なかつたんですが、党のからくりが判つて自分が利用されて使われていたのが感じられたので決心して出てしまつたのです。

問 利用されていたというと。

答 自分が共嗚出来るような人民解放だとか独立だとか、最低賃金制の確立とか言うスローガンで釣つてビラを撤せ、その為に明治ではレツトパージになり、また大興へ来てからも党員が出入りして利用された為に、首になつてしまいその為にぼく等が資本家階級に対する憎しみを深めているのを見て党の連中は、よろこんでいる様な風に見受けられるのです。自分等労働者がその為に、だんだん、ひさんな生活に落ちて行くことを何とも思わずに反つてあふる様な事をするのです。

それで利用されているのだと感じた訳です。

問 平和の美名に隠れて破壊的行動をしていると言うことを脱党届に書いた意味は。

答 平和のスローガンを掲げながら、その実では平和的手段で革命は出来ない、歴史的に言つても流血革明が必要だと言う事を聞かされており、その為に三鷹事件や松川事件の様なことをやつて労働者から犠牲を出させているという事です。

三鷹事件や松川事件の具体的事実は知りませんが党がやつたと思つているのです。

問 それでは今後は党的な色彩を脱いでこの事件に就いてもこだわりなく話すことができるね。

答 ええそうです。

しかし本当に自分には訳の判らない事ばかりです。

問 君自身が関係していると言うことばかりで無く、この事件に関して例えば君の言つた反共関係者のことでも、これと反対に党関係者の事でも君の周囲に起きた事を詳しく話してもらいたいのだ。

答 それはぼくもそう思つております。自分自身がやつた事なら、もう皆さつぱりして話して受けるべき償いは受けて行きたいと思いますが唯覚えのない事なので、どうにも言いようがないのです。今までに知つている事は皆言つた積りですが、自分が二回も三回も会つている藤谷の姉さんでも一回しか来たことはない等と証言して自分の言つた事が通らないのです。

問 それではどうして藤谷や石塚があんなことを言うと思うか。

答 おれが共産党員だからおれ個人に対してでは無く共産党員にかつつければ(背負わせれば)良いと言う考えで調べられた苦しさまぎれに、かつつけたと思います。

問 しかし火薬を君の家まで運んだ事は本当だろう。

答 そう思います。しかし見てないんです。

問 そうすれば無茶無茶に背負わせるだけとも思えないのではないか。

答 それが判らんのです。

問 党員で君の知つている人は。

答 芦別地区委員長は竹原勇さん

その次は大橋さん

その次がオツペさん

その次が田中さん

その次に来たのが野田です。

その外に知つているのは、大須田さん、阿部兼三郎さん、地主照、斉藤正夫、外記弘さん、加賀見

等が上芦や油谷におり前には三菱の地質課にいた鈴木さん(今は九州の方に転任)もいて上芦の地主の家や大須田さんの家での細胞会議に出ていました。油谷には特別の細胞はありませんでした現在はどうか判りません。

その外で知つているのは赤平地区委員会の関係では、委員長の山崎さんの外は油谷の執行委員をやつている佐藤ひろし君

この人は正式に党員に成つているかどうかは知らんです。

東藤さんも最近、上芦メーデー事件や原爆の子等の幻灯を持つて来て大須田さんの家でやつていました。

宮崎という男も油谷の佐藤君の所へ来ておりました。

問 まだあるだろうそらタスキさ

答 ええ矢吹タスキもこの辺におり油谷にも時々来てました。この人は党員です。

問 党の軍事方針て知つているか。

答 聞いていないですね。

問 去年の七月吉田首相が来ると言う話は無かつたか。

答 聞いていません。

問 党の三〇周年記念行事に何かやる話は無かつたか。

答 聞いていません。

党の記念日つて何日ですか。一〇月革命とか言う事は聞いていますけど。

問 爆破事件の後、党で何かビラをまかなかつたか。

答 知りません見た事もないし聞いた事もないです。八月中は油谷にいたからまいていれば判るのですが。

問 西芦では。

答 ああ西芦ではビラをまいたという話は聞いております。ビラの内容は判らないですが。

問 上芦では。

答 聞いていません。

問 爆破事件の前に、君の家を家宅捜索された事はないか。

答 ありません。ただ爆破の事件後ではやられた事がありますが。

問 いや前だよ、そのごたごた問題の最中の事だよ。

答 立会つた事はないです。

問 聞いた事はないか。

答 ああ聞きました。二寮ともやられたと言う事を寮生石川のおやじだつたかなから聞きました。

刀剣だとか火薬だとか捜して行つたと言つてました。

問 その時の事をもつと詳しく思い出してごらん。そしてその前後の事を思い出して他力本願でなく自分の努力で疑をはらす積りにならなければならないよ。

答 これから良く考えてみます。

問 それに七月四日の事もその前後の事を良く思い出しなさいよ。昨日尋ねてみたら五日の日の朝君が一番方へ出てしまつた後にも、その火薬が残つていた事を見た者があるのだから、その点についても君は極めて不利な立にあるから、どうしても今の侭では疑がはれないからね。

答 良く考え出してみます。

問 しかしデツチ上げは困るよ。

答 そんな事ありません。

以上のように井尻は脱党届を作成したうえで、党に対する、うらみ、不満、党の方針に対する批判を自らすすんで述べた。

同検事は、同日、機会をあらためて、さらに井尻を取調べた。井尻は、

「今まで嘘を言つたのは、党に関することだけで、事件のことに関して申述べたことについては嘘はない。七月二九日は午後六時から石塚と藤谷の子供二人連れたかかあと私とで油谷会館に映画を観に行つた。映画は長谷川一夫主演の五つの鍵で秘密をとくというものであつた。事件当時から、「おれはあの時、映画観に行つて行たんだから大丈夫だ。」ということを皆に話していた。正直言つて、その当時から調べられはしないかという恐怖心がずつとあつた。それは会社では、金でおれをやめさせようとたくらんでいたが、おれが、どうにも言うことを聞かないので、やつておれにかつつけて、おれを除けようと計画したのではないかと思つていた。それで鉄道爆破も奴等の仕業ではないかと思つていたので、藤谷や岩城雪春や大須田等に「奴らがたくらんでやつて油谷の道具等を現場に置いて、おれ等にかつつけようとしているのだ。」という意味のことを話した。地主にも話した。この鉄道爆破事件は、この反共の奴等か、もう一方では党の方もその当時、油谷に盛んに出入りして活躍し油谷を拠点にするのだと言つて煽動していたので、その気勢を挙げるために、あゝいう斗争をやり油谷でやつている連中の斗争精神をあふろうとしたのではないかという二つの考え方をしている。そのどちらかに間違いないと思つておる。」旨供述している。

右のように高木検事は、井尻の周辺の情況を取調べたのみで、爾後の調べは現地の検察官、警察官に任せることとした。

井尻は五月二七日、検察官副検事小関正平に対しても、

「昭和二五月二三日阿部兼三郎宛に脱党届を出した。かねて脱党しようと思つていたのであつて、今回取調べを受けるようになつて脱党する気になつたものはでない。昭和二七年六月中ごろ地主が一度、野田をつれて来た。野田は党のオルグはないかと思う。その時大須田は先に来ていた。大須田は金の催促に来ていたものである。」旨、

従前どおりの供述をなし、

五月二八日、同副検事に対し、

「札幌本社へは七月二日と一二、三日頃出かて行つて交渉した。

七月一〇日頃には二方制を続けることができなくなつて一方でやるようになつた。六月頃地主が来たとき資金カンパをしてくれと言つたが、賃金が入らないので米を一升持たせた。

大須田が六月に来たとき地主や野田と一緒になつた。

私の飯場にいた若い者徳田、村上の二人が七月中頃から終りごろにかけて“次郎長”のコツクになつて出て行つた。

七月二九日の晩は映画を見に行つたと思うが、見ていないとすれば、岩城の爺さんの家に泊つたかも知れない。」旨

供述し、

同年六月四日、同検事に対し、

「山内は昨年四、五月頃、飯場へ食料品を売りに来た。阿部は五月頃、一度飯場へ来たことがある。七月二日朝一番の列車で札幌へ行き、三日朝、早くもどつて来た。札幌へ行つたのは代表一〇名である。七月一二日か一三日にも一度、賃金交渉で札幌へ行つたが、このときも泊らず帰つた。七月八日から一四日まで公傷の扱いで休んだ。七月からは三坑の坑内に火薬保管所を作つた。」旨

七月一二日か一三日の賃金交渉の際は、日がえりで油谷に帰つたことを供述した。

井尻は、自己らの火薬類取締法違反被告事件の第一回公判期日(昭和二七年六月二六日)の後である同年七月六日、司法警察員巡査部長中村繁雄に対し、

「八月七日七夕の晩、飯場で藤谷一久、石塚守男の三名で私が焼酎五合買つて隣の部屋で飲んだ。駐在所で上田巡査から今日は七夕だから子供達に花火の一本でも買つてやりなさいと一〇〇円札三枚に五〇〇円札一枚をいただいた。油谷配給所で焼酎五合買つて来たのである。焼酎飲みながら、藤谷は『魚は何んも獲れなかつた。』とか話していた。私は『そんな話をすればうるさい。バレたら困るからそのような話をしない方がよい。』と言つた。夏井茂夫が見付けて来た導火雷管二本を朝七時頃警察に見つかればうるさいと思つて自分で爆発させた話もした。鉄道爆破の話は反共の奴等でないか、また共産党の奴等がやつていなければよいがと話した記憶がある。」旨

供述し、最後に「部長さんの欲することが、判るんですよ。」「その火薬は石さん等に持つて来てもらつて、地主にやり鉄道爆破に使つたということでしよう。」と述べ、「そのようなことを言つた記憶があるのか。」との問いに対し、「そういつた記憶があります。」と、初めて一部自認をなした。

その後、同年七月二一日に、右火薬類取締法違反被告事件の第二回公判期日が開かれた。

井尻は同年八月一〇日、一四日の両日にわたりなされた自己らの火薬類取締法違反被告事件の公判準備における証人石塚守男の証人尋問ならびに八月一三日なされた同公判準備における証人藤谷一久に対する証人尋問に特別弁護人ととも立会し、同証人らの証言内容を直接了知した。

その後である八月一五日、井尻は司法警察員警部芦原吉徳に対し「石塚守男が六坑捲上機室の下屋から新白梅ダイナマイト何箱か私の寮に運んで来たのを知つているが、それ以外のことは、わからない。」旨

自己の火薬類取締法違反の事実のみは自供した。

井尻の火薬類取締法違反被告事件の審理のための勾留は、同年八月一五日取消されたが、捜査官は、同日、井尻を爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪で逮捕し、同人は、同年九月六日まで引継ぎ勾留されることとなつた。司法警察員警部補館耕治は同年八月二〇日、井尻を取調べた。井尻は同警部補に対し、

「石塚守男とは昭和二七年四月末、大興商事に来るようになつてから知り合つた。同人は、その前、明鉱で弟と一諸に働いておつた関係で私の飯場に出入りするようになつた。仕事は真面目で人間としては信用できるし、感情的に何ら対立はなく、私に対してもよくしてくれる。

藤谷一久は私と交際がふかく常に仲よくして来ている。仕事はすれば出来る方だが余り真面目でなく、洒のみで家庭には冷く生活に困つている。私とは感情的に何もなく、お互に悪い気持は持つていない。

原田鐘悦はおうような真面目な子供であつて信用できるし嘘を言うとか悪いことをするような者ではなく、深い交際はないが感情的に何もない。

七月二九日の晩油谷会館に映画を見に行つた。妻光子、藤谷一久、藤谷の長男、福田米吉、夏井茂夫、村上忠吉と二階正面で一諸に見た。石塚は行つたかどうかははつきりしない。」旨

石塚守男、藤谷一久、原田鐘悦等との関係、同人らの性格について供述し、さらに同日、別の機会に同警部補に対し、

「私が入党したのは昭和二三年一二月ごろで地主照の紹介で入党した。

この間、芦別の警察署で証人尋問があり私も立会つており、そのとき石塚守男、藤谷一久らがいろいろと私の関係と言つて話しており、また今まで取調べた人からも聞いておる。地主は私の家には去年の七、八月にかけて四、五回位来ていると思う。

去年の六月末ごろ、地主は子供と野田という党員を連れて私の飯場に来た。それは午後二時前と思う。私が現場から帰つたら地主が来ていた。しかし大須田は来ていない。私の隣の部屋はそのころ食堂に使つており石塚の寝室ではなく、石塚は大部屋に寝ていた。石塚が隣室に寝るようになつたのは七月一九日以後である。」旨

従前の供述を一部変更して、大須田、地主、野田が一諸に来たことはないし、井尻飯場の自分達の部屋の隣は食堂に使つていて、石塚の寝室ではなかつたと供述するにいたつた。

井尻は八月二二日、前記中村巡査部長に対し、

「反証を挙げる自信がない。それは諦めるということである。

地主、野田、大須田がそろつて油谷の飯場に来たのは六月中ごろだと思う。今まで一回だけある。原田のオンチヤンに呼ばれを受けて現場から帰つてみると大須田が来ており話しているうちに地主と野田が来た様に記憶している。大須田は金の催促だつたと記憶している。

平岸の従業員が退職金や手当金として倉庫二つ獲つた。解体工事について、まあ口を掛けているという話、仕事の内容について煙箇を倒すのに火薬を使えば手取り早いと聞いている。『火薬の許可申請が通れば、火薬なんとかならんか。』と言われた記憶がある。話は地主からである。自分は引受けなかつた。現在の大興のあれであればチヤンスで、持つて来る気があればいくらでも持つて来れるが、係員になつてくれと言われているし、それから現場の方も責任持つてやつてくれと言われているし、俺からはそういうことは出来ないと、俺はできないと断つたのである。主に私と地主の間の話で、野田はメモしていた。大須田も聞いていると思う。

去年の七月中頃中村に頼んで大須田の所に石炭のサンプル背負つて持つて行つてもらつたことはある。大須田からサンプル下げて寄越してくれと言われていたのである。現場の帰り途、貯炭場から石炭をつめて誠に持つて行つてもらつた。そのとき地主が来ていたんではないかと記憶する。

サンプル以外の物、何も入れてやらなかつた。その後大須田は家に寄らんが地主は何回も来ている。野田は一人で来たこともある。」旨

再び、六月中過ごろ、大須田、地主、野田が来たことを認め、さらに、その際、地主から、条件付にではあるが、火薬の入手方を依頼されたと石塚供述に符合する供述をした。

同人は翌二三日、同巡査部長に対し、

「三坑の火薬置場に中村誠の新しい線が有つたので、誠の方はカーブがあるから短い線でも間に合うからおれ等に長い線を使わしてくれやと言つたことがある。誠は別に何も文句も言わさいで承知した。色は緑色で長さは二四、二五米位あつた。誠は私の現場で使つていたドビラに張つていた中一本つないだ線を自分で剥して持つて行つた。

私は六月二〇日以後は雪春が現場に来ていないので、六坑と三坑の二現場を連勤していた。六坑捲座で発破器のハンドルがないので二番方連勤のとき、原田のオンチヤンにハンドルが無いが福士さんが持つて帰つているかも知れないから聞いてみてくれと言つた。福士は事務所二階に住んでいた。ハンドルを寄越したのは原田のオンチヤンに間違いない。確信を以つていい得る。机の中からもらつたのである。一番左側の福士の机の中からよこした。六月中ごろだと思う。普通のハンドルだと思う。しかし、オンチヤンが普通のハンドルと違つたハンドルと言つているなら、通らないから鉄のハンドル受取つていつたことになるんですよ。間違いない。

(このとき井尻は実物大に図を書いた。)

錆びてなくて黒くなつていた。」旨

中村誠から新しい母線をもらつたこと、原田鐘悦から六月二〇日過ぎごろ、発破器のハンドルを交付されたことを供述した。

同人は、八月二四日、前記館警部補に対し、

「昭和二七年六月二八日六坑の現場で昼休みに石塚と藤谷一久と私と三人で休んだときに、『地主から頼まれているので火薬を何とかしてく。』と頼み、石塚に運んでくれと言つた。昭和二七年七月四日午後一〇時半頃私が休んでいる所へ石塚が土間から、『持つて来たよ。』と声を掛けたので私は火薬を持つて来たのを知つた。私はすぐ起きて釜前と納屋の間にスツコがあつたので空けて見たところ、石炭が三箇ぐらいとその下に火薬と雷管があつたので、これを物置の横の棚の下に隠して置いた。新白梅二〇本入三箱、雷管一把一〇本であつた。火薬と雷管は七月一四、五日頃地主照に渡してやつた。

同年六月二一、二日ごろ私が三坑立入より、当時使つておつた発破器をスツコに入れて自宅に持つて帰り、飯場の米置場の床下に隠し。それを地主に渡したのは七月二〇日頃で、前に持つて来ておつた鉄柄のハンドルと一諸に渡してやつた。

七月五日ごろ先に中村誠と交換して使つていた新しい母線を自宅に持つて帰り、飯場の納屋に置いたのを発破器と一諸に地主照に渡してやつた。」旨

六坑現場で昼休みに石塚らに、火薬入手方を頼み、昭和二七年七月四日、夜、石塚に新白梅印ダイナマイト二〇本入三箱くらいと雷管一把一〇本ぐらいを井尻飯場に運んでもらい、これを同月一四、五日頃、地主に渡したこと、同年六月二二、三日頃、発破器を自ら三坑立入から持ち帰り、七月五日頃、中村誠と交換して同人から交付を受け、飯場に持ち帰つていた新しい発破母線と前記鉄製ハンドルとともに、同年七月二〇日頃、地主に渡したとの自供をはじめた。

井尻は、さらに八月二五日、同警部補に対し、

「昭和二七年六月一七、八日頃午後二時前後、帰宅して間もなく地主は見知らぬ男を連れて来て『芦別に来たオルグだ。』と言つた。野田であることは写真見せられて知つた。

地主は平岸工場の解体問題に移り、この解体は業者が請負つている。この解体が始まれば失業対策にもなるが党が全面的に協力すると話し、煙箇を倒すにはどのような方法がよいかと聞かれた。私は「火薬で転倒してやれば倒れるんでないか。」と言つてやつた。地主は『火薬の許可を取つてやるが、その仕事をするようになれば火薬が必要だから何とか手に入らないか。』と言つた。私は「火薬は手に入れようと思えば出来ないこともないが、今おれは現場の責任を持たされているし、また係員になつてくれと言われているのだから、俺は直接やれないが、どうしても入るというなら俺から、他の者に頼んでやつてもいい。それなら何とか出来る。」と言つた。地主は『頼む。』と言つた。野田は発言もなくメモしていた。

六月二七、八日頃立木の陰に寝転んで、石塚、藤谷に平岸の解体問題の話をした。「こんなところにいたつてつまらん。この解体が始まつたなら行つて見ないか。たまには他の仕事もいいぞ」。と話した。特に石塚に対し「石さん火薬はお前、運んでくれるか。」と頼んだ。火薬のことは藤谷、石塚二人に話をして、運ぶことを特に石塚に頼んだ。運んでくれたのは七月四日である。何故かと言えば七月三日朝札幌から帰つ。その日は石塚は休んでいた。それで四日となるのである。

七月一四、五日午後三時頃私が足を痛めて現場を休んでいるとき地主が来た。風呂敷を貸してやり火薬や雷管を私が包んでやつた。風呂敷は人絹で赤地碁盤縞で絣のような模様であつた。

地主、野田が来た日、大須田が来ていたと申したが、何ぼ考えても大須田は地主と一諸になつておらず大須田が来たのはその二、三日前のことである。」旨

の供述をなし、地主から頼まれて火薬類持出しを、他の者に頼んでやろうと承諾したことを自供したが、ここで、その際大須田が一諸であつたとの点については供述を変更した。

同日、別の機会に、同警部補に対し、

「昭和二七年六月中ごろ六坑副斜坑で午後四時半ごろ連勤中、発破器を使おうとしたところ、ハンドルが見えなくなつた。当時の係員の福士でも事務所に持つて帰つたのでなかろうかと思つて事務所に行き原田から代りの鉄で作つたハンドルをもらつて来た。握りが木である正規のハンドルが捲上のサクリの下に落ちてあるのを見つけたので、原田からもらつて持つて来た鉄のハンドルはいらなくなつたから、そのまま自分の家に持ち帰り、納屋の棚の上にほうり上げておいた。

中村誠が新しい母線を福士からもらつて来たのは六月二〇日頃のことである。私の古い母線と交換したのは六月末頃で交換して大体一〇日位私が現場で使つた。それを自分の家に持つて帰つた。現場では前から今、一本古いのがあつたから、それを使つていた。六月二一、二日頃三坑立入は藤谷らの組、向堀は中村誠らの組、六坑副斜坑には私、福田、石塚の組がいたが、発破器は一個しかなかつた。藤谷の組が六坑から持つて行つて使つていた。同日二時過頃私は六坑の現場を引きあげ三坑に行つた。その時、藤谷らは三坑現場の奥の方で何かしており、発破器は、そこの火薬置場の所にあつたが、その時はだれもその付近に見ている者もなかつたので、私は自分のスツコにその発破器を入れ、そのままそこを出て捲場で皆を待つており、一諸に帰つた。途中スツコに石炭を入れて帰つた。折があつたら発破器を持つて来ようと思つていた。自分の現場から直ぐ持つて来るということは都合が悪い。発破器をスツコに入れるときハンドルは見えなかつた。発破器がないというので皆で探したとき、中村や岩城定男らに「発破器知らんか。』と聞いたことがある。

七月二〇日前後、地主は発破器とハンドルは白つぽい風呂敷に一諸に入れた。母線は地主が持つていた新聞紙を二枚、私が取つてこれにまいてやつた。地主は発破器を右手に提げ新聞紙に包んだ母線は左脇にかかえて子供を歩かせて帰つた。

地主に渡した発破器の図面は書ける。(この時、井尻はボタン式提革づきと思われる図面を書いた。)

七月二〇日というのは私が責任を持つていた飯場は七月一九日お昼でやめたので地主が来たのは、その翌日と記憶する。渡すとき光子に見せないようにした積りである。」旨

発破器窃取について極めて具体的に供述した。右のように発破器窃取の事実は、すでに前日から、供述をはじめていたところではあるが、石塚供述からも、藤谷供述からも、現われない事実であつて、井尻のこの供述が、同人の発破器窃取を認め得る唯一の供述である。なお中村供述とても、井尻の供述するような態様の窃盗を認め得る内容の供述ではない。

ところが、井尻は翌二六日から再び、前記自白を徹回して否認を、はじめた。すなわち、

同人は、八月二六日、同警部補に対し、「おれは、もう駄目だ、おれが何を言つても通らない。昨日まで言つたことは全部、心にもないことを言つたので、何も貴方達が言つているようなことはない。全部嘘です。」と自白を覆したが、なお「地主と野田が来て火薬を都合してくれと頼まれたこと、それに対して私が断つたことは本当である。鉄道爆破の罪を着て一日も早く帰る方が得だ。」とも供述している。

翌二七日、「中村と母線を交換したことは事実であるが、そのほかは、おれは知らない。」と一部自認し、「自分がどのようなことを言つても通らない。今の場合、自分が責任を負うことが、一番妥当だ。何と言われても、俺には判らんですよ。」と否認を繰返した。

さらに、八月二八日「新聞に鉄道爆破のことが出たのを見て大変だと思い不安に思つた。自分が共産党員だからです。地主が火薬の話をしていたから、あるいは、あいつらではないかと思つたからです。」と供述していた。

ところが、八月二九日にいたり、同警部補に対し、「すみませんでした。この間、言つたことで発破器の外は、全部本当なのです。発破器は全然、私は何の関係もないし知らないことです。」と再び自白をはじめた。「この二四日から二五日にかけて私が申し上げたときの気持は、証人もあり、証拠もある、如何に私が知らんと言つても、のがれることが出来ないと思いました。それで、どうせのがれられないと言う気持から、「やけ」半分というわけではないのですが、面倒臭くなつて、どうせ言うなら一つも二つも同じだというような浅い考えから嘘も本当もひつくるめて話したのであります。」と発破器窃取の点のみを否認する供述をした。そうして「地主に火薬を渡したのは、七月一四、五日から二〇日までの間である。渡したダイナマイトは新白梅二〇本入三箱、雷管一〇本一把である。新しい母線は現場で三、四日使つて家に持つて帰つた。七月二〇日頃地主が一人で来たとき渡した。ハンドルも地主に渡したと思つているが、何時、何処で渡したか思い出せない。」等と従前より幾分漠然たる表現に変えたが、ほぼ同様な供述をなした。同警部補から「発破器を知らないというのならハンドルは何のために渡したのだ。」と追求され、「ああそうですね。考えてみるとハンドルは地主に渡したような記憶がありません。」と述べ、「物置の棚の上にのせたきり、その後、一度も見ていない。あるいは誠が持つて行つたのではないだろうか。」と供述している。

八月三一日、同警部補に対し「七月二九日の晩、長谷川一夫主演の捕物映画を見た記憶がある。」旨、および「本年一月、三好係員が私の家に遊びに来て『あの現場にあつたハンドルは福士が持つていた物だということを小松田さんが話していた。』と言つていた。三好は現場にあつたというハンドルを見ておつたのではないかと思われた。」旨、各供述した。

検察官副検事志村利造は、同年九月三日、井尻を取調べた。井尻は同副検事に対し、同日、

「中村誠と交換した新しい母線は七月一〇日ごろ、現場から取り外して自宅に持ち帰つた。私が持ち帰つた訳は六月一七、八日頃、私方で地主照から「実は平岸炭素工場解体作業をするので許可が出たら火薬で仕事をするようになる。火薬を何とかしてくれ。」と頼まれていたので、火薬を使うとすれば、母線も必要だろうと思つて気をきかせて家に持ち帰つたのである。七月五日の日に交換してもらつて二、三日使つている間に思いついた。物置の棚の上に煮干の入つて来た空箱のかげに人目につかないように隠して置いた。

七月一七、八日頃午後三時半頃地主が来た際、地主は手に白つぽい風呂敷包みを持つておつた。「地主君発破線を使うんだろうからやるぞ。」というと「それではもらつて行く。」といいながら風呂敷包を私によこした。私は新しい母線を持つて来て古新聞に包んで、それを風呂敷に包んで渡した。

オンチヤンからもらつたハンドルは、物置の棚の上に置いていて母線を地主に渡す際ハンドルと一諸に渡したのではないかと思われるが、その点はつきりした記憶がない。反面、中村誠がハンドルを見付けてだまつて持つて行つたのではないかと思う。」旨ほぼ、館警部補に供述したことと同旨のことを供述した。

九月四日にも、同副検事に対し、昭和二七年六月一七、八日頃地主と二三、四才くらいの青年が井尻飯場に来て、火薬の入手を頼んだこと、六月二七、八日頃の昼休みの時に石塚と藤谷と六坑ズリ捨場の立木の陰の草原に寝転んで「石さん火薬をお前運んでくれないか。」と頼んだこと、七月四日の晩一〇時半頃石塚がダイナマイト三箱、雷管一〇本縛り束を飯場に持ち帰つたこと、七月一四、五日頃の午後三時頃地主が来たので焦茶色の縞模様の風呂敷に火薬と雷管を包んで渡したこと等従前の司法警察員に対する自白を確認する趣旨の供述をした。

前記のように爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪による勾留期間は九月六日満了したので、検察官は井尻を同日、発破器窃盗罪で逮捕し、即日、同罪で起訴し、井尻は同日から同被告事件の審理のため勾留されることとなつた。

検察官は刑事訴訟法第二二七条にもとずき、裁判官に対し、井尻の証人尋問を請求した。井尻は九月八日、裁判官の尋問に対し証人として、

「中村の新しい長い母線を自分の現場で使つておつた。はつきり交換したという形式でやりとりしたことはない。その後母線はどうなつたかわからない。八月一〇日現場閉鎖のとき、二本の母線を福士に引き渡した。

二八年九月三日付検察官調書で申し上げたことは全然でたらめである。石塚、藤谷の証人尋問に立会つてやけ気味なところから石塚や藤谷の証言していたことに符合するように供述した。

原田鐘悦から六月一〇日午後四時頃ハンドル一個を受取つたことはあるが、事務所に返したか家に持ち帰つたか全然記憶ない。

地主から火薬の入手を依頼されたことはない。地主と六月一七、八日頃午後三時半、平岸の炭素工場の解体作業の話をしたことはある。石塚は七月初め頃飯場に移り住むようになつた。石塚に火薬入手の依頼をしたことはない。

六月一七、八日ごろ地主が野田という共産党員と私方に来たこと、同人の服装関係、また同人が発言せずに私と地主との話合にメモを取つていたこと、六月二七、八日頃昼休に六坑ズリ捨場にある立木の陰の草原に三名が寝転びながら平岸の炭素工場の解体作業に行つてみないかという程度のことを話したことは事実である。」旨

ある程度の外形的事実は認めながら、三度否認するにいたつた。

しかし、井尻は翌九日、志村副検事に対し、

「昨日判事にいろいろ尋問され、検事に申し上げたことは、でたらめだと言つたが偽りを申し上げてしまつた。若しおねがいが出来るならもう一度、判事に尋問していただきたい。今度こそ本当のことを申し上げたい。

示された発破母線が中村誠から交換してもらつた母線と相違しているとはつきり申し上げることはできない。相違しているような感じがしているのである。

ハンドルは原田から受取つて後、それをどうしたかについてははつきり記憶がない。」旨

自ら、すすんで再度、証人尋問してほしいと、供述した。

裁判官は翌一〇日、再び井尻正夫の証人尋問をなした。井尻は証人として、「本日は自分の態度を決めたうえ、一切のことを包み隠さず申し上げる。」と前置きして、要旨つぎのごとき証言をなした。

「昭和二七年六月一七、八日頃の午後三時半頃、地主と野田が来た。地主が色々の話の後、『平岸の炭素工場の解体作業が始まれば、火薬を使つてやり度いと思うから、火薬が手に入つたら何とか心配してくれないか。』と言つた。私は『手に入れようと思えば、できないことはないが、現場の責任を持たされているし、係員にもなつてくれと言われているくであるから、自分では立場上できない。誰かに頼んで何とかしてやる。』と言つた。地主は『それでは頼む。』と言つた。それで六月二七、八日頃、昼休の時間に六坑ズリ捨場の立木の陰の草原で石塚、藤谷と寝転んで休んだとき、石塚に火薬の入手方を頼んだことがある。平岸炭素工場解体の話をした後、石塚に向つて『石さん、お前、火薬を運んでくれないか。』と頼んだ。石塚は『うん。』と承諾した。

七月四日午後一〇時半頃、石塚が『頼まれたものを持つて来た。』と声をかけた。すでに寝ていたが、起きて見ると、土間の小窓と物置との間土間にスコが立ててあり、塊炭の下に箱入ダイナマイト三箱と雷管一〇本ばかり一束に縛つたのがあつた。ダイナマイトは新白梅印である。私は物置の棚の下の土間の隅において、ぼろを掛けて見つからないようにしていた。七月一四、五日頃、足をいためて休んでいたとき、午後三時頃地主が子供を連れて、やつて来たので、『頼まれていた火薬を持つて来たから、やるぞ。』と話し、自分が弁当を包む焦茶色縞模様の風呂敷にダイナマイト二箱を並べ、その上にダイナマイト一箱と雷管を並べて重ねて包んだ。地主は四時半頃、風呂敷を右手に提げて帰つて行つた。

七月四、五日頃中村誠の使用している新しい母線を使わせてくれと中村に言つたら承知したので、代りに古い母線をやるから使えと言つて、古い母線を中村にやつた。私が新しい母線を七月一〇日頃まで使用したが、七月一〇日に自宅に持ち帰つた。地主に火薬の入手方を頼まれていたので、火薬を使用するとすれば、母線も必要であろうと思つて気をきかせて持ち帰つたのである。物置の棚の上の煮干を入れて来た空箱の陰に人目につかないようにおいた。七月一八日頃地主が子供を連れて来たとき、地主に『発破線も使うだろうからやるぞ。』と言うと、地主は白つぽい風呂敷を私に渡した。中には四面の新聞が二枚あつた。それで母線を取り出して新聞に包み、風呂敷に包んで渡してやつた。

六月一〇日頃、原田鐘悦から発破器のハンドルを一個受取つて来たことは間違いないが、そのハンドルを持ち帰つて棚の上に置いたという記憶はない。ハンドルは、その後、どうしたか、誰かに渡したかということについて、はつきりした記憶はない。母線と一諸に地主に渡したかどうかも記憶ない。」というものである。

井尻正夫は自己の火薬類取締法違反被告事件の昭和二八年九月一一日の第三回公判期日(ただし同期日に窃盗被告事件も併合)に、出頭した後、翌一二日、館警部補に対し、

「昨日公判で知らないものは知らんと言つて来た。今度の事件は全部デツチ上げだと先生は言つていた。発破器を盗んだ覚えはないから知らんと言つた。火薬、母線を地主に渡したことは間違いない。」旨

供述し、ここでも火薬と母線を地主に渡したことは認めていた。

ところが、井尻は翌九月一三日、館警部補に対し、

「石塚や藤谷の証言は全部でたらめである。七月四日の晩一〇時半頃は、俺たちは大野所長を中心に大興商事の事務所で一二時頃まで賃金支払問題で会議をもつたから、俺がいる訳がない。」旨供述し、

同日、機会をあらためて

「俺は何を言つても通らないのだ。俺の気持はゆがめられてしまつている。何だつてそうだ。通らない。自分が犯人になればいいのだ。警察は何でも彼でも俺を犯人だと決めている。俺は、どつちみち駄目なんだ。どうしたからつて偽証罪にも引かかる。どうせ、この事件に対しては自分としては何んの反証も挙げられん。知らんと言つても通らないからあきらめている。」旨供述し、その際、

同警部補は井尻に対し「お前の言うことはいろいろな面から信用が出来ないでないか。共産党がきらいだから脱党した言いながら、それらと連りを持つている。お前が党員でなければ、何のために党が特弁まで立てて、お前を応援する。その理由は僕には判らないが。」と尋ね、これに対し井尻は「共産党の弁護士を頼んだのは俺の家内だ。それには誰か家内に言つたかも知れない。自分としても官選弁護人を頼んで見た。頼りがない。金でも沢山出せば、或はもつと力を入れてくれるかも知れない。面会にも来てくれる。しかし俺には金が無い。仕方がないから先生を頼んだのだ。」と答え、同警部補が「弁護人を誰を頼もうとお前の自由だ。悪いとは言わん。ただお前がこの事件の取調べを受けるに当つて有利だという点からのカモフラーヂの脱党でないか。それなら必要がないのだ。党員であろうとなかろうと吾々の取調には無関係なのだ。君がそれならば無理して脱党する必要はない。これは君の言うことと実際の腹とが僕には判らんのだ。」とさらに問いを発し、井尻がこれに対して「今までのことだつて俺が嘘を言えば通るし、本当のことを言つても何一つ取上げてくれないのでないか。」と答えている。かくして同日以降は火薬所持の事実までも否認するにいたつた。

そうして井尻は、九月一六日に、館警部補に対し、

「六月二〇日昼飯を終つたころ、定男が捲場で腹痛をおこし、中村と雪春、藤谷の三人が定男について上芦別に下がつた。自分は大興商事事務所に行き手術をするとすれば、金がいるので午後一時半ごろ大野所長より小切手で二、〇〇〇円貸してもらつた。仕事がはんぱになつたので、そのまま自分の飯場に帰つた。午後二時半ごろ石塚、福田その他の者が帰つて来たのを知つている。自分は五時二〇分の汽車で上芦に下り、二、〇〇〇円の小切手を定男に渡しその晩泊つて油谷に帰つた。」旨

九月一七日、同警部補に対し、

「石塚は昭和二七年五月一日から自分の飯場で飯を食つているが、寝泊りは七月中頃である。私は油谷の坑務所に入つたことはない。現場に行くとき鑑札を外から窓口に置いて行くだけである。」旨

いずれも、石塚供述が、虚偽であること、および徳田敏明と坑務所に入つたことはないことを強調する供述をした。

井尻正夫は昭和二八年九月一七日、爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪で起訴された。

なお館警部補は右爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪の起訴後も、同年九月二二日、九月二九日(二回)、九月三〇日、同年一〇月一日、一〇月二日に、それぞれ井尻を取調べているが、その供述は、いずれも従前の供述を覆して、否認する趣旨のものであつた。

第三九、大須田卓爾の七月二九日のアリバイについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

大須田卓爾は昭和二八年八月二二日、司法警察員警部補弘中孝治に対し、

「昭和二七年七月頃からは竹原某のところで石炭販売をやるとともに釧路市へ米のカツギヤをやつていた。事件の一日か二日後、竹原のところへ行き、竹原から『鉄道爆破事件があつて共産党がやつたのではないかと空知タイムス放送塔で放送していた』のと話を聞き、その時初めて知つた。七月末頃から八月にかけて私は市の区画整理で宅地が道路にかかるところにある庭木の移植の仕事をしていた。七月末頃山本清から『良い仕事があるから来い。』と言われて旭川の北海屋か秋田屋に二日滞在したことがある。」旨供述し、

同年八月三一日、検察官副検事志村利造に対し、

「昭和二七年七月二八、九日は家におり、昼間は竹原方で働いた。二八、九日の晩は家にいて子供と遊んだり子供の側に寝ていたと思う。」旨供述し、

同年九月二日、司法警察員に対し、

「七月二九日は米が来ていた。三俵ぐらいを私と竹原と奥さんの三人で行李に包んだ。同月三〇日は米を小荷物で発送した。

竹原は鉄道爆破事件があつたことを私から聞いたと言つているそうだが、事件があつたことは三〇日の午前一〇時頃竹原の家に行つて知つたのである。竹原は事務所で『平岸と芦別の間で鉄道爆破事件があつた。共産党がやつたらしいと空知タイムズの放送塔が言つていた。』というのでびつくりした。私は『事実であるかどうか空知タイムズに行つて聞いて来る。』と言つたし、『警察に聞きに行つて来る。』とも言つた。しかし警察には調査もしないで、何しに来たと逆にやり込められたら困るので行かなかつた。」旨供述し、

いずれも、七月二九日のアリバイの主張をしている。

しかし、その主張は一貫せず、アリバイの成立を認め得る客観的資料は得られなかつた。

第四〇、山内繁雄の七月二九日のアリバイについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

山内繁雄は昭和二八年八月二〇日、司法警察員に対し「本件を知つたのは、判然りわからないが、自転車で現場を見に行つたのは、一〇時頃だから、その前だ。街頭放送か近所の人かわからない。街頭放送の付近の人だな。街頭放送は朝八時からやるんだつけ。巡査出張所のある個所まで行つた。警官が四、五人いたと思う。」旨供述し、事件を知つたのは翌日であるというのである。

そうして八月三〇日、司法警察員に対し、

「私のアリバイは二階の桜田さんの人達や土井さん、マーケツトの池田さんが知つているかも知れない。阿部のアリバイが気になつた。

井尻、地主、大須田とは今まで一諸に会合を持つたことは一度もない。井尻飯場には大興商事に塩魚等の代金請求に行つてバスの時間の都合でたまたま行つたことが四、五回あるが六月頃からは行つていない。」旨

供述したが、積極的にアリバイの主張はせず、アリバイが成立する客観的資料も得られなかつたものとみられる。

第四一、野田こと衣川の七月二九日のアリバイについて

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

阿部兼三郎は昭和二八年七月一五日、司法警察員に対し、

「七月二九日午後四時半か五時頃及川が来、間もなく野田も来た。三人で三井の公園クラブであつた“山彦学校”という映画を見に行つた。六時三〇分頃から始まつたが、途中で及川がいなくなつた。映画が終つて野田と家へ帰つて休んだ。及川が一〇時半か一一時頃帰つて来た。及川が言うには鉄道爆破事件のあつたことが操車場の掲示板に書かれてあつたということであつた。」旨翌一六日、同じく司法警察員に対し、

「掲示板というのは駅の掲示板で芦別駅のものである。地主と及川は昭和二七年五月頃から特に親しかつた。二人で謄写印刷の仕事を始めると計画していた。七月二九日、地主が私宅に泊つていないことは、はつきりしている。」旨

七月三〇日、司法警察員に対し、

「七月二九日夜、及川が映画の途中から出て、再び私方に来て、鉄道爆破事件のことを知らせたが、早く党の方に知らせたら良いと考えたので、わざわざ来たのではないかと考える。当夜、地主は私の処にはいなかつた。」旨

さらに、同年八月三一日、検察官に対し、

「七月二九日に仕事から帰つたら及川が来た。それから間もなく野田が来た。及川は地主が来ているかと思つてたずねて来たのではないかと思う。三人で“山彦学校”という映画を見に行つた。

隣の佐々木庄郎の妻信子に映画の題名を聞きに行つたようなことはない。

七時半か五〇分頃の汽車に間に合うような時間に及川は『俺はこれで帰るから。』と言つて出て行つた。映画を見て九時頃帰つて野田と寝ていたら一〇時か一一時ごろ帰つたはずの及川が再びやつて来て、『芦別と平岸の間の鉄道爆破で汽車が遅れると書いてあつた。』と言つた。及川はその晩、私方に泊つた。七月二八日の晩、五、六人集つたようなことはない。」旨

供述し、七月二九日夜は、野田と“山彦学校”という映画を見に行き、九時頃帰つて寝ていたと野田こと衣川のアリバイがあることを一貫して述べた。ところが、芦別駅長渡辺善三は検察官に対し同年七月二一日「鉄道爆破事件の当夜、芦別駅待合室には、事故のため、何分遅れの見込みと掲示しただけで、事故の内容は掲示しなかつた。」旨供述した。

すなわち及川が駅で鉄道爆破の掲示を見て、これを告げに来るはずがないのである。

阿部の右野田のアリバイ成立の供述がなされる前、捜査官らは、すでにつぎのような関係人の供述を得ていたのである。すなわち、

検察官は、昭和二八年七月七日、三井芦別鉱業所の労務係である藤井光義から、

「私に情報を提供してくれる人は組の飯場を経営していた人で大多さんという人である。大多に七月二八日頃からの党員の動き等について尋ねたところ『昭和二七年七月二八日の夕方ごろ阿部兼三郎方に六、七人の者が集り、何か話し合つたようである。その中に、地主、及川、野田こと衣川がいたが、他の二名はわからない。その翌日二九日夕方過ぎか、五時ごろまでの間だと思うが、阿部がこれから歌志内へ行くんだと言つて大多の家に寄つて行つた。その翌日三〇日大多が阿部方へ行き、内儀さんに尋ねたら、まだもどつて来ないと返事した。』とのことであつた。」旨

の供述を得、

七月八日、阿部兼三郎方の隣(炭鉱住宅の長屋)に住居する佐々木庄郎の妻、佐々木信子から、

「昭和二七年七月二八日、隣の阿部方で夜九時頃まで五、六人位の人の話声が聞えた。翌七月二九日の朝、地主の子供が阿部方の前で遊んでいるのを見かけた。七月二九日午後五時半頃阿部兼三郎が私方に来て茶の間の窓から私に『奥さん今日の映画は何と言うのか。』と尋ねたのでプログラムを見て“蜂の巣の子供達”と教えた。同日午後六時一〇分頃及川と野田と三人で私方の前を通つて外出した。その日、夫は二番方で午後一一時ごろ帰宅したが、阿部方にはだれも、もどつた気配はしなかつた。話声も聞えなかつた。七月三〇日の夕方五時頃阿部がもどつて来て、六時頃私方前を通つて一人で外出し、その後三〇分位して野田の姿を見た。」旨

の供述を得ていたのである。

さらに、三井芦別鉱業所労務保安係佐藤鶴蔵は同年八月四日検察官に対し、

「昭和二七年七月三〇日、上司の石童が鉄道爆破事件があつたことを知らせ、三井をレツドパージされた阿部兼三郎方の様子を見てくれと命ぜられた。私は同日午前九時頃同人宅へ行つた。同人の妻君は『父さんはまだ帰つて来ない。』と言うので『何処へ行つたの。』と尋ねると、『黙つて出掛けたので判らない。』と答えた。」旨供述した。

その後、共産党員またはその同調者とみられる山口清太郎は、同年九月二日司法警察員に対し、

「野田は頼城では戸村と呼んでいたオルグとして派遣されて来た男で言動も過激であり芦別に来たオルグ中、最も行動的であつた。

昭和二七年七月二九日の事件のあつた翌日三〇日の朝、頼城発七時二〇分芦別駅行列車に乗つた。この汽車が西芦別駅に着くと間もなく肩をたたく人がいるので、見ると野田であつた。戸村は西芦から乗つたのであろう。野田は『山口さん。夕べ、平岸で鉄道爆破事件があつたのを知らないか。』と言つた。新聞でもラジオでも聞いていないし、乗客も全然話していなかつたので不審に思い、『知らない。』と返事した。野田はニヤニヤ笑いながら、私をひやかすように『貴方夕べそんな処に行つていないだろうな。』というので、私は『今初耳だ。』と言つた。芦別駅に到着して戸村と一緒に下車して改札口を出たが、改札口を出た処に及川幸夫と地主照が戸村を迎えに来ていた。戸村、地主、及川の三人は待合室に入つて行つた。

同日午前一〇時頃三井鉄道のトンネル付近で西芦別に向つて歩いて行く戸村を見かけたが戸村は『これから阿部のところへ行きます。』と言つていた。爆破事件の一週間か一〇日位前、芦別の山内のところで細胞会議があつた。出席者は戸村、山内夫妻、私で、阿部と地主はどうであつたか、出席していたような記憶がある。及川、大須田は出席していなかつた。そのとき戸村は『おれは後、一週間程したらいなくなる。これが最後の会議になるだろう。』と言つていた。」旨

の供述をなした。

以上によれば、阿部のいう野田こと衣川のアリバイは成立しないとの捜査結果になつた。

第四二、斉藤正夫の七月二九日のアリバイ成立について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

斉藤正夫は、検察官に対し昭和二八年九月四日、

「昭和二七年七月五、六日ごろ一度とお盆と正月に一度、上尾幌から兄のところに帰つて来た。六月二四、五日ごろ坑内で足を怪我し布団を送つて、一、二日して七月初旬に一週間ばかり帰つて兄のところにいた。

佐藤倶一宛の昭和二七年七月二日付消印ある葉書に、二〇日一時に釧路に着きとあるから、六月に帰つたようである。お盆前は六月に一回帰つただけだから七月に帰つたことはないことになる。井尻、地主、山内とは全然会つていない。中村誠とも会つていない。鉄道爆破事件のことは上尾幌で新聞で知つた。」旨

九月六日、

「六月に帰つたときは、大体一週間いた。兄や倶ちやん(佐藤倶一)は、二、三日しかいなかつたといつているようだが、僕は、兄のところにずつといた。」旨

九月七日、

「上芦別に一週間いた間の行動は思い出せない。何処にも泊つていない。倶ちやんのところ以外は、大須田の家に一回行つただけである。」旨

アリバイ主張の供述をしていた。

そうして、斉藤正夫の友人佐藤倶一も検察官に対し、九月五日

「斉藤正夫が上尾幌から上芦別に帰つて来たのは昭和二七年正月と六月二〇日前とお盆の三回であつたと記憶する。」旨

斉藤正夫の兄、斉藤利一も検察官に対し、九月七日、

「正夫から佐藤倶一に七月二日付消印のある葉書が来ており、その葉書に『二〇日に上尾幌に帰つた』とあるところから、正夫は六月二〇日に上尾幌に帰つたことがわかつた。六月に帰宅して家にいたのは二、三日でなかつたかと母が言つている。正夫は井尻と交際していたことはない。地主は風呂帰りに話して行つたことはあるが、正夫と話しているのを見たことがない。地主が来たとき正夫は上芦にいたことはない。正夫が七月二九日に芦別に来ていたことはない。」旨

斉藤正夫の母、斉藤フミも、検察官に対し、九月七日、

「正夫は六月と八月中頃帰宅した。帰宅したときは、三、四日で上尾幌に帰つており長くいたことはない。」旨いずれも、斉藤正夫の右供述に符合する供述をした。

ところが、斉藤正夫の勤先東宝炭鉱の賄婦、高橋正子は司法警察員に対し、同年八月二九日、

「昭和二七年の七月中旬と記憶するが、斉藤正夫は自分の夜具を持つて上芦別へ帰つたことがある。」旨供述していたし、

また上尾幌の東宝炭鉱の事実上の経営者であつた佐々木鉄人も検察官に対し、八月三一日、

「斉藤正夫は尾幌東宝炭鉱の現場に七月二四、五日頃には出ていた。八月一日にも事務所にいた。斉藤は昭和二七年五月頃から、お盆までに、二、三回帰宅しているが、何時だつたか記憶はない。」旨斉藤正夫供述に符合しない供述をしていた。

斉藤利一も司法警察員に初めて調べられた八月二八日には、

「正夫は昭和二七年上尾幌にいて、お盆過ぎに一度帰つて来ただけである。足を怪我をしたときは、手紙が来ただけで帰つて来ていない。」旨供述していたのである。斉藤正夫のアリバイ主張の供述と、これを裏付ける前記佐藤倶一、斉藤利一、斉藤フミの各供述、佐藤倶一宛の葉書もあつたが、右高橋正子、佐々木鉄人の供述もあつたので、斉藤のアリバイの成否については未だ疑いは存した。

井尻、地主は、本件鉄道爆破事件につき昭和二八年九月一七日起訴された。捜査官は、その後継続して斉藤のアリバイにつき捜査することとなつたと思われる。

高橋正子を再度取調べたところ、同人は同年一〇月四日司法警察員に、一〇月二四日検察官に対し、

「斉藤正夫は七月末頃上尾幌にいたと思う。八月二日に釧路祭の花火大会に埓見、宮坂と三人で出掛けたことがあるし、会社の帳薄による七月二五日氷水を買つて飲んでいる記載がある。七月二五日から八月二日まで山にいたと思う。七月二九日に三人を起したと思う。」旨

詳細に供述した。

上尾幌東宝炭坑の煙理係大井ちよも司法警察員に対し同年一〇月三日、検察官に対し一〇月二〇日、

「煙草の受払帳薄は私が書いていたが、七月末頃に前渡と書いてないところを見ると、斉藤に煙草を毎日やつていたと思う。もし芦別に帰るとすると内払出しているはずであるが、七月末頃には内払を出していない。労務日誌は後から書いたものである。斉藤は七月末頃は山にいたと思う。」旨

述べた。

現場での同僚、埓見吉雄は、司法警察員に対し、一〇月二一日、「昭和二七年七月二八日はヤンマーデイゼルエンジンの修理をしたように思う。斉藤正夫と二人で部品の取替等をやつたように思う。七月二九日坑内排水のため機械を動かしたが、その時は私一人でやり斉藤はいなかつた。しかし出張とか現場を休んだという記憶はない。労務日誌のその日の一番方は斉藤が書いている。二番方は私が書いている。斉藤は六月一四日より二〇日まで家に帰つており七月一五日と一八日は釧路へ出て日帰りしている。八月二日は花火大会に私と宮坂と三人で行き、その晩帰つた。つぎは八月一四日、布団を送り約一週間休んでいる。」旨

同じく、現場の同僚宮坂貞雄も、司法警察員に対し一〇月四日、

「七月末斉藤は上尾幌の現場にいたと思う。労務日誌も印鑑はないが斉藤が書いているし八月二日頃斉藤と埓見と三人で釧路の花火大会に行つている。」旨、

前記佐々木鉄人も、司法警察員および検察官に対し一〇月二七日、

「七月二八日に斉藤正夫、埓見、宮坂、高橋正子、大井ちよに“しるこ”を食べさせると話したように思う。八月一日の晩、埓見、宮坂、斉藤等に家内のが小樽から帰つて土産をやつたことは、はつきりしている。そのころ斉藤は山にいたのではないかと思う。」旨いずれも、昭和二七年七月二九日に斉藤が上尾幌の炭鉱にいた旨の供述をした。

さらに、七月二九日といえば、学校の夏休中で、数名の学生が東宝炭鉱にアルバイトに来ていた。これらの供述は最も信用できると考えられた。その一人、小森薫は一〇月四日、司法警察員に対し、

「七月二五日から約二〇日間東宝炭坑でアルバイトしたが、その間斉藤はずつと現場にいたと思う。七月二九日は一番、二番連勤しているがこのとき斉藤はいたと思う。」旨

小森伝も一〇月二一日、検察官に対し、

「七月二八日から東宝炭坑でアルバイトした。斉藤は捲上運転をしていたが『アルバイトにこんな所へ来たのか。』と言つた記憶がある。斉藤は七月下旬、仕事を休んだ日はなかつたと断言は出来ないが、機械の係として七月下旬私共が勤めるようになつた以後現場にいたのではないかと思う。」旨

笠島進一も、同日、司法警察員および検察官に対し、

「暑中休暇は七月二八日からで、この日から炭坑に働きに行つた。斉藤は捲上機の運転をしていた。八月七、八日頃まで働いたが、斉藤は大体毎日機械の運転をしていたと記憶している。」旨

日高博も、同日、司法警察員に対し、

「私の夏休みは七月二六日から始まつて八月一七日に終つたが、この間二、三日しか休まなかつた。一番先に仕事を命ぜられたのは斉藤からであつた。斉藤は捲の運転や坑内に入つて発動機をかけていたが一日中、全くいなかつたということはなかつたと思う。」旨

谷川貢も同日、

「アルバイトに行つたのは七月二六、七日ごろから八月一四、五日ごろまでと記憶する。斉藤は私達が働いていた間は大体毎日おつて捲上機の機械の運転をしておつたと思う。」旨

いずれも、昭和二七年七月二九日、斉藤が上尾幌東宝炭鉱の作業現場で働いていた旨の供述をしている。

かくて、斉藤のアリバイは成立するとの捜査結果となつた。

第四三、工数薄、操業証の記載の正確性について

(証拠省略)によれば、つぎのとおりである。

本件鉄道爆破事件について、油谷炭鉱関係、殊に大興商事関係の多数の参考人、被疑者の取調べが、本格的に開始されたのは、昭和二八年四月ごろからである。捜査官には、関係人から供述を求めるについても、事件前後の関係人らの稼働状況を正確に記載した出勤薄、作業日誌、操業証等の客観的資料が必要であつた。

六月分六坑副斜坑操業証(甲第五七一号証の一、二)、七月分三坑操業証(甲第五七二号証の一、二)、七月分三坑操業証(甲第五七二号証の一、二)、七月分坑外操業証(甲第五七三号証の一、二)、露天七月分操業証(甲第五七四号証の一、二)、七月分坑外操業証(甲第五七三号証の一、二)が大興商事職員洒井武から任意提出され、司法巡査上田秀雄によつて領置されたのは、昭和二八年五月二日であつた。油谷芦別炭鉱繰込係において作成した昭和二七年六月分組夫工数薄(証第九二号証の二、本件甲第五七八号証の二)が油谷炭坑の職員永田松太郎から提出され、右上田巡査によつて領置されたのは翌三日であつた。(なお、その際、右永田から同時に七月分工数薄で、油谷炭鉱の直轄坑夫等の氏名とともに、徳田、中村、井尻、岩城定男、藤谷、米森、石塚、井尻昇、坂下、岩城雪春等の氏名を記載し、斜線でその出勤状況を表示したと思われる油谷炭鉱工数薄用紙に記載されたもの(証第九二号の一、本件甲第五七八号証の一)も提出され、領置されているが、これは油谷炭鉱繰込係が作成したものではなく、油谷炭鉱の誰が作成し提出したものか、不明であることが後に刑事公判で明らかにされた。)油谷芦別炭坑繰込係において作成した、同年七月分大興商事関係工数薄(証第一二五号の一、二、本件甲第五七九号証の一、二)は、刑事第一審裁判所によつて昭和三一年五月一五日押収されたものである。しかし、この工数薄は捜査段階で、油谷鉱業所から警察官に任意貸与閲覧させ、その都度返還を受けていたもので、捜査官等は、昭和二八年五月頃右工数薄の記載内容は了知していた。もつとも、右工数薄の記載は出勤、欠勤に関するかぎり前記証第九二号の一の記載と大差はなかつた。)

なお警察官等は、昭和二八年五月頃以降、大興商事自身の作成した工数薄、賃金台帳等の所在を鉛意探求し、これを押収しようとしたが、遂に発見するに至らなかつた。(ちなみに、警察官らは、昭和二七年八月中に、大興商事の六月分三坑立入工数薄、七月分三坑立入工数薄等を任意閲覧し、この写をとつたことがあり、その後も、一時借用して閲覧したことがあるが、原本はその都度直ちに大興商事に返還された。右写は刑事第二審法廷に昭和三八年九月一四日提出されているが、当事者双方とも、本件訴訟においては、これを提出援用しないので、当裁判所は、その記載が、どのようなものであるか、知る由もない。)

ところで本来、同じであるべきはずの油谷炭鉱の六月分組夫工数薄の記載と六月分六坑副斜坑操業証の記載とを対比してみると、例えば井尻正夫については、工数薄によれば、六月九日は、二番方、同月二七日は一番方で出勤した旨の記憶があるが、操業証には、いずれも出勤稼働の記憶はなく、藤谷一久については、工数薄によれば、六月二日、三日出勤した旨の記載がないのに、操業証には、いずれも二番方で稼働した記載があり、石塚守男については工数薄によれば六月七日出勤した旨の記載がないのに、操業証には一番方で稼働した旨の記載があり、工数薄によれば六月二四日、同月二七日出勤した旨の記載があるのに、操業証には、いずれも稼働した旨の記載がない。

七月分の各操業証中、坑外操業証、露天七月分操業証には、いずれも係員または主任、所長の検印欄に少くとも、誰かの認印が押捺されているが、三坑七月分操業証五二枚中には記帳者、係員、主任、所長の検印欄に一枚も押印がなく、かつ、各操業証の筆跡も同一である。そうして七月分の工数薄と三坑七月分操業証、露天七月分操業証と対比してみると、井尻正夫については、七月一日、二日は工数薄に出勤した旨の記載がないのに、操業証には空票との記載はあるものの、右両日一番方で稼働した旨(特に七月二日は福田米吉、牛山勝弘ら、賃金支払交渉に出札しなかつたはずの者と共に稼働した旨の記載)の記載があり、工数薄によれば七月一〇日、同月一八日、一九日には出勤した旨の記載がないのに、操業証によれば、いずれも三坑立入に出勤稼働した旨の記載があり、工数薄によれば、七月一七日も出勤した旨の記載がないのに、露天七月分操業証には、同日二番方で露天NO・3左目抜で稼働した旨の記載があり、藤谷一久については、工数薄によれば、七月一一日、同月一五日、出勤した旨の記載があるのに、操業証には稼働した旨の記載がなく、また工数薄には七月一八日、一九日、出勤した旨の記載がないのに、操業証には、いずれも一番方で稼働した旨の記載があり、石塚守男についても、工薄には七月一一日、同月一五日出勤した旨の記載があるのに、操業証には稼働した旨の記載がなく、工数薄には七月一二日、同月一八日、一九日、出勤した旨の記載がないのに、操業証には、いずれも一番方で稼働した旨の記載がある。徳田敏明については、工数薄に七月一日から五日まで毎日出勤した旨の記載があるのに、操業証によれば、七月四日、向堀で稼働した旨の記載があるのみである。

なお、井尻、藤谷、石塚について、操業証によれば、七月二四日、いずれも一番方は三坑立入で稼働した旨の記載があり、連勤したとしても二番方は、一方のみの稼働であるはずなのに、二番方で第二露天新坑で稼働した旨の工数、賃金のそれぞれ異る稼働内容の別個の操業証が二枚作成されている。

その他、坑夫各人の工数薄と操業証とを対比しても、仔細に検討すれば、いずれも、合致しない部分が少なからず見出さる。

以上のとおり、工数薄と各操業証を記載自体から対比してみても、いずれが、真実の稼働状況を記載したものか疑問が持たれ、特に三坑七月分操業証は、後日、一気に責任者の検閲も受けることなく記載作成されたものであると窺える。また、関係人のいう稼働状況と右工数薄、操業証の記載とが一致しないところが多く見られる。すなわち、

岩城雪春は昭和二八年五月二日検察官に対し「昭和二七年六月末頃から七月二四日までの間、体の具合が悪かつたため、仕事を休んだ。」と供述しているが、三坑七月分操業証には七月一二日、三坑で稼働した旨の記載があり、露天七月分操業証には、七月二三日、第二露店で稼働した旨の記載がある。同人は同年七月八日にも検察官に対し、「昭和二七年三月一四日から六月下旬まで大興商事で働き体の具合が悪くて一度辞めて、明鉱のマーケツトで食料品店を始めた。七月下旬から再び大興の坑内夫となり、私が先山、藤谷一久と弟定男が後山で三坑立入で働いた。千代の山が来たとき(七月二六日)はまだ大興に行っていない。」旨、具体的に稼働状況を供述しているのである。

岩城定男は昭和二七年九月三日、司法巡査に対し、また昭和二八年六月二七日、検察官に対し、いずれも「昭和二七年四月二三日から七月一〇日まで大興商事で働いた。七月一二日から二五日までは内田商店で店員をしていた。七月二七日から再び大興商事の堀進夫となり、八月一〇日まで働いた。」旨供述したが、工数薄によれば、七月一四日出勤した旨の記載があり、操業証によれば、七月一二日および一四日、三坑で稼働した旨の記載がある。

井尻正夫は昭和二八年六月四日、検察官に対し「七月二六日に上芦別で千代の山一行の相撲があり妻子を連れて見に行つた。その二六日の晩は臨時バスで油谷の飯場に戻つた。七月二七日には一番方で三坑の立入で働いた。繰込係の工数薄によると、その二七日には私は仕事に出ていないことになつているが、私の記憶では働いている。就業伝票(操業証のことと思われる。)を調べて頂けばわかると思う。工数薄は警察の調べの際、見せられたが、その記載は、でたらめの所が多いようである。」旨供述しているが、工数薄に稼働した旨の記載がないのみか操業証にも、七月二七日井尻が出勤稼働した旨の記載はない。

また、井尻正夫は、同年八月二八日、司法警察員に対し「七月一七日は公休、一八日、一九日、二〇日はストで休んだ。」と供述しているのに、露天七月分操業証によれば、七月一七日は二番方で第二露天NO・3目抜で稼働した旨、三坑七月分操業証によれば、前記のように同月一八日、一九日は三坑立入で稼働した旨の各記載がある。

藤谷一久は検察官に対し、同年八月一日、井尻等の火薬取締法違反被告事件の公判準備における証人として(井尻正夫の面前で)同月一一日、また刑事訴訟法第二二七条の証人として裁判官に対し同月一三日、

「七月三日、私は二番方として井尻正夫、徳田敏明の三人で三坑立入現場で働いた。井尻は一番方から二番方に連勤したと記憶する。午後七時か八時頃、井尻は『六坑は熊谷組に渡したので火薬をおいても、なにもならぬから三坑へ持つて来た方がよい。』と言つた。私も『そうだな。』とあいづちを打つた。」旨供述いているが、工数薄によれば、井尻と徳田については二番方にチエツク(チエクがあつても岩城定男については合計工数に算入されている。)はあるものの、一番方、二番方に連勤したかのごとき記載があるのに、藤谷については工数薄にも操業証にも二番方で稼働した旨の記載はない。

石塚守男は検察官に対し同年五月六日、「昭和二七年七月一七日はストで油谷炭鉱全山休みだつたので、七月一六日の夜から上芦別の“次郎長”に泊りに行き、七月一八日の午後五時頃、汽車で油谷の井尻飯場へ帰つたら、誰かが明日もストだと言つた。」旨供述しているのに、三坑七月分操業証には石塚、井尻、藤谷の三名とも、七月一八日、一九日、一番方で稼働したことになつている。

藤谷一久は検察官に対し、同年六月一九日、同月二一日、また証人として裁判官に対し同年八月一三日、「七月は皆真面目に働かず休んだ日の方が多かつた。現場に行つても金払いは悪いし、いいところを見付けなければならないと皆仕事に乗気ではなかつた。ただ仕事は休んでも大興事へ米をもらいに行つたり、油谷の聞谷商店へ物を買いに行つていた。何番方で働くか、誰と組むかは会社できめるのだが、休む人が多いし、また仕事の都合もあり、番組通りにいかないこともあつた。番組を坑夫達が変えることは会社の係の方でも承知してくれる慣行になつていた。」旨供述し、石川誠も検察官に対し同年七月六日、「会社は五月分から賃金を払わなかつたが、米と副食代は出していた。」旨供述し、浜谷博義も検察官に対し、同月一六日、「六月末から七月初め頃、番割は一応決めるが、毎朝出て来た人の都合で適当にやつておつたし、また決めてないのに、その仕事に適当に坑夫達が勝手に組んで働きに行つたこともあつた。兎に角、番割は規則正しくやつていた訳ではなく、その日の都合で、私が番割を新しく決めたり、坑夫達が勝手に組んで働きに行つておつた。」旨供述している。

かように大興商事では六月から七月にかけては賃金も未払いで、坑夫達は労働意欲を失い、あまり働かなかつたが、米、味噌は、大興商事が、坑夫達に現物給与をし、副食物、雑貨類については、聞谷商店から将来賃金が支払われるとき、大興商事において右賃金から差引いて直接支払うことを条件に売掛伝票で各自が講入していたので、坑夫達は坑内作業には従事しなくても、その日、その日の糊口をしのぐために、油谷炭鉱には出掛けて来ていたという有様で、坑内作業につく場合も、大興商事の指示に従わず、操込ににも届けず、居合わせた者同志で、適当に組を作つて入坑していた。

また、大野昇が検察官に対し同年一〇月二二日供述しているように、「大興商事における坑夫の賃金は、岩堀進の場合は一米、幾ら、採炭の場合は一トン、幾らという請負契約で、稼高によつて支払うことになつていた。」のであつて、特に岩堀進の場合は仕事の実績は測量によつて検収した延米によつてわかるのである。したがつて出勤、欠勤、工数は大興商事にとつても、坑夫にとつても、さして関心を寄せるところではなかつた。

以上の次第で捜査官等は、工数簿と操業証の各記載に食違いも多く、操業証にも、同じ番方で異つた稼働内容のものが、二枚あつたり、工数簿に各種のチエツクがつけてあつたりして、その意味も把捉し難く、いずれによつて捜査すべきか迷わざるを得なかつた。そこで芦別警察署警察官らは右工数簿、大興商事自身の工数簿の写、操業証等から、ほゞ概略この辺が正しいのではないかという表を作成し、これを捜査に従事する者に配布し、右表を参考に取調べに当るという実情であつた。

工数簿、操業証の各記載は、正確を期し難く、関係人の稼働状況をこれによつて確認できるものではないとの捜査結果となつた。

第四四、井尻正夫の七月二九日夜のアリバイについて

一、井尻正夫は昭和二八年五月一一日好田政一副検事に対して「昭和二七年七月二九日、夕方から油谷会館に映画を見に行つたが、題名は多分「豪傑三人男」だつたと思う。油谷会館には妻光子と子供が行つており、石塚、藤谷、福田米吉も行つていた。映画を見て午後八時半頃、石塚らと一緒に帰つた。」旨(甲第四九六号証)述べ、同年五月二二日、高木一検事に対して「題は忘れたが長谷川一夫主演の落人が五つの鍵秘密を開くとか探るとかいう映画だつた。」旨(甲第四九七号証)述べ、同年五月二八日、小関正平副検事に対して「その晩は映画を見に行つたと記憶しているが、晩に映画を見ていなければ、岩城の爺さんの家に泊つたのかもしれない。よく考えてみる。」旨(甲第五三一号証)述べ、同年八月二〇日館耕治警部補に対して「その日、一番方で現場に行き、午後三時頃帰って来て、家内や福田等と今晩映画に行くことになり、私も行くことにして、確か私は光子より一足先に出て大興の事務所に行き、鷹田さんに逢つて現場の通風が悪いから何とかして呉れと交渉して、それから会館に行った。会館に行ったのは、光子らよりも一足遅れており、私が二階に上つたところ、光子達は二階の正面真中頃に皆と一緒におつたので、私もその席に行き妻の脇に座つたのである。その時、一緒に映画に行つたのは、妻光子(子供連れて)、藤谷一久、藤谷の長男、福田米吉、夏井茂夫、村上忠吉、石塚はどうであつたか、はつきりしないが、藤谷の長男はその晩、一久と一緒に私の飯場に泊り、朝一番で帰つたと思う。」旨(甲第五〇六号証)述べ、七月二九日の夜のアリバイを主張する供述をなした。

井尻光子(井尻正夫の妻)は、同年四月二三日「七月終り頃油谷会館で“地獄の門”という映画を見たことがある。私は、その日の午後六時頃、開館前観覧席を前取りしておき、夫、藤谷、石塚らと映画を見にいつた。その夜、館内で築別当時から知つている後藤忠助夫婦と会つた記憶がある。」旨(検供、28・4・25、甲第四三四号証)述べた。

油谷会館で“地獄の門”が上映されたのは昭和二七年七月二九日午後〇時半から一九時までであつた(油谷鉱業所厚生係永田松太郎作成答申書28・11・28甲第四一六号証)。

藤谷一久は七月末頃“地獄の門”を見た。一番方で入坑したが、一〇時か一一時近く誰からともなく帰つて映画でも見に行くかと言うことになり、井尻、石塚、福田米吉の四人で飯場へ戻つて、事務所で映画券を貰つて会館に行つた。アーチの所で後藤忠助に出会つた。映画は約二時間で終り、帰りに事務所に寄つて、妻が病気だからといつて、鷹田から二、〇〇〇円こつそり借りて、午後三時一〇分か五時四〇分頃の汽車で上芦別の自宅に戻つた。」旨(検供、28・5・4甲第四六五号証)述べていたが、後に「油谷で“地獄の門”を見たというのは嘘で、自分が見たのは、当麻へ行く頃、上芦の親戚の劇場で独りで見たのである。油谷で見たのは“死の街を脱れて”という映画であつたような気がする。夜、井尻光子、福田、井尻正夫、石塚と井尻の子供らと一緒に二階で見た。井尻に“地獄の門”の映画の説明をしてやつたことがあるが、それは当麻から帰つてからで、看板を見て思い出したので上芦の街を歩きながらしやべつたのである。」旨(検供、28・8・2、甲第四七九号証)述べるにいたり、上芦別で劇場を経営している前田米蔵も「藤谷とは親戚である。上芦映画劇場で“地獄の門”が上映されたのは、昭和二七年九月三日、四日と、一一月二〇日、二一日であつた。」旨(検供、28・7・22、乙第一〇四号証)述べた。

石塚守男は「七月二九日夜、井尻光子、藤谷、福田、夏井か村上、井尻の子供二人と“地獄の門”を見に行つた。」旨(検供、28・5・7、甲第四四六号証)述べていたが、後に「藤谷と一緒に映画に行つたのは、油谷で一回だと思うが、七月二九日は、藤谷は映画に行かないような気もする。」旨(検供、28・10・27、甲第四五五号証)藤谷と一緒に行つたことの記憶はさだかでないと述べている。

福田米吉は「井尻や藤谷と映画に行つたことはない。先に行つて席をとつてやつたこともない。“地獄の門”は券をくれなかつたので行かなかつた。油谷会館で映画を見るとき井尻正夫と一緒になつたことは一度もない。井尻の奥さんと一度、会館で一緒になつたとき、子供からキヤンデー一本をもらつて食べたことがあるが、この時は二階で奥さんの隣に夏井、徳田が坐つていた記憶がある。」旨(員供、28・3・27、乙第二六五号証、検供、28・7・22、甲第四三七号証)述べた。

後藤忠助は「油谷会館に“地獄の門”を見に行つたことがある。正午か午後二時頃までであつた。会館前で井尻正夫ともう一人の男にあつた。井尻は『お前二番方か。』と言つたので、私は『そうだ』と答えた。家内と一緒だつたか家内の妹、信子と一緒だつたかはつきり記憶がない。井尻を昼間見かけたことはあるが、夜、会館に来ていたのを見たことはない。」旨(検供、28・4・24、乙第六三号証、検供、28・6・4、乙第六四号証)述べ、伊藤信子(右後藤忠助の妻の妹)も「昭和二七年七月か八月頃昼間の一二時頃から油谷会館に子供を連れて、映画を見に行つたことがある。会館の中で井尻正夫、藤谷一久が映画を見ていた。そのとき井尻は上半身裸で手拭を首にかけていた。井尻の男の子もいたが見ていた場所は階下中央の席であつた。昼間であつて夜でないことは間違いない。」旨(巡供、28・5・20、乙第三〇一号証、検供、28・6・2、乙第一一四号証)述べた。

村上忠吉(井尻飯場の寄宿者)は、「井尻の姐さん、井尻正夫、夏井茂夫、井尻の子供二人と油谷会館に映画を見に行つたことが一回ある。しかし、それは昼間であつたことを憶えている。」旨(検供、28・6・5、乙第一一三号証)述べた。

佐藤光男(大興商事係員)は「私は“地獄の門”という映画を晩に見た。油谷会館の二階で見たが附近にはは井尻正夫はいなかつた。」旨(検供28・7・15、乙第九六号証)述べた。

なお起訴後の捜査であるが、田中武雄(大興商事の坑夫)は、「七月二九日の晩、油谷会館に“地獄の門”を見に行つた。そのとき井尻正夫や藤谷一久、石塚守男、井尻の奥さんに会つたことはない。“地獄の門”は二階の映写室のあたりで見た。」旨(検供、28・10・2、乙第九一号証)述べ、山本実(大興商事の坑夫)は「“地獄の門”という映画を見に行つたことがある。神田玉蔵、田中武雄外数名で油谷会館の二階で見たが、井尻正夫と会つていない。その晩、会館で原寅吉とも出会つた記憶はない。」旨(検供、28・10・5、乙第七三号証)述べた。

以上のように、井尻正夫や妻光子が一緒に映画“地獄の門”を見たという人、井尻正夫を、かねて見知つている人の誰一人として、本件鉄道爆破の当夜である七月二九日の夜、油谷会館で井尻正夫を見かけたという者はいなかつた。

井尻が映画のあら筋について供述しているのも、藤谷が供述するように上芦別の街で“地獄の門”の筋書きを話して聞かせたとすれば、さして不思議なことではない。

右資料から見れば、井尻正夫が七月二九日夜、油谷会館で映画を見たことはないと捜査官が判断したのは相当である。

二、岩城雪春は「昭和二七年七月下旬、中村誠が下痢で休んで出て来た日の朝の汽車で井尻正夫と一緒になつたことがある。正夫は紺の半ズボン、進駐軍の国防色の上衣を着て、地下足袋を履いていた。正夫は、その前の日の夕方六時の汽車で油谷から上芦別(三菱芦別駅)に下つた。大橋組の佐藤さんと車の中で一杯気嫌で話し合つていたのを記憶している。上芦で下りて爺(岩城雪春の父で、井尻正夫の岳父)の家の前まで行つたが、自分は家内のやつているマーケツトに行つたので、その後のことは知らない。」旨(検供、28・7・8、甲第四二九号証)述べた。

岩城定男は「七月三〇日か三一日か兎に角、中村誠が下痢で休んで出勤した朝、井尻正夫と一緒になつた。正夫は朝六時二分の汽車で芦別から上芦別の爺さんの処へ来た。正夫は、そのとき「酔払つて芦別の駅のコンクリートの上に寝ていたら巡査に起されて、駅の椅子に寝れと言われて寝て来た。」と言つていた。正夫は紺色のニツカーズボン、縦縞のダブルの背広上衣を着ていた。靴は村上忠吉のチヨコ色の短靴であつた。中村が休んだ次の日であることは間違いない。」旨(検供、28・6・27、甲第四三三号証)述べた。

米森順治も「千代の山一行が来た後、朝の汽車で井尻と一緒になつたことがある。『私が何処へ行つて来たの。』と言つたら、『岩城』とか『明鉱』とか言つていたような気がする。ペンケ駅(油谷)についてから、事務所の方に行く途中で、井尻は『飯を食つて行くから。』とか言つて私達と別れて飯場の方へ行つた。井尻は上衣は着ずシヤツを着ていたような気がする。」旨(検供、28・7・16、甲第四三七号証)述べた。ちなみに明治上芦別炭鉱で千代の山一行の相撲興行があつたのは七月二六日である(清原肇作成の答申書、28・12・26、甲第五九三号証)。

藤谷一久も「七月末頃朝一番の三菱鉄道で油谷に上つたが、組の者が乗る貨車に乗つたところ、井尻は普段の服装で両前の紺の縦縞の上衣、黒ズボンをはいて座る場所がなく、誠のスツコに腰掛けていた。『どうしたんだ。』と言葉をかけたら『芦別で、飲んで油谷へ行く便もなくなつたんで駅長しようと思つたんだが、上芦まで歩いて来た。そして隠居の所へ泊つた。』と言つた。トンネルに入つたとき井尻はハンケチで口をふさいでいた。その時は貨車の隅つこの方に腰掛けていた。私と雪春と事務所へ行つたが、井尻はそのまま飯場に行つたと思う。」旨(検供、28・6・21、甲第四七五号証)述べた。

本件鉄道爆破事件起訴後、中村誠も「七月二八日は腹が痛くなり、仕事が終る午後三時近くまで三坑入口の休憩所で休んでいた。その翌日は腹が痛かつたので仕事に行かずに休んだような気がする。七月三〇日午前六時二〇分前頃、岩城辰男方へ行つたところ、井尻と岩城定男が表に出ていた。一緒に有蓋貨車に乗つて油谷に行つたが、その車には、私、井尻正夫、岩城雪春、藤谷一久、岩城定男、米森順治、それから外記も一緒であつた。井尻は紺色の縦縞ダブル上衣、黒半ズボン、靴は茶色か黒色ズツクであつた。私はスツコをしいて『これを敷けや。』と言つた。トンネル通過のとき井尻はハンカチで口を塞いでいた。井尻は油谷駅に下りて『かかあの気嫌とる。』とか言つて聞谷商店で飴玉を買つた。そして『後から行く。』と言つて飯場に帰つた。井尻は私がまだ事務所にいる間にやつて来た。」旨(検供、28・10・3、甲第四九二号証)述べた。

以上のように岩城雪春からは、七月二九日夕方六時の汽車で井尻が油谷から上芦別へ下るのを見たとの供述が得られ、またその翌日の七月三〇日の午前六時過の上芦別から油谷へ上る三菱鉄道の有蓋貨車に乗つた井尻の同僚達から、井尻が同じ貨車に乗つて上つたのを目撃したとの供述が得られたのであるから、井尻が七月二九日の夕方六時過頃から翌三〇日の朝六時過ぎまで、油谷にはおらず、芦別町附近にいたと捜査官が判断したのは相当である。

三、被控訴代理人は「中村秀子(中村誠の妻)が『夫が出勤した最初の日に、帰宅して平岸に鉄道爆破事件があつて油谷で警察が入つてうるさいとか言つておつた。』旨(検供、28・8・22、乙第一一二号証)述べているが、そうだとすれば、それは八月四日の遺留品発見以後のこととなる。」と主張する。

しかし右中村秀子の供述は一年以上も経過した後に、夫から聞いた話が何時なされたものかに関する記憶で、さまで正確は期し難く、原審証人中田正の証言によれば、七月二九日爆破現場で発見された青色被覆線(正確には緑色)が、油谷クラブに引いてある電話線と同じものであることを藤田良美巡査部長が知つていたので、翌三〇日には、捜査官らが油谷炭鉱に聞込みに入つたことも窺われ、中村誠が帰宅して警察が入つてうるさいと話したとしても何ら不思議はない。

なお、被控訴代理人は「中村誠は、下痢の後、井尻と一緒になつた日、仕事の後で井尻は原田文夫と酒を飲んだ話をしていた旨(検供、28・10・3、甲第四九二号証)述べているが、進藤藤雄供述(検供、28・9・19、乙第六六号証、検供、28・9・21、乙第六七号証)、原田文夫供述(員供、28・9・21、乙第一八九号証、検供、28・10・2、乙第四四号証)、原田福治供述(員供、28・9・21、乙第三一一号証)によれば、井尻と原田文夫らが酒を飲んだのは八月一四日以後のこととなるから、中村誠が下痢の後、井尻と一緒になつた日は七月三〇日とはいえない。」と主張する。

しかし、中村は右供述(前掲甲第四九二号証)につづいて、「当時の色々の状況からして、そうだと思うのだが、この点については、確実にそうだと言い切れないところもある。その時のことは皆に聞いてもらえば判然りすると思う。」旨述べている。

中村の「井尻は原田文夫と酒を飲んだ話をしていた。」との供述は記憶を混同しているものと思われる。何故なら八月一〇日には井尻、藤谷、中村らは、大興商事を解雇されたのだから、上芦別から、藤谷、中村が仕事のため上ることはないはずである。

ちなみに、油谷鉱業所の大興商事工数薄(甲第五七九号証の二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の二)のいずれにも、中村誠のみは七月二九日に稼動した旨記載がなく休んだと窺われる。

以上のとおり、捜査鍛階で蒐集された資料によれば、井尻正夫は七月二九日夜、映画“地獄の門”を見に行つたことはなく、七月二九日夕方から翌三〇日早朝までの間のアリバイは成立しないと捜査官が判断したことは相当である。

第四五、雷管について

被控訴代理人は、「証第一〇号の雷管は遺留品の雷管ではなく偽造品である。」と主張する。

一、遺留品の雷管が昭和二七年八月四日発見された当日およびその二、三日後には、これに緑青はふいておらず、鈍い赤銅色で新しい感じのもので(光つていたというのは、この感じのことであろう。)管体に刻み込まれた「5」の数字が肉眼ではつきり見えていたことは、巡査打田清(第二審第一三回公判証言、34・2・10、甲第二四〇号証、同第二一回公判証言、36・11・5、甲第二九一号証)、警部芦原吉徳(第一審第二〇回公判証言、29・8・4、甲第六一号証、第一審公準証人芦原尋問調書、甲第六七号証)、副検事好田政一(第一審第三四回公判証言、30・1・27、甲第一二五号証、第二審第二五回公判証言、37・1・17、甲第三〇五号証)および当審における控訴人高木一の各供述ならびに司法警察員警部芦原吉徳作成の昭和二七年八月四日付実況見分調書(甲第四〇九号証)、同人作成の同日付領置調書(甲第四一〇号証)の記載により認められる。巡査部長藤田良美は「八月四日の晩、薄面るいときキヤリヤー(自動車)の中でダイナマイトに挿入れている雷管の脚線を引張つたら、脚線だけが抜けてきたので、管体をダイナマイトから指先で摘み出した。雷管の頭部の金属部分が少し欠けたようになつた。管体は黒味を帯びて錆びのようなものがついて渋のかかつた色だつた。」旨(第一審第五七回公判証言、30・10・27、甲第一七六号証、第一審公準証人藤田尋問調書、31・3・29、甲第一七八号証、第二審第一七回公判証言、34・12・15、甲第二七〇号証、同第二二回公判証言、36・11・16、甲第二九四号証)述べているが、同人は薄暮の車中でみたことであつて、その観察は正確を期し難い。

二、本件爆破現場に残存した青色(正確には緑色)被覆銅線、鉄製細針金、長さ約一〇糎のもの四本、火薬の臭いのするボール紙蓋破片約一〇糎四方くらいのもの一枚(司法警察員作成、検証差押調書、27・7・29、甲第四二一号証)と、本件爆破現場東方約三〇〇米の山脇源次郎方の燕麦畑東北端のよもぎ草原で発見された遺留品たる緑色被覆電話線二四、七米のもの、細い針金三束長さいずれも六米前後のもの、新白梅ダイナマイト一六本在中の蓋のとれたボール紙箱の破片(司法警察員作成、実況見分調書、27・8・4、甲第四〇九号証、領置調書、甲第四一〇号証)、の同一性(第一審判決挙示の証拠(91)ないし(95)、甲第五六五号証)と遺留品が発見された状況、遺留品の存在した場所(検察官作成、・検証調書、27・8・24、・甲第四一八号証)、発見者山脇代美子の供述(第一審公準証人山脇代美子、28・11・6、甲第一七号証)からみて、遺留品の雷管は爆破犯人がこれを他の遺留品とともに遺棄したものであるとの捜査官の判断は物的証拠にささえられて極めて合理的である。

被控訴代理人は「遺留品の雷管は発見当時の形状からみて、新白梅ダイナマイトに二四時間挿入されていたに過ぎないとみられる。」と主張する。

警部芦原吉徳は、証人として鑑定人大友董鑑定(鑑定書、37・8・20、甲第三四六号証)の実験の結果による、ダイナマイトに二四時間挿入の雷雷管、一週間挿入の雷管、二週間挿入の雷管、三週間挿入の雷管を比較して、「八月四日にダイナマイトから抜き出した雷管の腐蝕状態は、実験による一週間挿入したものに近いが、遺留品の雷管は頭に緑青がふいている程度で、管頭部の腐蝕はなかつた。抜いた瞬間は緑青がふいていたから、二四時間挿入したものとも違うが、どちらかといえば、二四時間挿入のものの方が近いようである。」旨(第二審第三六回公判証言、37・9・18、甲第三五一号証)証言し、副検事好田政一は、証人として右二四時間挿入の雷管、一週間挿入の雷管、二週間挿入の雷管、三週間挿入の雷管、一月挿入の雷管等を比較して、「遺留品の雷管を見たのは、八月四日から一週間以内であるが、そのとき雷管は、緑青をまだふいていなかつたように思う。強いて似ているのを探すと、二四時間挿入のものに近い状態だつたと思う。一週間挿入のものないし一ヶ月挿入のもののような状態ではなかつた。」旨(第二審第三七回公判証言、37・10・16、甲第三五三号証)証言する。

右大友鑑定による実験の結果ならびに大友董の証言(第二審第三八回公判証言、37・10・24、甲第三五六号証)によると、雷管をダイナマイトに挿入して実験した結果、

(1) 二四時間挿入の雷管は表面がいくらか酸化し、いくらか黒ずんでおり、張込、締付に緑青が部分的に僅か付着している。

(2) 一週間挿入の雷管は、表面に緑青がふえ、管口からゴムにかけての管頭部が三分の一くらい腐蝕脱落し、腐蝕により管頭部に充てんされた硫黄は流出している。

(3) 二週間挿入の雷管は、管口からゴム近かくまで管頭部が剥離し、腐蝕により右硫黄は流出し、張込、締付の緑青が多くなつている。残つた管体は非常に黒くなつており、腐蝕が甚しく銅の先端が非常にもろい。先端を手できれいに取つても凸凹になる。

(4) 三週間挿入の雷管は、管口からゴムとの接蝕面近くまで腐蝕剥離し、手でさわると腐蝕の先端がとれる。全体に緑青が附着してゴムが見えない。

(5) 一月挿入の雷管は、三週間挿入のものとあまり差がない。というのである。

ところで、右実験においては、正式な方法に従つて、雷管を完全にダイナマイトに挿入して、右の結果を出している。ところが、同時に雷管を半分ダイナマイトに挿入した場合も実験しているが、これによると三八日間経過しても腐蝕は殆ど進んでいない結果となつている。したがつて、雷管を、どの程度深くダイナマイトに挿入するかということは、挿入の時間と腐蝕の進行度との関係を測定するための必須の条件であることが明らかである。そして遺留品の雷管が、どの程度深くダイナマイトに挿入されていたかが判明しない(司法警察員作成、実況見分調書、27・8・4、甲第四〇九号証、添付写真一三葉目、一九葉目参照)のであるから、右実験の結果を直ちに適用して、雷管の挿入期間のを推定することは妥当ではない。

また、雷管がダイナマイトに一週間挿入されていたか、どうかを判定するためには、雷管が全部ダイナマイトに挿入されていることを前提としても、実験と現実との間に気温、その他状況の相違のあることは当然予想されるから、誤差を予定しなければならないわけである。このために、二四時間と一週間との間に、さらに細かく数段階の期間を設けて実験結果を出し、対象とされる雷管が、そのいずれに近いかを比較し、かつ相当の誤差を考慮して挿入期間を判定すべき筋合である。単に二四時間と一週間との二個の実験結果を出して、これと比較し、二四時間のものに近いということだけで挿入期間を二四時間とみることは、判定の基準が余りに大まか過ぎており、かつ誤差を考慮しないもので、正確を欠くといわねばならない。

また、大友証人(前掲甲第三五六号証)は、実験には、雷管の外形は昭和二七年当時のものと同じものを使用したというが、一〇年後の右実験当時の雷管の外形の化学的成分が寸分違わぬ同質の真鋳または銅であつたとは、保障のかぎりでないから、この点からも緑青の多少は、挿入期間を推定する唯一の根拠とはなし難い。

さて一方、芦原証言、好田証言も、右のように微妙な管体の色つやについての一〇年前の感じの記憶であつて、科学的に観察した正確なものではないことが明らかである。両名の証言するところは、当審における控訴人高木一の供述するように、「緑青は少しあつたような気もするが、それにしても、そんなに古いという感じはしなかつた。」というのと同じ趣旨であろうと推察される。

そうだとすれば、右実験結果と芦原、好田各証言に基づいて雷管のダイナマイト挿入期間を測定することが不可能ではないとしても、その結論には幾多の不正確な要素が含まれているのであり、これを以て客観的真実であると見るにはほど遠く、前掲の捜査官の同一性の判断を左右するに足りない。

三、遺留品の雷管のその後の状況について検討する。

司法巡査打田清は証人として「雷管は八月四日の晩、全部ダイナマイトから抜いた。遺留品発見後二、三日して保管を命ぜられたが、その後はダイナマイトに挿入しないでダイナマイトと雷管は別々に保管した。」旨(第一審公準証人打田尋問調書、29・9・17、甲第六五号証、同29・9・22・甲第六六号証、第二審第一二回公判証言、33・12・19、甲第二三七号証、同第一三回公判証言、34・2・10、甲第二四〇号証、同第二一回公判証言、36・11・15、甲第二九一号証)供述し、芦原吉徳も刑事第一審では「発見したその日の内にダイナマイトから雷管を抜いて雷管とダイナマイトを別々にして保管した。」旨(第二〇回公判証言、29・8・4、甲第六一号証)供述し、第二審では、「一、二本は捜査に持ち歩いたが、他はダイナマイトに差し込んで原型どおりにして置こうとした。再び挿入して一ヶ月位そのままにしておいた。」旨(第一七回公判証言、34・12・15、甲第二七一号証)供述し、好田政一は「遺留品が発見されて二、三日後、雷管を見たとき二、三本はダイナマイトに挿入されていた。全部抜いたのは八月末が九月に入つてからと思う。」旨(第二審第二五回公判証言、37・1・17、甲第三〇五号証)供述し、藤田良美は「ダイナマイトから雷管を抜かないのが八月末か九月初頃まであつた。」旨(第一審公準証人藤田尋問調書、31・3・29、甲第一七八号証)供述し、警部田畠義盛は「発見されて相当期間がたつて九月頃、最後の一本を抜くのを見た。線を持つて引張つたら脚線がとれ、雷管の管体の一部が脚線に付いていた。管体は指でつまんで取り出したが、青くなつて緑青がふいていた。」旨(第一審第五七回公判証言、30・10・27、甲第一七五号証、第二審第二三回公判証言、36・12・13、甲第二九九号証)供述しており、また好田政一は「昭和二八年四月になつて見たときには脚線のとれているものが二、三本あつた。多少緑青めいたものが管体に付着していた。脚線がとれただけで管体の長さは変りはなかつた。昭和二八年四月二八日国久松太郎を取調べたとき、脚線のとれた雷管は、そのあとが、多少何か、かびのようなものが付着しておつたようであるが、金属部分が取れそうだという状況は見られなかつた。」旨(第一審第四三回公判証言、30・6・15、甲第一四四号証、第二審第二五回公判証言、37・1・17、甲第三〇五号証)供述している。

しかして田畠義盛は「雷管が腐蝕するということは、捜査中からわかつていた。)旨(前掲甲第一七五号証)供述している。

右各供述に刑事第一、二審の審理状況ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、遺留品の雷管は昭和二七年八月四日のうちにダイナマイトから抜かれて、二、三日中に打田巡査のところで保管されることとなつたこと、捜査の必要に応じて雷管を一時ダイナマイトに挿入し、用ずみとなれば、またダイナマイトから抜き出していたこと、かかるところから腐蝕も進み、昭和二八年四月頃には五本の雷管のうち二、三本は脚線がとれており、緑青がふいていたが、管体の長さの異状に気付く程、短かくなつていたものはなかつたと認められる。

前記供述のうち、一箇月または二箇月、雷管がダイナマイトに挿入されていた旨の供述は、一箇月または二箇月の間に、捜査の必要のある際、ダイナマイトに挿入された雷管を見たことから、その間終始、雷管がダイナマイトに挿入されていたと想像して述べたものとみるのが相当である。

ちなみに、打田清は「保管を命ぜられた雷管は鑑識係の暗室の中に保管していた。暗室の鍵は私が持つていて、雷管は上司の命令によつて取り出していた。私の了解を得ないで出し入れはできないようになつていた。」旨(前掲甲第六五号証)証言しているのである。

また、藤田良美が「八月四日の晩、雷管の頭部の金属部分が少し欠けたようになつた。」旨供述しているのも、前記のように薄暮の車中でみたことであり、その観察が必ずしも正確でないのみか、第二審第一七回公判(前掲甲第二七〇号証)では、「脚線だけが抜けて来た。脚線には雷体の内径位で厚さ一、二粍位の僅かな硫黄がついていたが、管体の一部が欠けたことは記憶がない。」旨証言しているのであつて、さだかな記憶ではないと認められる。田畠義盛が「線を引張つたら脚線がとれ、雷管の管体の一部が脚線に付いていた。」旨述べているのも、管体が短かくなつたことを確認したうえでの供述ではなく、腐蝕しているような感じを受けたというのであつて、他人が抜いているのを側から見たというに過ぎないのであるから正確を期し難い。

また、好田政一が「昭和二七年暮頃、捜査会議の際、見たときは脚線はみなついていた。」旨(前掲甲第三〇五号証)述べたのは、脚線について十分観察した結果ではなく、思い違いであるとみられる。

そして国警札幌地方本部鑑識課警部久保田由雄(第一審公準証言、31・3・29、甲第一七九号証)、打田清(第一審公準証言、29・9・17、甲第六五号証)によれば、雷管に刻まれた「5」の数字の筆跡鑑定は、国警本部を経由して金丸吉雄(鑑定書、28・10・26、甲第四二二号証)に依嘱されたところ、その直前の昭和二八年一〇月四日頃、証第一〇号の雷管五本が、久保田由雄によつて写真に撮影された(その写真は刑事第一審公判に証第一二八号として提出されたが、本件訴訟には提出されていない。)が、そのとき証第一〇号の一ないし四は、証第一〇号の五よりも短かくなつておつたこと、短かくなつた管頭部には腐蝕した残骸が残つていて、該部分は刃物で切つたようにスポツと綺麗にはなつていなかつたこと、雷管を入れて来た封筒の中からモロモロとした破片が落ちたことが認められる。そうして雷管を証拠品として検察庁に送致するまで終始保管の責任を持たされていた前記打田清は「小型封筒の中に入れて保管していたが、絶えず中をあらためて見たことはなかつた。ずつと後になつて、管頭部が腐蝕して動いていて頭がとれるなと思つたことがある。」旨(第二審第一二回公判証言、33・12・19、甲第二三七号証)「頭部の方がボロボロとれたり、とれた脚線を管体に巻きつけてあるのを見付けたのは、鑑定に出す前頃で、鑑定に持つて行つた時には表面は黒くなつており、証第一二八号の写真のような具合になつていた。」旨(第二審第二一回公判証言、36・11・15、甲第二九一号証)証言している。そうすると昭和二八年四月頃から同年九月末頃までの間に漸次、硫黄の入つた管頭部から腐蝕が進行して行き、昭和二八年一〇月四日頃には、遺留品の雷管五本のうち四本の管頭部分が腐蝕により滅失して、右認定のように短かくなつたと認めるのが相当である。

以上認定の各事実を総合すると、昭和二八年一〇月四日頃には、証第一〇号の一ないし四の雷管は管頭部分が腐蝕により滅失し、同号の五の雷管より短かくなつており、管頭部には腐蝕の残骸が残つていたが、ここが刃物で切つたように平らになつていなかつたことが認められる。

四、打田清巡査は、「雷管を斉藤満由に保管させたことはない。右火薬類保管証は、ダイナマイトを保管させる予定で芦原吉徳捜査課長において、昭和二八年一月八日書面を記載作成したが、そのときは、預けることなく、同年四月に至り、ダイナマイトが危険な状態になつたので急遽、ダイナマイトだけを預けたが、その際、先に記載作成していた火薬類保管証を、そのまま使用した。雷管も保管した記載になつているが、捜査に必要だから雷管は預けないと話して、斉藤の同意を得て、右書面に斉藤の署名、押印をさせた。昭和二八年七月三日斉藤にダイナマイトの消却処分をさせたが、そのとき雷管も一緒に消却させたと間違われては困ると考えたので、保管証をとつておく必要があると思料し、書類上のつじつまをあわせる意味と雷管を消却しなかつたということを明らかにするため、改めて火工品保管証(前掲甲第五七六号証)を作成せしめたのである。」旨(第一審公準証言、29・9・17、甲第六五証、第一審第二八回公判証言、29・12・1、甲第一〇三号証、第二審第二一回公判証言、36・11・15、甲第二九一号証)供述する。

被控訴代理人は「遺留品の雷管は斉藤満由が保管中滅失した。」と主張する。

斉藤満由は、「本件雷管は昭和二八年七月四日、打田清巡査から保管依頼を受けて、預つて保管した。雷管五本は脚線のとれていたものが、二本位あり、雷管の管体は焼けただれたような真青なもので、ちよつと力を入れると崩れるような感じのする腐蝕の甚だしい雷管であつた。そして雷管管体は腐蝕して滅失してしまい、残つた脚線は曲げて一まとめにしてあつたが、その脚線のみを火薬庫の寒暖計の蔭の柱の釘にかけて保管していたところ、昭和二九年二月頃までに紛失した。」旨(第一審第二八回公判証言、29・12・1、甲第一〇四号証)供述する。そして火薬類保管証(斉藤満由作成、28・1・8、甲第四一一号)、火工品保管証(斉藤満由作成、28・7・3、甲第五七六号証)の各記載も、右供述に符合するようにみえる。

しかし、芦原吉徳(第一審公準証言、29・9・29、甲第五九〇号証)、打田清(第一審公準証言、29・9・17、甲第六五号証)、巡査部長高松一美(第二審第二三回公判証言、36・12・13、甲第二九八号証)の各証言を総合すれば斉藤満由は当時警察から、本件ダイナマイトのほかに多くのダイナマイトと雷管を預り、その消却処分もしていることが認められ、斉藤の右供述は、他の雷管と記憶違いしているとみられる。また右二通の保管証の記載には措辞に不適切なところがあるが、これをもつて打田の供述の信用性を覆えすに足る資料とみることはできない。

仮に、斉藤満由の述べるとおりであるとすれば、斉藤としては、雷管の滅失および脚線の紛失について、保管者として、その事情を報告しなければならない筋合である。また、警察とすれば、遅くとも刑事公判手続が始まるまでには、雷管を検察庁に送付するため、斉藤に雷管の返還を求め、これが滅失したとなれば、その事情に関する書面を作成して検察庁に報告しなければならない筋合である。ところで、かかる手続のなされたことは、記録上全く顕われていない。このことは、雷管が斉藤に預けられておらず、斉藤の手許で滅失したこともないことを示す証左の一つであるといえる。

のみならず、斉藤が昭和二八年七月四日に預り、そのまま返還しなかつたとすれば、芦別市警察から昭和二八年一〇月四日頃、国警本部を経由して、雷管に刻記された数字の鑑定の依頼をした雷管は偽造品であつたことになる。

ところで、巡査部長藤田良美(第二審第一七回公判証言、34・12・15、甲第二七〇号証、同第二二回公判証言、36・11・16、甲第二九四号証)、芦原吉徳(第二審第一九回公判証言、36・11・8、甲第二八四号証)、高松一美(第二審第二三回公判証言、36・12・13、甲第二九八号証)、油谷鉱業所火薬取扱所職員国久松太郎(第二審第二四回公判証言、36・12・14、甲第三〇一号証)の各証言によれば、本件鉄道爆破事件発生後の八月中旬頃、(国久証言によれば、八、九月頃)に、遺留品の雷管に刻まれた「5」の数字の字体と油谷鉱業所で使用されている雷管の「5」の数字の字体を対照して捜査の参考にするため、油谷鉱業所の火薬取扱所職員国久松太郎から雷管一〇本位を借り出したことがあること、芦原捜査課長は、なるべく既存のものを見たいから油谷鉱業所で「5」と書いた雷管があつたら借りて来いと高松巡査部長に命じたこと、高松巡査部長は防犯係で各炭鉱の火薬係を知つており、国久松太郎もかねてよく知つていたこと、国久は雷管の数字の刻記は二番方の高橋為男と柴田政美の二人がするのだが、丁度二人が刻記したものが一〇本位あるからといつて貸してくれたので、高松巡査部長はこれを借用して帰つたこと、たまたま国警本部捜査課の捜査官が芦別市警察署に来ていたので、芦別警察署長と右捜査官らが遺留品の雷管の数字と、右借り出した雷管の数字を対照して見ていたこと、その際雷管は油谷鉱業からだけでなく、三井、三菱、明治等の各炭鉱からも借り出して来ていたこと、右対照に使用した後、高松巡査部長は、封筒に入れて鍵のかかる抽出の中に入れていたが、一日か二日後、国久に返還したこと、国久も確かに返還交付を受けたことを記憶していること、その際、任意提出書を徴したり領置調書を作成したりはしなかつたこと、遺留品の雷管とすりかえて返還したり、遺留品がなくなつたといつて警察署で騒動したようなことはないことが各認められる。柴田政美(第二審第二四回公判証言、36・12・14、甲第三〇二号証)、高橋為男(第二審第二五回公判証言、37・1・17、甲第三〇四号証)は、雷管に数字を刻むとき、前日請求された数より余分に刻むことはないと証言しているが、右証言は、西浦正博(第二審第三二回公判証言、37・4・19、甲第三三七号証)の証言に照して信用できない。

そうだとすれば、警察官らが、新しい「5」と刻記された雷管を油谷鉱業所から入手したことも認められず、偽造品の雷管の「5」の数字の筆跡鑑定を依頼するなどということは、捜査の常道に照し、到底想像し得ないところである。巡査部長中田正は「遺留品発見の当日、ダイナマイトから抜いた雷管に刻記された「5」の数字を雷管を縦にして数字を見て、「5」の数字の上の横線が長いため、「7」と読み違えたものがあつた。」旨(第一審第五五回公判証言、30・10・11、甲第一七〇号証、同第六五回公判証言、30・10・18、甲第一七二号証)証言しているところ、現に証第一〇号の雷管五本の中には、縦に読めば、「7」と読み違いやすい雷管(鑑定書、金丸吉雄作成、28・10・26、甲第四二二号証参照)が一本含まれていることが認められる。

兎に角、偽造品について鑑定をさせる必要性は全く理解できない。

五、被控訴代理人は、「本件雷管(証第一〇号)はダイナマイトに二四時間程度しか挿入されたものではない。」と主張する。

鑑定人大友董鑑定(鑑定書、37・8・20、甲第三四六号証)および大友董の証言(第二審第三八回公判、37・10・24、甲第三五六号証)によれば、大友鑑定人は本件雷管と、ほぼ同一性質の雷管をダイナマイトに挿入した場合の雷管の腐蝕状態につき、二四時間、一週間、二週間、三週間、一月、一月半、二月の各段階にわけて実験したこと、そして、二四時間の場合は管体に殆ど変化がなく、光があり、僅かに管頭部に緑青が出る程度であること、一週間になれば管体全体にわずかに緑青がふき、管頭部は腐蝕する状態であることの実験結果が出たことは、前記のとおりである。

同人は、さらに本件雷管を見て、すでに本件雷管は一〇年以上も経過しており、一〇年以上経過した雷管を扱つたことはないので、はつきりはいえないが、と断つて、本件雷管は管体にあまり緑青がないこと、腐蝕の状態がないことから、右二四時間挿入の雷管の腐蝕状況に近く、二四時間程度挿入したものであると推定できると述べている。

しかし、前記のとおり、大友鑑定人の実験結果を直ちに雷管の挿入期間の判定に使用することは妥当ではなく、その理由は、先に述べたところと同一である。

さらに、本件証第一〇号の一ないし四の雷管は、同号の五の雷管よりも、昭和二八年一〇月四日頃には、すでに腐蝕によつて短かくなつていたことは、前示認定のとおりであるから、このことをも考慮して、右実験の結果と対比して鑑定すべきであるのに、大友証人は、右証第一〇号の一ないし四の雷管が短かくなつたのは、同号の五と同じ長さのものをゴムチボ中間から人為的に刃断したものであるとの前提に立つて証言するのである。そして、右各頭部の一部が、既に腐蝕によつて滅失していたとすれば、実験結果に対比しても二四時間の挿入とみられないことは明らかである。

また、大友証人は「緑青は、ちよつと手で触つたぐらいではとれないが、本件証第一〇号雷管には緑青がない。」(前掲甲第三五六号証)と証言しているところ、そのこと自体鑑定を要する事項であろう。ことに、本件証第一〇号の雷管は、幾度か人手にわたり、雷管に刻まれた「5」の数字が点検されていることは、容易に推認されるのであるから、仮に緑青がふいていても、大友鑑定による一週間挿入の場合のごとき、うつすらとふいた緑青でも絶対に剥離されないものとは断定できまい。

いずれにせよ、右鑑定の時には、本件雷管は、すでに一〇年以上経過しており、前記事情も考慮すれば、右実験の結果をもつて本件雷管と比較し、本件雷管が、ダイナマイトに挿入されていた時間を二四時間と測定することは妥当ではない。大友証人が、その時間を二四時間であると推定しても、その正確性に信頼を寄せることはできない。

なお、右大友の実験による鑑定においては、雷管の管体に鉄筆で刻んだ数字が前記の二四時間、一週間、二週間、三週間、一月、一月半、二月の経過によつて、どのように変化するか、どの段階から判読不能になるかの実験はなされていないから、その点不明であるが、一週間経過程度では、右実験に供した雷管の管体によつても、これが判読できないほど腐蝕し緑青がふいているとはみえない。

そうでないと、雷管に数字等の記号を各炭鉱において刻記する意味が、失われるであろう。けだし石炭の中に不発雷管がまぎれ込んだ場合の責任追求が目的で右の刻記がなされるもの(国久松太郎検供、28・4・28、甲第四三八号証)だから、一週間ダイナマイトに挿入されていたら、もはや雷管に刻記された記号が判読できないのでは、わざわざ雷管に記号を刻記する実益もないであろう。

かえつて、前記のように本件爆破現場に残存した青色(正確には緑色)被覆銅線、鉄製針金四本、火薬の臭いのするボール紙蓋破片一枚と、右爆破現場東方約三〇〇米の山脇源次郎方の燕麦畑東北端のよもぎ草原で発見された遺留品の緑色被覆電話線二四・七米のもの、細い針金三束、新白梅印ダイナマイト一六本在中の蓋のとれたボール紙箱の破片の同一性と遺留品が発見された状況、遺留品の存在した場所からみて、本件雷管(証第一〇号)は爆破犯人が、右の他の遺留品とともに遺棄したものであつて、本件鉄道爆破の犯行の時から、これが遺留品として発見されるまでの間、ダイナマイトに七日間挿入されていたものと認めるのが相当であり、この認定に合理的疑いをさしはさむ余地は存しない。

六、被控訴代理人は「本件雷管と脚線が符合しないものがある。」と主張する。

大友董証人は、刑事公判廷で、証第一〇号の四の雷管に巻かれている二組分の脚線のうち一組の脚線の先端を拡大鏡で見て、「この先端にハンダの跡があり、これは白金をつけた痕跡である。したがつて、この脚線は途中で切れて、雷管からはなれたものではなく、その最先端部分まで完全に雷管から引き抜かれたものであつて、残存部分は雷管の中には全くないはずである。」と述べ、証第一〇号の一ないし四の雷管について、右公判廷で針をそれぞれの雷管の脚線の通つていた穴にさし入れて、「いずれも堅いものにさわる感じがするので、この穴には脚線の切れ端が残つていると思う。したがつて、証第一〇号の四の脚線の一組と、同号の一ないし四の雷管とは全く関係がない。」旨(第二審第二七回公判証言、37・2・20、甲第三一一号証、第一審鑑定人大友董尋問調書、31・5・16、甲第一九五号証)述べている。しかし、証第一〇号の四の脚線の先端にハンダのあることから、白金が取りつけられていたとみるのは納得できるが、その白金はどうなつたのであろうか。白金は一組二本の脚線の先端についていて、その先端を連結させているのである。そして、脚線の穴から白金も外に取り出されたとみるほど、大きな穴のないことは、ここに針をさして点検していることからも明らかである。しかもその穴は弾性に富むゴムにあけられた穴である。白金とともに脚線の先端の一部かハンダの破片が残らないと断定することはできない。この先端部分に関しても、管体の長さや脚線の先端の挿入部分の長さについても、同証人は証言し「これによつても脚線の先端部分は雷管の中に残つていない。」と述べているのであるが、その証言中にも「長さは、いずれも規格品のことであつて、実際の雷管には若干のバラツキがある。」旨述べているのであつて、一粍ないし一粍未満の極めて小さい単位が問題にされるのであつて、右証言によつて、証第一〇号の四の一組の脚線の先端が完全に雷管から抜かれたとみるに足りない。

また、脚線の穴に針を入れて、手ざわりで中の堅さをみているが、前述のとおり、白金がまず残存していると予想され、またハンダの破片か脚線の先端が極少部分でも残つていないとは断定し難いから、堅いものにふれたとしても不思議はないのみならず、一〇年以上も経過した雷管の内部に如何なる化学的変化が生じているかもわからないのである。したがつて、右大友証言によつて証第一〇号の四の一組の脚線と同号の一ないし四の雷管とが符合しないと断定することはできない。

のみならず、大友証言のとおり、証第一〇号の四の脚線の一組と同号の一ないし四の雷管が符合しないとすれば、被控訴代理人の主張によれば、証第一〇号の一ないし四を含めて本件雷管は偽造品であるということであるが、偽造品を本物と称して提出するのに、わざわざ脚線と雷管と別異のものを持つて来たことになり、理解し難いところである。そして斉藤満由は前記のとおり、「雷管は滅失し、脚線は紛失した。」と述べているから、遺留品の脚線が右偽造品にまぎれ込む余地はないはずである。かかる事情からしても大友証人の脚線と雷管とが合致しないとの推定は採用し難い。また大友証人の証言は、刑事第一、二審の審理の経過に徴して、第二審判決が当然言及すべき供述であるにかかわらず、全く説示されなかつたことからも、その信用性のないことが窺い知られる。

被控訴人の右主張は採用できない。

七、被控訴代理人は「本件雷管の頭部は人工により切断された。」と主張する。

山本祐徳の鑑定(鑑定人山本祐徳尋問調書、30・6・1、甲第一四一号証)、大友董の鑑定と証言(第一審第三六回公判証言、30・2・8、甲第一三一号証、鑑定書、37・8・20、甲第三四六号証、第二審第三八回公判証言、37・10・24、甲第三五六号証)によれば、「切断面の形状から見て、管体を引き千切つたと思われる。」「銅の断面が非常になめらかで、ゴムの状態も老化ではなく断面が比較的きれいである。」等証第一〇号の一ないし四の雷管の管頭部は平らになめらかになつておるが、腐蝕によるときは、このように平らになることはないということから証第一〇号の一ないし四は雷管の管頭部は刃物で切られたものであるという。

ところで、遺留品の雷管は、昭和二八年一〇月四日、当時五本のうち四本は残りの一本より短かく、四本の長さは、ほぼ同じであり、その管頭部には、いずれも腐蝕の残骸が付着していたことは、前記のとおりであり、本件雷管が刑事第一審裁判所に提出されたのは同年一一月四日である(甲第七、八号証)から、遺留品の雷管の管頭部に人工が加えられたとすれば、右の期間の間になされたものであると認めるのほかはない。そして、如何なる理由によつて、人工が加えられたかこれを明らかにする資料はない。しかし、右期間の間には検察官はすでに起訴を終り、その証拠品も検察官の手に移される段階であつたわけである。また、証第一〇号の一ないし四の雷管の管頭部の人工を加えたといわれる部分は、鑑定人山本祐徳の鑑定によれば「硫黄が詰つている部分の下部のゴム栓の上部から切断されたもの」(前掲甲第一四一号証)大友証言によれば「管頭部の締付部分より上部であつて、ゴムチボとその上部の硫黄部分とのさかい目から三粍位ゴムチボに食い込んだ部分で切断されたもの」(前掲甲第三一一号証)という。しかし右大友証言も第二審第三八回公判において、検察官の反対尋問にあい、証第一〇号の一ないし四の各雷管のゴムの最底部つまり張込の上までを測定したが、その結果は二四・五粍ないし二五粍あり、残存管体の長さは、三〇粍あつたのであるから丁度五粍のゴムを加えるとゴムの上部までは残つていることになり、ゴムチボまでは切れていないことが認められ(前掲甲第三五六号証)、右山本鑑定の結果と異らないことになる。前記のとおり一〇月四日当時四本は既に他の一本より短かくなつていたのであるから、右切断されたといわれる部分は腐蝕の残骸を切り取つたもので数粍ないし一粍未満を出でない極少部分であるとみるほかはない。

しかして本件雷管の証拠としての価値は管体に「5」の数字の存在することであるから、これが人工による切断だとしても、本件雷管の証拠価値には変化はないわけである。

右のように、本件雷管の切断がなされたとすれば、昭和二八年一〇月四日から同年一一月四日までの間であること、その四本は、他の一本より腐蝕により管頭部が既に短かくなつていたこと、「5」の数字の存する管体の部分には何ら人工が加えられていないこと、切断部分は数粍ないし一粍未満とみるほかないこと、警察においては遺留品の雷管を必要とする捜査は終了しており、遺留品の雷管は警察から検察庁に送付する手続のみが残されていたこと、遺留品の雷管は重要な証拠品の一であること、これに人工を加える必要性を認めるべき資料がないことに、弁論の全趣旨を総合すれば、遺留品の雷管の頭部切断は捜査関係者が証拠価値を変動させるための特別の意図をもつて作為したものではなく、すでに腐蝕している頭部(硫黄充てん部分)の残骸部分に、警察から検察庁に本件遺留品が送付される際、係官が雷管や脚線を整理したり、名札を付けたりするに当り手が触れ、係官の不知のうちに、自然に現状のようになつたとの推測ができないわけではない。そうだとすれば、係官らは、この変化に気付かず、したがつてその間の事情を説明することができないわけである。この推測に立てば、本件雷管の頭部が平らになつた事情が全くわからないという経緯も理解できるのである。

さて、現在は雷管が刑事第一審法廷に提出されてから、すでに二〇年を経過している。そして、初めて法廷に提出されたとき、雷管がどんな状態であつたのか、これに関する写真も書類も作成されておらず、山本鑑定(前記甲第一四一号証)、大友証言(前記甲第一三一号証)、国久松太郎証言(第一審第三二回公判証言30・1・18、甲第一一八号証)、高橋為男証言、(第一審第三三回公判証言、30・1・25、甲第一二〇号証)、柴田政美照言(第一審第三三回公判証言、30・1・25、甲第一二一号証)等から、その状態を推測するのほかにこれを知ることができない。そして、これらの証言、鑑定の結果が記載された書証にも、雷管の頭部の状況について詳細に、すなわち、判断の資料にできるほどには記載されていない(例えば、「千切つたようになつている。」「きれいになつている。」「切りとつたようになつている。」)のである。これは、雷管の腐蝕の状況や、その進行の速度を記録して後日の証拠資料とする必要がなかつたからである。そこで、本件証第一〇号の雷管を実際に見分し、偽造、変造の主張が弁護人から提出されていた刑事第一審裁判所が、本件雷管の偽造、または変造について、どのように考えていたかは、反面当時の雷管の腐蝕の状況を知るための重要な手がかりともなり得るのである。

刑事第一審においては、弁護人から本件雷管が偽造品であるとの主張が提出され、このため、山本鑑定、大友証言がなされ、管頭部人為的切断との見解が示されたわけである。これに対し高橋証人(第三三回公判証言、30・1・25、甲第一二〇号証)は、腐蝕によつても証第一〇号の一ないし四のような状態で残つていることも可能であるとの経験に基づく見解を述べている。刑事第一審判決(甲第五六五号証)は、本件雷管が偽造されたか、変造されたかの点については全く触れていないが、本件証第一〇号の雷管の存在をもつて有罪認定の証拠として掲げるとともに、高橋証言をも採用して有罪認定の証拠としている。これによつてみると、刑事第一審裁判所は、山本鑑定および大友証言を採用せず、弁護人の偽造、変造の主張を排斥していることは明らかである。そうだとすれば、雷管の管頭部分の状況は刃物で一息にスパツと切つたような真平な断面をなしていたのではなく、若干の凸凹があつて、腐蝕の結果によつても生じ得るとみられる有様であつたのであろうと推測されるのである。(原審における検証の結果―検甲第五号は当審第一回口頭弁論において顕出―によれば、現在は小さい凸凹が数多くみられる。)そうだとすれば、山本鑑定、大友証言を採用させず、高橋証言を採用できる可能性があり得るからである。

さて、この刑事第一審の雷管に対する判断を考慮に入れて判定すれば、本件雷管には、変造が全く行われず、その頭部は腐蝕したものであるとの結論に導れざるを得ないのである。すでに判示したとおり、本件証第一〇号の一ないし四の雷管の管頭を、しかも極めて微細な部分を刃物で切断する必要が捜査官には全く存しなかつたのであり、また、変造したとすれば、五本のうち、一本には全く刃物が加えられていない――被控訴代理人も、証第一〇号の五の雷管の管頭が切断されたとは主張していない。――理由も解明できない。かえつて、本件証第一〇号の一ないし四の雷管の管頭は自然の腐蝕により短縮されたとみるときは、すべての疑問が解消するのである。証第一〇号の一ないし四の雷管の頭部が人工により切断されたものであるとの被控訴代理人の主張は理由がない。

八、以上のとおりであるから、本件証第一〇号の各雷管は遺留品の雷管であつて、同号の一ないし四の雷管の頭部は自然の腐蝕により滅失したものであり、人工により切断されたものではないとみるのが相当であり、これに符合する打田清の証言(第一審公準証言、29・9・17、甲第六五号証)は措信するに価する供述とみなければならない。

したがつて本件雷管は、遺留品の雷管そのものであり、偽造または変造されたものではないと認めるのが相当である。

これに反する被控訴代理人の主張は理由がない。

第四六、関係人の逮捕・勾留について

一、石塚守男の逮捕・勾留

石塚守男は(1)昭和二八年三月九日「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後六時頃、油谷炭鉱六坑捲上機室物置内火薬保管箱より大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により芦別町警察に逮捕され、同年三月一一日から三月三〇日まで芦別町警察署に勾留された(逮捕状、28・2・28、乙第四〇三号証の一、勾留状、28・3・11、乙第四〇三号証の二)。(2)そうして同年三月三〇日「中村誠外二名と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二九日午前三時半頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二個を爆発させた。」旨の火薬類取締法違反被疑事実により滝川区検察庁に逮捕され、同年四月一日から四月二〇日まで滝川拘置支所に勾留された(逮捕状、28・3・30、乙第四〇四号証の一、勾留状、28・4・1、乙第四〇四号証の二)。(3)そして四月二〇日、右火薬類取締法違反の事実につき起訴され同年七月一九日まで右被告事件審理のため、被告人として勾留された(第一審第八回公判証人石塚証言、28・12・8、甲第三八号証、第一審第九回公判証人石塚証言、28・12・9、甲第四〇号証)。(4)さらに七月一九日「(一)昭和二七年七月初旬頃、法定の除外事由がないのに、油谷炭鉱第三坑より大興商事株式会社俗称井尻飯場までの間において火薬類であるダイナマイト一二本(二〇本の誤記と認められる。)入三箱位などを所持し、(二)七月中旬頃、井尻正夫らが人の身体、財産を害せんとする目的をもつて、前記爆発物であるダイナマイト等を所持していることを知りながら、直ちに、これを警察官吏に告知しなかつた。」旨の火薬類取締法違反および爆発物取締罰則違反被疑事実により札幌地方検察庁岩見沢支部に逮捕され、七月二〇日から同年八月八日まで岩見沢拘置支所に勾留された(逮捕状、28・7・16、乙第四〇五号証の一、勾留状、28・7・20、乙第四〇五号証の二)。(5)そして八月七日「昭和二七年七月初旬頃、法定の除外事由がないのに、油谷炭鉱第三鉱より大興商事の井尻飯場までの間においてダイナマイト二〇本入三箱位等を所持した。」旨の火薬類取締法違反事実につき起訴され、右被告事件審理のため、被告人として勾留され、八月二六日保釈により釈放された(逮捕状、28・7・16、乙第四〇五号証の一、勾留状、28・7・20、乙第四〇五号証の二、石塚検供、28・10・27、甲第四五六号証)。

石塚は、昭和二八年三月一一日、「昭和二七年六月二八日午後五時頃、藤谷一久、中村誠、福田米吉とともに六坑捲上機室物置に入れてあるダイナマイト三本、雷管二本を盗んで、その晩午後一一時頃、四人で上芦別堰堤に赴き、発破をかけて魚獲りをした。」旨の自白をしたが、同月一三日、昭和二七年六月二〇日頃、井尻飯場で、井尻、地主、大須田、名前を知らない二五、六才の男が会合したこと、その席で地主が井尻に火薬入手方の依頼をしたこと、自己が三坑から作業に使つた残りのダイナマイト三箱位、雷管何本か在中の箱を、七月四日井尻の妻光子の依頼により井尻飯場へ持ち帰つたことを供述し、つづいて、三月一六日には、右火薬類が本件鉄道爆破に使用されたことを供述(員供、28・3・13、乙第三九四号証、員供、28・3・16、乙第三九六号証)したのであるから、捜査官らは、石塚があるいは本件鉄道爆破事件の共犯者ではないかと思料し、運搬された火薬の行方、鉄道爆破との関係、井尻、地主とのつながり等を捜査するため、右(2)、(4)の逮捕をなし、勾留請求したものと推測できないことではない。もつとも、(3)、(5)の勾留は自己が被告人として、その審理のため裁判所によつて勾留されたのであるから、やむを得ないものといわねばならない。

二、藤谷一久の逮捕・勾留

藤谷一久は(1)昭和二八年二月一八日「昭和二七年七月四日午後七時頃油谷炭鉱六坑捲上機室物置内において大興商事坑内発破係員鷹田成樹保管に係る新白梅印ダイナマイト二〇本入一箱(時価七〇〇円相当)を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により芦別町警察に逮捕され、同月二〇日から芦別警察署に勾留されたが、同年三月一一日、嫌疑不十分で釈放された(逮捕状、28・2・16、乙第四一〇号証の一、勾留状、28・2・20、乙第四一〇号証の二、第一審第五回公判証人藤谷証言、28・11・20、甲第三二号証、第一審第八一回公判証人藤谷千恵子証言、29・10・7、甲第八一号証)。

しかし、(2)藤谷は三月一九日「中村誠外二名と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二八日午後一一時頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二本を魚を獲る目的をもつて仕掛けて爆破させ、もつて不正に所持使用した。」旨の火薬類取締法違反被疑事実により芦別町警察に逮捕され、三月二三日から同年四月一〇日まで芦別警察署に勾留された(逮捕状、28・3・16、乙第四一一号証の一、勾留状、28・2・23、乙第四一一号証の二)。(3)そして四月一〇日「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日頃油谷炭鉱六坑捲上機室物置内火薬保管箱より大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により滝川区検察庁に逮捕され、四月一三日より同年五月一日まで赤平町警察署に勾留された(逮捕状、28・4・10、乙第四一二号証、勾留状、28・4・13、乙第四一二号証の二)。(4)そして、五月一日「石塚守男、中村誠、福田米吉と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二九日頃、芦別市字金剛芦別公園上流附近の空知川においてダイナマイト二本位電気雷管二本位を使用して爆発させた。」旨の火薬類取締法違反の事実により札幌地方裁判所岩見沢支部に起訴され、同年七月三一日まで右被告事件の審理のため、被告人として勾留された(勾留状、28・5・1、乙第四一二号証の三)。(5)そして七月三一日「昭和二七年一〇月上旬頃より同月一八日頃までの間に、歌志内町字仲村三興土建会社労務者宿舎内において井尻正夫から布団一組を預り保管中、その頃、同町内の質店に、これを入質して横領した。」旨の横領被疑事実により芦別市警察署に逮捕され、同年八月三日から八月二二日まで滝川地区警察署に勾留された(逮捕状、28・7・28、乙第四一三号証の一、勾留状、28・8・3、乙第四一三号証の二)。

藤谷は「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後一一時頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池において、ダイナマイト二本、電気雷管二本を魚を獲る目的をもつて、仕掛けて爆発させた。」旨の事実については、そのダイナマイト・雷管の窃取の事実を含めて、おそくとも同年四月一〇日までには自白し、共犯者らの自白も得られていたものと弁論の全趣旨により認められるが、石塚の司法警察員に対する昭和二八年三月一六日付および一七日付各供述調書によれば、「八月七日井尻、藤谷と焼酎を飲んだとき『石塚君が持つて来た火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから、頼むから誰にも言わないでくれ。中村も藤谷も入つているんだから。』と更に口止めされた。七夕の夜、飲み終つてマーケツトに出掛けたが、その時マーケツトの表通りで私に対して、藤谷が『マツコから聞いたとおり俺も入つているから、必ず誰にも言わないでくれ。』と口止めした。」旨(乙第三九七号証、同第三九九号証)の供述記載があり、更に、藤谷は、昭和二八年三月一九日逮捕されて七日目の三月二六日「七夕の夜、井尻から『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたが、あれは鉄道爆破に使つたのだから、絶対、誰にも言うなよ。』との話を聞き、井尻はさらに、鉄道爆破に使う前だつたか使つてしまつた残りであつたか、はつきりしないが、『その火薬を誰かにわけてやつた。』と言つていた。」旨(員供、乙第三七〇号証)供述し、三月二九日「井尻から石塚と一緒に火薬入手を頼まれた。火薬は石塚が飯場に運搬した。井尻は七夕の夜『それには中村も入つているんだからなあ。』と付け加えた。」旨(員供、乙第三七一号証)供述し、同年四月九日「七夕の夜、井尻は『二九日は俺も下に行つて来た。行つた処は芦別と平岸の間で芦別寄りの方だつた。地主も来ていた。帰りには慌てて持つて行つたものを置いて来て失敗したぜえ。』と言つていた。」旨(員供、乙第三七三号証)供述した。

捜査官らが、藤谷があるいは、本件鉄道爆破事件の共犯者ではないかと思料し、運搬された火薬の行方、鉄道爆破との関連、井尻、地主らとのつながり等を捜査するため、右(3)、(5)の逮捕をなし、勾留請求したものと推測できないではない。そして(4)の勾留は自己が被告人として、その審理のため裁判所によつて勾留されたものであるから、やむを得ないものといわねばならない。

三、中村誠の逮捕・勾留

中村誠は、(1)昭和二八年三月一九日「藤谷一久外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後六時頃油谷炭鉱六坑捲上機室物置内火薬保管箱より大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により芦別町警察に逮捕され、三月二〇日から同年四月八日まで滝川地区警察署に勾留された(逮捕状、28・2・28、乙第四〇六号証、勾留状、28・3・20、乙第四〇六号証の二)。(2)そして四月八日「石塚守男外二名と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二九日午前三時半頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二個を爆発させた。」旨の火薬類取締法違反被疑事実により滝川区検察庁に逮捕され、四月一〇日から四月二九日まで滝川拘置支所に勾留された(逮捕状、28・4・7、乙第四〇七号証の一、勾留状、28・4・10、乙第四〇七号証の二)。(3)そして四月二九日右火薬類取締法違反の事実につき起訴され、同年七月二八日まで右被告事件審理のため、被告人として勾留された(第一審第五回公判証人中村証言、甲第一三号証、被告人中村、石塚、藤谷、福田、火薬類取締法違反被告事件第一回公判調書、28・6・24、甲第四五九号証の一および五、移監通知書、28・5・1、乙第四〇七号証の三)。(4)さらに七月二八日「昭和二六年二月中頃芦別市金剛明治鉱業所内において池永ツナ外四一名より個人無尽掛金を集金し一万二、三〇〇円を預り保管中、その頃右金員を神奈川県横須賀市及びその附近において、ほしいままに遊興費等に費消して横領した。」旨の横領被疑事実により芦別市警察署に逮捕され、七月三〇日から同年八月初頃まで赤平町警察署に勾留された(逮捕状、28・7・2、乙第四〇八号証の一、勾留状、28・7・30、乙第四〇八号証の二)。(5)そして同年八月初頃、右横領罪で起訴され、右被告事件審理のため、被告人として勾留された(移監通知書、28・8・17、乙第四〇八号証の三、被告人石塚、中村の火薬類取締法違反ならびに被告人中村の横領被告事件第五回公判調書、甲第四六〇号証の一ないし三)。(6)さらに同年九月七日「法定の除外事由がないのに、昭和二七年七月中旬頃大興商事第二寮井尻飯場において井尻正夫より、同所から芦別町富岡三菱上芦別駅まで火薬類である新白梅三函、雷管一〇本位を不法に運搬所持した。」旨の火薬類取締法違反被疑事実により芦別市警察署に逮捕され、同年九月九日から勾留された(逮捕状、28・8・29、乙第四〇九号証、勾留状、乙第四〇八号証の四、移監報告書、28・9・26、乙第四〇八号証の五)。なお(5)等により釈放されたのは同年一〇月五日である(第一審第三回公判証人中村証言、28・11・5、甲第一三号証)。

弁論の全趣旨に徴すれば、右(1)の被疑事実はその逮捕勾留の期間中に取調べが終了したものと認められる。ところで、石塚は昭和二八年三月一七日「八月七日の夜井尻から『石塚君が持つて来た火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから頼むから誰にも言わないでくれ。中村も藤谷も入つているんだから。』と口止めされた。』旨(員供、乙第三九六号証)述べ、藤谷も、同年三月二九日「七夕の夜、井尻から『石塚が持つて来た火薬は全部地主にやつた。あれは鉄道爆破につかつたんだから誰にも言うな。』といい、『それには中村も入つているんだからなあ。』と言つた。」旨(員供、乙第三七一号証)述べていたのであるから、捜査官らが、中村は本件鉄道爆破事件の共犯者ではないかと思料し、井尻、地主その他との関係、鉄道爆破の実行等について捜査の必要があると考えて(2)の逮捕・勾留をしたと推認できないことではない。(3)の勾留は自己の火薬類取締法違反被告事件の審理のため被告人として裁判所によつて勾留されたものであるからやむを得ない。(4)の横領被疑事件の逮捕・勾留も、後に起訴までされているのだから、必要なかつたとはいえない。(5)の勾留は自己の横領被告事件の審理のため被告人として裁判所によつて勾留されたものであるから、やむを得ない。(6)逮捕・勾留は、同年八月一日(員供、乙第一七九号証)、八月二〇日(員供、乙第一八一号証)、同年九月六日(員供、乙第一八〇号証)に各取調べられているが、中村自身の火薬類取締法違反の容疑であり、かつ藤谷供述(員供、28・7・17、乙第三八七号証)の内容とも大きく食い違い、さらに追求する必要があつたと認められるから、不必要な勾留とはいえないし、勾留状(乙第四〇八号証)の記載からも、何時まで勾留されたものかわからない。かくみると(3)、(4)、(5)、(6)の逮捕・勾留、または勾留は、いずれも軽微な犯罪とばかりはいえないのみならず、その必要性も肯定される。

四、井尻昇の逮捕・勾留

井尻昇は昭和二八年四月一四日「昭和二七年七月四日、藤谷一久と共謀して六坑捲上機室横差掛け小屋から、火薬類を持ち出し運搬した。」との火薬類取締法違反の容疑で逮捕され、二〇日間勾留された(第一審第一三回公判証人・井尻昇証言、甲第五三号証、井尻昇検供、28・4・24、乙第五号証、同28・5・5、乙第七号証、原審証人開発昇証言)ことが認められるが、藤谷供述(員供、28・3・29、乙第三七一号証)、石塚供述(検供、28・3・31、甲第四三九号証)によれば、藤谷が六月二五日頃井尻正夫から火薬類の持ち出しを頼まれ、七月四日の二番方のとき藤谷と井尻昇が、六坑捲上機室横の差掛け小屋から、そこにあつた火薬類全部をリユツクサツクに入れて三坑現場に運んだことが認められるのであるから、井尻正夫に頼まれて、藤谷と共謀して井尻飯場に持ち帰るため、右捲上機室横差掛け小屋からこれを運搬したとみられても、やむを得ない。いわゆる司法審査を経て逮捕状、勾留状が発せられたのであるから、逮捕・勾留の理由および必要性があつたと推認され、その理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料は存しない。

五、出町幸雄の逮捕・勾留

出町幸雄は、昭和二八年六月二〇日頃から同年七月四日頃まで窃盗の容疑で逮捕・勾留(出町幸雄員供、28・6・22、乙第二〇〇号証、同28・7・4、乙第二〇一号証)されたことが、窺われるが、浜谷博義の供述(員供、28・3・14、乙第二一二号証)によれば、「出町が第二露天で崩落埋没したこともないのに、埋まつたことにしておこうと他の係員らと相談した。」ことが認められるのであるから、発破器を窃取したのではないかと疑われてもやむを得なかつたと考えられる。司法審査を経て、逮捕状、勾留状が発せられたのであるから、逮捕・勾留の理由および必要性があつたと推認され、その理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料は存しない。

六、岩城定男の逮捕・勾留

岩城定男は、昭和二八年六月八日から二〇日間、窃盗の容疑で逮捕・勾留(第一審第一四回公判証人、岩城定男証言、甲第五六号証、員供、28・6・8、乙第一九四号証、検供、28・6・27、乙第四号証)されたことが認められるが、福士佐栄太郎の供述(検供、28・4・23、乙第三九号証)浜谷博義の供述(検供、28・4・22、乙第一二号証)によれば、「岩城定男が、三坑現場に発破器を持つて行つた日頃から、発破器が見えなくなつた。」ことが窺えるから、岩城定男に発破器窃盗の疑いがかけられても、やむを得なかつたと考えられる。司法審査を経て逮捕状、勾留状が発せられたのであるから、逮捕・勾留の理由および必要性があつたと推認され、その理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料は存しない。

七、原田鐘悦の逮捕・勾留

原田鐘悦は、昭和二八年七月二九日、発破器のハンドルを窃取した容疑で逮捕(逮捕状、28・7・23、乙第一四一号証の一)され、同年八月九日まで勾留(勾留状、28・7・31、乙第四一四号証の二)されたことが認められるが、原田鐘悦が逮捕されたのは、藤谷の「井尻がハンドルは『安全灯のオンチヤンに持つて来て貰つたんだ。』と言つた。」旨の供述(員供、28・7・11、乙第三八二号証)によると思料されるところ、右程度の供述内容からは、原田のハンドル持ち出しの態様まではわからないわけであるから、原田が、ハンドルを窃取したのではないかとの疑いがかけられてもやむを得ないし、原田は「ハンドルを井尻に渡したと言えば、井尻に悪いということはわかつていた。」旨(第二審第三〇回公判証言、37・3・20、甲第三二七号証)証言しているところからみれば、逮捕・勾留の理由および必要性があつたと推認され、その理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料は存しない。

八、徳田敏明の逮捕・勾留

徳田敏明は、昭和二八年九月五日、油谷炭鉱二・三坑坑務所資材道具物置から、発破線(緑色ゴム線)を窃取したとの容疑で逮捕(逮捕状、28・8・28乙第四一五号証の一)され、同年九月二三日まで勾留(乙第四一五号証の二)されたことが認められるが、徳田敏明が逮捕されたのは、藤谷の「井尻が『三坑の道具などを借りるところから、徳田のオジと一緒に母線をカツパラつて来た。オジの奴、早いもんなあ。なれたもんだなあ。母線と一緒に火薬と管を抱えてきたんだ。』と話した。」旨の供述(員供28・7・21、乙第三八九号証、同28・7・25、乙第三九一号証)によると思料されるが、発破母線、ダイナマイト、雷管の窃取は、事案に照し重大なことなのであるから、逮捕・勾留もやむを得なかつたと考えられる。

九、福田米吉の逮捕・勾留

福田米吉は、昭和二八年三月下旬頃、火薬類の窃盗ならびに火薬類取締法違反の容疑で逮捕・勾留されたと推認される。(員供、28・3・27、乙第二六号証、検供、28・4・30、乙第二五号証)が、その後、火薬類取締法違反罪で起訴(被告人石塚、藤谷、福田、中村に対する火薬類取締法違反被告事件第一回公判調書、28・6・24、甲第四五九号証の一)されたものであり、被告人として右被告事件の審理のため勾留されたことが推認できるから、逮捕・勾留はやむを得なかつたと考えられる。

一〇、浜谷博義の逮捕・勾留

浜谷博義は昭和二七年の暮頃二一日間、詐欺罪等で逮捕・勾留されたことが、原審における証人浜谷博義の証言によつて認められる。しかし本件資料中には、昭和二七年暮頃、浜谷が本件鉄道爆破事件に関して取調べを受けた供述調書は存しない。浜谷が、どのような詐欺の容疑で逮捕・勾留されたかを認めるに足る資料も存しないが、司法審査を経て逮捕状、勾留状が発せられた以上、逮捕・勾留の理由および必要性があつたと推認される。右逮捕・勾留中に詐欺被疑事実については取調べられず、発破器の問題、火薬の問題だけについて、取調べを受けたとの資料は、右浜谷の証言以外には存しないところ、右浜谷の証言はたやすく信用しがたい。他に捜察官らが浜谷を詐欺罪等で逮捕・勾留したのがもつぱら、本件鉄道爆破事件に関する供述を得るためであつたと認めるに足る資料は存しない。のみならず、本件資料中には、昭和二七年暮頃に作成された調書は存しないのであるから、浜谷の逮捕・勾留と同人の本件芦別事件に関する供述には因果関係がないことに明らかである。

一一、福士佐栄太郎の逮捕・勾留

福士佐栄太郎は、昭和二八年八月のお盆前頃、賍物故買罪で二一日間逮捕・勾留されたことが、原審における証人福士佐栄太郎の証言、甲第二四五号証(第二審第一五回公判証人福士佐栄太郎証言)の記載によつて認められる。しかし、司法審査を経て逮捕状、勾留状が発せられている以上、逮捕・勾留の理由および必要性はあつたと推認される。右逮捕・勾留中に賍物故買罪の容疑事実については取調べられることなく、本件芦別事件に関する供述のみが求められたことを認めるに足る資料はないし、また右賍物故買罪について逮捕・勾留の理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料も存しない。なお、原審における福士佐栄太郎の証言によれば、福士は、警察や検察庁で、その当時の記憶の通り述べたことが認められる。

一二、目時政輝の逮捕・勾留

目時政輝は、昭和二八年六月頃恐喝または脅迫罪で逮捕・勾留されたことが、弁論の全趣旨によつて認められる。しかし、司法審査を経て逮捕状、勾留状が発せられている以上、逮捕・勾留の理由および必要性はあつたと推認される。右恐喝または脅迫罪の被疑事実につき取調べられることなく、もつぱら本件芦別事件に関し、地主のアリバイ等についてのみ供述が求められたと認めるに足る資料は存しないし、また右恐喝または脅迫罪について逮捕・勾留の理由および必要性が全くなかつたと認めるに足る資料も存しない。

一三、阿部兼三郎の逮捕・勾留

阿部兼三郎は、失業保険金詐欺の容疑で昭和二八年六月八日逮捕され、引き続き勾留され、右詐欺罪で起訴され、同年九月四日保釈により出所したことが、甲第一一号証(第一審第三〇回公判証人、阿部兼三郎証言)の記載により認められる。しかし阿部は右失業保険金詐欺罪で起訴されたのであり、右被告事件審理のため被告人として勾留されたのであるから、右逮捕・勾留はやむを得なかつたと考えられる。

一四、逮捕・勾留の理由である被疑事件について取調べを行うのではなく、もつぱら他の者の被疑事件について、参考人としての供述を求めるために逮捕・勾留することは違法であつて、かくして得られた供述は証拠として許容されないであろう。しかし逮捕・勾留の理由である被疑事件についての取調べがなされ、その被疑者から他の者の被疑事件についても任意の供述がなされるならば、この供述を聴取することは違法とはいえない。

いわゆる別件逮捕の違法性については、今日もなお確立された判例があるわけではないが(最高裁昭和三〇年四月六日大法廷、刑集九巻四号六六三頁、昭和二三年六月九日大法廷、刑集二巻七号六五八頁)が、刑事訴訟法施行後、日も浅かつた昭和二八年当時には、旧刑事訴訟法時代の慣行が実務を支配していたこと当裁判所に顕著な事実であるから、本件における捜査官らの逮捕状請求(なお、当時施行の刑事訴訟法では、逮捕の必要性は逮捕状発付の要件とはされていなかつた。)、検察官の勾留請求を強ち不当とは断定できない。

井尻昇、出町幸雄、岩城定男、原田鐘悦、徳田敏明らの逮捕・勾留は、それぞれ自己に直接関係する被疑事実であるから、やむを得なかつたとみられるし、浜谷博義、福士佐栄太郎、目時政輝、逮捕・勾留された被疑事実について起訴されなかつたのは、取調べのうえ、嫌疑が十分でなかつたか、嫌疑は十分であつても、検察官が起訴猶予処分にしたものかも知れない。いずれにしても、逮捕・勾留の理由および必要性はあつたことと推認され、本件芦別事件に関する供述を得る目的のみで、逮捕・勾留したものと認めるに足る資料は存しない。捜査官らが、見込み捜査をすすめるために、証人となるべき者、参考人を不法に逮捕・勾留したとは認められない。

第四七、井尻、地主の逮捕・勾留について

被控訴代理人は「石塚守男の供述は、単に昭和二七年七月四日に井尻飯場に火薬を持ち帰つたということでなく、鉄道爆破事件全般に及ぶもので、火薬類取締法違反は鉄道爆破の準備の一部であり、石塚の鉄道爆破事件全体についての供述が信用できないかぎり、その一部である火薬運搬についての供述も信用できないのに、捜査官は石塚供述の信用性を検討せず、さらに捜査を尽して必要な証拠を検討すべきなのに、これをしない段階で、兎に角、井尻と地主を逮捕して取調べ、両名から自供をひき出そうとしたが、このような逮捕・勾留は違法であり、捜査官には過失がある。」と主張し、控訴人らは「石塚の供述は逮捕から僅か四日目になされたのであるから信用性があり、これを資料として、井尻と地主を逮捕・勾留したことに過失はない。」と主張する。

一、井尻正夫と地主照が逮捕されたのが、昭和二八年三月二九日であることは、当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、右逮捕の被疑事実は「井尻、地主の両名が共謀の上、昭和二七年七月頃、井尻飯場附近でダイナマイト、雷管を所持していた。」というにあるものと認められる。

逮捕の基礎となつた疎明資料は、つぎのとおりであると認められる。

(1) 石塚守男(員供、28・3・13二通・乙第三九三号証、同第三九四号証、員供、82・3・14、同第三九五証、員供、28・3・16、同第三九六号証、問供、28・3・17、同第三九七号証、員例、28・3・18、同第三九八号証、員供、28・3・27、同第三九九号証)の中村繁雄巡査部長に対する七通の供述調書で、その要旨はつぎのとおりである。

昭和二七年六月二〇日頃の午後四時前頃、井尻飯場の井尻正夫の部屋に、井尻と共産党の地主、上芦別の大須田、二五、六才の小柄のインテリ風の男、井尻の妻光子がいるのが見えた。ベニヤ板一枚で仕切られた隣の部屋で仕事着を解いていると、地主の小声で「火薬が必要だから井尻君何とかならないか。」と言つているのが聞え、それに対して、井尻が「俺は火薬を扱つているが、俺からそういうことはできない。」と断つているのが聞えた。その後六月二六日頃井尻の妻光子から「焚きつけ用にするから火薬を持つて来てくれ。」と頼まれた。自分は、焚きつけ用にするというのは口実で、地主にわけてやる火薬だと思つた。七月四日、二番方で働いて帰るとき、その日使用して残つたダイナマイト二〇本入三箱の中に何本か剰つた雷管が入つているのをリユツクサツクに入れて、その上に石炭を入れ、飯場に持つて帰つて炊事場の釜の側に置いておいた。その後、七月七日頃の午後四時頃、飯場に地主が来ていたが、薄暗くなつて赤地に寿と書いた風呂敷に重箱でも重ねたような四角いものを包んで、井尻と一緒に出て行くのを見た。自分は火薬に間違いないと思つた。八月七日、七夕の夜、井尻が焼酎を買つて来て、私と藤谷一久と井尻の三人で飲んだが、そのとき井尻から「お前が持つて来た火薬も雷管も、そつくり地主にやつた。火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから誰にも言わないでくれ。中村も藤谷も入つているんだから。」と口止めされた。七月二七日午後三時頃仕事から帰るときにも、井尻は「石塚君が持つて来た火薬は鉄道爆破に使うんだから誰にも言わないでくれ。二九日は俺も下りるから、これも絶対に言わないでくれ。」と言つていた。そのほか四、五回口止めされた。

以上の供述内容である。

(2) 藤谷一久(員供、28・3・5、乙第三六八号証、員供、28・3・9同第三六九号証、員供、28・3・26、乙第三七〇号証)の藤田良美巡査部長、芦原吉徳警部に対する三通の供述調書でその要旨はつぎのとおりである。

昭和二七年七月四日、二番方で石塚、井尻昇と働いたとき、昇と六坑捲上機室横差掛物置の火薬箱の中からダイナマイトのボール箱入り四箱とバラになつたダイナマイト八本位、箱に入つた雷管一箱を出して背負袋に入れて三坑現場に持つて来た。その日ダイナマイト二六本位、雷管一三本位使つたが、残りの火薬の始末は石塚がしたから、石塚でないとわからない。ダイナマイトに雷管を挿填するときは五寸釘やキユウリンで穴をあけていた。七夕の夜、井尻、石塚と三人で焼酎を飲んだが、そのとき井尻は「石塚が持つて来た火薬は地主にやつたが、あれは鉄道爆破に使つたのだから、絶対誰にも言うなよ。」と口止めした。九月六日頃当麻の土木工事に行つたが、そのとき井尻は「石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、爆破に使つたんだから、こんなことは口が腐つても、知らない人が多勢だから誰にも言われないなあ。」と話した。九月八日の晩、当麻市街で酒を飲んだとき、井尻は「おい飲んだら何んでも、しやべりたがるんだが、あのことは誰にも言わないんだぞ。」と言つた。

以上の供述内容である。

二 被控訴代理人は「石塚の供述は、任意になされたものではなく身柄拘留中になされたもので、本来の被疑事実については自供したのに釈放されず、何時まで勾留されるかわからない恐怖感のもとで捜査官の方から、大須田、地主の名をあげ、衣川の写真を用意したうえで誘導して得たものである。」と主張する。

石塚は、昭和二八年三月九日「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後六時頃、油谷炭鉱六坑捲上機室内火薬保管箱よりダイナマイト三本、電気雷管二本を窃取した。」との被疑事実により逮捕(乙第四〇三号証の一)され、同年三月一一日勾留(乙第四〇三号証の二)され、同日、右被疑事実を自供している(石塚守男員供、28・3・11、乙第三九二号証)。しかし、警察官らは、藤谷から、すでに同年三月九日までに「七月四日、二番方で六坑捲上機室横掛け小屋からダイナマイト四箱位と雷管一箱位を井尻昇と一緒に三坑に運んだ。ダイナマイト二六本位と雷管一三本位を三坑で使用したが、残りの火薬の始末は石塚がしたから、石塚に聞いてもらいたい。」旨(前掲乙第三六八号証、同第三六九号証)の供述を得ていたのであるから、相当多量の火薬類ではあるし、その残火薬の処分はどうしたかと尋ねるのは、けだし当然である。場合によつては、石塚のいわゆる余罪となるかも知れない事柄だからである。

同年三月一二日の供述調書が、本件資料中に存在しないところから考えると、石塚は三月一二日には、何らの供述をしなかつたとみられる。

そうして翌三月一三日に、前記の極めて重要な供述をしたのである。

石塚は第二審第六回公判で、証人として「藤谷と井尻昇が逮捕されていたとき、中村部長から『その二人が、そういつている。お前の話とは全然違う。本人が言つているのだから間違いない。』と言われたから火薬を持ち帰つたと言つた。『井尻の奥さんから何か頼まれたことはないか。』と聞かれたので、『石炭と焚付けを頼まれて持つて行つた。』と答えたら、『その石炭の中に残火薬を入れて持つて行つたのではないか。藤谷も井尻も全部見ていた。』と言われたので、そのように供述した。』旨(甲第二二一号証)証言している。

しかし、右証言は事実に反する。三月一三日には、藤谷も、井尻昇も逮捕されていないことが明らかである。また、前記公判では石塚は証人として「中村部長が、その人達の名前を全部手帳に書いていた。そして『六月二〇日に飯場にいたんだが見たことがないか。』と聞いた。私は飯場に一回行つたが見たことがないと言つた。中村部長は『藤谷が見ている。嘘を言つても駄目だ。本当のことを言え。』と言つたので、私は藤谷がそう言つているのなら間違いないと思つて、そのように述べた。』旨、また、「中村部長から若い男(衣川)の写真を見せられ、『この人を見たことないか。』と聞かれ、『見たことがない。』と答えたら、『藤谷が見たと言つているから、一緒に働いていてお前が見ないはずはない。』と何度も言われた。あまりしつこく言われたので実際には会つたことはないが、そのように言つた。」旨(甲第二二一号証)証言している。

六月二〇日に、大須田、地主、野田こと衣川が井尻飯場に来たことについて、藤谷は何らの供述もしていないのである。

また、警察官が芦別の共産党員と考えている人物のリストぐらいは所持していたかも知れない。そうしてそのうち何人かの写真も持ち合せていたことも考えられないではない。しかし「六月二〇日」という特定の日に、しかも、他にも数名(本件全資料からも窺える)の共産党員がいる中から、大須田、地主、野田こと衣川の名前を警察官が選び出すことはできない。警察官が、六月二〇日に既に大須田、地主、衣川に尾行するなどして、その動静を探知していたとみる資料はなく、また、全く架空の事実を捏造して、精神的に弱い石塚の口を借りて語らしめたとも認められない。

更に、石塚は中村巡査部長に、飯場の見取図、大須田、衣川の座席の図面を書いて提出し、これが石塚の供述調書に添付されているところ、右公判の証言で「中村部長から『藤谷が書いたのだといつて図面を見せられ、『お前も一緒にいたのだから知らぬはずはない。お前も書け。』といわれたので、その図面のとおり書いた。見せられた図面には藤谷の署名と拇印があつた。」というのであるが、藤谷がかかる図面を書いたと認めるべき資料はない。

また、石塚は、前記公判で証人として「井尻の奥さんに頼まれたのではないか、と言われたから仕方なくそのように供述した。」と強制、誘導によつて供述したように証言しているのであるが、前記陳弁が措信できないのと同様たやすく信用できない。

かえつて、同じ日に、石塚は中村巡査部長に対し「六月二〇日、一番方の午後二時半頃、坑口に来たら安全灯の原田の三番目の一八、九才の男の子が、井尻に用事のある人が来ているから早く帰つてくれと言つて来たので、井尻は一足先に帰つた。私は四時一寸前に飯場に帰つたら、井尻の部屋に、地主と上芦別の大須田と二五、六才の小柄なインテリ臭い男が来ているのが、食器を出す窓から見えた。」旨「ベニヤ板の壁越しに、地主の、『火薬が必要だから井尻君何とかならないか。』という声、井尻の、『俺は火薬を扱つているが、俺からそういうことは出来ない。』という声を聞いた。」旨(乙第三九四号証)供述している。右の立聞きの状況、集合した人物等はこれを体験した者でなければ語り得ないようなことであつて、いずれも警察官が示唆し誘導したものではないかとみるのが相当である。火薬入手依頼のことも、同様であるとみられる。その他、七月七日、地主が火薬らしい包みを持つて行くのを目撃したこと、八月七日七夕の晩の話、中村も藤谷も仲間に入つているといわれたこと、口止めされたことの供述は、いずれも任意になされた供述であることは疑えない。また石塚は、このほかに、仕事の話、生活の話、他人の話など種々様々な供述をしており、その部分の供述が任意になされたことは明らかである。

以上のところを総合し、かつ、供述の内容全体からみて、石塚は中村巡査部長の強制、誘導を受けることなく、任意にその供述をしたと認めるのが相当である。

更に、石塚は精神的に弱い人間であつたかも知れないが、逮捕された被疑事実について自供をし、中一日おいての供述である。しかも自らも火薬を窃取して運搬したという罪に該当する不利な事実についての供述である。

いまだ勾留の期間も少いのであるから、なんとか早く釈放されたいため、捜査官に迎合し、その示唆にそつて自己に不利な虚偽事実を供述しなければならないような切迫した情況の下に立ち至つて供述したものとは、考えられない。

それのみではなく、この段階では、藤谷の「残火薬は石塚が始末をした。」旨(乙第三六九号証)の供述があつただけであり、残火薬の行方については、捜査官には全くわかつておらず、その見込も立て難い時であつたのであるから、捜査官は石塚に示唆を与えることはできないし、また石塚に何らの根拠もない示唆を与えて供述させたのでは、かえつて真相の発見を阻害し、捜査に支障を生じさせる結果となるのであるから、ただ石塚の記憶に基づく供述を期待していたとみるのが相当である。

そうして、前掲藤谷の各供述調書の記載によつて、七月四日の二番方でダイナマイト二〇本入三箱位と何本か剰つた雷管が入つた箱が石塚によつて始末されたこと、その日、雷管挿填用に五寸釘が使用されたこと、七夕の夜の井尻から石塚、藤谷が焼酎を飲んだ席で「石塚が持つて来た火薬は地主にやり、鉄道爆破に使つたのだから絶対誰にも言うな。」と口止めされたことについての石塚の供述は裏付されたのである。警察官らが、石塚の供述に任意性があり、その供述内容が信用性あるものと判断したのは相当である。

三 被控訴代理人は「常識的に考えても、井尻光子が焚付け用にダイナマイトの入手を依頼するなどということはあり得ない。」と主張するが、石塚の供述するところは、地主、大須田、衣川が井尻飯場に来たとき、井尻夫婦も同席したというのであり、右にみたように、石塚は三月一三日の最初の重大な供述のときから、「私は地主達に分けてやる火薬だと思つた。」というのであるから、それは、それなりに筋が通つている。

四 被控訴代理人は「井尻が火薬を必要とするとしても、同人は自分自身が、容易に火薬を入手し得る立場にいるのであるから、石塚に依頼することはない。」と主張するが、石塚の供述するところによれば、井尻は地主に火薬入手方を頼まれ、「俺は火薬を扱つているが、俺からそういうことはできない。」と断つているのを立聞きしたというのである。「俺からそういうことはできない。」(自分では立場上火薬を持ち出すことはできないとの趣旨)ということになれば、誰か他人に頼んで持ち出そうとしたと考えても、何ら不思議はない。

五 被控訴代理人は「鉄道爆破の実行前に、仕事の帰り途、石塚に鉄道爆破計画を打ちあける、しかも七月二九日という日までいつて計画を打ちあけることは常識的に不自然であるし信用し得ない事柄である。」と主張するが、たとえ井尻の妻光子からにせよ、火薬の入手を依頼したとなれば、事前に石塚が火薬持ち出しのことを職場の同僚等に洩らしたりはしないかとの懸念を抱いて、信頼できる石塚に火薬の使用目的を告げて、絶対に他人に感付かれないようにしてくれと頼んだとしても別に不思議はないし、事後の七夕の夜の話については、藤谷供述とも一致するのであるから、信用できるし、また、仮りに事前に井尻が話したとの点に疑問の余地があるとしても、後日の捜査にゆだねることにしたとしても不当ではない。

六 被控訴代理人は、「石塚が、六月中旬まで竹田方におり、井尻飯場に移つて間もなく六月二〇日に地主、大須田、衣川らと井尻の会合を立聞きしたと述べているのであるから、石塚が井尻飯場に移つた時期について竹田源次郎を取調べるべきである。」と主張する。

しかし、前述のように石塚が火薬類を井尻飯場に運んだこと、七夕の夜その火薬類が地主に渡され、鉄道爆破に使用されたことが、藤谷供述によつても、裏付されたのであるから、石塚供述は大筋において信用でき、六月二〇日に地主らとの会合の話を立聞きしたということも、本人ならでは知り得ない異常な体験事実の供述であるから、これが信用できると判断し得る以上、竹田源次郎方から井尻飯場に移つた時期に疑問を、はさまなかつたとしても不合理ではない。けだし、井尻飯場に完全に引越しした後でなくても、井尻、地主、大須田、衣川の会合を見たり、立聞きしたりすることが、物理的に絶対不可能な事柄ではないからである。

七 被控訴代理人は「石塚の供述は『藤谷も中村も入つている。』ことになつており、かつ藤谷自身も『マツコから聞いた通り俺も入つているから誰にもいわないでくれ。』と頼んだことになつているが、藤谷も中村もその事実を認めていないのに石塚の一方的な供述を信ずべきではない。」と主張する。

しかし、石塚供述は井尻、地主の火薬所持の逮捕、勾留のための資料とされているのであつて、爆破事件に藤谷、中村が加わつていると捜査官が判断しているのではない。したがつて、藤谷、中村が加わつているかどうかは、今後の捜査に待てばよいことである。また、藤谷、中村が加わつているとの供述に疑問があるとしても、隣室で聞いた話と火薬運搬に関する供述の信用性がなくなるわけのものではない。

八 被控訴代理人は「石塚らが雷管を持出したのが、六坑捲座からとすれば、仮にそれが事実であつても、「5」の番号がついていないはずで遺留品と直接結びつかない。」と主張する。

警察官が井尻、地主を逮捕したのは、火薬類を所持したとの火薬類取締法違反である。それは石塚が持ち帰つた火薬類であり、「5」の刻記ある雷管ではない。なるほど、石塚、藤谷の各供述によれば、石塚が持つて来た火薬は鉄道爆破に使つたと井尻から聞いたとのことは、事実であつたが、未だ鉄道爆破と結びつかないから、爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪等の罪名で逮捕しなかつたのである。右主張は理由がない。

九 前記資料によれば、地主が井尻に火薬入手方依頼し、井尻が妻光子を介して石塚にこれを依頼し、石塚が七月四日、三坑から火薬類を井尻飯場に運搬して、そこに置いたこと、七月七日、地主が火薬らしい風呂敷包を持つて帰つたことを疑うに足りる相当な理由があると認めるに十分である。

一〇 井尻、地主の勾留は三月三〇日以降であるから、勾留請求には、同月二九日の藤谷供述調書(乙第三七一号証)が疎明資料として付加されていると思われる。右供述は「昭和二七年六月二五日頃三坑坑口附近で、井尻が、『火薬が欲しいと人に頼まれているが、何んとか都合して呉れないか。』と自分と石塚に頼んだ。七月四日自分と井尻昇が六坑捲上室から全部の火薬を三坑現場に運んだ。三坑で使つた残りを、午後一〇時石塚がリユツクに入れ、その上に塊炭三つ位をのせて井尻飯場まで背負つた。井尻飯場に来てから石塚が石炭をかまどの前に置き、火薬の入つたのは、かまの前の物置に置いたのを見た。同月一〇日か一一日に中村誠から井尻に頼まれて地主と一緒に上芦別まで持つて行き、地主の知合に渡した、という話を聞いた。八月七日石塚の部屋で井尻から焼酎をご馳走になつたが、火薬運搬の礼だと思う。そのとき井尻は、火薬は地主にやり鉄道爆破につかつたから、誰にもいうなと謂つた。」旨である。

右藤谷の供述は石塚の火薬運搬の供述を裏付けている。

以上の資料によれば、勾留請求の理由の疏明資料としては十分であり、また、事案の解明には複雑困難な捜査が予想されるとみるのが相当であるから、罪証を隠滅すると疑うに足りるなど勾留の必要性があると捜査官が考えたとしても不当なところはない。

一一 以上のとおりであるから、右逮捕および勾留については相当の資料が具備されている。これを目して違法であるとの主張は採用できない。

第四八火薬類取締法違反事件による公訴の提起について

被控訴代理人は、「井尻正夫と地主照は昭和二八年四月一八日火薬類取締法違反罪で起訴されたが、石塚供述には大きな矛盾があり、しかも裏付け調査もあまりされておらず、将来において有罪判決を得る可能性は考えられないのに、二人を起訴したのは、二人の身柄を拘束するためのもので、この起訴は見込起訴で、起訴を決定した検察官には、未必の故意ないし認識ある過失がある。」と主張する。

一 井尻正夫と地主照は昭和二八年四月一八日「両名は共謀の上、法定の除外事由がないのに昭和二七年七月頃北海道芦別市旭所在の油谷芦別鉱業所付近に当時あつた大興商事株式会社第二寮(俗称井尻飯場)等において火薬類である新白梅印一一二・五瓦ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本位を所持したものである。」との公訴事実(甲第一号証の一)により起訴された。

井尻・地主が逮捕後、右公訴事実により起訴されるまでに、検察官が蒐集した証拠資料は、つぎのようなものである。

(1) 藤谷一久(員供、28・3・29、乙第三七一号証、員供、28・4・3、乙第三七二号証、員供、28・4・9、乙第三七三号証、員供、28・4・10、乙第三七四号証)の芦原吉徳警部、および中田巡査部長に対する各供述調書

(2) 石塚守男(検供、28・3・31、甲第四三九号証、検供、28・4・2、甲第四四〇号証、員供、28・4・4、乙第四〇〇号証、員供、28・4・6、乙第四〇一号証)の金田泉検事および、中田正巡査部長ならびに芦原吉徳警部に対する各供述調書

(3) 地主照(員供、28・4・6、甲第五三三号証)の佐藤千代政巡査部長に対する供述調書

(4) 馬場武雄(員供、28・4・7、乙第三〇号証)の芦原吉徳警部に対する供述調書

(5) 佐藤キワ(28・4・10、員供、乙第三四三号証)、島尻善次郎(28・4・12、員供、乙第三四四号証)、豊島忠治(28・4・12、員供、乙第三四五号証)の各杉本吉雄巡査部長に対する供述書

以上のような証拠資料であるが、新たな証拠を特筆すると、

藤谷一久(員供、28・3・29、乙第三七一号証)の芦原警部に対する供述調書中に、

昭和二七年六月二五日頃の一番方午前一一時半頃、三坑坑口付近の草原で昼食後、私を中心に左に井尻、右に石塚と並んで雑談していたとき、井尻は私達二人に対して「火薬が欲しいと人に頼まれているんだが、何とか都合してくれないか。」と頼まれた。七月四日、二番方で石塚が先山、私と井尻昇、葛西克己が後山で三坑立入で堀進作業したとき、私と昇が六坑捲揚室まで火薬をとりに行き、井尻に頼まれていたので、あるだけ全部を黒ズツク製のリユツクに入れた。新白梅二〇本入り二箱、電気雷管箱入三〇本か四〇本あつた。新白梅三〇本か四〇本使い、雷管一五、六本使つた残りを午後一〇時頃現場から井尻飯場まで石塚がリユツクに入れ、その上に塊炭三つ位を載せて背負つて帰つた。石塚は石炭をかまどの前に置き、ダイナマイトの入つたリユツクは、かまどの前の物置に置いた。

との趣旨の供述記載、

同人(員供、28・4・3、乙第三七二号証)の同警部に対する供述調書中に

草原で井尻から火薬を都合してくれと頼まれたとき、「その火薬は今日、明日に使うものではない。近々使うのではないんだよ。」「三坑の方へ一つにかたまるようになつてからは都合がつきづらいから、六坑を引揚げるときのごたごたを利用した方がよいのではないか。」と言つた。

との趣旨の供述記載、

馬場武雄(員供、28・4・7、乙第三〇号証)の芦原警部に対する供述調書中に、

昭和二七年七月四日夕方六時三〇分から七時頃までの間に、六坑捲上機室の差掛け小屋に頬かむりした長身の三七、八歳位の男と坑内帽をかむつた二四、五歳の小柄の男の二人が「火薬がそこにあるから貰つて行きます。」と言つて、同小屋の床下に埋めてある一尺五寸と二尺位の大きさの木箱の中から新白梅ダイナマイト二〇本入り四箱、新桐数本と電気雷管五本束と一〇本束のもの二四、五本あつたのを全部持つて行つたのを見た。

との趣旨の供述記載がなされている。

もつとも、地主照(員供、28・4・6、甲第五三三号証)、佐藤キワ(員供、28・4・10、乙第三四三号証)、島尻善次郎(員供、28・4・12、乙第三四四号証)、豊島忠治(員供、28・4・12、乙第三四五号証)の各司法警察員に対する供述調書中には、

地主が七月六日頃から一週間ないし一〇日間、雄武の豊島善次郎方に滞在した。

との趣旨の供述記載があり、右は石塚の井尻・地主逮捕前からの供述に抵触するものである。

二 被控訴代理人は、「藤谷一久は、昭和二八年四月三日芦原警部に対し(乙第三七二号証)、七月中旬の午後四時頃、三菱駅で下車し自宅まで線路を歩いて帰る途中、上芦中学校附付で中村誠と二人になつたとき、中村が『藤谷さんがこの間言つてた奴、地主と一緒に下まで下げて地主の知合、二人の若い者に渡したんだよ。』と言つた旨供述しているが、これは明らかに事実に反しているところ、右藤谷の供述によれば、このとき、中村は鯨肉を下げていたというのであるから、聞谷商店の聞谷正一を取調べれば、藤谷の供述が虚偽であることが判明したはずである。」と主張する。

しかし、藤谷供述の一部に、意識的な嘘、記憶違いによる虚偽があろうとも、そのことの故に藤谷供述の全体が虚偽で信用できないものとは断定できない。(ちなみに、藤谷は捜査段階の最後まで、右と同趣旨の供述をしている―藤谷一久に対する証人尋問調書28・8・13、甲第四六一号証―のであるから、そのように思い込んでいたものと認められる。)仮に右供述部分が虚偽であつても、井尻、地主が起訴されたのは、昭和二七年七月頃、井尻飯場で火薬類である新白梅印ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管一〇数本を所持したという、いわゆる継続犯であつて、その後右火薬類を井尻、地主がどのように運搬し、処分したかは、火薬類取締法違反罪の公訴事実とは関係のない事柄である。

被控訴代理人の主張は理由がない。

三 被控訴代理人は、「石塚守男は、昭和二八年四月六日芦原警部に対し(乙第四〇一号証)、井尻から昭和二七年七月一二、一三日爆破の計画を聞き仲間入りを勧誘されたという供述を行つているところ、この供述は、事件の計画全体にふれている点で極めて重要なものであるから、捜査官としては、当然この供述の裏付けとして、七月一二、一三の井尻の行動について捜査すべきであり、捜査を尽したならば、容易に石塚のこの重要な供述が事実に反することを知り得たはずである。」と主張する。

しかし、前掲藤谷供述によつて、井尻から六月二五日頃、火薬の入手方を頼まれたことが認められ、また前掲馬場供述によつて、藤谷と井尻昇が六坑捲上機室横の差掛け小屋から三坑に火薬類を運んだことが認められ、藤谷供述と石塚供述によつて七月四日、石塚が井尻飯場に火薬類を持ち帰つたことが認められる以上、石塚の右供述部分に問題があるとしても、これは爆破物取締罰則違反、電汽車往来危険罪について起訴、不起訴を決めるについては重要な事項であるが、火薬類取締法違反罪のみの起訴を決定するに当つては、石塚の右重要な供述の裏付捜査までして、石塚供述の信用性を確めるまでの必要性はなく、捜査に落度があつたということはできない。

火薬類取締法違反罪の要証事実は、井尻飯場に火薬が持ち帰られたか否か、それがある一定期間井尻飯場に保管されたか否かである。

被控訴代理人の主張は理由がない。

四 被控訴代理人は、「石塚は七月七日井尻飯場附近で、火薬らしい包みを持つた地主を見たと供述しているが、地主(員供、28・4・6、甲第五三三号証)、佐藤(員供、28・4・10、乙第三四三号証)、島尻(員供、28・4・12、乙第三四四号証)、豊島(員供、28・4・12、乙第三四五号証)の各供述によつて、石塚の右供述は覆されているのに、井尻と地主を火薬類取締法違反で起訴したのは、まず起訴をして、その後に石塚の供述を訂正させようとしたものである。」と主張する。

地主、佐藤キワ、島尻善次郎、豊島忠治の各供述によれば、地主は七月六日頃から一週間ないし一〇日間、雄武の豊島善次郎方に滞在したと認めるのが、相当であるところ、石塚は昭和二八年三月一三日(員供、乙第三九四号証)にも、同年三月三一日(検供、甲第四三九号証)にも、七月七日頃の午後七時頃井尻飯場附近で地主が重箱でも重ねたような四角いものを包んだ風呂敷包を手に提げているのを見た旨供述している。したがつて、右日時の点は事実に反すると認められる。しかし、日時の点についての人間の記憶は、さほど確かなものではなく、この点についての記憶違いがあつても、地主が火薬の入つているような風呂敷包を持つて行くのを見たという石塚供述が、信用できないと直ちに見ることはできない。また、これまでの証拠によれば、石塚が七月四日に火薬を井尻飯場に運びこれが井尻の手に渡つたと判断できるものであり、これが井尻飯場から運び出されるまでは所持していることになるのであり、その日時がまだ確定できないので、七月頃、と摘示して起訴したとみられるのである。したがつて火薬所持については証拠があるのであつて、井尻・地主を火薬類を所持したとの火薬類取締法違反罪で起訴しても何ら不合理ではない。

右七月七日という日時については、公判係属中に捜査して証拠を蒐集すればよいことである。井尻、地主をまず起訴して、その後に石塚の供述を変更させよう、としているということはできない。

五 被控訴代理人は、「井尻も地主も被疑事実を全く認めていないのに火薬類取締法違反罪で起訴したことは不当である。」と主張する。

しかし、被疑者が被疑事実を否認していても、他に確証があると判断できれば、起訴しても決して不当ではない。

六 被控訴代理人は、「検察官が井尻・地主を火薬類取締法違反罪で起訴したのは、将来有罪判決を得る可能性がないのに、鉄道爆破事件の捜査のため、二人の身柄を拘束する目的で、とりあえず起訴し、起訴後さらに捜査を続け証拠を蒐集しようとしたもので、『見込み起訴』で違法である。」と主張する。

前掲各資料によれば、公訴事実を認定することができると判断しても不合理ではないから、検察官が有罪判決を得る可能性があることを確信し、右確信を合理的に根拠づける証拠資料が、すでに蒐集されているわけであり、ただ七月七日という日時については、更に捜査して公判係属中に蒐集できると見込んでも、捜査の経緯からみて不当ではない。本件火薬類取締法違反罪の起訴には、何ら違法の点はなく、検察官の本件起訴についての判断は合理性を有し、適法であるということができる。

被控訴代理人の主張は理由がない。

第四九昭和二七年六月二〇日、井尻飯場において火薬入手の相談がなされたとの点について

一 石塚は昭和二八年三月一三日、司法警察員巡査部長中村繁雄(乙第三九四号証)に対し、「昭和二七年六月二〇日午後四時頃、飯場に帰つたところ井尻の部屋で井尻夫婦、地主、大須田、名前を知らない二五、六歳の小柄のインテリ臭い男が集つていて、地主が井尻に『火薬が必要だから井尻君何とかならないか。』と小声で話していたのを隣室の自分の部屋でベニヤ板の壁ごしに聞いた。」旨供述し、井尻飯場に移るまでは竹田源次郎方にいたこと、井尻飯場の一階は、もと六畳間と大部屋であつたが、大部屋を二つに仕切り六畳二間になつたことをも、述べている。そして、六月二〇日当時は、既に大部屋は、仕切られた後であり、石塚は井尻夫婦の部屋の隣の六畳間に寝起きしていたという。

二被控訴代理人は「石塚は、六月二〇日には、まだ井尻飯場に移つていなかつた。このことは、竹田の手帳の記載および竹田源次郎の供述により明らかであつて、捜査官も比較的早い時期から知つていたようである。」と主張する。

竹田源次郎は昭和二八年六月二七日、同月三〇日、それぞれ手帳に基づき「石塚は七月一〇日に井尻飯場に移つた。」旨述べ、(員供、28・6・27、甲第四〇六号証、検供、28・6・30、乙第一四号証)、右手帳(甲第五六八号証の一、二)には「石塚七月一〇日出ル」との記載があり、竹田イシは、同年六月三〇日「石塚が戻つてこなくなつてから五日か一週間ぐらい後、主人(竹田源次郎)が、私と話して大体の日を出して、手帳に石塚が出て行つた日を書きとめた。」旨供述(検供、28・6・30、乙第一六号証)している。

ところで、井尻正夫は昭和二八年四月二〇日「石塚は私の飯場に六月初旬来て、八月一〇日馘になるまでいた。」旨(井尻正夫検供、甲第四九四号証)述べ、井尻光子は同月二三日「五月末頃、改造し隣の六畳には石塚、村上、夏井が住むようになつた。」旨(井尻光子検供、甲第四三四号証)述べている。

竹田源次郎は昭和二八年七月一日「石塚は私方にいたとき、時々夕食を飯場で食べて来たことがある。また、時々夕食後、飯場へ遊びに行き、そのまま泊つて帰らなかつたこともある。」旨(検供、乙第一五号証)述べ、福田米吉は同年七月一一日「石塚は六月中頃から飯場に飯を食べに来るようになり、七月近い頃から井尻飯場に引越して来た。」旨(検供、乙第二八号証)述べている。

そして、石塚は、同年七月二一日「私は井尻飯場に移る前から時々飯場の階下の大部屋によく泊つたことがある。竹田方から何時移るともなく移つたので、はつきりけじめがつかない。魚をとりに行くという話を竹田にしたことがあるが、飯場に移つて竹田方に遊びに行つたとき話したと思う。」旨(検供、甲第四五四号証)述べ、同年八月三日裁判官の証人尋問に対し「自分は布団もなく、食事は井尻飯場から竹田の娘に運んでもらつたり、自分で飯場に食べに行つたりしていたが、竹田のところでは、とにかく肩身の狭い思いをした。自分がかねて明治鉱業で働いていたとき知合つていた井尻昇が井尻飯場に住んでいて、時々遊びに行つて、そのまま泊つたりしていたが、そのうち布団を貸してやるから井尻飯場に来ないかという昇のすすめもあり、六月中頃から井尻飯場に泊ることが多くなり、六月二九日ごろ魚をとりに行つてからは、竹田のところに戻らなくなつた。七月七、八日頃竹田のところにあつた荷物を竹田の娘(小学生)に持つて来て貰つた。」旨(証人尋問調書28・8・3、甲第四五七号証)証言している。

右各供述によれば、石塚は七月一〇日に荷物一切を運搬して井尻飯場に転居したというのではなく、六月中ごろから屡々井尻飯場に泊りこみ、六月二九日頃から全く竹田方に戻らず、七月八、九日荷物が井尻飯場に運ばれて、石塚が完全に竹田の家と関係がなくなつた日が一〇日頃であつて、その日を竹田源次郎が心覚えのため手帳に記入したと判断できるのである。したがつて、検察官が、竹田夫婦の供述および手帳の記載に信用を置かなかつたとしても不当とはいえない。

三 被控訴代理人は「井尻飯場の大部屋が六畳二間に仕切られたのは、七月上旬のことである。米森順治は、昭和二八年七月一六日、間仕切をしたのは六月下旬頃のことであつて七月に入つていなかつた旨(検供、甲第四三六号)述べているが、刑事第一、二審では七月上旬である旨正しく供述している。

ところで、七月分坑外操業証(甲第五七三号証の一、二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の一、二)、二七年六月分組夫の工数簿(甲第五七八号証の二)、七月分工数簿(甲第五七九号証の一、二)には、米森が七月三日に水洗土場の整理や水洗の坑外作業を、四日には三坑二番口向堀作業をし、坑内に入つたのは九日以降であることが記載されており、七月分坑外操業証および三坑七月分操業証は昭和二八年五月二日酒井武が任意提出し、同日領置されている。しかし、右七月一六日米森を調べたとき、検察官は米森にこれらの操業証を示さず、また、七月三日に水洗土場の坑外作業をした事実も告げていない。もしこのとき検察官がこの点をあきらかにして尋問すれば、米森も当然大工仕事の日時順序を明らかにして間仕切の作業が七月上旬であることを思い出して述べたはずである。だが、検察官は当然なすべき取調べをせず、あるいは米森の供述をまげて前記の調書を作成したのである。」と主張する。

井尻正夫は、昭和二八年四月二〇日、「一二畳の大部屋が六畳二間にベニヤ板で仕切られたのは、昭和二七年六月中旬頃である。」旨(検供、甲第四九四号証)述べ、同年四月二三日、井尻光子は、「井尻飯場は六畳とベニヤ板を境に一二畳になつていたが、五月末頃六畳二間に改造した。米森順治が盲腸の後大工仕事ができるようになつてやつた。」旨(検供、甲第四三四号証)述べている。

米森順治は、同年七月一六日「五月下旬病院から退院し、六月中旬頃から仕事に出はじめ、抗内作業ができないので大興商事の仕事として大工をやつていた。確か六月下旬頃のことで七月には入つていなかつたが、私一人で井尻飯場の階下一二畳の間をベニヤで仕切つて六畳二間に改造した。その仕事に二日かかつた。通勤するのが困難であつたので、ぜひ入りたいと思つて仕切をつけた。七月に入つて大工仕事や抗内作業をやつた。」旨(検供、甲第四三六号)述べている。

右のとおり改造に一番関心を持つ井尻飯場の管理人である井尻夫婦の供述と石塚の供述があり、更に、米森がこれらの供述をほぼ裏付ける供述をしているのであるから、検察官が米森の供述内容に不審を持たず、工数簿等により米森の出勤状況を点検して正確な供述を求めなかつたとしても、取調べが不十分であるということはできない。また、三沢検事が米森の供述をまげて調書を作成したとみるべき資料はない。

ところで、油谷鉱業所の大興商事関係六月分工数簿(甲第五七八号証の二)は抗内作業に関する記載のみであつて、米森の稼動状況については、何らの記載もない。六月分抗外操業証は存在しない。七月分抗外操業証(甲第五七三号証の二)、三抗七月分操業証(甲第五七二号証の二)、油谷鉱業所の大興商事関係七月分工数簿(甲第五七九号証の二)によれば、米森は七月三日に水洗土場整理や水洗の抗外作業をなし、七月四日には三抗向堀の坑内作業をし、五日間休んで七月九日からは三坑向堀で坑内作業をしたとの記載がある。したがつて右書証によれば、米森が七月三日に最後の坑外作業をなしたこと、七月一日および二日は稼働していないことが窺える。

右書証と右米森の供述とによれば、米森は病身が回復して六月中旬から働き始め、七月三日に最後の坑外作業をなし、翌四日から坑内作業を始め、五日間休んで同月九日から三坑向堀で坑内作業をしているから、通勤に困難なほど体力が衰えていたのは六月中のことであつて、七月に入つては体力も十分回復し七月四日から坑内作業に従事したと推測され、通勤が困難なときに間仕切をしたのであるから、その日時は、六月中のことであつて七月に入つていなかつたとみるほかなく、同人の供述は右書証の記載と符合し矛盾するところはない。また、右書証には、七月三日の日以外に米森が坑外作業をした旨の記載はなく、公判廷における同人の供述のように坑外作業をしたとすれば、右帳簿に記載されるべきものと思われるから、右書証の記載とは矛盾しているわけである。

米森順治は刑事第一審第五一回公判(窺30・9・9)、第二審第二九回公判(37・3・19)に証人として「勤めに出たのは七月初めである。日時の点については、今日、証人に出る前、家内に聞いてみた。仕事に出て一番最初は洗炭じようごを作り、それが終ると所長の部屋か流しの仕事をし、その後井尻飯場を二つにわける仕事をした。」旨(甲第一六一号証、甲第三二四号証)証言しているが、かくては、右七月分坑外操業証(甲第五七三号証の二)の記載によれば、七月初めから七月三日までに洗炭じようご作り、所長の部屋作り、流し作り、井尻飯場の間仕切りをしなければならないことになるが、かようなことは不可能であると思われる。

四 被控訴代理人は、「捜査官は六月二〇日の地主の行動について捜査すべきであつた。」と主張する。

地主は六月二〇日頃の行動について取調べを受けたものと思われるが、これについてはなんら調書が作成されていないから、単純に否認していたか、あるいは、黙否していたものとみられる。いずれにせよ、地主がアリバイを主張した形跡はない。

ところで、石塚は、前記のとおり井尻と地主の会話を聞いたと述べたほか、その日は原田が現場まで井尻を呼びに来た旨述べている。原田が現場まで井尻を呼びに行つたことは、原田鐘悦の供述(巡供、28・4・20、乙第一八四号証、検供、28・7・7、甲第四二八号証の一)、井尻光子の供述(員供、28・5・1、乙第二〇二号証)、大須田卓爾の供述(員供、28・8・25、甲第五九七号証)、井尻正夫の供述(検供、28・4・30、甲第四九五証)にあらわれている。もつともこれらの供述は、原田が呼びに行つた日時を異にしているが、原田鐘悦の右供述によれば、井尻正夫を現場まで呼びに行つたのは一回だけであると原田鐘悦も述べているから、原田が井尻を呼びに行つたという右各供述は信用してもいいわけである。また、六月二〇日頃、地主、大須田、野田が井尻のところに集まつたことは、日時の点は若干相違があるが、井尻正夫の供述(前掲甲第四九五証、検供、28・5・20、甲第五〇四号証、28・8・22、甲第五二七号証)、大須田卓爾の供述(員供、28・8・25、甲第五九七号証、検供、28・8・31、乙第四六号証)により裏付けられているとみられる。

したがつて、井尻、地主の会話を隣室で聞いた旨の石塚供述はの右資料によつて裏付けられており、かたがた、地主が積極的にアリバイを主張しなかつたのであるから、捜査官が、前記各資料を信用して、特別に、地主の六月二〇日当時の行動を捜査しなかつたとしても、捜査に遺漏があつたということはできない。

五 被控訴代理人は「捜査官は遅くも昭和二八年七月中旬、米森を取調べた頃までには、昭和二七年六月二〇日には井尻飯場の大部屋が仕切られておらず、石塚が井尻飯場へ移つたのは七月上旬になつてからであることを確知していたのであり、かつ捜査を尽せば六月二〇日には地主が奈井江に行つていたことを知り得たはずである。」と主張する。

しかし、右にみたように、昭和二七年六月二〇日には未だ井尻飯場の大部屋が仕切られていなかつたとはいえないし、石塚が同年六月中旬頃から井尻飯場に寝泊りしていたと認め得る資料も存するから、前段の主張は理由がなく、地主が六月二〇日に奈井江に行つていたとの点もこれを認めなければならないような資料はないわけであるから、後段の主張は採用できない。

第五〇井尻の依頼により石塚が火薬類を三坑現場から井尻飯場まで運搬したとの点にについて

一 石塚は昭和二八年三月一三日、司法警察員巡査部長中村繁雄に対し「火薬の入手を六月二六日頃、井尻の妻光子から頼まれた。」旨(乙第三九四号証)供述していた。

ところが藤谷一久は同年三月二九日、司法警察員警部芦原吉徳に対し「六月二五日頃午前一一時半頃昼食後、三坑坑口附近の草原で雑談していたとき、井尻が私と石塚に『火薬がほしいと人に頼まれているんだが、何とか都合してくれないか。』と頼んだ。」旨(乙第三七一号証)供述した。

しかし、石塚は同年三月三一日、金田検事に対しても、中村巡査部長に対する同様、「六月二五、六日頃井尻の奥さんから頼まれた旨」供述(甲第四三九号証)をしている。

藤谷は、同年四月三日、芦原警部に対し、「井尻から頼まれた際、井尻は『三坑の方へひとつにかたまるようになつてからは、都合がつきづらいから、六坑を引揚げるときのごたごたを利用した方がよいではないか。』と言つた。」旨附加して述べている(乙第三七二号証)。

さらに藤谷は同年四月二六日、好田副検事に対し「井尻は主として石塚に頼み、その後、私にも『兄も頼むぞ。』といつた。」旨(甲第四六四号証)供述している。

石塚は同年五月四日金田検事に対し「火薬を持つて来てくれと光子に頼まれたと言つたのは、嘘で井尻正夫に頼まれたものであり、その日は魚獲りの翌日の六月三〇日昼休の時である。」旨(甲第四四四号証)供述を変更した。

藤谷も同年五月一八日金田検事に「火薬を頼まれたのは、魚獲りの前後の六月末頃である。」旨(甲第四六六号証)供述を訂正している。

さらに、藤谷は同年六月九日中村巡査部長に対し、「六月二五、二六日頃頼まれた。」旨供述(乙第三七五号証)している。

石塚は同年七月二一日、三沢検事に対し「井尻から火薬を頼まれたとき、井尻は『六坑と三坑の切換えになるとき持つて来てくれないかなあ。』と言つていた。」旨(甲第四五四号証)付加供述している。

二 被控訴代理人は、「捜査官が石塚と藤谷の一方からひき出した供述により他方を誘導するという方法を交互に用いて火薬入手依頼の話をつくりあげていつたことは疑いない。」と主張する。

右各供述が石塚および藤谷からなされた日時に徴して明らかなように、石塚が火薬の入手方を六月二六日頃、井尻の妻光子から頼まれたと供述している段階で、藤谷が、同じ六月二五日頃の昼食後、三坑坑口附近の草原で井尻から火薬入手方を頼まれた旨供述したのである。そうして右藤谷の供述が出たにもかかわらず、石塚はその三日後に依然として、六月二五、六日頃妻光子から頼まれた旨の供述をし、同旨の供述を同年五月四日まで維持している。誘導するならば、もつと早い段階で誘導できたであろう。ちなみに井尻および地主は同年三月二九日に逮捕されるいる(当事者間に争いがない)のである。藤谷が三月二九日に供述してから、石塚が五月四日に供述を変更するまで一月以上の日時が経過していることは、捜査官が藤谷の供述にもとづいて石塚を誘導したことがない証左ともみられるのである。

そして、石塚は、当初から、「火薬運搬を光子から頼まれたが、これは地主たちに分けてやるものだと思つていた。」(乙第三九四号証)と述べ、光子が焚きつけに使うものではなく、地主達にわたされるものであるとしている。この供述を変えて井尻から依頼されたと述べても、そのために、火薬運搬の供述部分が信用できなくなるものでもない。井尻から地主に渡すことを目的として石塚が火薬の運搬をした点では変化はないのである。

また、藤谷の供述によれば、石塚と一緒に井尻から火薬の運搬を頼まれたというのであるから、この供述の真偽を確かめるためにも、また、石塚が光子から依頼されたほかに、藤谷と一緒に井尻から頼まれたことがあるのではないかとの疑いが生ずるわけでもあるから、捜査官がこの点につき石塚に尋ねることは当然のことである。その結果、石塚が藤谷と同一の供述をするに至つたとしても、石塚が自己の従前の供述が虚偽であることを認め、真実を述べたと認めても差し支えはなく、これを目して誘導によつて石塚が虚偽を述べたとみなければならないものではない。ことに、この供述の変更は、昭和二八年五月四日の金田検事の調書に記載されているのであるから、この供述の変更は金田検事の取調べの結果なされたものとみられる。同検事がことさらに藤谷供述をもとにして石塚を誘導して供述をさせたものではないということは、当審における控訴人金田泉本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨に照し明らかである。

また、依頼の日時の点については、両者の供述は必ずしも一致せず、動揺しているのであつて、このことは、むしろ捜査官の誘導がなかつたことを示している証左であるとみられる。そのうえ、石塚は、特別弁護人立会のうえの公判準備において、井尻、地主の面前で、「井尻から依頼を受けた。」旨証言(公準証人尋問調書28・8・10、甲第五六〇号証)し、検察官の取調べの結果を固めている。以上のとおりであるから、石塚が、「井尻から依頼を受けた。」と変更した供述を捜査官の誘導による虚偽のものであると考えず、真実の供述であるとみても不当ではない。前掲した藤谷の供述は、従前の供述を否定した場合を除き、殆んど一貫して変つていない。ただ、日時の点を一時、六月の末頃、魚獲りの前後と述べたが、また、六月二五、六日頃と訂正している。

藤谷は同年四月二一日好田副検事に対し一旦警察での供述を否認しているが、「警察の人から君を調べた際、井尻がこういうことを述べているがどうだとか、石塚がこの様に述べているがどうだとか言う様に尋ねられたか。」との問に対し、「その様には尋ねられませんでした。ですから私は石塚が警察の取調の際どの様なことを申上げているのやら、又井尻がどの様なことを申上げているのか全然見当がつきませんでした。」と答えている。さらに「どうせダイナマイトの事であり又鉄道爆破の事件に関係のあることだと思つたものですから、種々の場合を私が想像して話の内容も勝手に作り上げて申し上げたのです。」とも答えている(甲第四六三号証。)好田副検事に対し、格別、警察での取調べが強制、誘導によるものであつたと供述している節は見出せない。藤谷が警察で井尻に不利益な供述をしてこれを覆えしたのは、同年六月一〇日中村繁雄巡査部長に対し「井尻の身をかばつたからである。親戚でもあるし末長く面倒見られるだろうという考えもあり、自分の口から何でも喋つたことを親戚の者にでも判つたら困ることもある。内輪騒動にでもなりやしないかとハンカ臭い考えで心が変つた。」旨(乙第三七六号証)供述しているとおりの心情によるものと理解できないものでもない。

以上のとおりであるから、捜査官が、石塚と藤谷を交互に誘導して、火薬入手依頼の虚構の話をつくりあげたとの主張は理由がない。また、石塚が火薬運搬を井尻から依頼されたとの供述を検察官が信用しても不当ではない。

三 被控訴代理人は、「六月三〇日頃は賃金不払のため、交渉が夜遅くまで行われた。」と主張する。

しかし、油谷鉱業所の六月分組夫工数簿(甲第五七八号証の二)、六坑副斜操業証(甲第五七一号証の二)の記載によれば、六月三〇日、井尻、藤谷、石塚が一番方で稼動した旨の記載があり、この記載と、藤谷、石塚の右供述とによれば、六月三〇日が一日中、賃金交渉で過ごされたのではなく、また井尻が賃金交渉したとしても、昼休みに藤谷、石塚と寝ころぶ位の時間的余裕はあつたとみても不当のことではない。

四 被控訴代理人は、「井尻はあえて石塚等に依頼しなくても自ら容易に入手し得る環境にあつた。」と主張するが、前掲昭和二八年三月一三日の石塚供述(乙第三九四号証)によれば、「地主が『火薬が必要だから、井尻君何とかならないか。』と頼んだとき、井尻は『俺は火薬を扱つているが、俺からそういうことが出来ない。』と断つているのが、聞えた。」というのであり、この井尻の言葉からも、先山として、自ら火薬を持ち出すことが、困難な立場にあつたとみられないでもないし、また、藤谷は、同年七月九日司法警察員に対し「七夕の夜、私は井尻に『鉄道爆破に使う火薬なら人に頼んで何故自分で持つて来ないんだ。』と言つたところ、井尻は『そりや六坑で働いているんだから六坑から真すぐ持つてこれるけど、それじやすぐわかるんだ。それで石さん等に頼んだ。三坑から持つて来た方がわからんし、わかつても三坑で使つたことにすれば、わからんと思つて石さんに持つて来て貰つたんだ。』と言つた。井尻は『俺が持つてこれば、これるけど、俺は目をつけられてるので、やればわかりやすい。それで石さんに頼んで持つて来て貰つたのだ。そうすると場所と人が変るので後がわからんので俺が直接やらんで頼んだんだ。』と言つた。」旨(乙第三八一号証)供述しているが、石塚等に依頼した理由として首肯できないわけではない。

なお、被控訴代理人は、「井尻が自分で持ち出せば、見付り易いというのならば、その直後二・三坑坑務所から自分で火薬類を持ち出したということと矛盾する。」と主張する。

井尻が徳田敏明とともに火薬類を持ち出したのは、石塚が火薬類を井尻飯場に運んだ七月四日より前の七月三日であると判断し得る資料のあることは後述するとおりである。そして、石塚に火薬類の持ち出しを頼んであつても、石塚がいつ持ち帰つてくれるかわからない段階で、たまたま、二・三坑坑務所に人気のないのを奇貨として、かねて入手したいと考えている火薬類を盗み出しても不思議はないし、また石塚の持ち帰る雷管には、大興商事の係員の持番号が刻記されているから、不発の場合も考えれば、油谷鉱業所の直轄の係員の持番号の方が、犯跡をくらますには、好都合だと考えることもあろうと判断しても不合理ではない。

また、二・三坑坑務所から火薬類とともに母線をも盗み出したのも、坑内爆破でなく野外の爆破であるから、母線は長いほど安全と考えて盗み出して、これを準備したと考えても不思議ではなく、また爆破の資材は多々益々弁ずると考えたとみても不合理ではない。要するに、他人に気付かれないように資材を集めたいとの趣旨であつて、窃取して集めることは容易でないから、石塚に火薬類の持ち出しを頼んだとしても何ら不思議なことではない。石塚に火薬類の持ち出しを頼んだことと自らも二・三坑務所から火薬類を盗み出したことと何ら矛盾することはない。

以上のとおりであるから被控訴代理人が主張するように、「石塚に火薬類の持ち出しを依頼することはあり得ないはずである。」とばかりいうことはできない。

五、被控訴代理人は、「六坑捲座横の差掛け小屋の床下の木箱にあつた火薬類は七月一日頃浜谷博義が処理した疑いが濃厚であるのに、捜査官らは、藤谷と井尻昇が六坑捲座から三坑現場まで火薬を運搬したという事実をつくりあげた。」と主張する。

藤谷と井尻昇が六坑捲座から三坑現場まで火薬類を運搬したことは、浜谷博義の供述(検供、28・7・14、乙第一三号証)、馬場武雄の供述(員供、28・4・7、乙第三〇号証、検供、28・4・28、乙第三一号証、検供、28・7・3、乙第三二号証)、藤谷一久の供述(員供、28・3・9、乙第三六九号証)、石塚守男の供述(員供、28・3・13、乙第三九三号証)、井尻昇の供述(検供、28・5・4、甲第五九八号証)によつて、これを認めてもなんら不当ではない。

ことに藤谷一久、馬場武雄は、井尻・地主に対する火薬類取締法違反被告事件の昭和二八年八月一一日の公判準備に証人として、井尻・地主の面前で、藤谷と井尻昇(馬場証言では人の名前はわからないが、二人の男という)が六坑捲座の差掛け小屋から、馬場にことわつて火薬類を持ち出し、三坑へ運搬したことを証言しており、(公準証人藤谷尋問調書、甲第五六二号証、公準証人馬場尋問調書、甲第五六三号証)、石塚守男も同公判準備において同年八月一〇日と八月一四日の二回にわたり、藤谷と井尻昇が運搬して来た火薬を受取つた旨証言(甲第五六〇号証、同第五六四号証)しているのであるから、捜査官が、藤谷と井尻昇が六坑捲座の差掛け小屋から火薬類を運搬したことは間違いないと判断したのは合理的である。

六、被控訴代理人は、「浜谷博義の昭和二八年二月一〇日の司法警察員に対する供述(乙第二一一号証)、同人の同年四月二二日の検察官に対する供述(乙第一二号証)が曖昧である。」というが、浜谷が鷹田に六坑の現場を熊谷組に引継ぐための整理を命ぜられたとしても、藤谷が前記公判準備で証言するように、当時三坑坑内には、多量の火薬類を貯蔵するような火薬置場は、できていなかつたともみられないではなく、また道具類を整理したことのみ記憶し、床下の火薬類の整理については確かな記憶がなかつたものとみられる。ちなみに、浜谷がダイナマイトが二箱位不足していた旨(前掲乙第二一一号証)の供述をしたため、藤谷が逮捕され、藤谷が六坑捲座差掛け小屋から井尻昇と火薬類を運搬したと供述(員供、28・3・5、乙第三六八号証、員供、28・3・9、乙第三六九号証)するに至つたことは捜査の経過に徴して明らかである。

右浜谷の当初の供述の曖昧さと当時浜谷と同様、係員助手であつた出町幸男の供述調書が、控訴人国から提出されないことをもつて、六坑捲座の差掛け小屋の火薬類を浜谷、出町らが処分したのではないかというのであるが、右は単なる憶測に過ぎない。

また、馬場供述の「七月四日の夕方六時三〇分頃から七時頃までの間に頬かむりした長身の三七、八歳位の男と坑内帽をかむつた二四、五歳位の小柄の男の二人連れが六坑捲座の差掛け小屋に来た。」旨の供述が、藤谷と井尻昇の年令、服装、背の高さの点で矛盾するというが、夏とはいえ、夕暮のことであり、九ヶ月も一年も経てば、いずれが年かさであつたか、服装がどうであつたかの記憶の混乱は十分あり得ると考えても不当ではない。

さらに、ダイナマイト中に新桐のバラがあつたことは、藤谷が前掲公判準備で証言するところであり、七月四日の二番方の作業で藤谷もダイナマイトに雷管を挿入して仕掛けたのであり、バラのダイナマイトの方を藤谷が全部使用したとすれば(藤谷員供、28・3・9、乙第三六九号証参照)、石塚、井尻昇が新桐のバラのダイナマイトがあつたことを記憶していないとしても不思議はない。

なお、薬谷と井尻昇が六坑捲座の差掛け小屋から火薬類を運搬したこととは、刑事第一審はもとより、第二審も、浜谷の第二審の証言(第一一回公判証言甲第二三二号証、第一二回公判証言甲第二三六号証、第四〇回公判証言甲第三六一号証)にもかかわらず、その判決において認めているところであつて、捜査官らの判断に誤りがなかつたことは明らかである。

七、被控訴代理人は、「藤谷の、七月四日残つたダイナマイトは石塚に渡した、という供述(乙第三六八号証、同第三六九号証)に追いつめられて、石塚は残つたダイナマイトを井尻飯場に持ち帰つたと供述した。石塚は、捜査官から、井尻の奥さんから何か頼まれたことはないかと聞かれ、石炭と焚付けを頼まれて持つて行つたと答えたら、その石炭の中に残火薬を入れていつたのではないか、藤谷も井尻昇も全部みていたといつているといわれたので、そのように述べたと証言している(第二審第六回公判証言、甲第二二一号証)。」として石塚の火薬運搬の供述が信用性のないことを主張する。

しかし、この点については、井尻、地主の逮捕・勾留についてと題する項において、詳しく説示したところである。

石塚は、昭和二八年三月一三日、右火薬運搬の供述(員供第二回、乙第三九三号証)に引続いて、同日さらに、井尻飯場の井尻の部屋に地主と大須田と二五、六歳の男、井尻夫婦が会合し、地主が井尻に火薬入手方を依頼しているのを立聞きした(員供第三回、乙第三九四号証)という警察官らが到底知り得ない全く新奇な事実についても供述したのである。いずれも自己の記憶に基づいて体験を述べたとみるのが相当である。

藤谷と井尻昇が六坑捲座から三坑まで運んで、七月四日の二番方で使用した残火薬を、石塚が井尻飯場に運搬しないというのであれば、この残火薬は一体どうなつたのであろうか。石塚は、火薬運搬は嘘だと述べながら、残火薬の措置についてはなんら述べていない。

藤谷と井尻昇が六坑捲座から三坑まで火薬を運搬したと認めることが相当である以上、右の説明がつかなければ、石塚の供述が虚像と断定することはできないであろう。

検察官が石塚の供述を信用してなんら不当のことではない。

八、昭和二七年八月四日山脇源次郎所有の燕麦畑東北端につづくよもぎの草原から発見された遺留品の中に、蓋のとれたボール紙箱があり、その中に新白梅ダイナマイト一六本と長さ四寸三分の釘一本が入つていた(実況検分調書、司法警察員作成、27・8・4、甲第四〇九号証、領置調書、27・8・4、甲第四一〇号証)。そして右ボール紙箱に貼付されたレツテルには、日本化薬株式会社厚狭作業所と印刷され、製造月日欄には昭和27・4・14作業番号欄に7・2・7と紫色スタンプが押印されていた。一方、油谷鉱業所の火薬庫からも日本化薬厚狭作業所、昭和27・4・14製造、作業番号7・2・7と記載された木製ダイナマイト空箱一個が発見されたところ、右木箱入ダイナマイトは昭和二七年六月二一日油谷鉱業所の火薬庫に受入れられたものであつた(国久松太郎検供、28・4・28、甲第四三六号証)。石塚は金田検事に対して「ダイナマイトに穴をあけるのに使つた四寸釘を雷管の箱か、手をつけてもどしたダイナマイトの箱かいずれかは、はつきりしないが兎に角、箱の中にしまつた。」旨(検供、28・5・4甲第四四四号証、同28・5・8、甲第四四七号証)述べているのである。このことから右の日本化薬株式会社厚狭作業所、製造月日欄に昭和27・4・14、作業番号欄に7・2・7と紫色スタンプが押印されたレツテルが貼付されたボール紙箱入ダイナマイトは昭和二七年六月二一日以降同年七月初までの間に油谷鉱業所から大興商事に交付され、六坑捲上機室横の差掛け小屋の床下に一時保管されたものであることが、疑いの余地がないほど強く推認されるのである。何故なら、西浦正博が二・三坑坑務所に置いていた新白梅ダイナマイトは難凍ダイナマイトである(証人西浦正博尋問調書、28・9・21、甲第四三七号証)ところ、右遺留品のボール紙箱のレツテルには、難凍との表示がないからである。しかして、石塚が、しまい込んだという四寸釘とともに右ボール紙箱入り新白梅印ダイナマイトが、本件鉄道爆破現場から、ほど遠からぬ前記山脇方のよもぎの草原から発見されたのである。

かような物証によつて客観的に裏付けられた石塚の供述であつてみれば、検察官は、なお嘘ではないかと疑う余地はなかつたであろう。

九、被控訴代理人は「六坑・三坑の発破担当の係員である浜谷が、上司から火薬類と道具類の整理を命ぜられながら、七月一日確認したあとの処置を全然していないということはあり得ない。」と主張し、また「石塚の供述の内容からみても、石塚が七月四日井尻飯場にダイナマイトを運んだという事実は極めて疑わしいといわなければならない。」と主張するけれども、前段については、刑事第一、二審も、浜谷が火薬類の処置をしなかつたことはこれを認めているところであつて、浜谷が処置をしていないということはあり得ないとはいえないし、後段については、前記資料に照してその主張するところは採用し難い。

第五一、井尻が地主に火薬・発破器・母線・ハンドルを渡した日時について

被控訴人代理人は、「石塚と井尻と藤谷の各供述については、客観的裏付けがなく、三名の供述はくい違い、供述の経過に問題があり、かつその内容も信じがたい。勾留中、その精神的・肉体的苦痛に耐えかねた三名が、捜査官の強制と誘導によつて、それぞれが思いつきを供述していることは明らかである。」と主張する。

一、石塚は昭和二八年三月一三日、中村巡査部長に対し「七月七日、一番方で坑内から帰つて、午後四時頃飯場に帰ると、地主が五歳位の男の子を連れて来ていたが、私は午後八時頃赤地の寿と書いた風呂敷に重箱でも重ねたような四角型の物を包んで井尻と一緒に出て行くのを見た。七夕の日火薬は地主にやつたと聞いたので、地主が風呂敷に入れて行つたのは、火薬に間違いないと思つた。」旨(乙第三九四号証)供述し、同月三一日、金田検事に対しても「七月七日午後七時頃、映画を見に行こうと思つて表へ出たところ、井尻と地主とその子供三人が裏口から出ていた。地主は重箱のような四角い風呂敷包を手に提げていた。」旨(甲第四三九号証)一部時間の供述を訂正したほか、同旨の供述をした。

ところが、石塚は同年五月六日、同検事に対し「地主が重箱を重ねたような四角い風呂敷包を右手に提げて、井尻飯場の裏口の方から子供を連れて井尻とともに出て来たのを見かけたのは、七月一九日頃である。」旨、供述を変更した。

石塚は第二審第一〇回公判(33・9・4、甲第二二九号証)において、「広中警部補から地主が風呂敷包を持つて出なかつたかと聞かれたので仕方なく、そう言つたのである。赤色寿の風呂敷は考え出したが、見たことがない。

はつきり憶えていないが、日を変えた記憶がある。取調官から七月七日では都合がわるいと言われたから変えたが、理由は言わなかつた。しかし七月七日に来る訳がないじやないかと言われて、七月一九日に変えたかどうか、はつきりおぼえておらない。兎に角どうして変えたかはつきりおぼえていない。」と証言する。右証言によれば七月七日というのは間違いではないかと問いただされたかも知れないが、右公判廷の証言によるも格別、誘導されたり、強制されて、供述を変更したものとは認められない。

石塚が、「七月七日」と供述していたとき(前掲甲第四三九号証)も、「七月七日ごろであつたと思うが、私は友達と映画を見に行こうと思つて表口の方から表へ出たところ、それより先に井尻正夫と地主とその子供の三人が裏口から表へ出ておつた。その時、地主は丁度重箱のような格好の四角い風呂敷包みを右側の手に提げておつた。その風呂敷は赤地で白い字で寿と書いたものであつたようである。その時、見た距離は七、八米ぐらいであるので間違いはないと思う。」旨供述していたのである。

昭和二八年五月六日(甲第四四五号証)にも、「七月一六日現場で油谷鉱業所の人から、「明日はストで休みだ。」ということを聞き、帰りに大興の事務所に寄つたところ、明日は休みだからと言われたので飯場へ帰つて夕食を済ませて、午後六時頃の汽車で上芦へ行つた。そして“次郎長”で泊り翌々一八日頃の午後五時頃の汽車で油谷の井尻飯場へ帰り、大部屋をのぞいた時に、誰であつたか記憶していないが「明日もストだから。」というのを聞いた。その時、確か私は明日は一九日で“私はシベリヤの捕慮だつた”という映画があるから見ようと思つたことを記憶している。それから恰度タバコがなかつたので大興商事の事務所へ行つた。すると事務所には大勢、人がいたが、誰かが『今日はタバコを持つて来たけれど、みんな配給してしまつたからない。』と断られたことも記憶している。そのタバコを貰いに行つた時間は午後六時頃であつたように記憶している。その翌日はストで仕事はしなかつた。私は朝遅くまで寝て昼食をしてから、一度表へ出てブラブラしてから午後二時頃、飯場に帰り夕食後午後七時ごろ油谷会館に“私はシベリヤの捕慮だつた”という映画を見に行くため、村上忠夫、夏井茂夫らと三人で井尻飯場を出て行つた。映画を見に出て行く前、夕食をする頃、地主が五歳ぐらいの男の子を連れて井尻の処へ来ており、私が見た時には、地主は井尻の部屋で夕飯を食べており、地主の子供は飯場の外で遊んでいた。そうして私たちは映画を見に飯場の表口の方から道路へ出た時、私たちより先に飯場の裏口の方から井尻正夫、地主とその子供の三人が先に歩いており、地主は丁度重箱を重ねたような恰好の四角い風呂敷包を右手に下げており、その風呂敷は赤地で白い寿というような字を書いたものであつたように思う。この時の私と地主との距離は七・八米ぐらいであつた。地主は左手で子供の手を引いて歩いていた。そうして油谷鉱業所の見張所前を流れている川に沿つて見張所前の橋の処から国道を歩いて行き私達は見張所前から油谷会館へ行き“私はシベリヤの捕慮だつた”という映画を見た。」旨の供述をしたのである。

そうして、その供述訂正の理由として「前に申し上げた時には、ただ公休日の次の日であつたように記憶してたので、七月六日の公休日の次の日であつたろうと思つて七月七日と申し上げたのである。地主が重箱を重ねたような風呂敷を持つて行つたのは七月一八日かもわからないが、しかし私が“私はシベリヤの捕慮だつた”という映画を見た日か、その前日の事務所へタバコを取りに行つた時かわからない。」という。

石塚のこのひにちに関する供述は、具体的で信用性があると認められる。けだし、「公休日の次の日」というのであれば、さほど信頼はできないが、石塚には上芦別の“次郎長”という飲食店に静江という、後に石塚の妻になつた、女性がおり、石塚は休日などには、同女のもとに泊りに行つていたことは、他の資料から明らかであるところ、静江のところから帰つた日に関連づけかつ、映画を見た記憶から想起したものであることが、右供述から窺えるからである。油谷鉱業所の大興商事関係七月分工数簿(甲第五七九号証の二)、三抗七月分操業証(甲第五七二号証の二)によると、七月六日は公休日であることが窺われる。

そして油谷芦別炭鉱会社員永田松太郎の昭和二八年一一月二八日付答申書(甲第四一六号証)の記載によれば、昭和二七年七月七日には油谷会館で映画は上演されておらず、七月一九日に“私はシベリヤの捕慮だつた”が上演されており、七月一八日にも“母の願い”が上演されている。映画を見に行く途中、地主と井尻が、飯場から出て行くのを見たとの供述は真実性があるとみられる。

してみると、石塚が当初七月七日と供述し、後に七月一九日と変更したことが、検察官から「七月七日というのは記憶違いではないか。」とただされたことを契機として供述の変更訂正がなされようとも、石塚自らが合理的根拠を持つて任意に訂正して供述したものであるとみるのが相当である。そして、右訂正した供述は、客観的事実にも合致しているから、捜査官が、十分真実性を備えているとして、この供述を信用しても不当のことはない。

二、井尻は、昭和二八年八月二四日、司法警察員警部補館耕治に対し「火薬と雷管は七月一四、五日頃、地主照に渡してやり、三坑立入より自宅に持つて帰つていた発破器と鉄柄のハンドルおよび中村誠と交換した新しい母線を、地主に渡したのは七月二〇日頃である。」旨(甲第五〇七号証)供述し、同月二五日同警部補に対し「七月一四、五日午後三時頃、私が足を痛めて現場を休んでいるとき地主が来た。火薬や雷管を人絹で赤地基盤縞で絣のような模様の風呂敷に私が包んでやつた。」旨(甲第五〇八号証)供述し、同日同警部補に対し「七月二〇日前後、地主が来たとき発破器とハンドルを渡し、地主はこれを白つぽい風呂敷に一緒に入れた。母線は地事が持つていた新聞紙を二枚、私が取つてこれにまいてやつた。地主は発破器を右手に提げ新聞紙に包んだ母線は左脇にかかえて子供を歩かせて帰つた。七月二〇日というのは私が責任を持つていた飯場を七月一九日のお昼でやめたので、地主が来たのは、その翌日だと記憶するからである。」旨(甲第四九三号証)供述し、同月二九日同警部補に対し「地主に火薬を渡したのは、七月一四、五日から二〇日までの間である。新しい母線は七月二〇日頃、地主が一人で来た時渡した。ハンドルも地主に渡したと思つているが、何時、何処で渡したか思い出せない。」旨(甲第五一四号証)発破器を渡したことはないが、母線だけは渡したと供述を変え、同年九月三日検察官志村利造副検事に対しても「七月一七、八日頃午後三時半頃、地主が来た際、地主は白つぽい風呂敷包を持つておつた。私は『地主君、発破線を使うんだろうからやるぞ。』というと、『それではもらつて行く。』といいながら風呂敷包を私によこした。私は新しい母線を持つて来て古新聞に包んで、それを風呂敷に包んで渡した。母線を渡す際、ハンドルも一緒に渡したのではないかと思われるが、その点ははつきりした記憶がない。』旨(甲第四九八号証)供述し、同月四日志村副検事に対し「七月一四、五日頃の午後三時頃、地主が来たので焦茶色の縞模様の風呂敷に火薬と雷管を包んで渡した。」旨(甲第四九九号証)供述し、同月一〇日裁判官田中二郎に対し、「七月一四、五日頃、足をいためて休んでいたとき、午後三時頃地主が子供を連れてやつて来たので、焦茶色縞模様の風呂敷にダイナマイト二箱を並べ、その上にダイナマイト一箱と雷管を並べて重ねて包んでやつた。地主は四時半頃、風呂敷を右手に提げて帰つて行つた。七月一八日頃地主が子供を連れて来たとき、地主に、発破線も使うだろうからやるぞ、と言うと、地主は白つぽい風呂敷を私に渡した。中には新聞が二枚あつた。それで母線を取り出して新聞に包み、風呂敷に包んで渡してやつた。」旨証言(甲第五〇二号証)した。

右のように井尻の供述によれば、井尻が地主に火薬を渡したのは七月一四、五日頃の午後三時頃から四時半頃までで、地主は四時半か五時頃子供を連れて一人で帰つたというのであり、石塚の供述によれば七月一九日頃の夕方、地主が井尻飯場に来ているのを見かけたが、午後七時前頃、地主が子供を連れて井尻と一緒に飯場の裏口から出て行くのを見たというのである。ひにちの点でも時間の点でも相違がある。しかし井尻が七月一四、五日というのは足を痛めて現場で休んでおつた日というのであるが、井尻は昭和二八年八月二八日館警部補に対して「七月一七日は公休日、一八、一九、二〇日はストで休んだ。」(甲第五一三号証)とも供述しているのである。石塚が供述変更後に一九日というのは、ストで現場に行かず休んでいた日というのであつて、いずれも、その日が仕事をしないで休んでいた日であつたことは一致するのである。井尻の記憶の混同であるとみても不当ではない。また時間の点において約二時間の差異があるが、日の長い夏のことであつてみれば、さして問題とするに足りない。地主は幼児を連れて男やもめであつたから午後三時頃、井尻飯場に来たとしても、夕食の馳走にあずかつて帰る可能性は多分にある(石塚は昭和二八年五月六日検察官に対し「私が見た時には地主は井尻さんの部屋で夕飯を食べており、地主の子供は飯場の外で遊んでいた」旨―甲第四四五号証―供述している。)。そうだとすれば、石塚供述の七時前頃の映画が始まる前頃の時刻に地主が帰つたと認められないわけではない。ひにちについても、時刻についても石塚供述と地主供述にさしたる相違はないとみても、不合理ではない。

井尻供述と石塚供述の最も顕著な相違は、井尻は地主を見送らなかつたいい、と石塚は地主と井尻が一緒に飯場の裏口から出て芦別の方へ行つたという点にある。しかし、地主が井尻飯場を訪ねたのは、五月頃から七月頃にかけて、六、七回ある(井尻正夫検供、28・4・20、甲第四九四号証)のであるから、井尻が時たま油谷炭鉱の構内まで見送つたこともあるであろうし、見送らないこともあるであろう。後日になつて何れの場合に見送つたか、見送らなかつたか想起できなくても不思議はなく、記憶の混同も十分あり得ることである。

前掲裁判官中田二郎の証人井尻正夫に対する昭和二八年九月一〇日の尋問調書(甲第五〇二号証)によれば、井尻は地主に火薬を渡したときの状況を極めて具体的に供述している。すなわち「地主は別に風呂敷等は持つて来ておらなかつたので、私は時々弁当を包んでいた焦茶色の風呂敷を持つて来て雷管等を置いた所に行き、そこで風呂敷を広げ、裸のままで、まずダイナマイトの箱を二つ並べ、その上にもう一つの箱を重ね、その傍に雷管を並べて、それを縦横から包んでしばつたように記憶する。」というのである。司法警察員芦原吉徳作成の昭和二七年八月四日付実況検分調書添付の鉄道爆破に使用と目さるる発破道具隠匿(投棄)現場写真記録の二二葉目写真によると、ダイナマイトの箱の縦の長さは横の長さのちようど二倍であることが認められる。風呂敷を広げて、これを二つ並べるには恰好であり、並べると正方形となること明らかである。

その上にもう一つの箱(おそらくダイナマイトが一五、六入つていたと思われる)を重ね、その傍に雷管一〇本ばかり(石塚供述によれば箱に入つていたという。)を並べるということは、自ら経験したものでないと、ただ観念的想像だけでは述べ得ないことのように思われる。しかも広げた風呂敷の端を縦横から包んで縛ると、石塚が見たように、ちようど重箱を重ねたように見えるであろうことは、容易に推測できるところであり、焦茶色の縞模様の風呂敷が、七、八米の距離から見れば、赤地に白の寿の字の風呂敷と見えても何ら不思議なことはない。

右井尻の供述の経緯に照し任意性がないとみることはできない。のみならず、以上検討したように井尻が七月中旬頃、地主に火薬類を渡したことについての井尻の供述と石塚の供述は大筋において一致し何ら矛盾撞着するものではないと判断しても不合理ではない。

つぎに、井尻が発破器、母線、ハンドルを、それぞれ入手して所持していたと考えても不合理ではないこと後記のとおりであるところ、井尻は昭和二八年八月二五日、前記のように、七月二〇日頃、地主が来たとき発破器と母線とハンドルを渡したと述べ、同月二九日、発破器は渡したことはないが、母線は渡した、ハンドルは渡したかどうか記憶がないと供述を変えた。

そうして、発破器、母線、ハンドルを渡したことについては、前記火薬類を渡した点のように、これを裏付けるに足る供述は見出せない。

しかし、発破母線を右ダイナマイトと雷管の交付とは別の機会に、井尻が地主に渡したことについては、井尻正夫の検察官に対する供述(検供、28・9・3、甲第四九八号証、検証、28・9・4、甲第四九九号証)、井尻正夫の裁判官に対する証言(証人尋問調書、28・9・10、甲第五〇二号証)があるので、井尻の供述の日時の点について多少記憶違い等によるずれはあつても、井尻が発破母線を同年七月中旬頃地主に渡したと判断しても不合理ではない。

三、つぎに藤谷供述について検討する。

藤谷は昭和二八年七月一六日司法警察員巡査部長中田正に対し「七夕の日、井尻は『火薬は誠さんに下まで下げてもらつた。地主も一緒に。』と言つた。『上芦別の大須田のところへ下げ、鉄道爆破に使うだけ地主のところへ持つて行き、あとは、大須田のところへ置いてあるんだ。大須田のところに都合したの平岸の解体作業をやるのに使うのだ。』と言つていた。『誠に三菱の駅まで下げてもらい、党員とか同志とかに渡してくれと頼んだ。』と言つていた。また中村誠からは、『地主と一緒に三菱駅まで下げて西芦の人らしい人に渡した。』という話を聞いた。」旨(乙第三八六号証)供述し、七月一七日同巡査部長に対し「井尻は『誠さんの火薬は党の人に持たせて西芦別に持つて行き、地主は直接大須田に渡した。』と話した。」旨(乙第三八七号証)供述し、七月二三日同巡査部長に対し「七夕の晩に、井尻から『火薬は誠さんに地主と一緒に下げてもらつたんだ。』と言われた。中村誠は『どこにどう使かれるか全然わからんが火薬を井尻に頼まれ、地主と一緒に三菱まで下げ、俺の知らない人だが、地主の知つている人に渡して来たんだ。』と言つていた。」旨(乙第三九〇号証)供述し、七月三〇日、金田検事に対し「井尻は『火薬は地主と一緒に誠さんに下げてもらつた。誠さんは知らないけど、地主の覚えている人で、その知らない人に渡してくれと頼んだんだ。』と言い、さらに『地主が、その火薬のうち何ぼか上芦の大須田の処へ持つて行つたんだ。大須田のところへ解体作業に使うんで持つて行つたんだ。』と言つた。それから『発破器や母線なんかは三菱だか、三井の奴が来て、上芦の大須田の処へ持つて行つたんだ。』と言うようなことを言つた。」旨(甲第四七六号証)供述し、同年八月一日金田検事に対し「井尻は火薬のうち『地主のは大須田さんの処へ持つて行つてもらつたんだ。』と言つていた。誠さんが渡したのは、三井とか三菱の人とかで二人位であつたようであつた。」旨(甲第四七八号証)供述し、同月一三日裁判官伊藤武道に対し「七月二〇日過ぎ頃、千代の山一行の角力があつた三、四日位前に午後四時頃上芦別の学校の横の方を廻つて来る時、中村誠から『実は火薬を下げてくれと頼まれたから、火薬を下げたんだ。火薬を下げたとき地主も一緒に来た。自分は知らない人だが地主の知つている三菱とか三井の人らしい人にその火薬を渡した。』と聞いた。」旨(甲第四六一号証)証言している。

藤谷は、逮捕後一五日目の昭和二八年四月三日芦原警部に対して、「七月一〇日前後頃正午頃入坑するとき、火薬のことが気にかかるので、中村に『マツコーから何か頼まれなかつたか。』と聞いたところ、中村は『井尻さんから下まで下げてくれと頼まれているんだ。』と言つた。それから、二、三日後、上芦中学校付近で、中村は『藤谷さん、此の間、言つてた奴、地主と一緒に下まで下げて地主の知り合い二人の若い者に渡したんだよ。』と言つた。』中村は鯨肉をさげていた。」旨(乙第三七二号証)供述していた。その後一旦はこの供述を撤回した。そして同年六月一九日金田検事に対し「日は、はつきりしないが、中村誠から『火薬を頼まれて下まで下げて来た。地主と西芦から来た二、三人に渡したんだ。』と聞いた。聞いた場所は上芦別の三菱の駅を降りて、学校が右側にあり、鉄道線路を歩いていた時で一番方の帰りであつた。自分等は買物をして何か提げていたように思う。自分としては中村は鯨肉を提げていたと思うが、警察で鯨肉を買つた日を調べて貰うと日が合わないので、はつきりしない。その話のあつたのは鯨肉を買つて提げていた時に間違いない。」旨(甲第四七四号証)供述した。ところが聞谷商店の店主聞谷正一は、同年七月三日、金田検事に対し「大興商事の坑夫に売掛伝票によつて掛売りしていたが、中村誠に鯨を売つたのは六月二日と六月二一日だけで七月には売つていない。」旨(乙第一一〇号証)供述した。

そして藤谷は昭和二八年七月六日中田正巡査部長に対し「中村から井尻に頼まれて、地主と三菱まで火薬を下げたということを聞いたことは間違いない。『何せあの話を聞いた時には誠は薄皮に包んだものを提げていたのは間違いないんだがなあ―。そしたら何だろうかな。鯖か、いかかな。氷を貰つて鯖の中に入れて、これを薄皮でぐるぐるしばつて氷が落ちないようにしたこともあるな。』持つ物が変つても、あの話は間違いなく聞いた。上芦別に千代の山が来た日の前だと思つている。」旨(乙第三七九号証)供述している。

そして藤谷は、同年八月一三日裁判官の証人尋問に対しても、前記のように、中村から火薬運搬の話を聞いたとの供述は変えなかつたのである(甲第四六一号証)。

さらに中村誠の同年九月二三日付検察官調書によると「藤谷と合わせてもらつたところ、藤谷は私に火薬類を下げた話を聞かしてくれたではないかと言つたが、天地神明に誓つて左様なことはない。」旨の供述記載(甲第四九一号証)があるから、その後、中村誠と対決しても、右供述を維持して変更しなかつたことが窺われる。ちなみに藤谷は八月中に釈放されている。右藤谷供述の経緯に徴すれば、中村が、火薬を運んだと話した時、同人が鯨肉を提げていたとの点に思い違いがあろうとも、中村誠から右内容の話を聞いたという藤谷の供述自体は、勾留後間もない同年四月三日に出て、途中、中村をかばつて(甲第四七四号証)、一旦、その供述を撤回したことはあるものの、捜査段階を通じて終始一貫しているのである。そして右藤谷の聞いた中村の話の趣旨も必ずしも中村が二回に分けて運搬したと言つたというものとは解されない。

これに対し中村誠は昭和二八年八月二〇日司法警察員巡査部長藤田良美に対し「昭和二七年七月七日頃一番方の帰りに、井尻に頼まれて大須田のところへ石炭のサンプルを持つて行つたことがある。井尻から『サンプル以外の物も入つているからな。』と言われた。ダイナマイトならバラにして二〇本や三〇本サンプルの中に入れてもわからない。サンプル以外のものといえば火薬のことと思う。七月中旬頃、上芦別の三菱駅から鉄道線路を通つて自宅に帰るとき薬谷から『この間マツコから何か頼まれなかつたかな。』と聞かれたので、私は『火薬を頼まれて下げた。』と言つた記憶がある。サンプル以外の物も入つているから誰にもいうなと口止めされたことから、火薬だと信じていたので、薬谷に火薬を頼まれたと言つた。」旨(乙第一八一号証)供述し、同年九月六日、同巡査部長に対し「七月七日頃、背負袋に石炭のサンプルを入れて、井尻飯場に立寄り、二階に二〇分位いた。この間に、石炭の入つている袋にバラになつたダイナマイト二〇本や三〇本入れることは口紐を解かなくてもできる。井尻の口から火薬の話は聞いていないし、火薬が入つているのを見てもいない。井尻が飯場を出るとき『誰にも言うな。』と言つただけである。『誰にも言うな。』と言つたのは、粉炭でも米でもないと思われる。大須田の処へ届け翌朝袋をもらいに行つたところ、大須田は玄関から粉炭の入つたままの袋を持つて来て石岸小屋で粉炭をあけ、『これ俺の燃料だ。』等と言つていた。あけた粉炭の量は背負つて行つた時の量より少なかつた。」旨(乙第一八〇号証)供述しているのである。

前記藤谷の供述は、中村から聞いたとの供述である。そして、現に中村は石炭のサンプルを大須田方に運んだが、その際井尻から「誰にも言うな。」と口止めされたと述べ、藤谷に「火薬を頼まれて下げた。」と言つた記憶があるとも述べているのであるから、たとえ、藤谷が、中村から、その話を聞いた時、中村が鯨肉を下げていたとの点について記憶違いか、錯覚があろうとも、「井尻に頼まれて火薬を下げた。」と中村から聞いたこと自体は、全く根も葉もない虚偽の事実とはみられない。昭和二七年七月二二、三日頃、藤谷が芦別小学校付近で中村から、井尻に頼まれて、井尻飯場より上芦別まで火薬を運搬し、地主及び西芦の氏名不詳者二、三人に渡したと聞いた事実はあると判断しても不当ではない。

四、被控訴代理人は「ダイナマイト・雷管および発破器・ハンドル・母線は七月一〇日頃までには全部井尻の手もとに、そろつていたことになるはずなのに、検察官は、これら火薬や母線等を地主が三回以上分けて運んだと主張する。ことに、そのうち一回は中村と二人で持つていつたというが、およそそのようなことは考えられない。」と主張する。

しかし右主張は、検察官の冒頭陳述を誤解するものである。

冒頭陳述(28・10・9、甲第三号証)によれば、その三七項に「昭和二七年七月二二、三日頃藤谷一久が芦別小学校付近で中村誠から、火薬を井尻に頼まれ、井尻飯場より上芦別まで運搬し、地主及び西芦の氏名不詳者二、三人に渡した旨聞知した事実」と主張するのみで、中村誠が井尻に頼まれ、火薬を井尻飯場より上芦別まで運搬して地主らに渡したと主張しているのではないことが明らかである。すなわち藤谷が中村から、そのような話を聞いたことがあるとの情況事実を主張したのみである。

なお、仮に、七月一〇日頃までには、石塚が三坑から持ち帰つたダイナマイト三箱(五五本位在中)及び電気雷管二〇本位と、井尻と徳田が二・三坑坑務所から持ち出したダイナマイト一箱及び雷管一〇本とさらに発破器・ハンドル・母線がそろつていたとしても、これらを数回に分けて運ぶことが考えられないことではない。危険物の持ち運びには人目をはばかることもあろうし、その時その時の都合もあろう。まして地主は常々幼児の手を引いて歩いていたのである。大量の品物を一度には運び得ないと考えても、不合理ではない。

五、石塚と井尻と藤谷の各供述には一部裏付けのない部分もあり、三名の供述は食い違つていることも明らかであるが、だからといつて、その内容が全部信用性がないとはいえない。また勾留中の供述ではあるが、捜査官の強制と誘導によつてそれぞれが思いつきを供述したものではないとみられる。三名の供述が食違うのは、捜査官の誘導や強制がなく、それぞれが、記憶のまま任意に供述した証左ともみられるわけである。

被控訴代理人の主張は理由がない。

第五二、七月一二・一三日、井尻が石塚に鉄道爆破計画について話し仲間入りを勧めたとの点について

被控訴代理人は、「石塚が井尻から鉄道爆破の計画の話を聞いたのが七月一二、一三日の両日であり、井尻が仕事をしていない日であつたという石塚の供述は一貫している。しかし、七月一二・一三の両日、井尻が賃金交渉のため札幌本社に行つていたことは、起訴後の捜査により明瞭になつている。これらの捜査は、もつと早い時期になすべきであり、石塚の供述の直後にでも捜査すれば、鉄道爆破だけでなく火薬類取締法違反の起訴もできなかつたはずである。」と主張する。

一、石塚は、井尻から鉄道爆破の計画の話を聞いた日時について、昭和二八年四月六日司法警察員芦原吉徳警部に対しては「七月一二日頃の朝と翌一三日公休日の午前一〇時頃」と述べ(乙第四〇一号証)、同年五月六日金田検事に対しては「確か一二日頃の午前一〇時頃と翌日公休日の午前一〇時頃」と述べながら、一二・一三日両日が「一三・一四日の両日であつた。」ともとれる趣旨の供述もしており(甲第四五四号証)、ひにちにずれがあるかも知れないことを窺わせる供述をしているのである。同年五月八日にも同検事に対し「昭和二七年七月一二日頃の朝食後」と述べ(甲第四四七号証)、やはり日時の点については幅をもたせて供述している。さらに同年八月一六日、金田検事は、石塚を取調べるに当り「昭和二七年七月一二、三日頃」との問いを発している(甲第四四九号証)ところからも、日時の点については、多少のずれはあると考えられていたとみられる。そして、同年五月三〇日および三一日、高木検事に取調べられた際には、「井尻が足か手か前に怪我した処が再発して具合が悪く休んでいたとき」(28・5・30、甲第四五一号証)「休みの日で何だか判らないけれども大部屋の方では皆休んでいた」(28・5・31、甲第四五三号証)と供述するのみで、一二・一三日頃とも述べていない。原審における控訴人高木一の本人尋問の結果によれば、高木検事は石塚のいう日付の点は不確かであると思つていたことが認められる。

石塚は裁判官の証人尋問に対しても「七月一二日頃の午前九時頃とその翌一三日頃の午前一〇時前後」との表現で証言(証人石塚尋問調書、28・8・3、甲第四五七号証)しているのである。

一方、井尻正夫は同年五月二八日小関正平副検事に対し、「札幌本社へは、七月二日と七月一二、三日頃出かけて行つて交渉した。」旨(甲第五三一号証)供述し、同年六月四日、同副検事に対し「七月一二日か一三日にも一度賃金交渉で札幌へ行つた。この時も泊らずに帰つた。」旨(甲第五三二号証)供述し、さらに同年九月一〇日の裁判官の証人尋問に対しては「私は七月一一日頃から賃金の交渉で札幌に出た。」旨(甲第五〇二号証)証言しているのである。

検察官は冒頭陳述三二項で「石塚守男が昭和二七年七月一二、一三日頃、井尻飯場の井尻の居室で、井尻から二日間に亘り本件鉄道爆破について謀議メンバー、実行の段取等の計画を打開けられ、その仲間入りを勧められた事実」と主張しており、「七月一二・一三日」と日時を確定的に主張しているものではなく、一三・一四日ということも含む趣旨であることが明らかである。

二、ところで本件鉄道爆破事件の起訴後、つぎの資料が得られた。井尻とともに賃金交渉の代表者の一人であつた高橋金夫は、昭和二八年九月二七日中田正巡査部長に対し「七月六日の公休に井尻飯場で会合して七日に交渉しているようである。この結果また一一日、一二日、一三日と三日札幌に出掛けているようである。」旨(員供、乙第三〇二号証)供述しているが、右供述は高橋の手帳の記載に依拠して述べたとみられる。しかし高橋金夫の手帳(甲第五六九号証の一、二)翌二八日に任意提出(甲第四〇〇号証)され、同日中田巡査部長によつて領置(甲第五八〇号証)されている。そして高橋金夫の手帳(甲第五六九号証の二)には、七月一一日一二日、一三日の欄に連続して「休ミ、札幌本社行」との記載がある。しかし、この記載から直ちに高橋金夫ほか九名の代表者が一一日から一三日まで札幌に滞在した趣旨と解することはできない。何故なら、同じく代表者の一人であつた藤田長次郎は、同年九月二四日司法巡査牧野広に対し「その後七月一〇日頃に札幌の本社へ行つて一晩泊つて翌日、会社の大野所長、中沢常務、小林専務と私達代表一〇名が交渉し、斗南貿易の新妻が来て大興商事に二二〇万円位債務があると回答したので私達は了解して、札幌発午後一〇時の列車で芦別駅から油谷までトラツクで帰山した。」旨(乙第三〇四号証)供述し、代表者の一人原寅吉も昭和二八年九月二八日巡査部長藤田良美に対し「第二回目に札幌本社へ団体交渉に行つたのは、前と同じ顔ぶれで八月七、八日頃に行つように記憶している。この交渉のとき札幌市に一晩泊つて帰つて来たと思う。」旨(員供、乙第二八五号証)供述しているのである。そして、代表者の一人田中武雄も、同年九月二六日中田正巡査部長に対し「その後、領置されている私の手帳によると一一日に二回目、札幌に行つている。」旨(乙第二六六号証)供述しているから、右高橋の手帳の記載と合わせ考えれば、代表者ら一〇名は七月一一日に油谷を発つて札幌に出て、その夜、札幌で一泊し、翌一二日に賃金交渉して、同日の夜行で芦別に帰り、一三日の早朝、油谷に帰山したものと解するのが合理的である。井尻の前掲の小関副検事に対する「七月一二日か一三日にも一度賃金交渉で札幌へ行つたが、この時も泊らずに帰つた。」旨(甲第五三二号証)の供述は、同人の記憶違いで、井尻も代表者一〇名とともに札幌で一泊したものであろう。そうして夜行で帰り早朝、油谷に着けば、その日は稼働しないのが通例であるから、高橋の手帳の一一日、一二日、一三日、「休ミ、札幌本社行」の記載も、一三日も札幌に滞在したとの趣旨ではなく、一三日は、一二日まで札幌に行つていて一三日早朝油谷に帰山したが、札幌行きの皮れのため休んだという趣旨に解しても何ら不合理ではない。ちなみに高橋の手帳(甲第五六九号証の二)の記載によれば、七月一日に札幌の本社に交渉に行つたときも、二日午前七時に帰り睡眠不足のため休養して稼働しなかつたことが認められる。また井尻も七月一日札幌に交渉に行つた翌日の二日は稼働していないことが、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の二)の七月二日分が空票になつていることから窺知されるのである。

以上の各資料を総合すれば、井尻は七月一一日に札幌の大興商事本社に出向き、その夜札幌で一泊し、翌一二日、大興商事の大野所長らと賃金支払について交渉し、同日の夜行列車で芦別に帰り、七月一三日の早朝には油谷の井尻飯場に戻つていたと判断しても何ら不合理ではない。

三、前掲のように石塚は昭和二八年四月六日(乙第四〇一号証)以来、七月一二・一三日頃、二日間にわたつて、井尻から鉄道爆破の計画を聞き、仲間入を勧められた旨供述しているが(もつとも、金田検事に対しては七月一三・一四日ともとれる供述―検供、28・5・6、甲第四四五証―をしていること前記のとおりである。同人の供述の経緯に照せば、同人の記憶も、日時の点に一日の記憶違いがあり、公休日とその翌日の出来事を公休日とその前日の出来事と述べたとみても不当ではない。そうだとすれば、石塚は一三、一四日の両日にわたつて井尻から話を聞いたことになり、右高橋手帳の記載と矛盾しないことになる。

四、ちなみに、油谷鉱業所の大興商事関係工数簿(甲第五七八号証、同第五七九号証)、大興商事の操業証の各記載は正確なものでないことは後述のとおりであるが、右のように、石塚が七月一三・一四日に井尻から右の話を聞いたと判断することが、油谷鉱業所の工数簿(甲第五七九号証の二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の二)の各記載と抵触するかどうかを検討してみることとする。

右工数簿、操業証のいずれにも、井尻が七月一一日から一五日まで稼働した旨の記載はないから、この間、井尻は仕事をしないで休んでいたとみられ、このことは、井尻の七月八日から一四日まで、手と足の怪我によつて公傷扱いで仕事を休んだ旨の前掲小関副検事に対する供述(甲第五三二号証)、七月一一日頃から賃金の交渉で札幌に出たり、又足を怪我して結局一週間位働かなかつたことがある旨の裁判官の尋問に対する証言(甲第五〇二号証)とも符合する。

さて右工数簿、操業証によると、七月一三日は誰も稼働した旨の記載がないから、公休日であつて、仕事を体んだとみられる。ところが工数簿の石塚の七月一四日欄には〈1〉の記載があり、その右側に赤鉛筆で〈2〉と記載されている(第一審公準証人会会鶴蔵尋問調書、31・5・16、甲第一九六号証、昭和四七年七月七日付被控訴代理人提出の準備書面添付の甲第五七九号証の二写真参照)ことが認められる。また、操業証を点検すると七月一四日分は二枚あり、その一枚は、甲方、堀進、三坑二番層立入で、石塚守男、藤谷一久、福田米吉、岩城定男が稼働した旨の記載(記録八六四八丁参照)があり、他の一枚は、乙方、堀進、三坑二番層向堀で、坂下真弥、徳田敏明、藤谷一久、石塚守男が稼働した旨の記載(記録八六七二丁参照)がある。

右各記載によると石塚は七月一四日、一番方、二番方と連勤したかにみえ、そうだとすると井尻から七月一四日の午前一〇時頃にも、鉄道爆破の話を聞いたということはあり得ないことになるわけである。

ところで、岩城定男は「昭和二七年四月二三日から七月一〇日まで大興商事で働き、七月一二日から二五日まで内田商店で店員をしていた。七月二七日から八月一〇日まで再び大興商事で堀進夫として働いた。」旨(巡供、27・9・3、乙第一九二号証、検供、28・6・27、甲第四三三号証)供述しているのであつて、岩城定男が、内田商店で店員をしている間の七月一四日に石塚、藤谷、福田らと大興商事で働くことはあり得ないから、右の七月一四日の甲方の稼働記載がある操業証は事実に反する架空の操業証であると証められる。そうすると、前記工数簿の石塚守男の七月一四欄の〈1〉の右側に赤鉛筆で〈2〉と記載されているのは、七月一四日石塚が一番方で稼働したのは誤りであつて、二番方で稼動したのが正しいとして赤鉛筆で〈2〉と訂正されたものとみるのが相当である。ちなみに藤谷についても同日欄の〈1〉の右側に赤鉛筆で〈2〉と記載されている。(もつとも甲第一九六号証によると、第一審の昭和三一年五月一六日の公判準備において証人会田鶴蔵は赤鉛筆や普道鉛筆で〈1〉〈2〉と書いてある部分は、わたくしどもが書いたものではない旨証言しているが、油谷鉱業所が保管する工数簿に大興商事の係員が手を加えることも考えられないし、これを閲覧した捜査官らが記入することも考えられない―もしそうであるなら検察官は、一三・一四日と主張するであろう。―から、会田が不知の間に油谷鉱業所の係員が記載したものと解しても不合理ではない。)なお、坂下真弥、徳田敏明については、右工数簿にいれずも〈2〉の記載がある。

以上を総合すれば、七月一三日は井尻、石塚とも休み、一四日は井尻が終日休み、石塚は一番方で稼働せず、二番方で稼働したとみるのが相当で、七月一四日の午前中および午後二時過の二番方入坑までは、井尻飯場にいたとみても、決して不合理ではない。

五、そうすると、井尻も石塚も七月一三・一四日の両日とも午前中は井尻飯場に在宅していたと認めても何ら支障はない。したがつて、公休日も入れて二日にわたつて、鉄道爆破の計画を聞かされ、仲間入りの勧誘を受けたとの石塚供述が、客観的事実に反し、信用できないものとはいえない。

検察官が、石塚の七月一二・一三日頃、井尻から鉄道爆破の計画を聞かされ、仲間入りを勧められたとの終始変らぬ供述を信用できると判断しても不合理ではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

六、被控訴代理人は「七月一二・一三日の両日、井尻が賃金交渉のため札幌本社に行つていたことは、起訴後の捜査により明瞭になつている。」と主張する。

しかし、前記資料によれば、井尻が七月一一・一二日の両日賃金交渉のため札幌本社に行つたことは明瞭になつたが、一三日まで札幌にいたとの資料が顕われたわけではない。検察官は「七月一二・一三日頃石塚が井尻から鉄道爆破の計画を聞かされ、かつ、仲間入りを勧められた。」と主張していたのでおり、その日時を七月一三・一四日両日であると解しても、その同一性を失うものではないことは明らかである。

かようにみれば、検察官の主張が全く事実に反するものであるとはいえないから、被控訴代理人の主張は、採用できない。

第五三七夕の話について

一 被控訴代理人は、「藤谷は七夕の晩の話については、早い段階から、供述していたのに、それが昭和二八年七月上旬になつて、突然新しい事実を供述し、しかもその供述内容が、ハンドルの出所、「5」の番号のついた雷管の出所という捜査官にとつて、もつとも必要な供述であるというのは、極めて不自然で、到底信用できないものである。」と主張する。

そこで藤谷供述を日を追つて検討してみることとする。

藤谷は逮捕されて一週間後の昭和二八年三月二六日、芦原吉徳警部に対し「七夕の日の午後六時過、井尻と石塚と三人で焼酎を飲んだ時、井尻が『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、あれは鉄道爆破に使つたのだから、絶対に誰にも言うなよ。』と話した。」旨(乙第三七〇号証)述べ、ついで三月二九日にも同旨(乙第三七一号証)の供述をし、同年四月三日には同警部に対し「七月二六、七日頃現場からの帰り途に、井尻が石塚と歩きながら『石塚君、お前が持つて来た火薬は地主にやつたんだ。俺も二九日には下るんだ。』と語尾は、はつきりしないが話しているのが聞えた。」(乙第三七二号証)供述し、四月九日同警部に対し「七夕の夜、井尻は『二九日は俺も下に行つて来た。行つた処は芦別と平岸の間で芦別寄りの方だつた。地主も来ていた。帰りには慌てて持つていつたものを置いて来て失敗したぜえ。』と言つた。」旨(乙第三七三号証)述べていた。

ところが翌四月一〇日中田正巡査部長に取調べられるようになり、「八月七日焼酎を飲んだときマツコ(井尻のこと)から『二九日爆破事件に行つてきたんだ。俺と地主がやつた。人の気配がして慌てて持つて行つた物を置いて逃げて来て失敗した。』と言つたように思うが、この外何んぼ考えても思い出さない。警察の方で勝手につけてくれというような気持になる。」旨(乙第三七四号証)供述するようになつた。そして四月二一日好田政一副検事に対し「七夕の夜の話の内容は思い出せない。警察で種々の場合を想像して勝手に作話をしたのである。」旨(甲第四六三号証)従前の供述を覆えした。

しかし、四月二六日再度好田副検事に取調べられ、「作話と言つたのは嘘で警察で申述べたことは大体間違いない。」旨(甲第四六四号証)供述した。そして同年五月四日にも別の事項について(甲第四六五号証)供述している。五月一八日、金田検事に対しても「井尻が言つたことを判で押したように憶えているわけではないが、井尻から聞いた本筋は間違いない。爆破現場に井尻、地主の外、誰が行つたというようなことは聞いていない。」旨供述した。

ところが、五月二三日金田検事に対し「警察で言つたことは嘘である。」旨(甲第四六七号証)供述するようになり、五月二五日(甲第四六八号証)、五月二六日(甲第四六九号証)、五月二八日(甲第四七〇号証)、同年六月一日(甲第四七一号証)、六月三日(甲第四七二号証)いずれも「七夕の夜の話の内容は嘘だつた。」旨の供述を繰返した。

そして六月九日中村繁雄巡査部長に対し「只今の心境は元の素直な心に帰つた。六月二五、六日頃石塚が井尻から火薬持出しを頼まれた。」旨(乙第三七五号証)述べ、六月一〇日「井尻の身をかばつたからである。親戚でもあるし、自分の口から何でも喋つたことがわかつたら内輸騒動にでもなりはしないかと考えたからであるが、七夕の夜『実は鉄道爆破に俺も行つたんだ。』と言つたような気がする。」旨(乙第三七六号証)述べ、六月一三日金田検事に対し「七夕の夜、井尻から鉄道爆破の話を聞いたことは本当である。」旨(甲第四七三号証)述べ、六月一九日にも同旨(甲第四七四号証)の供述をし、六月二一日別の事項について(甲第四七五号証)供述した。

六月二六日には藤谷は自己の火薬類取締法違反被告事件の法廷に出廷している(甲第四五九号証の一)。

以上のような経過で六月までの取調べがなされたのであつて、藤谷は、七夕の夜の話の内容自体を聞いたと述べ、また聞いていないと述べ、再び聞いたと述べる等、七夕の晩の話については、早い段階で供述はしたものの、不安定な供述であつたのである。同年七月三日から再び中田正巡査部長の取調べがはじまつた。

藤谷は七月三日(乙第三七七号証)、七月四日(乙第三七八号証)、七月九日(乙第二八一号証)同巡査部長に対し「七夕の夜、井尻から石塚が持つて来た火薬は地主にやつて、鉄道爆破に使つたと聞いた。」旨供述した。

そして、七月一一日「七夕の夜、マツコは『誠さんにも火薬を地主と一緒に下げて貰つたんだ。誠さんに火薬以外のその他のものも支度して貰つた。火薬についているもんだからわかるべあ。』と言つた。私は『誠さんが、どういう風にして持つて来たべえか。』と聞いたら、『向堀の現場から持つて来た。』と言うのである。『どこの発破器だ。』と聞くとマツコは、『現場のだ。』というだけで答えなかつた。このことについてマツコはあまり喋らないのである。『どうせ持つて来るんならハンドルも持つてこいばよかつたんではないか。ハンドルあるばかりに福士に言われて坑内を探したんだ。』と言つてやつたら、マツコは『ハンドルは必要なんだ。安全灯のオンチヤンに持つて来て貰つたんだ。』と言うのである。『オンチヤンどうして持つて来たんだ。』と聞くと、『大興商事の事務所の福士さんの机があるが、福士の机の抽出から持つて来たんだ。』ということであつた。」旨(乙第三八二号証)述べた。七月一三日「七夕の夜、マツコは『母線も誠さんに現場から持つて来て貰つたんだ。』と言つている。六月末、出町幸雄から立入の現場で真新しい緑色の発破線貰つて、今まで使つていたものを向堀で専用に使うことになつた。それなのにマツコは『誠さんに母線をやつたわ。』とも言つた。」旨(乙第三八四号証)述べ、同日「七夕の夜マツコは『党に干係あることで誰にも言えないが、大須田さんも干係しているし、山内さん、正夫さんその他知らない名前の人が、二、三人関係しているんで、この人等と相談してやつたことなんだ。』ということであつた。誰が現場に行つたとは言つていない。」旨(乙第三八五号証)述べた。そして七月一六日(乙第三八六号証)、七月一七日(乙第三八七号証)「火薬は地主と一緒に誠さんに下げてもらつた。」旨述べ、七月一八日「七夕の夜、井尻は『党の会議で決つたので、お前等に色々なものを支度して貰つたんだ。誠さんに都合して貰つた発破器や、なんかは三菱の人と三井の人等が俺とこにとりに来て、上芦別に持たせてやつた。』とか『大須田さんとこまで持たせてやつた。』とか言つていた。」旨(乙第三八八号証)述べた。

七月二一日「七夕の日、マツコは『母線も誠さんに都合して貰つたんだ。』と言つた続きに『俺も三坑から一本持つて来た。』と言う話であつた。三坑とは繰込伝票をおく処で道具なんか借りるところである。坑務所、見張りと呼んでいた。持つて来たのは誰かと一緒だつたというような気がする。徳田のオジと聞かされている徳田に盗らしたとか、徳田が盗つてきたとかいつただけである。」旨(乙第三八九号証)供述した。

七月二三日「誠から火薬下げたと聞いたと言つたら、井尻はびつくりした。」旨(乙第三九〇号証)供述した。

そうして七月二五日「徳田のオジと行つて母線を持つて来たと言つていた。『他に持つて来たと言うようなことを聞いてるな。オジの奴、早いもなあ、と言つていたからな。』オジを連れて二人で行き母線と一緒に火薬と管を抱えてきたんだと言うことであつた。それで私は、ペテンにかけて火薬を持出させていて、また火薬をどうするんだと思つて『石さんが持つて来たのも火薬と管だべー。また持つてきたのか。』と聞いたら、マツコは『オジ、母線と一緒に持つてきたから、そのまま持つて来たんだ。』ということで、マツコが特に頼んで盗らしたような口振りでなかつたようである。『オジが持つて来たという火薬も下がつちやつたのか。』と聞いたら『三菱、三井の人が来て、皆上芦別の大須田の処に下げた。』ということであつた。」旨(乙第三九一号証)述べた。

以上、日を追つてみたとおり、藤谷の取調は三月二六日にはじまり、七月二五日までに、右の各供述をしたわけである。しかし五月一日以降は自己の火薬類取締法違反被告事件の審理のため、勾留(勾留状28・5・1、乙第四一二号証の三)されていたのである。そして七夕の夜の話の内容について供述を変えなくなつたのは、六月一〇日からである。

石塚は同年三月一六日中村繁雄巡査部長に対し「八月七日焼酎を飲んだとき、井尻から『石塚君が持つて来た火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから頼むから誰にも言わないでくれ。中村誠も藤谷も入つているんだから。』と口止めされた。」旨(乙第三六九号証)述べ、翌三月一七日「七夕の夜、飲み終つてマーケツトに出掛けた。藤谷がマーケツトの表通りで私に対しマツコから聞いたとおり、『俺も入つているから必ず誰にも言わないでくれ。』と口止めされた。」旨(乙第三九七号証)述べていたのである。

捜査官らが、藤谷が鉄道爆破の共犯者、少くとも幇助犯ではないかと疑つて追及したとしても不思議はない。しかも藤谷は六月一〇日までは、屡々供述を変更し、七夕の夜の話にしても、これを認めた場合にも「井尻と地主がやつたと聞いているが、その外、誰が行つたというようなことは聞いていない。」旨(検供、28・5・18、甲第四六六号証)述べ、大須田らの名前を出したのは、七月一三日(前掲乙第三八五号証)に至つてからであつた。藤谷の七夕の夜の話についての供述が、安定したのは前記のとおり、六月一〇日以降であるが、七月一一日に至り「火薬以外のものは誠さんに支度して貰つたとか、揃えて貰つたとか、井尻が言つていた。」旨(前掲乙第三八二号証)供述したことに端を発し、それが現場の発破器ということに話が進み、「どうせ持つて来るんならハンドルも持つて来いばよかつたんでないか。ハンドルあるばつかりに、福士に言われて坑内を探したんだ。」と井尻に言つたというのである。藤谷の好田副検事に対する昭和二八年四月二一日付供述調書(甲第四六二号証)の記載によれば、藤谷が福士に命ぜられて発破器を探したことは事実であると認められる。それに答えて井尻が「ハンドルは必要ないんだ。安全灯のオンチヤンに持つて来て貰つたんだ。」と言つたというのである。藤谷の供述は極く自然である。

母線についても、井尻は「誠さんに現場から持つて来て貰つたんだ。」と言つたが、それなのに井尻は「誠さんに母線をやつたわ。』とも言つたと供述した(前掲乙第三八四号証)。これは母線の交換を窺わせる供述である。

そこで母線のことについて、ただされたわけである。七月二一日(前掲乙第三八九号証)中田巡査部長は「母線のことで他にきいていないか。」と尋ねた。それに対して、藤谷は「きいていない。」と答える。そこで中田巡査部長は「発破器にしろ母線にしろ火薬にしろ都合して貰つたとか支度して貰つたと、うまいこと言つているが、皆泥棒のことなんだよ。この泥棒というか、盗むというか、カツパラうというか、この事については。」との問いを発した。藤谷は「まあ、そう言えば、皆カツパラいですね。そう言えばマツコからカツパラいの話を聞いたかも知れんですね。」と答えた。「それはどんな事であつたか。」と尋ねられ、「とりあえず母線ですね。一本では足りなくてか、予備にするのかは知りませんが、盗つてきているかも知れません。母線もカツパラつてきたとか、カツパラツタとかの話でした。」と答えた。そこで「どこからカツパラツて来たということだつたか。と尋ねられ、藤谷は「三坑からカツパラつて来たと聞いてます。」と答えたのである。

右の尋問の経過をみれば、これも強ち不自然とはいえない。

さらに、中田巡査部長は「それではマツコ一人で盗つてきたと言う話だつたか。」と尋ねている。藤谷は「持つてきたのは誰かと一緒だつたと言う話も聞いた気がするんだがなー。」と答える。そこで同巡査部長は「又か、マツコの事を考えて言葉ぬくつもりだなあ。」「何もそんな先の事考えんでいいから話進めよ。」と言う。藤谷は「悪い事をするのに頼む人つて決つてるですよ。何時もマツコの飯場でゴロゴロ世話になつている奴ですよ。」「そうですね。そんなこと頼まれてやるのは、オジじやないですか。」と答える。同巡査部長は「オジじやないですかと言つて、それお前の考えか。」と尋ねる。藤谷は「いや、藤谷の考えでないですよ。マツコからそうきかされているんですよ。何んでも徳田のオジは少年院に入つてた男で、そういう事は口が堅いとか、カツパライが上手だとか言う事もきいています。」と答えたのである。

藤谷は積極的に捜査に協力しようとしているわけではないのである。右程度の尋問は不当ではない。

つぎに、七月二五日(前掲乙第三九一号証)、中村巡査部長は、「井尻が徳田と一緒に三坑坑務所より母線を一本盗つて来た話があつたが、もう少し詳しく話してみないか。」と尋ねた。藤谷は「これしか聞いていないようです。」と答える。同巡査部長は「そう逃げないで考えて見なよ。」と追求する。藤谷は「母線だけははつきりしているんだがなあ。」と答え、頭に手をやつて下を向き乍ら「他に持つてきたと言うようなこときいてるな。オジの奴早いもなあと言つていたからな。」と答えた。さらに藤谷は「やはりなんと言うか、聞いたことより少く喋りたいのが、本当ですよ。オジの事も先日の取調の時に頭にはあつたのですが、やはりずるい考えであつたんです。結局マツコが、オジも手が早いなあーとか、なれたもんだなとか言つて、オジを連れて二人で行き母線と一緒に火薬と管を抱えてきたんだと言う事です。」と供述している。

佐野留之助(員供、28・6・27、乙第二九〇号証)、西浦正博(員供、27・8・7、乙第二七七号証)の供述によつて、二・三坑務所から、発破母線と雷管一〇本位、新白梅ダイナマイト一箱が、同じ頃盗難にあつていることを知つている捜査官としては、発破母線をカツパラつて来たと聞いたとの供述を得れば、雷管とダイナマイトについても、何か聞いていないかと尋ねるのは当然であるが、右供述調書をみるかぎりでは、中田巡査部長は、「雷管とダイナマイトもカツパラつて来たのではないか。」との発問はしていない。

藤谷は任意に供述したと認めるのが相当である。

しかして、鉄製ハンドルの出所については、警察官は、油谷炭鉱のみならず、付近のあらゆる炭鉱を捜査してもわからなかつたが、藤谷の右供述により、原田鐘悦を取調べたところ、原田は鉄製ハンドルを井尻に渡した旨(員供、28・7・30、乙第一八五号証、員供28・8・3、同第一八六号証、検証28・8・6、甲第四二八号証の二)供述した。

また、井尻が徳田敏明と共に三坑坑務所から、発破母線、ダイナマイト、雷管を持ち出したとの点についても後述するように、徳田敏明から藤谷供述に副う供述(検供28・9・12、甲第四三一号証の一、検供28・9・13、同号証の二、検供28・9・15、同号証の三、検供28・9・16、同号証の四、検供28・9・17、同号証の五、証人徳田敏明尋問調書28・9・17、同第四三二号証)が得られたのである。

藤谷の供述は七月上旬に至り突然に出たものではなく、藤谷が、親戚である井尻のことを考え、あれこれ思い悩んで、供述したり撤回したりした末、火薬のことから、話は「火薬以外のその他のもの」に及び、発破器のことからハンドルに発展し、近所に住む大須田が事件に関係していることも供述し、母線の話から二、三坑務所からも発破母線が盗み出されたこと、さらに発破母線と共に火薬、雷管も「手の早い」徳田によつて持ち出されたことを供述するに至つたので、これが七月上旬から中旬にわたつたのは、藤谷が、いみじくも言うように「聞いたことより少く喋りたいのが本当」であつたためとみても不合理でない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

二 被控訴代理人は、「藤谷に対する中田巡査部長の取調に現われている限りでも、強制的であり著しい誘導を行つており、到底信用出来ないものである。」と主張する。

しかし前項で摘記したところからも明らかなように、誘導とはみられないし、捜査官に協力的に進んで供述しようとする態度でないことが立場上明らかな藤谷に対し、前項で摘記した程度の問を発したとしても、捜査の通例として許容されるところとみられる。

また、原田鐘悦にしても、徳田敏明にしても、捜査官らの知り得ない存在と思われる。全く捜査官の創作した虚構の事実に基づいて誘導、強制することが果してできるであろうか。「ハンドルを安全灯のオンチヤンに持つて来て貰つた。」とか、「徳田のオジと一緒だつた。徳田に盗らした。」との事実は、藤谷の供述をまたなければ、捜査官の到底知り得ないところである。

強制と著しい誘導によつて得られた供述とはみられない。

藤谷は第一審第五回公判(28・11・20、甲第三二号証)で「警察で調べられた時、全然ない事実、はつきり自分に記憶のないことも供述した。しかし押しつけられたのではない。頭が混乱して仕舞つてどういう風になつていたか言葉では表現の仕様がないような気持になつて供述した。事件の内容は教えて貰わないが助け舟を出して貰つた。」旨証言している。藤谷自身強制、誘導はされなかつたことを認めていると思われる。

被控訴代理人の主張は理由がない。

三 被控訴代理人は、「石塚供述(員28・3・13、乙第三九四号証)も、藤谷供述(員供28・3・26、乙第三六〇号証)も、当初は七夕の晩の話は、ほぼ一致していたが、原田鐘悦とハンドルの話、徳田敏明と二・三坑坑務所の発破母線・ダイナマイト・雷管の話は、ついに石塚の供述からは出ないままであるから、藤谷供述は信用できない。」と主張する。

なるほど、藤谷が七夕の晩、井尻から聞いたとして供述する原田鐘悦とハンドルの話、徳田敏明と二・三坑坑務所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出したとの話は、石塚の供述には顕れないままである。

石塚は昭和二八年一〇月二七日、金田検事から「昨年の七夕の夜、君の家で井尻正夫、藤谷一久と君と三人で酒を飲んだ時の事について、前に君から色々聞いたんだが、それ以外にまだ何か井尻から聞いていないかね。」と尋ねられ、「私はその時、聞いた事については全部前に申し上げた。それ以外については自分としては聞かないと思つている。そんなに多く話しているとは思わない。別の時に藤谷が井尻から聞いているのではないだろうか。」との趣旨(甲第四五五号証)の供述をしている。

また、石塚は昭和二八年四月六日芦原吉徳警部に対して「八月七日、七夕の晩井尻は『爆破事件に行つてやつた話だけど、鉄道線路が壊れないで失敗した。母線も発破器も皆、線路の側に置いて来ちやつた。行つたメンバーはこの前言つた通りだが誰にも言うなよ。段取りするのは皆でやつたが、やつたのは、俺と地主なんだ。』と話した。」旨(乙第四〇一号証)供述して以来、捜査段階で一貫して同趣旨の供述をしている。

さらに、石塚は三月一七日中村巡査部長に対し「七夕の夜、飲み終つてマーケツトに出掛けた。藤谷がマーケツトの表通りで私に対して『マツコから聞いたとおり、俺も入つているから必ず誰にも言わないでくれ。』と口止めした。」旨(乙第三九七号証)述べたが、この供述も終始維持されている。

これらの供述に照らせば、藤谷は七夕の夜、はじめて井尻から鉄道爆破の話を聞いたと供述するのであるが、石塚が供述するように「藤谷は井尻から別の時に聞いている。」とみられる。しかも石塚が供述するように七夕の夜「行つたメンバーはこの前言つた通りだ。」との井尻の言葉で話が藤谷にも通じるほどに、少くとも七夕の夜よりも前に、あるいは七月二九日よりも前に、井尻から鉄道爆破について聞いていたとみられるのである。

しかし、そうだからと言つて原田、徳田に関する藤谷供述が信用性を失うとはいえない。藤谷は井尻と姻戚関係にあつて極めて親しい付合いをしていたのであるし、仕事の上でも先山、後山を組んだこともある。井尻が事前に、または事後に鉄道爆破に関することを話していることも十分あり得ることである。それらの記憶を混同して七夕の夜の話として供述したとしても不思議はない。

聞いた内容について裏付証拠が得られるならば、聞いた日時が信用できないとしても、その内容までも全く信用できないということはできない。井尻が七夕の夜、井尻、地主らが鉄道爆破の実行をしたと話したとの点については、石塚供述の裏付があり、原田鐘悦とハンドルの話については前記のように原田鐘悦の供述によつて裏付けされ、井尻が徳田敏明と二・三坑坑務所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出したとの話については、徳田敏明の供述によつて裏付けされたのであるから、藤谷供述の内容自体は信用性があると考えても何ら不合理ではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

四 被控訴代理人は、「野田(衣川)、大須田、山内、斉藤のアリバイが否定されなかったから、藤谷供述、石塚供述の信用性は根底から否定される」と主張する。

野田こと衣川を取調べた資料は存在しないから、同人のアリバイ主張は不明であるが、阿部兼三郎は、「七月二九日午後四時半か五時頃、及川が来て、間もなく野田も来た。三人で三井の公園クラブであつた「山彦学校」という映画を見に行つた。六時三〇分頃から始つたが、途中で及川がいなくなつた。映画が終つて野田と家へ帰つて休んだ。及川が一〇時半か一一時頃帰つて来て、芦別駅の掲示板に鉄道爆破事件のあつたことが書かれてあつたと話した。」旨(員供28・7・15、乙第二三一号証、員供28・7・16、乙第二三二号証)供述している。ところが芦別駅長渡辺善は「鉄道爆破事件の当夜、芦別駅待合室には事故のため何分遅れの見込みと掲示しただけで、事故の内容は掲示しなかつた。」旨(検供28・7・21、乙第一一九号証)述べており、佐々木信子(阿部兼三郎方の隣家の主婦)は「七月二九日午後五時半頃、阿部兼三郎が私方に来て茶の間の窓から私に『奥さん、今日の映画は何と言うのか。』と尋たねので、プログラムを見て“蜂の巣の子供達”と教えた。同日午後六時一〇分頃及川と野田と阿部の三人が私方の前を通つて外出した。その日夫は二番方で午後一一時頃帰宅したが、阿部方には誰も戻つた気配はしなかつた。七月三〇日の夕方五時頃、阿部がもどつて来て、六時頃一人で外出し、その後三〇分位して野田の姿を見た。」旨(検供、28・7・8、乙第七六号証)述べ、藤井光義(三井芦別鉱業所労務係)は「七月二九日夕方、阿部がこれから歌志内へ行くんだと言つて、情報提供者大多の家に立寄つた。その翌日三〇日大多が阿部方へ行き、内儀さんに尋ねたところ、まだ戻つて来ないと返事をしたと大多から報告を受けている。」旨(検供、28・7・7、乙第九八号証)述べ、山口清太郎は「七月三〇日の午前七時二〇分過頃、汽車に乗つていると西芦別駅から乗つたと思われる野田(頼城では戸村と呼んでいた。)が、肩をたたいて、『山口さん。夕べ、平岸で鉄道爆破事件があつたのを知らないか。』と言つた。私は『知らない。今初耳だ。』と言つた。芦別駅に到着して野田と一緒に下車して改札口を出たが、改札口を出た処に、及川幸夫と地主照が野田を迎えに来ていた。爆破事件の一週間か一〇日位前に、芦別の山内のところで細胞会議があつたが、そのとき野田は『おれは後、一週間程したらいなくなる。これが最後の会議になるだろう。』と言つていた。」旨(員供、28・9・2、乙第三一八号証)述べている。以上の供述によれば、野田こと衣川のアリバイが成立したとは判断し難く、同人は本件鉄道爆破事件の直後、姿を消したのではないかと窺知される。

大須田卓爾は、「七月二九日は、石炭販売業竹原某方で闇米の運搬をしていたか、七月末から八月にかけて市の区画整理で宅地が道路にかかるところにある庭木の移植の仕事をしていたか、あるいは七月末頃、山本清から『よい仕事があるから来い。』と言われて旭州の北海屋や秋田屋に二日滞在したこともあるがよくわからない。」旨(員供、28・8・22、乙第二五九号証)供述し、「七月頃から翌昭和二八年二月まで竹原方の石炭の販売の手伝いをしていた。」旨(員供、28・8・23、乙第二六一号証)供述し、「七月二二日、三日頃から約一ヶ月位、三日に一回か、四日に一回位の割合で闇米を釧路に運んでいたが、七月二八日、二九日は何処へも旅行しないで家におり、昼間は竹原方で働いていた。晩は家にいて子供と遊んだり、子供に側に寝ていたと思う。」旨(検供、28・8・31、乙第四五号証、同第四六号証)供述し、「七月二九日は米三俵位を私と竹原の奥さんの三人で行季に包んで、三〇日に小荷物で三個発送した。鉄道爆破事件があつたことを知つたのは、七月三〇日午前一〇時頃竹原方へ行つて事務所で、話しているのを聞いたのである。」旨(員供、28・9・2、乙第二六三号証)供述している。右供述によれば、アリバイの主張は必ずしも一貫せず、七月二九日は竹原方で闇米の荷造り作業をし、夜は子供と遊び、子供の側に寝たというに帰すると解せられる。本件資料中には、竹原某の供述調書は存しないが、右乙第二六三号証中に「竹原は君から鉄道爆破事件のあつたことを聞いたと申立てていたがどうか。」との巡査部長江口幸男の発問の記載があるから、竹原は「七月三〇日、本件鉄道爆破事件があつたことを大須田から聞いた。」と供述したものであろう。大須田の七月二九日夜のアリバイの成否は、いずれとも決し得なかつたものとみられる。

山内繁雄は「事件当時二階に桜田さんのおばあさんがいた。七月三〇日朝、豆腐を売りに行つたかどうかわからない。土井豆腐屋の主人に聞いてもらえばわかる。私のアリバイは、二階の桜田さんの人達や、土井さん、マーケツトの池田さんが知つているかも知れない。鉄道爆破事件を知つたのは、街頭放送附近の人からである。自転車で現場を見に行つたのは、一〇時頃だから、聞いたのは、その前である。」旨(員供、28・8・20、乙第二四九号証、員供、28・8・30、乙第二五〇号証)供述している。桜田、土井、池田らの供述調書は本件資料中に存しない。アリバイの主張自体漠然としているが、旅行その他で自宅にいなかつたというものではないことが明らかである。山内の七月二九日夜のアリバイの成否は、いずれとも決し得なかつたとみられる。

斉藤正夫は「私は上尾幌炭鉱で働いていた。七月二日付の佐藤倶一あての葉書に、『二〇日一時、釧路に着き』とあるから、上芦別の兄のところに、帰つたのは六月である。上芦別には一週間ばかりいたが、その間の行動は思い出せない。」旨(検供、28・9・4、乙第一二九号証、検供、28・9・7、乙第一三一号証)供述していた。佐藤倶一は「斉藤正夫が上芦別に帰つてきたのは、正月と六月二〇日前と、お盆の三回である。七月二日付の消印ある葉書によつて、六月二〇日前に帰つたことがわかつた。」旨(検供、28・9・5、乙第八七号証)述べ、斉藤利一(正夫の兄)は「正夫は、六月二〇日前に帰つて二、三日家にいた。七月二九日頃、正夫が芦別に来たことはない。」旨(検供、28・9・7、乙第八五号証)述べ、斉藤フミ(正夫の母)は「正夫は六月と八月中頃に帰宅した。六月に帰つたときは三、四日いて上尾幌に帰つた。」旨(検供、28・9・7、乙第八六号証)述べたが、一方、高橋正子(斉藤正夫の勤先、上尾幌の東宝炭鉱の賄婦)は「昭和二七年七月中旬頃と記憶するが、斉藤正夫は自分の夜具を持つて上芦別へ帰つたことがある。」旨(員供、28・8・29、乙第二一七号証)述べており、佐々木鉄人(上尾幌の東宝炭鉱の責任者)は、「斉藤正夫は尾幌東宝炭鉱の現場に七月二四、五日頃には出ていた。八月一日にも事務所にいた。斉藤は昭和二七年五月頃から、お盆までに、二、三回帰宅しているが、何時だつか記憶はない。」旨(検供、28・8・31、乙第一二四号証)述べていた。右のように高橋正子供述、佐々木鉄人供述もあつたから、本件鉄道爆破事件起訴当時までは、完全にアリバイの成立が立証されたとまでは、判断し難かつたが、起訴後、大井ちよ(員供、28・10・3、乙第二二二号証、検供、28・10・20、乙第一四一号証)、高橋正子(員供、28・10・4、乙第二一六号証)、埓見吉雄(員供、28・10・21、乙第二二一号証)、宮坂貞雄(員供、28・10・4、乙第二一九号証)、小森薫(員供、28・10・4、乙第二二〇号証)、小森伝(検供、28・10・21、乙第一四六号証)、笠島進一(検供、28・10・21、乙第一四五号証)、日高博(員供、28・10・21、乙第二二三号証)、谷川貢(員供、28・10・21、乙第二二六号証)らを取調べた結果、斉藤正夫の七月二九日のアリバイは成立するとの資料が蒐集されたのである。もつとも斉藤正夫が、共犯者であるとの石塚供述はもともと不正確なものであると検察官はみていた。すなわち、石塚は昭和二八年五月三〇日高木検事に対し「井尻は自分と地主、大須田、地主と一緒に来た西芦の男、自分と一緒に明鉱をレツドパージになつた男、油谷へパン売りに来る男、三菱でパージになり、大興で働いた男とで行くのだと喋つた。山内は井尻から聞いたが、「内」だけ思い出し、山内だか竹内だかと思い出し、山内のように思い出したとき、藤田部長から、『山内という男知らないのか。』と聞かれたので、『知らない。』と言つたら、『あのしよつちゆうパン売りに行つている男よ。知らないのか。』と言われたので、あああの男が山内かと顔を思い出した。斎藤は明鉱を井尻と一緒にパージになつた男と言うと斉藤しかないので、自分で考えて斎藤だろうと思いそう言つた。」旨(甲第四五一号証)供述しているのであつて、右斉藤は石塚の想像による供述であることが、明らかである。

もつとも、藤谷は昭和二八年九月二一日、金田検事に対し「七夕の日に、井尻から、正夫さんが、鉄道爆破に行つたとき、発破器やなにやかを持つて行つたと聞いた。正夫とは斉藤正夫のことであつて、他に正夫と呼ばれる人は無い。」旨(甲第四八三号証)供述している。

井尻が、真実、斉藤正夫も鉄道爆破に行つたメンバーの一人と言つたものか、藤谷の聞き違えか、あるいは、そう信じ込んでいるのかわからない。

また、当審における控訴人高木一の本人尋問の結果によれば、検察官は石塚の出したメンバー(共犯者)の出方も一般的に言つて、不確実であり、共犯のメンバーは熟知の間柄ではなく、共犯者の名前については警察からヒントを与えられていると判断し、野田こと衣川、大須田、山内らのアリバイについては、起訴後、継続して捜査することとしたことが認められる。

しかし、石塚と藤谷の供述する鉄道爆破の共犯者の中に、人違いがあつても、野田こと衣川、大須田、山内らについては、アリバイが成立したとまでは判断できなかつたし、本件犯行の態様に鑑み、犯行の計画、準備、実行について多数者の関与があつたと推測するのが相当であるから、斉藤正夫についてのアリバイの成立のみによつて、石塚供述、藤谷供述の信用性が根底から否定されるものでもない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

五 被控訴代理人は「初期の捜査では藤谷と石塚の七夕の晩の話は、ほぼ一致していたが、原田鐘悦とハンドルの話、徳田敏明と二・三坑坑務所の発破母線・ダイナマイト・雷管の話は、ついに石塚供述から出ないままであるから、藤谷供述は信用できない。」と主張し、また「野田、大須田、山内、斉藤のアリバイが成立した段階で『外数名』とは全く架空の存在としてしかあり得ない。」と主張する。

しかし前記資料に照せば、藤谷が七夕の晩、井尻から聞いた話として供述するところのことが、七夕の晩に井尻から話されたか否かについて信用できないとしても、聞いた話の内容は、それぞれ、その主要な部分については裏付供述が得られているから、これを信用しても不合理ではなく、また、斉藤のアリバイこそ成立したものの、野田こと衣川、大須田、山内のアリバイが完全に成立する資料があつたわけではないし、石塚、藤谷の供述によれば、実行正犯ないし事前謀議に加わつたものがあるとみることができるのであるから、「外数名」が全く架空の存在としてしかあり得ないとは断定し難いのである。被控訴代理人の主張は採用できない。

第五四二・三坑坑務所から雷管・ダイナマイト・発破母線の持出しについて

被控訴代理人は、「井尻が徳田敏明とともに、油谷芦別鉱業所から雷管・ダイナマイト・発破母線を持出したとの藤谷の七夕の夜の供述が信用しがたいものであり、徳田敏明の供述も転々と変化し捜査官の誘導によつて得られたものであり、何よりも七月分工数簿、三坑七月分操業証によれば、昭和二七年七月七日以降一〇日頃までの間に徳田が井尻と同じ番方で三坑で働いたことはないことが明らかで、信用できず、このことは起訴の段階で、すでに明白であつた。」と主張する。

一 井尻が徳田敏明とともに、油谷芦別鉱業所から、雷管・ダイナマイト・発破母線を持ち出した旨の藤谷の供述が、それが七夕の夜の話であつたか否かは、しばらく措き、その供述内容は信用し得ること前述のとおりである。

二 徳田敏明の供述が信用できると判断できるか否かについて検討する。徳田は、昭和二八年九月五日午前二時、上士幌(帯広付近)の大林組の大橋組の飯場で「昭和二七年七月初頃芦別町旭、油谷炭鉱二、三坑坑務所資材及び道具物置において佐野留之助保管の発破線(緑色護謨線)二把を窃取した。」旨の被疑事実により逮捕された(逮捕状、28・8・28、乙第四一五号証の一)。そうして翌九月六日、司法警察員巡査部長中田正から取調を受けたが、徳田は「六坑捲座か休憩小屋で六月の終か七月の初頃の午後九時か一〇時頃井尻正夫から『お前三坑に行つて発破母線持つて来い。』と言われて、三坑向堀か立入から新しい母線を持つて来たことがある。三坑坑務所に入つたなんて、とんでもないことである。いつも係員がいて用事のない者は入つて行けない。」旨(乙第一八七号証)被疑事実を否認した。翌々九月八日、中田巡査部長から二度にわたつて取調べを受けたが、やはり右被疑事実を否認(乙第一八二号証、同第一八八号証)している。

同年九月一一日、同巡査部長に対し「井尻にいわれてハンマーやピツクの油を三坑坑務所に取りに行く時、火薬を持つて来いと言われて、ダイナマイトと雷管一束を持つて来た。母線は本当に知らない。」旨(乙第一八三号証)供述した。

右九月一一日で中田部長の取調は終つている。徳田は中田部長に対しては逮捕状記載の被疑事実については、ついに自供しなかつたのである。警察官は、藤谷から、「七夕の夜、井尻から徳田のオジと二・三坑坑務所に行つて母線を持つて来た。『オジも手が早いな―。火薬と管を抱えて来たんだ。』と話した。」旨(員供、28・7・21、乙第三八九号証、員供、28・7・25、乙第三九一号証)の供述を得ていたし、二・三坑坑務所の倉庫から火薬および発破母線が紛失した旨の西浦正博供述(員供、27・8・7、乙第二七七号証)、佐野留之助供述(巡供、28・4・10、乙第二八九号証、員供、28・6・27、乙第二九〇号証)も得ていたのであるから、徳田に対し、井尻と一緒に二・三坑坑務所に行つて母線・雷管・ダイナマイトを持ち出したことはないかと追求する資料は有していたわけであるが、徳田の「三坑坑務所の事務所の机の下の空箱からダイナマイトや雷管を持ち出した。」旨(乙第一八三号証)の任意の供述を得たに過ぎなかつたものとみられる。徳田としては自己が嫌疑をかけられていない事項のみを供述したものとみることもできる。

翌九月一二日からは、徳田は金子誠二副検事に取調べられている。そうして前日の中田巡査部長に対して供述したと、ほぼ同様の供述(甲第四三一号証の一)を繰返している。

ところが、翌九月一三日、同副検事から「ダイや管は坑務所事務室の何処から持つて来たか。」と聞かれ、頭を垂れて考え込んだ。「自分で持つて来ていて何処から持つて来たか判らんことはないと思うがどうかね。」と尋ねられ、なおも考え込み三〇分位して、「どうも判らないな―。」と答えた。そこで同副検事から「君は井尻と一緒に坑務に行つて何か持つて来たと言う事がなかつたか。」と聞かれ、左腕で頭を抱える様にして暫時考えた後、「二人で行つて発破線なんか持つて来た事があつたな―。夜なんだ。」と答え、こういう事あつたんだ。井尻さんが奥に入つて行き発破線なんかを持つて来た。俺に火薬を寄越して母線は井尻さんが持つてたな―。」と供述し、さらに「私は事務室にいた。」「油は関係ない。」旨(甲第四三一号証の二)供述した。そうして同年九月一五日、同副検事に対し「俺が事務室にいたというのは間違つていた。坑務所は入らず、アンコ場の方の角にいた。ダイや管は飯場のカマドの前で渡したような気もする。」旨(甲第四三一号証の三)供述した。

翌九月一六日同副検事に対し「井尻に言われて三坑坑務所に行き、井尻が中から発破線やダイや管を持つて来て、私にその内ダイと管を持たせたことは絶対間違いない。井尻が出て来た時、発破線やダイや管を持つて来たので「あれつ。」と思つた。大興商事と何も関係ない三坑坑務所からそんな物を持ち出して来たからである。井尻とそのダイや管を何処へ持つて行つたかはつきりしない。どうもあの飯場に持つて行つたような気が強い。」旨(甲第四三一号証の四)供述している。

翌九月一七日徳田は右と同趣旨のことを自ら書き、その手記を同副検事に提出(甲第四三一号証の五)した。

徳田は同副検事に対し右手記は留置場の巡査等から教えられて書いたものではなく事実間違いのないことを書いた旨(甲第四三一号証の五)述べている。

そうして同日、裁判官中田二郎の証人尋問を受け、徳田は「見張か会社の休憩所かはつきり記憶しないが、休んでいる私の所に、井尻が来て『三坑の坑務所まで一緒に行つてくれ。』と言つた。」旨証言したほか、右副検事に対すると同趣旨の証言(甲第四三二号証)をした。

警察における供述が屡々変更していることからみても、警察官の取調べには強制誘導があつたとみられないばかりではなく、検察官に対しては更に供述を変えており、最終の供述には警官はなんら関与していないのである。

また、徳田の供述が九月六日から同月一五日までの取調べの都度供述が変つているが、これは記憶が薄れていたためか、自己弁護のためであつたとみられないことはない。

そして、九月一三日以降の井尻が発破母線とダイナマイト、雷管を坑務所の奥から持出し、そのうちダイナマイトと雷管を手渡された旨の供述は、手渡された場所が坑務所内であつたか、坑務所外であつたかを除けば、兎も角一貫した供述とみられないわけではない。

したがつて徳田が屡々供述を変更したからといつて、すべての供述が信用性がないとみることはできない。また、裁判官の尋問の前に、予め、前後に供述書を書かせたとしても、供述が変更されることをおそれてかような措置に出たとばかりはみられない。むしろ検察官に対する供述が真意に基くものか否か、確めるため、任意に書かせてみたとみられるのであつて、かかる措置も決して不当とはいえない。

徳田は第一審第一三回公判(39・1・26)において「今までのは嘘ですと言つて本当のことを述べても、それを信用してくれるかどうかは判らなかつたので、今までどおりの嘘を述べた。今までのは嘘ですと述べると警察や検事に嘘を述べたことについて偽証罪になると思つた。」旨(甲第五四号証)、第二審第三五回公判37・7・23)において「裁判官の尋問も裁判官ということを知らなかつた。」旨(甲第三四三号証)証言している。しかし、徳田は中田二郎裁判官の尋問に対し証人として宣誓し、偽証の罰も告げられて、供述しているのであつて、このことに徴しても、右陳弁はいずれも信用しがたい。

更に徳田は、第二審第三五回公判において、「検事には警察で言つた通りのことを言つたわけである。検察官の取調のときは安外簡単にすらすらいつた。」旨(甲第三四三号証)証言している。そして、前記のとおり、警察官に対しては、自分が一人で坑務所に行つてダイナマイト、雷管を持つて来た旨述べ、検察官に対しては、井尻と二人で坑務所に行つて井尻が奥から火薬や発破母線を持ち出したと供述を変更したことをも考慮に入れれば、検察官の取調べには全く強制誘導はなく、徳田が任意に供述したと認められる。そのうえ、中田二郎裁判官から証人として尋問を受けている。この証人尋問は、検察官からみれば、一種の証拠保全であるが、また反面、検察官に対する供述の信ぴよう性をためす方法でもあるわけである。徳田が検察官に対し任意に供述し、更に、裁判官に対してもこれと同趣旨の供述をしたのであるから、検察官がこの供述を真実に添うものであるとして信用したことは、なんら不当のことはない。

三 被控訴代理人は「二・三坑坑務所で母線・ダイナマイトが紛失したのは、佐野留之助、西浦正博の供述によれば昭和二七年七月七日から一〇日前後のことである。七月分工数簿(甲第五七九号証の一、二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の一、二)によれば、七月七日以降一〇日頃までの間、夜間に徳田が井尻と同じ番方で三坑で稼働したことがないことが明らかである。検察官は起訴の段階でこのことを知つていたのである。」と主張する。

佐野留之助(員供、28・6・27、乙第二九〇号証、検供、28・9・18、甲第三一五号証、公準証人佐野尋問調書、28・11・13、甲第二〇号証、第二審第二七回公判証言、37・2・20、甲第三一二号証)、西浦正博(員供、27・8・7、乙第二七七号証、検供、28・9・18、乙第三八号証、証人西浦尋問調書、28・9・21、甲第四三七号証、第一審第一二回公判証言、29・1・19、甲第四九号証、第二審第三二回公判証言、37・4・19、甲第三二七号証)の供述によれば、二・三坑坑務所から母線・ダイナマイト・雷管が昭和二七年七月初旬の夜、窃取されたことを認めるに十分である。その日時について、佐野、西浦は七月七日から一〇日前後までの間であると述べている。

そして、七月分工数簿(第五七九号証の一、二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の一、二)によれば、七月七日から一〇日までの間に、井尻と徳田敏明が同じ番方で三坑で稼働した旨の記載は、七月一〇日にあるが、これは甲方即ち一番方で昼間の勤務であつて夜間の勤務ではない。したがつて、窃取された日が七日から一〇日前後までの間であつたとすれば、井尻、徳田の犯行ではないとみなければならないことになる。ところで、裁判官の西浦に対する証人尋問調書によれば、「日時の点は、はつきりしないが、二・三坑坑務所において私が保管していたダイナマイトと雷管が紛失したらしいことがある。昭和二七年九月芦別町警察署で、その火薬類の件で取調を受けたことがあるが、当時私が扱つていた火薬日報を調査した結果、七月七日頃から一〇日頃までの間に何時も使用する量の倍量を火薬庫から貰い受けていることが確められたので、その期間に保管中の内から半数のダイナマイト二〇本入一箱、雷管一〇本一束が紛失したように思われたことがある。従つて紛失したらしい日時は七日から一〇日までの間ということになる。」旨(甲第四三七号証)証言しているのであつて、火薬日報の受入数量等から判断して七日から一〇の間であると推定したというにあつて、七日から一〇日という日時は同人の記憶によるものではなく、日報の記載からみた想像であることが認められ、同人のその後の公判廷における証言(第一審第一二回公判証言、29・1・19、甲第四九号証、第二審第三二回公判証言、37・4・19、甲第三三七号証)によつても、七月初旬というのが同人の記憶であることが認められる。また、大した被害でもなく、油谷鉱業所に報告したり、警察に届け出る等公沙汰にしないものであつたから、その日時について余り記憶がないとしても珍しいことではない。

ちなみに、西浦は、火薬日報の記載の正確性について「日報には使つてしまつたことにして書けば現物は残つていても、わからないから火薬日報を見ても火薬の出入れはわからない。」旨(前掲甲第四九号証、同第三二七号証)証言し、また「火薬を係員同志で貸したり借りたりしたこともあつた。残量が出た日は火薬庫に返戻するのが原則であるが、坑務所の物置に入れておいた。残火薬はずつと溜めていたものである。」旨(前掲甲第四九号証)の証言もしている。

国久松太郎証言(第二審第二四回公判、36・12・24、甲第三〇一号証)、高橋為男証言(第二審第二五回公判、37・1・17、甲第三〇四号証)によれば、油谷鉱業所の火薬庫から西浦にダイナマイトを交付したのは火薬受払簿の記載によると六月一八日に一六本と七月七日に三〇本との記載があるのみであることが認められるけれども、西浦の証言(甲第三三七号証)によれば、新白梅ダイナマイトを使うのは、離れても三、四日というのであるから、六月一八日から七月七日まで二〇日間も新白梅ダイナマイトを西浦が使用しなかつたとは到底考えられず、同人が証言するように、その間にも係員同志で融通し合つて西浦がダイナマイトを使用し、その残火薬を二・三坑坑務所の物置に一時保管していたことが窺われる。

また、佐野留之助も、「六月三〇日から約五日間位会社を休んで札幌に出かけ、七月四日頃出勤して、その後四、五日たつて母線がなくなつた。」旨(検供、28・9・18、甲第三一五号証)述べているが、同人は昭和二八年四月一〇日、最初に司法巡査工藤春三の取調べを受けたときには「六月末頃係員の請求があつたとき渡そうと思つて倉庫の中に行つて見たところ、発破母線が二把無くなつていた。」旨(乙第二八九号証)述べていたのであり、第二審では、「六月三〇日から四、五日札幌に出て休んだということはない。一日位休んで家内同伴で義足を作るため一晩泊つて帰つたことがある。」旨述べており、母線がなくなつた日時の記憶は余り、はつきりしたものでないとみられる。さらに佐野留之助の代りに資材置場の管理をしたという山田久男も「六月の末か七月の初頃」(員供、28・6・20、乙第二八〇号証)といい、第一審第三五回公判(30・2・3)においては、証人として「六月か七月の一〇日頃(甲第一二九号証)母線がなくなつた。」と述べているが、同人は佐野から、母線がなくなつたことに関して尋ねられたに過ぎず、その日時の記憶が、はつきりしないのも当然である。

したがつて、右佐野留之助、西浦正博、山田久男の各供述によれば、同人らは、右盗難事故は七月上旬発生したという記憶に止まるとみるのが相当である。

ところで徳田は、「井尻が藤田長次郎らと札幌に賃金交渉に行つて帰つた後で、その夜、井尻は一、二番連勤し、後山は自分と藤谷であつた。」旨(徳田検供、28・9・21、甲第四三一号証の六)述べ、藤谷は「七月三日私は二番方として、井尻正夫、徳田敏明の三人で三坑立入現場で働いた。井尻は一番方から二番方に連勤したと記憶する。」旨(証人藤谷尋問調書、28・8・13、甲第四六一号証)証言している。

控訴人らは、その日時は七月三日であると主張する。

七月分工数簿(甲第五七九号証の一、二)、三坑七月分操業証(甲第五七二号証の一、二)の各記載は同一でなく、(控訴人高木一外二名提出の昭和四七年四月二八日付準備書面添付別紙一の稼動一覧表参照)、極めて不正確なものであると認められるが、右記載と徳田、藤谷の供述とを合わせて考えれば、七月三日、井尻、徳田は、一、二番方を連勤したと認めるのが相当である。右井尻、徳田の二番方の記号には、チエツクがほどこされており、その合計欄では、この番方が算入されていないような計算となつている(七月分工数簿、甲第五七九号証の二、被控訴人提出の昭和四七年七月七日付準備書面添付の写真参照)。しかし、このチエツクが右稼働の記号を抹消した趣旨であると認めるべき資料はない(例えば、岩城定男の場合は計算に入つているし、坂下真弥の場合は、抹消部分は完全にバツ印が、ほどこされている)。

そうだとすれば、結局、検察官が、井尻と徳田が七月上旬二・三坑坑務所から発破母線・雷管・ダイナマイトを窃取したとの主張は、七月分工数簿、三坑七月分操業証の各記載と矛盾し全く覆えされているとみることはできない。

四 被控訴代理人は「七月四日までに井尻はダイナマイト・雷管だけでなく発破母線も既に入手していたはずであるから、改めて七月七日以降一〇日前後に、二・三坑坑務所に行き、雷管・ダイナマイト・母線を持出す必要はない。」と主張する。

しかし、前項まででみたように、井尻、徳田が二・三坑坑務所から雷管・ダイナマイト・母線を持ち出したのが、七月三日だと判断することができるから、被控訴代理人の主張は、その前提において理由がない。

五 被控訴代理人は「佐野留之助、西浦正博の供述によれば、二・三坑坑務所から母線・ダイナマイト・雷管が盗まれたのは昭和二七年七月七日から一〇日前後のことであるが、七月分工数簿、三坑七月分操業証によれば、昭和二七年七月七日以降一〇日頃までの間、徳田が井尻と同じ番方で三坑で働いたことはない。右のような事実も起訴の段階では既に明白であつた。」と主張する。

しかし、検察官は、「井尻と徳田が七月上旬頃二・三坑坑務所から母線・ダイナマイト・雷管を窃取した。」と主張しており、その日時を七月三日と解しても主張の同一性に欠けるところがなく、そのようにみれば、右主張は前掲各資料に矛盾するところはなく、かえつてこれに符合するものである。

被控訴代理人の主張は採用できない。

第五五原田鐘悦が井尻に鉄製のハンドルを渡したとの点について

被控訴代理人は、「藤谷供述に信用性がなく、これにもとづいて逮捕して取調べた原田鐘悦の供述にも信用性がなく、井尻の供述も誘導によるもので信用性がなく、もともと大興商事に鉄製ハンドルがあつたこと自体が疑わしいから、原田が六月一〇日頃井尻に鉄製ハンドルを渡したことは事実ではない。」と主張する。

一 大興商事に鉄製ハンドルが存在したかどうかについて検討する。

昭和二八年三月二三日藤田長次郎は、司法巡査大久保寛二郎に対し「警察から見せられる鉄のハンドルは断定はできないが、露天で使用した物と同一の物のような気がする。」旨(乙第三〇三号証)供述し、同年七月四日三沢検事に対しても「昭和二七年二月中旬から三月中旬まで発破器を掛けたことがあるが、ハンドルは全部鉄でできていた。お示しのハンドルは私が当時使つたものによく似ている。昭和二七年九月ごろ福士佐栄太郎らが『警察の者が、うるさく発破器やハンドルの事で調べに来るので、この間、木の柄のハンドルが机の抽出の中にあつたので、それを出して見せて誤魔化した。』といつていたことがある。」旨(乙第三三号証)の供述をしていた。

これに対し坂下真弥は同年七月八日「私は昭和二七年六月五日から大興商事堀進夫をしている。現場は六坑、三坑であつた。ハンドルは柄が木製であつた。全部鉄製のハンドルは見たことがない。」旨供述し、佐藤光男は同年七月一五日、小関正平副検事に対し「昭和二七年三月中頃までは六坑、その後露天で働いた。ハンドルは発破器と別にして大興商事の事務所の係員の机の抽出の中に入れてあつた。全部で四個入れてあつたが四個とも握るところが、木製であつた。事務所に鉄製のハンドルがあつたことは知らない。」旨(乙第九六号証)供述し、北崎道夫は昭和二八年七月三一日、金子副検事に対し、「昭和二七年二月一一日から三月末頃まで石狩土建の係員助手をしていた。第二露天の係員は小松田であつた。全部鉄でできたハンドルは見たことがない。」旨(乙第一三四号証)供述している。

しかし、坂下供述は、作業した時期からみても藤田長次郎の供述と矛盾しないし、佐藤供述も、三月中頃までは露天で働いていないのだから、鉄製ハンドルを見なくても不思議はないし、前記藤田供述に顕われているように、警察に調べられることをうるさがつて知らないということも十分あり得る。北崎供述も、係員助手であつて、第二露天の専属の係員ではなかつたのであるから、藤田長次郎が使用した鉄製ハンドルを見たことがなくても、不思議はない。

捜査官らは、昭和二八年七月一一日藤谷供述(乙第三八二号証)が出るまでに大興商事に鉄製ハンドルが存在したとの右藤田供述を得ていた。藤谷供述が出た後の同年七月一六日、浜谷博義は金田検事に対し「昭和二七年四月頃露天現場休憩小屋のストーブのそばで発破器の横に鉄のハンドルがあるのを見たことがある。」旨(乙第一三号証)供述した。

勾留中ではあつた(第一審公準証人福士佐栄太郎尋問調書、31・4・4、甲第一八一号証)が、福士佐栄太郎は昭和二八年八月七日金子検事に対し「大興商事の事務所の二階階段裏の押入のようなところに、全部鉄でできたハンドルが一丁発破器に差してあつたことがある。私がその鉄のハンドルを事務机で文鎮代りに使つていた。押収されているハンドルは私が見たハンドルに似ている。」旨(乙第四二号証)の供述をし、釈放後の同年一一月二二日にも同人は司法警察員に同旨(乙第二九六号証)の供述をしている。身柄拘束中の供述だからといつて、不任意の供述とはいえない。

大興商事の事務所に鉄製のハンドルが一丁存在したと判断しても相当である。

二 原田鐘悦は昭和二七年七月二九日「昭和二七年六月末頃の午後一時頃油谷炭鉱用地内大興商事芦別出張所事務室において、発破係員福士佐栄太郎所有の発破器用鉄ハンドル一丁を窃取した。」旨の被疑事実で逮捕された(乙第四一四号証の一)。原田が逮捕されたのは、藤谷の昭和二八年七月一一日中田巡査部長に対する「井尻がハンドルは安全灯のオンチヤンに事務所の福士の机の抽出から持つて来てもらつたと言つていた。」旨(乙第三八二号証)の供述によるものと推認される。

原田は昭和二八年七月三〇日中田正巡査部長に取調を受け、窃盗の事実を否認し、顔を下に向け、しばらく何も答えず泣いていた。そして「ずつと前に事務所で誰だつたか係員が鉄ばかりのハンドルを発破器に差込んで廻しているのを見たことがある。」と供述し、遺留品の鉄製ハンドルと油谷炭鉱より借用してきた小型鉄製ハンドル二丁を示され、直ぐに「これと同じ様な奴だ。」「これと太さが同じだなあ。」といつて遺留品を選択した。「これ誰だつたかなあ。兄文夫の友達で現場にいる人、岩城さんか、井尻さんだつたかな。」「岩城の弟が腹痛を起す少し前位の午後五時頃井尻が係員から言いつかつて来たとか言つて、発破器のハンドルその辺にないかと言うので、私が柱や机の抽出を探し、左側の抽出の手前の左隅の方に伝票類や操業証などの中に鉄のハンドルが入つていたので、これを出して井尻にやつた。」旨供述(乙第一八五号証)した。

三 被控訴代理人は、「藤谷供述に信用性がなく、原田の供述は身柄を拘束し、誘導して得られたもので信用性がない。」と主張する。

なるほど、原田は、「発破器のハンドルを盗つたとのことですが、実際私は知らないことです。」といつて泣いた旨前記中田巡査部長作成の供述調書に記載されているが、右原田の供述どおりとすれば、身に覚えのないことで、当時一五・六才の原田が、逮捕され、警察官から取調べられたので、不安とくやしさから泣いたのも、もつともであるが、「事務所の福士の机の抽出からオンチヤン(原田鐘悦のこと)に持つて来てもらつた。」との藤谷供述しか得ていない警察官としては、原田が鉄製ハンドルを窃取したのではないかとの嫌疑をかけ、逮捕したのもやむを得なかつたと認められる。原田を取調べた中田正巡査部長は第一審第五二回(30・9・16)、第五四回(30・10・4)各公判期日に証人として「原田は遺留品の鉄製ハンドルをすぐ選び出した。ハンドルを持つて行つてやつたことはないが、誰か取りに来たことがある。誰に渡したか思い出さないといつていた。そこで四、五名の名前を縦に書いて、この人か、この人かと聞いていつたのに対して、それでもない、それでもないと否定していき、はじめ井尻のところで黙つて答えなかつたので飛ばして、つぎに進み、二回目に、また繰返した時に井尻の名前を言つた。取調は二、三時間であつた。」旨証言(甲第一六四号証、同第一六八号証)している。右原田の供述調書の記載自体に徴しても、格別誘導した節は認められない。

原田供述が信用できると判断しても、何ら不当ではない。

四 藤谷供述(乙第三八二号証)も、原田供述によつて裏付けされ、信用性があると判断しても合理的である。

被控訴代理人の主張は理由がない。

五 被控訴代理人は、「原田の右供述に照応する井尻供述もまた誘導の形跡が著しく、かつ供述の前後の取調の経緯からみて信用しがたい。」と主張する。

井尻正夫は昭和二八年八月二三日中村繁雄巡査部長に対し、はじめて大興商事の事務所で、原田からハンドルを受取つた旨(甲第五二八号証)の供述をした。

同日の供述調書につぎの記載がある。

問 オンチヤンはその四つ有る机の抽出を一ツ一ツ明けて捜して見なかつたろうか。

答 向つて左側の二ツを捜して見たのを覚えております。

問 さてそれはどう言う把手であつたろうかなあ。

答 それは矢張り木の柄の把手ですよ。

問 だつて御前渡した御本尊のオンチヤンは木の柄の把手ではないと判然言つているよ。兎に角事実に合う様に話はするもんだよ。君はすぐ話の先廻りをして物事を判断するからいけないよ。

答 普段使つている把手と違つた把手であれば尚更判然しなければならんですよ。

問 その通り、うまい事に気が付いた。だから考いて見れと言ふんだよ。

答 どう考いても木の柄の付いた把手なんですよ。

問 君が幾等木の柄の把手を受取つて行つたと通そうと思つているが、実際には君の手に渡したオンチヤンが君の言ふ様に普段使つていた把手と違つた把手で有るからと判然原田のオンチヤンは言明しているんだよ。そりや君の言ふ事が通らないんだよ。

答 通らないから鉄の把手受取つて行つた事に成るんですよ。

問 通らないからとはおかしなもんだな。オンチヤンが手渡したのと君が受取つたのが違ふから言うんだよ。その鉄のハンドル受取つて行つたのに間違いないのか。

答 間違いないです。

との問答があり、問「ではその把手の図面を実物大に書いてみれや。」答「はい書いてみます。」其の時供述人は大体の記憶を辿つて別添付の様な実物大の把手の図面を作成した。

しかし、右の問答は、大興の事務所に行つて原田のオンチヤンから把手を受取つたことは間違いないとの供述がなされた後のもであり、井尻が作成した実物大の鉄製ハンドルの図面は、原審における検証の結果(検甲第九号電気発破器用ハンドル)に大体似ていることが認められる。

右の問答をもつて誘導の形跡が著しいとはいえない。

井尻は昭和二八年九月八日裁判官中田二郎の刑事訴訟法第二二七条による証人尋問を受けた際、捜査官に対する従前の自供を全部覆した証言(甲第五〇一号証)をなし、第一審第三九回公判(30・3・25)において、「最初の裁判官の取調の時には、真実を供述した。」旨(甲第一三三号証)供述しているが、右証人尋問の際も、「原田鐘悦から事務所の一番左端の机の抽出からハンドルを見つけ出してもらい、これを受取つた。受取つたハンドルが鉄製であつた木製であつたか、はつきり記憶しない。」旨証言(甲第五〇一号証)している。

しかし原田鐘悦は昭和二八年八月六日金子副検事に対し「ハンドルを渡したのは一回だけだから記憶違いはない。」旨(甲第四二八号証の二)供述している。

してみると井尻の供述は十分信用できると判断しても、何ら不当ではない。

被控訴代理人の主張は、理由がない。

七 原田鐘悦は刑事公判になつてからも鉄製ハンドルが存在したと証言した。すなわち、

原田は、第一審第一〇回公判(28・12・17)において、証人として「大興商事で、発破器のハンドルの横の握手が、木でできているのと、鉄でできているのと両方見たことがある。鉄でできているハンドルは一丁よりなかつた。押収されている発破器用ハンドル(証第二二号)は大きさ形も大体それと似たようなものであつた。」旨(甲第四五号証)証言し、第二審第三〇回公判(37・3・20)においても「証第二二号の発破器のハンドルは、大興商事にいたころ見たことがある。何処で見たか、はつきりわからないが、現場か事務所で、ちよいちよい見ていたように思う。」旨(甲第三二七号証)証言している。

かくして、原田鐘悦の捜査官に対する供述(員供、28・7・30、乙第一八五証、員供、28・8・3、乙第一八六号証、検供、28・8・6、甲第四二八号証の二)の信ぴよう性が、同人の公判廷における証言によつても裏けされたわけであり、同時に、大興商事に鉄製ハンドルが存在していたとの資料が公判廷で顕われたのである。

検察官の井尻正夫が、六月中頃大興商事の事務所で原田鐘悦から鉄製ハンドルの交付を受けたとの主張が、信用すべき証拠がないのになされたものでなかつたことが、公判廷において明らかにされたといえる。

第五六発破母線について

一 被控訴代理人は、「発破母線交換についての証拠は、中村誠の供述しかないところ、同人の供述は長期勾留の結果得られたもので信用性がなく、井尻の母線交換の供述も到底信用できないから、井尻が中村と母線を交換して持ち帰つたとの点は、極めて疑わしい。」と主張する。

中村誠は、昭和二八年三月一九日「藤谷一久外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後六時頃油谷炭鉱六坑捲上機室物置内火薬保管箱より大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により芦別町警察に逮捕(逮捕状、28・2・28、乙第四〇六号証の一)され、三月二〇日から同年四月八日まで滝川地区警察署に勾留(勾留状、28・3・20、乙第四〇六号証の二)された。そうして四月八日「石塚正夫外二名と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二九日午前三時半頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二個を爆発させた。」旨の火薬類取締法違反被疑事実により滝川区検察庁に逮捕(逮捕状、28・4・7、乙第四〇七号証の一)され、四月一〇日から四月二九日まで滝川拘置支所に勾留(勾留状、28・4・10、乙第四〇七号証の二)され、四月二九日、石塚守男、藤谷一久、福田米吉と共に右火薬類取締法違反罪につき起訴(甲第四五九号証の一、同号証の五)され、同年七月二八日まで右火薬類取締法違反被告事件の被告人として右被告事件審理のため勾留(移監報告書、28・5・1、乙第四〇七号証の三、逮捕状、28・7・2、乙第四〇八号証の一)された。

右勾留期間中の同年六月二八日中村は三沢検事に対し「現場が三坑のみになつてからは、発破母線は福士から新しい緑色被覆線長さ二五米位のものを受取つて向堀と堅入の現場で交互に使つていた。」旨(乙第八号証)の供述をしていた。捜査官が発破母線について中村を取調べたのは、この時がはじめてであつたが、中村は右以上の供述はしなかつた。

ところが、同年七月一〇日に至り、中村は司法警察員巡査部長藤田良美に対し「昭和二七年六月二一・二日頃福士が札幌へ行く直前、福士から新しい母線二五米位のものを一本もらつた。七月三、四日頃に井尻が私の現場に来て、その母線を俺の方にくれないかと言うので、井尻の現場の古い母線と交換した。七月下旬頃には井尻の現場には新しい母線がなく古い母線を使つていた。遺留品の母線は、被覆のむいてある状況、芯線よじれの特長からみて私が井尻に渡したものに間違いないと思う。」旨(乙第一七四号証、同第一七五号証)供述した。

おそらく捜査官らが、発破母線について、中村を取調べたのは、石塚守男が、「井尻から七月一二日頃『母線は中村誠が一回でなく二、三回位にして持つて来たんだ。』と聞いた。」旨(石塚守男員供、28・4・6、乙第四〇一号証、検供、28・5・6、甲第四四五号証)の供述が一貫して動かなかつたから、そのことについて中村に確めたものと思われる。

藤谷も右中村の供述を裏付けるように、同年七月一三日、中田巡査部長に対し「七夕の夜、井尻から『母線も誠さんに現場から持つて来て貰つたんだ。』と聞いた。それなのに井尻は『誠さんに母線をやつたわ。』とも言つたことがあつた。」旨(乙第三八四号証)供述した。

藤谷の井尻から聞いたという言葉は、端片的で、少いけれども、中村に母線を持つて来て貰つたことを話し、同時に、井尻も中村に母線をやつたことを話したとなれば、このことは正に母線交換のことを藤谷に話して聞かせたものと解しても決して不合理ではなく、井尻は、母線交換のことを早くから同僚の藤谷に洩していたことになるわけである。中村は第二審第三回公判において証人として「これまで発破母線をみせられて、その両端が自分特有の予備母線との結線の仕方であり、そのあとが残つているという供述をしたのも、それは何も特有のものではなく、逮捕・勾留がくりかえされている間に、結局、母線を井尻にやつたといつてしまつたので、そのようにいわざるを得なくなつたので、実際は貰つた母線は三坑の立入と向堀で自由に使つていた。」旨(33・2・28、甲第二一四号証)証言し、原審において証人として「取調官にバスに乗り遅れるといわれ、しばらく考え、石塚や藤谷は時間的に間に合つて早く出られるという意味だとわかつた。発破母線の結び方の特長などは全然ない。」旨証言している。(ちなみに中村は原審証人としても、自己が刑事事件においてなした発破器の特長についての供述までも間違いであつたとは述べていないことは注目される。)

しかし中村は、発破母線の結び方のみを特長としてあげたのではなく、昭和二八年七月二一日、藤田巡査部長に対し「発破母線には私が笠木と天盤の間に食い込んだのを引張つたところ、被覆の表面に切羽近くなつて擦れているところがあるので間違いない。」旨(乙第一七七号証)供述し、同年九月一日裁判官の証人尋問に対しても「被覆の先端を手斧で軽く叩いて被覆をむしつてゴムでくるんだプラス、マイナスの線を二、三寸位出し、ゴムを引張つて延ばし、折曲げると延びたゴムが線に当る処に穴があくので、延びきつたゴムを線に添つて引き下すとゴムが切れる。残された線を包んであるゴムに一寸近くの破れ目がくつきりと残る。引き千切つたゴムの跡も刄物で切つたように綺麗になつておらず凸凹が残つている。」旨(甲第四八四号証)証言しているのである。

ちなみに、中村は第一審第二回公判(28・11・4)においては、証人として「お示しの母線(証第一六号)は線の両端が私のやつたような方法で露出させてあり、色もこのようだつたし、新しさ加減もこれ位であつたと思う。」旨(甲第一〇号証)証言している。そうだとすると、母線の片端が爆破によつて切断されたことと矛盾することになる。しかし右公判廷の証言は、示された母線の両端を仔細に点検した上での供述ではないと思われる。けだし、法廷という衆人環視の場で、緊張して不用意な発言をすることも十分考えられるからである。原審における検証の結果(検甲第三号は当審第一回口頭弁論において顕出)によれば、中村の供述する母線の端の独特の露出方法、すなわち、ゴムを引張つて延ばし折り曲ると、ゴムに一寸近くの破れ目がくつきり残り、引き干切つたゴムの跡が綺麗になつておらず凸凹が残るという特長は、緑色被覆電話線(刑事証第一六号、本件検甲第三号)の一方の端に見られるが、右中村の公判廷における証言のように「線の両端」には見られないのである。中村の右公判廷における証言は、誤りであることが認められる。

中村の捜査段階の各供述を仔細に精査すれば、右発破母線の端の特長が両端にあるとは供述していないことが明らかである。

しかして、右は発破母線を特定するに足る相当顕著な特長と考えられる。検察官は、自らも昭和二八年八月二八日、中村誠を、発破母線交換の点、その母線の特長について詳細に取調べ(甲第四八八号証)、さらに刑事訴訟法第二二七条により中村の証人尋問を請求した。

中村誠は昭和二八年九月一日裁判官の証人尋問に対し、井尻と新しくもらつた母線を交換したこと、その新しい母線の特長について、一層詳細な証言(甲第四八四号証)をした。検察官が中村の捜査官に対する供述が真実であるとの確信を深めたとしても、不合理ではない。

なるほど、中村は冒頭に掲記したように、二回逮捕、勾留を繰返されてはいるが、発破母線交換のことを、藤田巡査部長に供述した七月一〇日及び同月二一日には、未だ自己の火薬類取締法違反被告事件の被告人として、その審理のため、勾留されていたのであり、その間さほど屡々取調べられている形跡もない。逮捕勾留がくりかえされている間に、母線は井尻にやつたといつてしまつたので、そのようにいわざるを得なくなつたものとは認め難い。ちなみに第一審第二回、第三回公判期日においては、「井尻と母線を交換した後、井尻が使用していた母線が新しいものか古いものか確認していない。」旨(28・11・6、甲第一三号証)証言しているものの、交換したこと自体は認めていた(28・11・5、甲第一〇号証、前掲甲第一三号証)のである。第一審第四九回公判期日において、はじめて「井尻から母線を交換してくれと言う話はなかつた。裁判官の証人尋問や第一審第二回、第三回公判で交換したと述べたのは、検察官や警察に対する供述にこだわつて、そのように述べてしまつたのである。最近になつて井尻や当時の関係者と話合つて、その時に気付いた。」旨(30・7・29、甲第一五七号証)証言し、関係人らの示唆によつて間違いに気が付いたというのである。

井尻と母線を交換した旨の供述は、井尻供述を除いては中村供述のみであるが、中村に六月中旬頃長さ二五米か三〇米の緑色新品母線をやつた旨(福士佐太郎検供、28・9・9、乙第四〇号証)、遺留品の母線が、中村にやつた母線と色の具合も殆ど同じで同一品と申しても差支えない旨(福士佐栄太郎検供、28・9・10、乙第四一号証)の福士供述がある。

一方、井尻は昭和二八年八月二三日中村繁雄巡査部長に対し、「中村誠から新しい緑色の二四、五米の母線をもらつて現場で使用した。」旨(甲第五二八号証)供述したのをはじめに、翌八月二四日館耕治警部補に対し、「中村誠と交換して使つていた新しい母線を七月五日自宅に持つて帰つて飯場の納屋に置いていたのを発破器と一緒に地主照に渡した。」旨(甲第五〇七号証)供述し、翌八月二五日、同警部補に対し「六月末頃中村と交換して七月一〇日頃、家に持ち帰つて母線を発破器、ハンドルと共に地主に渡したのは七月二〇日頃である。」旨(甲第四九三号証)供述した。その後一旦全部否認したが、同年九月三日志村利造副検事に対し、「中村誠と交換した母線は、七月一〇日頃、自宅に持ち帰り物置の棚の上に煮干の入つて来た空箱のかげに人目につかないように隠しておいて、火薬を使うとすれば、母線も必要だろうと思つて気をきかせ、七月一七、八日頃地主に渡した。」旨(甲第四九八号証)より具体的に供述した。

被控訴代理人は「井尻の館警部補に対する供述は到底信用できない。」と主張するが、井尻の司法警察員らに対する各供述調書をみて格別誘導、強制して、中村と新しい発破母線を交換し、これを、現場で数日使用したうえ、自宅に持ち帰り、地主に渡した旨の供述を引き出したと認めるべき形跡はない。

被控訴代理人は、「捜査官は三坑立入と向堀の他の後山について母線の交換ないし紛失の事実の有無および母線のつなぎ方に個々人の特長があるか否かについて捜査すべきであつた。」と主張するが、中村誠が、新しい母線を井尻と交換した旨供述し、井尻も中村誠から新しい母線を交換してもらつた旨供述している以上、時間的制約もある捜査官が、そこまで捜査しないで、新しい母線を交換したと判断しても何ら不当のことはない。

遊佐春雄は昭和二八年七月二四日、検察官に対し「三坑向堀で中村が何処からか茶色がかつた二本の母線を持つて来て爾来、私が辞める六月二八日まで向堀専用として使つていた。新しいものでもなく余り古いものでもなく、痛んでいなかつた。」旨(乙第一五九号証)の供述をしているが、同人は後山で発破を掛けることにはあまり関心がなかつたであろうし、中村が福士から新母線をもらう前に使用していた母線についての記憶を述べたものと解されないでもない。

また、福田米吉は同年七月二二日、検察官に対し、「中村が井尻と母線を交換したということは知らない。」旨(乙第二九号証)供述しているが、同人も後山で発破を掛けることには、余り関心がないであろうから、発破母線の交換のことを知らなくても不思議はない。同人は「六坑を切揚げる二日三日位前に福士が六坑現場へ新しい銅線を持つて来て井尻にやつたら、井尻は、今持つて来ても仕方がないといつて、その場で福士に返してしまつた。」旨の供述もしているが、六坑を切り上げたのは六月末頃であるところ、その二、三日前には、福士は札幌に講習に出て、油谷にいるはずがなく、また切揚げることの決まつている六坑現場に新しい母線を持つて来たというのも不自然で到底信用できないところである。

検察官が右遊佐供述、福田供述を信用できないものと判断しても不合理ではない。

井尻が中村と交換した新しい母線を井尻飯場に持ち帰つたという点については、井尻の自供以外に、前記中村の七月下旬頃には井尻の現場には新しい母線がなく古い母線を使つていた旨の供述があり、他に目撃者等の供述はない。しかし井尻の自供が信用でき、かつ遺留品の母線の特長についての前掲中村供述が信用できると判断しても不当でないから、井尻が新しい母線を井尻飯場に持ち帰つたと認定しても何ら支障はない。

なお、井尻と徳田が七月三日夜、二・三坑坑務所から発破母線等を盗み出したと判断できること前にみたとおりであるところ、既に発破母線を入手しているのに、さらに中村から新しい母線を交換して入手する必要はないではないかとの疑問が提起されないでもないが、鉄道爆破は坑内の発破とは異なり、爆破による破片の飛散も遠くに及ぶと考えられるから、母線は長いにこしたことはないと考えて集めたものと判断しても不合理ではないし、多々益々弁ずるとの考えのもとに資材を入手したと考えても不合理ではない。いずれにせよ、鉄道爆破計画の内容がはつきりしない限り、入手の資材が多すぎるなどということはいえない筈である。

以上のとおりであるから、被控訴代理人の主張は理由がない。

第五七、発破器について

被控訴代理人は、「遺留品の発破器は過去において大興商事が使用した事実はなく、昭和二七年六月中に、六坑、三坑で紛失した発破器は一五三五九号のみで、井尻が三坑現場附近において、発破器を一台窃取したという事実が全く存在しなかつたことは明らかであるのに起訴した。」と主張する。

一、昭和二七年八月四日遺留品発見の当夜、巡査部長藤田良美、同中田正らが、遺留品の発破器(証第二一号)を携えて油谷芦別鉱業所に赴き、同鉱業所の火薬取扱責任者国久松太郎に右発破器を示したところ、国久は油谷鉱業所で使用している発破器数台を持ち出して、同巡査部長らに、同鉱業所の発破器にはジユラルミンまたは、いものニユーム製の鈍色のものと、真鋳か銅にメツキしたものの二種類があり、前者には四桁の番号がついており、後者には五桁の番号がついているが、遺留品の発破器(証第二一号)は、ジユラルミン製であるから四桁番号のもので、多分番号は八〇〇〇台のものであると思うとの説明を受けた(原審証人中田正の証言、第二審第一七回公判証人藤田良美証言、34・12・15、甲第二八四号証)。その後、間もなく、同鉱業所内機夫、修理工佐藤政男に遺留品の発破器(証第二一号)を見せたところ、同人は、この発破器は修理箇所の特長から見て、自分が修理したものに大体間違いないといい、修理伝票によるナンバープレートが剥離されているから断言はできないが、油谷鉱業所の八七五〇号であろうといつた(第一審第五六回公判証人中田正証言、30・10・18、甲第一七二号証)。電気機器故障及受付修理状況記入簿(甲第五八七号証)にも、八七五〇号発破器を修理した旨の記載があつた。もつとも右佐藤政男のいう修理箇所と一致しない面もあつた(第二審第三七回証人好田政一証言、37・10・16、甲第三五三号証)。油谷鉱業所発破器貸付台帳によると、八七五〇号発破器は、同鉱業所の二坑発破係辻内好弘、米沢俊見らに貸与され、それが盗難にあつて無くなつていることが、わかつた(第二審第二〇回公判証人芦原吉徳証言、36・10・19、甲第二八七号証)。また油谷鉱業所の発破器購入台帳によると、同鉱業所では、同じメーカーから同時に四台の同型ジユラルミン製発破器を購入しているが、八七四九号、八七五一号、八七五二号の三台は現に存在し、使用中であるが、これらと証第二一号発破器は全く同型であること(第二審第二二回公判証人藤田良美証言、36・11・16、甲第二九四号証、同第二三回公判証人田畠義盛、36・12・13、甲第二九九号証、同第二九回公判同証言、37・3・19、甲第三二三号証、同第三一回公判同証言、37・4・18、甲第三三一号証)が判明した。油谷芦別炭鉱所長塩谷猛の盗難被害顛末書には、鳥居式一〇発用発破器八七五〇番は昭和二六年一一月二三日頃盗難にかかつたが、警察署より持参した遺留品の無番号発破器は、米沢およびその他の係員に見せたところ、同人らが使用中紛失した八七五〇番ではないといつている旨記載されている(盗難被害顛末書、27・9・5、甲第五五一号証)。

以上の事実により、捜査官らは遺留品の発破器が、八七五〇号であると推定した(前掲甲第三二三号証、同第三三一号証、第二審第三二回公判証人芦原吉徳証言、37・9・18、甲第三五一号証)。

そこで、田畠義盛警部を中心とする捜査官らは、八七五〇号発破器の窃盗犯人を捜査し、間もなく油谷炭鉱の坑員猿山洋一少年を検挙した(第二審第二九回証人田畠義盛、37・3・19、甲第三二三号証)。猿山は昭和二六年一一月初頃油谷炭鉱二坑右三片火薬貯蔵所から発破器一台を盗み出し、つぎの日に石狩土建の飯場にいた高橋鉄男に売却方を依頼したこと、証第二一号発破器を示したところ、自己が窃取したものであることを自供した(猿山洋一検供、27・8・16、甲第五五二号証)。高橋鉄男も検挙されたが、同人は警察では、猿山から右発破器の売却依頼を受けたことは認めたが、その発破器の処分先については、あるいは亜東組といい、あるいは謙松組といい、果ては猿山から受取つたかどうかもわからないという始末であつた。また亜東組の石井清も、他に発破器二台を買つたことを認めながら、八七五〇号発破器を買受けたことは認めなかつた(前掲甲第二九九号証、同第三二三号証、同第三三一号証)。しかし高橋は、検察官に対しては、猿山に頼まれて八七五〇号発破器を亜東組の専務石井清か現場主任の大沼外美かに売却したと供述し(検供、27・9・1、甲第五五六号証)、石井清も検察官に対し、「はつきりはしないが、昭和二六年一一月中ば頃、高橋が持つて来た発破器を大沼に試験させて、高橋から買つたように思う。しかしその発破器は、油谷鉱業所に修理に出したとき盗品ということで取り下げられたか、警察に提出したか、どこかへ見えなくなつた。」と供述した(検供、27・8・23、第甲五五四号証、検供、27・9・6、甲第五五五号証、第二審第三七回公判証人好田政一証言、37・10・16、甲第三五三号証)。

検察官は高橋を八七五〇号発破器の賍物牙保罪で起訴(起訴状、27・9・10、甲第五五九号証)し、高橋は右八七五〇号発破器の賍物牙保罪で有罪判決(判決、28・3・31、甲第五五七号証)受けた。石井清は起訴猶予(不起訴裁定書、27・10・17、甲第五四六号証)になつた。

しかし八七五〇号発破器は、高橋の手もとにないのは勿論、亜東組にもなく、亜東組から他に譲渡したとか、亜東組が盗難にあつたとかの事実も顕われず、その行方は、ようとしてわからないまま、捜査官らは昭和二七年一二月頃までで、その追跡捜査を打切つた(前掲甲第二九九号証、同三三一号証、第二審第三六回公判証人芦原吉徳証言、37・9・18、甲第三五一号証 )。

二、捜査官は、昭和二七年八月頃に、同年六月中旬大興商事の三坑現場で発破器一台が紛失したことを探知して、その取調べをした。

出町幸雄(係員助手)昭和二七年八月二八日「第二露天には発破器が二台あり、このうち一台は昭和二七年四月二九日、露天B採炭現場の崩落により埋没した。あと一台は六月頃事務所に持つて行つたが、油谷鉱業所より借用して三坑で使用中紛失した発破器の代品として油谷鉱業所に返納したということを鷹田係員から聞いている。」旨(員供、乙第一九九号証)の供述をし、浜谷博義(係員助手)も同年八月二九日「石狩土建に発破器が二台あつたが、そのうち一台が露天で昭和二七年一月頃紛失した。」旨(員供、乙第二〇七号証)の供述をし、鷹田成樹(現場責任者)も同年八月三〇日「大興商事には、第二露天に発破器が二台あつたが、一台は何時紛失したかわからない。三坑、六坑で使用していた発破器が六月一五日から二〇日頃までの間に紛失したが、これは油谷鉱業所からの借用品であつたことがわかつたので、第二露天の残りの一台を外記重弘に修理させて油谷鉱業所の京家係員に返還した。これは九三三〇号であつた。」旨(員供乙第二一三号証)の供述をし、福士佐栄太郎(係員)も「石狩土建には発破器が二台あつた。昭和二七年二月頃、六坑の仕事をするようになり油谷鉱業所から石狩土建の本間か小松田かが発破器一台を借り受けた。これは鳥居印一五三五九号である。露天の一台は、昭和二七年四月頃、出町幸雄が崩落のため埋没させてしまつたということである。六月二〇日頃、三坑立入現場で使用していた発破器が盗まれたが、これは油谷鉱業所から借用した一五三五九号である。」旨(員供、乙第二九四号証)の供述をし、大野昇(大興商事油谷鉱業所所長)も同年九月六日「福士佐栄太郎から聞いたところによると、昭和二七年六月二〇日頃、発破器がなくなつたとのことであるが、その発破器は鳥居印一五三五九号であるとのことである。」旨(員供、乙第二七六号証)の供述をした。

捜査官は右のとおり、大興商事の所長をはじめ現場責任者、係員、係員助手らが、異口同音に、大興商事所有の二台の発破器のうち一台は第二露天で埋没して紛失し、一五三五九号発破器は、三坑、六坑で使用され、三坑で盗難により紛失したと述べるので、盗難の発破器は遺留品である証第二一号発破器(四桁番号であると推定される)ではないかと判断し、同年九月初旬で、大興商事の発破紛失についての捜査を打切つた。

三、石塚守男が、昭和二八年三月一三日の供述した後の同年三月一四日にいたり、浜谷博義(係員助手)が中田巡査部長に対し「三坑、六坑で昭和二七年六月二〇日頃、盗まれた発破器は、油谷鉱業所から借りていたものであつたが、昭和二七年八月初(第一審公準証人京家清蔵証言、31・4・4、甲第一八〇号証、第二審第八回公判証人鷹田成樹証言、33・7・16、甲第二二六号証、第二審第四五回公判証人酒井武証言、38・6・19、甲第三九六号証)、油谷鉱業所の京家清蔵保安区長から返還請求を受け、返すのに困つたので、同年八月一〇日頃、大興商事で、鷹田、福士、佐藤光男、出町幸雄と事務職員三好吉光、酒井武が集つて第二露天に二台あるのだから、うち一台を返したらよいのではないかと言うことになつた。ところが、第二露天の係員出町幸雄は『一台しかない。一台なくなつているんだ。』と言うのである。佐藤光男が『盗られたとなると警察がうるさいから、坑内に埋つたことにしたらいいではないか。』と言うので、皆が『そうしよう。』と相談し合つた。第二露天でも発破器を盗られたのではないかと思う。第二露天の坑夫江戸善一も『実は第二露天の発破器は埋つていないんだ。盗られたんではないかなあ。』ともらしていた。」旨(乙第二一二号証)供述した。これより先、すでに前年の昭和二七年九月二日原寅吉(第二露天坑夫)が藤田良美巡査部長に対し「第二露天に発破器は二台あつた。昭和二七年四月末頃、露天NO・5で崩落により発破器が埋つたということは聞いていない。」旨(乙第二八四号証)供述していた。

昭和二八年三月二三日藤田長次郎(第二露天坑夫)も「昭和二七年四月中頃から同年五月一〇日、一一日頃まで露天NO・5現場には発破器は二台あつたが、それでも間に合わないので電池でやつていた。」旨(巡供、乙第三〇三号証)供述した。

以上の各供述により、第二露天の二台の発破器が五月一〇日頃まで存在し、そのうち一台が、昭和二七年四月二九日頃崩落により埋没したというのは疑わしいとみられる資料が出てきた。

四、そこで捜査官は、あらためて三坑で紛失した発破器の種類について捜査を開始した。

玉川三男は、昭和二八年四月一九日「岩城定男の開腹手術を三月一八日にしたが、生命が危ぶまれたので岩城定男に手術前に確かめてみたところ、岩城定男は『七月の鉄道爆破の現場にあつた発破器は吾々が油谷の現場で使つていたものに間違いない。』旨述べたのを聞いた。」旨(検供、甲第五九九号証)述べ、病い愈えた岩城定男は同年四月二二日「私達が三坑で使用していた発破器は、ジユラルミンの色合とか古さ加減、提革の止め鋲は証二一号発破器と似ている。提革は切れかかつていた。」旨(検供、乙第一号証)述べ、福士佐栄太郎は同年四月二三日「六坑捲上機室にあつた発破器はナンバープレートに一五三五九という番号があつたが、ジユラルミンの色合や古さ程度、提革の止め鋲も証第二一号発破器と似ている。提革は違うかも知れない。」(一五三五九号といいながら、その型については、証第二一号のジユラルミン製発破器という。)旨(検供、乙第三九号証)述べ、福田米吉(三坑、六坑で後山として働いていた。)は同年五月一日「古ぼけた銀色のもので提革がついていた。」旨(検供、乙第二五号証)述べ、岩城雪春(昭和二七年六月二〇日頃まで三坑で先山をしていた。)は、同年五月二日「証第二一号発破器は、私が使つていた物と型式は全く同じで、ジユラルミンの色合と古さ加減、提革の留鋲も全く同じ物である。」旨(検供、乙第九号証)述べた。

以上のように、三坑六坑の関係者らが、いずれも三坑六坑でジユラルミン製発破器を使用していたと述べるので、前年の捜査結果である、三坑、六坑では一五三五九号発破器を使用していて、これが盗難にあつたということは、その前提が覆えされることとなつた。

五、かようなとき、中田正巡査部長が、たまたま昭和二八年五月一六日油谷芦別鉱業所二・三坑坑務所に赴いて捜査中、発破器台帳を調査していたところ、前記福士が盗難にあつたという一五三五九号発破器を油谷鉱業所の係員が使用中であることを発見した。事情を聴取すると、三坑坑内係員斉藤伝三郎が昭和二八年一月五日頃、三坑立入坑道の向堀堀進現場を巡視中、坑道に岩石類と一緒に発破器が転がつているのを発見したが、それが、一五三五九号であつたとのことであつた(「NO・一五三五九号の発破器について」と題する報告書、巡査部長中田正作成、乙第四一七号証の二)。中田巡査部長は右五月一六日に一五三五九号発破器の任意提出を受け(任意提出書、油谷芦別鉱業所鉱業課長成田良市、28・5・16、乙第四一七号証の三)、同日これを領置し(領置調書、28・5・16、乙第四一七号証の四)て、芦別警察署に持ち帰つた。

福士佐栄太郎は昭和二八年四月二三日「六月二一日か二二日頃発破器が失くなつたことに気付いて探したところ、三坑立入でハンドルを拾つたけれども発破器は、見付からなかつた。」旨(前掲乙第三九号証)述べ、浜谷博義は同年四月二二日「福士の話では、鉄板の上にハンドルが落ちていたが、発破器はなかつたと言つていた。」旨(検供、乙第一二号証)述べるのである。

斉藤伝三郎が、昭和二八年一月五日頃、一五三五九号発破器を発見したのは、前期のように三坑向堀堀進現場に至る坑道の右側の土べらで高さ五尺位の矢木陰である(巡供、28・11・25、乙第二六九号証)というのである。福士が六月二一、二日頃紛失した発破器のハンドルを拾つた場所は三坑立入であつたから、その場所に発破器もあつたとみられるが、一五三五九号発破器が発見された三坑向堀堀進現場への坑道とは場所が異つているのである。そして、六月二一、二日頃福士が発破器の紛失に気付いてから直ちに係員達がその行方をさがしたが、わからなかつたことは、前掲福士佐栄太郎らの供述により明らかである。もしも、係員がこの発破器を三坑立入から向堀まで運んで、そこに置いたとすれば、紛失してから間もない時にさがしたのであるから、容易にその事情が判明した筈である。しかし、発破器を六月二一、二日頃に三坑立入から向堀まで運んだということはあらわれてこなかつたのであるから、このようなことはなく、立入で紛失した発破器と向堀で発見された一五三五九号発破器とは別個の発破器であると推測されるわけである。

六、捜査官は発破器の埋没について取調べた。

出町幸雄は昭和二八年七月一日金子副検事に対し「私の現場で発破器が失くなつたことはない。現場で崩落埋没したことはないが、私の責任のように感じ、ついありもしないことをいつた。大興商事には同型の鉛色の四角な発破器が三台あり、必要に応じ各現場で使つていた。特に、どの現場の発破器と決めて使つていたのではない。使用済みのうえは、事務所に返していた。三台とも色合や型は警察で見せられたのと同じものであつた。」旨(乙第三五号証)、前年警察官に対して供述したことは嘘であると述べた。

被控訴代理人は「出町を逮捕するという手段までとつて、供述を強いた。」と主張する。

なるほど、右乙第三五号証の出町幸雄の供述調書は、参考人調書ではなく被疑者調書となつており、弁論の全趣旨によれば、出町を逮捕したものであろう。しかし、捜査官は出町が作り話までするところから、証第二一号の発破器を窃取したのではないかとの疑いをかけたものと推認される。それは兎も角、出町の供述が任意になされ信用性があればよいわけである。ところで、酒井武も同年七月三日「発破係員が集つて発破器を坑内で埋没させて失くしたことにしようと話し合つたことがある。」旨(検供、乙第三六号証)供述し、佐藤光男も同日「失くなつた発破器の代用として第二露天の二台のうちの一台を廻わすようにとの話が出たが、実は第二露天でも一台なくなつて、代用に廻すことができず、係員の福士、浜谷、出町、三好、私らが集つて相談し、出町が『自分が一台埋めたことにしておく。』と言い出し、一同『そうしよう。』と言う話になつた。第二露天の発破器が五月の初め頃失くなつたことは間違いないが、何時どうして失くなつたかはわからない。」旨(乙第二九三号証)供述しているのであり、同趣旨の供述は前掲のように、浜谷博義(乙第二一二号証)から早くから出ていたところであるから、出町の供述は任意になされたと認められ、これを信用してもさしさわりはない。

かくして、第二露天の発破器一台が崩落により埋没したことが否定されることとなつた。

七、第二露天の発破器が六坑、三坑で使用されたかどうか取調べがなされた。

岩城定男は昭和二八年六月一四日「六坑捲上機室に発破器が二台あつたことがある。一台は発火の具合が悪く六月の初頃、係員が何処かに持つて行つたらしく捲上機室には一台しかなかつた。」旨(検供、乙第三号証)供述し、出町幸雄も前記のように同年七月一日「大興商事には発破器が三台あり、必要に応じて各現場で使つていた。特にどの現場の発破器と決めて使つていたのではない。」旨(前掲乙第三五号証)供述し、福士佐栄太郎も同年八月七日「一五三五九号発破器が四月末頃から発火の具合が悪く誰かが大興の事務所から一台発破器を持つて来て使つたことがあり、私も六坑捲上機室で二台あつたのを見ている。」旨(検供、乙第四二号証)供述し、梅里邵兵も同年一一月二七日「六坑捲上機室に古いジユラルミンで手提げは電線をつけた発破器があつた。五月末頃ジユラルミンでなくメツキしたよく発電する発破器を坂下係員が持つて来たことがあつたが、古いジユラルミンの悪い方を三坑で使つたこともあつた。」旨(員供、乙第二一八号証)供述しているのである。ところで大興商事には、昭和二七年四月頃以降、発破器は第二露天に二台と、三坑六坑に油谷鉱業所から借用した一五三五九号の一台しかなかつたのであるから、第二露天の発破器一台が六坑、三坑の各現場に転用されていたと考えないかぎり、右各供述のようなことは、あり得ないわけである。第二露天の発破器が六坑三坑で使用されたとみるほかはない。

八、六・三坑で本件発破器(証第二一号)が使用されていたことについて

遺留品の本件発破器(証第二一号)は、ジユラルミン製で提革の止め金が鋲式になつており、ナンバープレートが剥離していることが、顕著な特長であつた(原審における検証―検甲第一号一の結果)。

岩城雪春(昭和二七年六月二〇日頃まで三坑で先山をしていた。)は、昭和二八年五月二日「遺留品の発破器(証第二一号)は、私が使つていた物と型式は全く同じで、ジユラルミンの色合と古さ加減、提革の止め鋲も全く同じである。私が使つていた当時は、上の蓋が少し動いていた。雷管の脚線を横に巻いていなかつた点が違うだけである。」旨(検供、乙第九号証)述べ、小松田幸雄(昭和二六年八月二五日から昭和二七年三月一〇日まで第二露天発破係助手をしていた。)は、昭和二八年六月二〇日および同年七月四日「石狩土建には発破器が二台あつて、第二露天で使つていた。六坑を下請して油谷炭鉱から一台借りた。露天の二台はジユラルミン製四角なもので提革がつき、止め金は鋲(ボタン)であつた。そのうち一台は発火具合が悪く一台だけ使つていた。証第二一号発破器は私が第二露天で使つていたものと色合、形、大きさが殆んど同じである。」旨(員供、乙第二七八号証、検供、甲第六〇一号証述べ、北崎道夫(昭和二七年二月一一日から同年三月末頃まで石狩土建の係員助手を勤めていた。)は、昭和二八年七月三一日「私が石狩土建にいたとき、発破器は全部で四台見ている。一台は事務所に置いてあつて修理しなければ、使えないもので、私も発火具合を試すため、よく手にして試験したが、ナンバープレートがなく、吊手(提革)もなく、蓋の部分のネジ釘が片方なくグラグラしていて発破線で上下にしばつてあつた。他の三台より大型で吊手を丸鋲でとめるようになつていた。外記重弘が修理したが、なおらなかつたということであつた。押収されている発破器(証第二一号)は、ネジ釘が双方打つてあるが、ネジ釘の色が違つているので片方は、その後、打ち込んだものと思われる。他の発破器は、提革をひつかける部分が、丸鋲にはめ込む式のものではなかつた。色工合、ジユラルミンのザラザラした肌合等から見て、私が事務所で見た発破器は、この発破器に間違いないと確信している。」旨(検供、乙第一三四号証)述べ、藤谷一久は、同年八月一三日、裁判官の証人尋問に対し「三坑で使つていて失くなつた発破器は形は四角で、古い提革がついていて、提革は革に穴があいていてボタンで止めるようなやり方であつた。鉤になつてはいなかつた。アルミのような、つやのない色で鈍い余り光のないような状態であつた。一番上の方に製作所の名前か、または番号でもついてあつたらしく、はげたような跡があつた。」旨(甲第四六一号証)証言し、中村誠(昭和二七年六月当時、三坑向堀の先山をしていた。)は、同年九月一〇日「昭和二七年六月一六、七日頃、井尻から三坑での発破作業が、すんだら発破器を貸してくれと言われて、私は午前一一時近く六坑捲座前で玉作りをしている井尻に発破器を渡した。その発破器は鳥居式でジユラルミンの古ぼけたようなもので、ナンバープレートが剥離されていた。プレートのない発破器であつたことは現場でドリルがなくなつたとき、ドリル、ピツク等に番号の入つていたところから捲小屋の板壁に、それらの番号を書き込んだが、その時発破器の番号も書込んでおこうと思つて発破器を見たところ、ナンバーが剥離されていることに気付いた。発火の具合が悪く梅里某が分解して見たことがあるが、コイルが両端にあつて黒光りしており、コイルとコイルの中間に茶褐色の裸線が黒光りしているのが見えておつた。領置されている証第二一号の発破器は私が捲座で井尻に渡したものに間違いないと思われるぐらいである。違うところは発破子線が巻いてなく提革がこれより少し狭く、こんなゴツゴツした感じの革ではなかつた。」旨(検供、甲第四八九号証)述べ、九月一四日、中村誠は、裁判官の証人尋問に対し「私達が三坑で使用していた発破器の底には、小さい直径七、八分の丸型が三つほど重つて、はつきりつけられておつたのを記憶している。お示しの証第二一号の発破器は六月一六、七日頃井尻に六坑捲座前で渡した発破器に間違いない。」旨(証人中村尋問調書、甲第四八五号証)付加して証言した。

右各供述によれば、六坑、三坑現場に遺留品の本件発破器(証第二一号)が昭和二七年六月頃存在し、両現場で使用されていたと判断できる。

九、以上によれば、大興商事の作業現場である第二露天には、昭和二七年五月一〇日頃まで、大興商事所有の発破器が二台あつたこと、そのうちの一台が埋没して紛失したことはなかつたこと、同じく大興商事の作業現場である六坑、三坑には、油谷鉱業所から借用して使用していた一五三五九号発破器があつたこと、一五三五九号発破器は発火の具合が悪く(福士佐栄太郎検供、28・8・7、乙第四二号証参照)、同年五月一〇日過ぎ頃第二露天の二台の発破器のうち一台が、六坑、三坑に運ばれて使用されたこと(五月一〇日頃まで露天に二台あつたことは前記のとおりであり、前掲佐藤光男の供述―乙第二九三号証―によれば、五月初め頃一台行方不明になつたのであるから、六坑、三坑に運ばれた日時は、一〇日頃を過ぎて間もない時であつたとみられる。)、その一台が本件証第二一号発破器であること、六坑、三坑で一五三五九号発破器と本件証第二一号発破器が交互に使用されているうち、一五三五九号発破器が三坑向堀に至る坑道の矢木の陰の土べらに置き忘れられたこと(その時期は置き忘れられたのであるから明確ではないが、おそくとも六月初旬であろう―岩城定男検供、28・4・22、乙第一号証、中村誠検供、28・5・25、甲第四八七号証―と推測される。)、その後、三坑六坑では、残る本件証第二一号発破器のみが使用されていたこと、第二露天には発破器は一台しかなくなつたが、この発破器も発火具合が悪く、修理するため大興商事の事務所に持つて行かれていたこと、これが九三三〇号発破器であること、かくするうち六月二一・二日頃(福士佐栄太郎検供、28・4・23、乙第三九号証)三坑立入で本件証第二一号発破器が紛失したこと、八月頃一五三五九号発破器の代替として右九三三〇号発破器を油谷炭鉱に渡したこと、三坑向堀に至る坑道に置き忘れられた一五三五九号発破器は昭和二八年一月五日頃斉藤伝三郎によつて見付けられたこととなるわけである。

一〇、本件発破器(証第二一号)の入手経路と八七五〇号発破器との関係について

石狩土建が油谷炭鉱で事業を始めた当初から昭和二七年六月二〇日頃までの間に、石狩土建ないしその後身である大興商事の発破器の入手状況についての関係人の供述は、つぎのとおりであつた。

阪井亀次(昭和二六年六月頃から同年九月五日まで石狩土建の発破係員をしていた。)は昭和二八年七月三日「私が石狩土建にいた頃、第二露天で使用していた発破器は、ジユラルミン製角型一〇発掛のもので、石狩土建常務大野則勝から渡されたものである。その発破器は昭和二六年九月五日、石狩土建を辞めるとき、小松田幸雄に引続いだ。旨(検供、乙第九四号証)供述し、小松田幸雄(昭和二六年八月二五日から昭和二七年三月一〇日まで第二露天発破係助手をしていた。)は、昭和二八年六月二〇日、同年七月四日「石狩土建には発破器が二台あつた。一台は阪井亀次からもらつて来た。他の一台は石狩土建が何処から手に入れたものである。昭和二七年二月から六坑を油谷炭鉱から下請したが、六坑の分は油谷炭鉱の開発区長京家清蔵から借り受けて使つていた。この発破器は六坑の係員北崎道夫に引継いだ。第二露天で使つていた二台は鉛色の鈍いジユラルミン製四角なもので、提革がつき止め金は鋲(ボタン)であつた。提革が切れて発破母線で代用していたような記憶もある。第二露天の一台は発火具合が悪く一台だけ使つていたが、証第二一号は、私が第二露天で使つていたものと色合、形、大きさが殆ど同じである。」旨(員供、28・6・20、乙第二七八号証、検供、28・7・4、甲第六〇一号証)供述し、北崎道夫(昭和二七年二月一一日から三月末頃まで係員助手をしていた。)は昭和二八年七月三一日「石狩土建にいたとき発破器は四台見ている。一台は事務所に置いてあつて修理しなければ使えないものでナンバープレートがなく吊手もなく、吊手を丸鋲で止めるようになつていた。押収されている証第二一号に間違いないと確信をもつている。一坑で使つていたのは福士佐栄太郎が管理していたが、油谷炭鉱から借りたもので一五七五六号と記憶する。第二露天の発破器は小松田が管理していたが、野城所長代理が買つて入手したと聞いている。六坑の発破器は小松田が油谷鉱業所の開発区長京家清蔵から借りたもので、私が引継いだ。私の手帳の記載によると一五三五九号である。ナンバープレートのない物以外の三台は、小型であつた。」旨(検供、乙第一三四号証、同第一三五号証)供述し、福士佐栄太郎(昭和二六年一〇月頃から昭和二七年六月末頃まで坑内係員をしていた。)は、昭和二七年九月一日「一坑で作業するため、昭和二六年一二月に油谷鉱業所の山川から借受けた発破器は、昭和二七年三月頃返還した。」旨(員供、乙第二九四号証)供述し、野城利春(昭和二六年一一月頃から昭和二七年二月頃まで石狩土建の所長代理を勤めた。)は昭和二八年八月八日「第二露天で阪井亀次が、発破器一台を使つていたが、同人が昭和二六年九月に辞めて本間亀老が責任者になつた。その頃、油谷鉱業所からこの発破器を返せと催促を受け、返すこととし、三井芦別炭鉱の川辺久太郎に頼んで、昭和二六年一一月六日、二台都合してもらつた。油谷鉱業所から借りた発破器は、返したはずである。」旨(員供、乙第三〇五号証)供述し、川辺久太郎は昭和二八年八月八日「野城に昭和二六年一〇月頃発破器がなくなつているが、一台でも二台でも都合して欲しいと言われ、三井芦別鉱業所の発破器修理をしている山家広七に頼んで、二台の発破器を世話してやつた。」旨(員供、乙第二七三号証)供述し、山家広七は昭和二八年八月九日「昭和二六年一〇月か一一月頃、川辺久太郎に三井鉱業所の廃品の発破器を組合わせて二台渡した。先に渡した発破器はジユラルミンケースで、後程警察署から返して貰つた。他の一台は銅製のケースだと思う。」旨(員供、乙第三一〇号証)供述し、浜谷博義(昭和二六年八月頃、石狩土建に入り、後に発破係員助手になつた。)は昭和二八年七月一六日「昭和二六年一二月頃までジユラルミン製で提革がなく発破母線で提げるようにした発破器が一台あつた。同年一二月に一台発破器がふえて二台になつた。いずれも露天で使用していた。後からふえた分もジユラルミン製で新しく、革の提革がついていて、止めるところは、ボタンのような型であつた。後から、ふえた分は福士が買つて来たような気がするが、実際はわからない。昭和二七年四月頃露天で発破器が一台しかないということで、私が購入依頼したが、購入したかどうかわからない。同年六月頃発破器が一台故障で修理するため事務所に一ヶ月半ぐらい置いてあつたのを見ている。その発破器を紛失した発破器の代りとして油谷鉱業所に渡したと聞いている。昭和二六年一二月頃福士が発破器を買うのだといつて、発破器を持つて来たことがある。どんな発破器だつたかわからないが、小松田も知つている。福士は品物をいろいろ買う仲介をしていた。三坑と六坑で使つていた一台の発破器は露天のと同じ大きさのものでアルミニユームでできており、提革が付き止め金はボタンのようになつており鉤になつているものではなかつた。」旨(検供、乙第一三号証)供述し、福士佐栄太郎(昭和二六年一〇月頃から昭和二七年六月末頃まで係員をしていた。)は昭和二八年八月七日「昭和二六年一一月中旬、二の沢、三の沢に発破器が一台あつた。これは野城所長代理が買入れたものである。同年一二月末頃第二露天に一台あつた。これも野城所長代理が買入れ、阪井亀次から小松田が引継いだものである。昭和二七年一月に、一坑、五坑で発破器が一台あつたが、本田亀老が、油谷鉱業所から借用証を入れて借りたものである。昭和二七年三月初頃、六坑を請負つたとき油谷鉱業所から一台借用した。これが一五三五九号で真鋳である。二の沢、三の沢で使用した分と第二露天で使用した分は、ジユラルミンの古ぼけたようなものである。」旨(検供、28・8・7、乙第四二号証)供述した。

右各供述によれば、石狩土建(大興の旧商号)では昭和二六年九月以前に油谷炭鉱から発破器一台を借り受け、第二露天で使用していたこと、油谷炭鉱からその返還を求められ、野城利春が川辺久太郎を通じて山家広七から同年一一月頃発破器二台を入手し、先の発破器を油谷炭鉱に返納したこと、山家から入手した発破器は、一台はジユラルミン製ケース、一台は銅製ケースであつたこと、また、昭和二六年一二月から昭和二七年三月頃まで一五七五六号発破器を油谷炭鉱から借用して一坑、五坑で使用したこと、昭和二七年三月、六坑、三坑の作業を始めたので一五三五九号発破器を油谷炭鉱から借用したこと、一五三五九号発破器の行方が不明となつたとき露天の一台である九三三〇号発破器を油谷炭鉱に代替品として渡したことと判断され得るわけである。ところで、本件発破器が第二露天にあり、後に六坑、三坑で使用されていたことは、右小松田の供述および従前の捜査の結果にあらわれている。そして、山家から出た発破器は右の九三三〇号(これは「ジユラルミン製である。」―前掲福士佐栄太郎検供、28・8・7乙第四二号証―「四桁の番号はジユラルミン製である。」―原審証人中田正の証言、第二審第一七回公判証人藤田良美証言、甲第二八四号証参照)と銅製ケースのものということになる。本件発破器はジユラルミン製ケースのものであるから、山家から出たものとは異るわけである。そして山家から出たとみられる銅製ケースの発破器が大興商事に存在していないことも捜査の結果から推認できる。この銅製ケースの発破器と、本件発破器とが何時しか取り替えられたとみるほかはない。捜査官は更に本件発破器の出所を捜査したものであろうが、これを明らかにする資料を見つけ出すことができなかつたことは記録上明らかであつて本件発破器の入手経路は不明のままとなつたわけである。

右のように、もと油谷鉱業所のものであつた八七五〇号発破器が石狩土建または、大興商事に入手されたとの資料は出て来なかつた。また、本件発破器(証第二一号)の入手経路も不明であつたから、本件発破器が八七五〇号発破器である可能性が全くないとみることもできない。このため、本件証第二一号発破器が八七五〇号発破器であるとの推定が覆えされる捜査結果にはならず、捜査官はこの推定を捨てなかつたわけである。

ところで、先にみたように、本件鉄道爆破事件発生直後の捜査により、遺留品の発破器(証第二一号)は、油谷鉱業所が所有していた盗難にあつている八七五〇号発破器であると推定され、八七五〇号発破器は、猿山洋一によつて窃取され、それが高橋鉄男に売却依頼されて同人の手に渡つたこと、あるいは、高橋鉄男からさらに、亜東組の石井清に渡つているかも知れないことまでは追跡されたが、八七五〇号発破器のその先の行方は、ようとしてわからなかつた。

遺留品の発破器(証第二一号)が、大興商事に存在し、六坑、三坑現場で使用されていたと判断されていたと判断できる資料が存したことも、前にみたとおりである。

さて、証第二一号発破器が、八七五〇号であるとの推定にたてば、高橋鉄男、あるいは亜東組から、如何なる経路によつて、何時、石狩土建または大興商事に流入したかについては、明らかにならなかつたわけである。

しかし、推定は、あくまで推定であつて、推定に誤りがあつたかも知れない。右推定に誤りがないとしても、遺留品の証第二一号発破器が、大興商事に存在し、これが六坑、三坑で使用されていたと判断しても合理的な資料が数々あつたのである。八七五〇号発破器が大興商事に流入した経路がわからなくても、流入の可能性が全く否定されているわけではないから、証第二一号発破器が大興商事の六坑、三坑に存在し、これが使用されていたと判断することの支障となることではない。

被控訴代理人は大興商事所有の発破器の入手経路は、すべて明らかにされたと主張する。

その趣旨は、かねて石狩土建にあつた一台の発破器と野城が入手した一台の発破器というのであろう。そうだとすれば、前掲の資料に照合すれば、第二露天の二台の発破器は、一台はかねて石狩土建にあつたもの、一台は野城が山家から入手したものであること、六坑、三坑には一五三五九号発破器があつたこと、露天の発破器一台が埋没紛失したことはなく、五月一〇日過ぎ頃六坑、三坑に運ばれ使用されていたこと、これが本件証第二一号発破器であること、六坑、三坑には発破器が二台となり交互に使用されていたこと、一五三五九号発破器が行方不明となつたこと、その後本件発破器が六月二〇日頃三坑立入で紛失したこと、八月頃大興は一五三五九号発破器の代替として露天にあつた九三三〇号発破器を油谷炭鉱に渡したこと、翌二八年一月、一五三五九号発破器が向堀に至る坑道から発見されたが、これはそこに置き忘れたものと考えられることということになる。したがつて、本件発破器は、従前から石狩土建にあつた発破器か、野城が山家から入手した三井鉱山の廃品かのいずれかであつて、猿山の窃取した八七五〇号発破器ではないということになるのであろう。しかし、証第二一号発破器が六坑、三坑で使用されていて、これが窃取されたということになる筋合である。

一一、遺留品の発破器(証第二一号)の窃盗の起訴について

井尻正夫・地主照に対する昭和二八年九月六日付窃盗被告事件の起訴状によれば、「被告人等は共謀の上、大興商事株式会社芦別油谷鉱業所所長大野昇保管に係る同会社所有の鳥居式一〇発掛電気発破器一台時価六、〇〇〇円位相当を窃取した。」旨(甲第一号証の三)記載されている。

原審における控訴人三沢三次郎、当審における控訴人金田泉の各本人尋問の結果によれば、検察官らが、起訴当時、遺留品の発破器(証第二一号)が油谷鉱業所の所有していた八七五〇号発破器であろうと推測していたことが認められる。

しかし、当審における控訴人金田泉の本人尋問の結果によれば、検察官は、発破器にナンバープレートはないし、番号を書いてみても、現物を見て番号が特定できるものではないから、窃盗の被害物件の特定としては書くことは必要でもないし、むしろ番号を書くことはできないという考えで、起訴状表示のとおり鳥居式一〇掛電気発破器一台時価六、〇〇〇円という程度の特定の仕方しかせず、現物の存在で立証できると考えていたこと、ナンバープレートがないということが重要な特長であつたから、ナンバープレートのない発破器ということで特定したものであること、入手経路は、わからないけれども、大興商事のものとして存在し、大興商事のものとして使われていたことが立証できれば、法律的には問題ないと考えていたこと、大興商事に存在したのは大興商事のものとして存在したものであつて、油谷鉱業所から借りたものではないと認定し、大興商事株式会社の所有として起訴したことが認められる。

思うに、ナンバープレートが、剥離されていることであり、捜査が八七五〇号発破器であるとの推定のもとになされたとしても、大興商事への入手経路が不明であつたので、本件発破器が八七五〇号であるとの断定はできないとの立場に立つて、起訴したわけである。そして、窃盗罪の構成要件としては、他人の所持、占有が奪取された事実が立証されれば足り、その窃盗の目的物の入手経路は、いわば、その目的物の故事来歴に属し、その証明の必要はないと考えても何ら不合理はない。

ちなみに、高橋鉄男の賍物牙保被告事件の起訴状によれば、「猿山洋一より依頼を受け、鳥居式一〇発用発破器(番号八七五〇番)を石井清に売却した。」旨(起訴状、27・9・10、甲第五五九号証)記載されているのであつて、この場合は八七五〇番と特定されているのであるが、それが本件証第二一号発破器であるとは断定できないわけである。

本件証第二一号発破器を窃取したとして起訴した検察官の判断は合理的である。

一二、被控訴代理人は、「昭和二七年六月中に六坑、三坑で発破器が紛失したのは一回だけであるという事実は動かない。」と主張する。

しかし、右主張は第二露天で発破器が一台埋没したことを前提とし、昭和二七年六月中に紛失したのは、一五三五九号発破器のみであるというのであるが、従前の捜査結果によれば、昭和二七年五月一〇、一一日頃以降同年六月初め頃までの間に、一五三五九号発破器は六坑、三坑で使用中、三坑向堀に至る途中の坑道の高さ五尺位の矢木の陰の土べらに置き忘れられ行方不明になつていたところ、第二露天から運ばれた本件証第二一号発破器が同年六月二〇日頃、三坑立入で紛失した(出町幸雄検供、28・7・1、乙第三五号証、佐藤光男検供、28・7・3、乙第二九三号証、岩城定男検供、28・6・14、乙第三号証、福士佐栄太郎検供、28・8・7、乙第四二号証、梅里邵兵員供、28・11・27、乙第二一八号証、藤田長次郎巡供、28・3・23、乙第三〇三号証、斉藤伝三郎巡供、28・11・25、乙第二六九号証)と判断できること前説示のとおりであるから、右主張は理由がない。

一三 被控訴代理人は「第二露天の崩落について昭和二七年三、四月頃の第二露天の作業員を取調べるべきであつた。」と主張する。

捜査官らは当初は出町幸雄らの崩落による埋没との供述を信用したわけである。しかし、その後、昭和二八年三月一四日浜谷博義から、第二露天の発破器は崩落による埋没したのではなく、盗難にあつたらしいとの供述を得たから、前記のように埋没されたという発破器の当時の責任者である出町幸雄を始め、佐藤光男、酒井武、藤田長次郎を取調べ、前年取調べた原寅吉(員供、27・9・2、乙第二八四号証)の供述もあるから、さらに昭和二七年三、四月の第二露天の作業員を取調べるまでもなく、崩落埋没はなかつたと判断したとしても、何ら不当ではない。ちなみに刑事第一審判決(甲第五六五号証)によれば、江戸善一の検察官調書が引用されているから、捜査官は、昭和二七年三、四月頃の第二露天作業員について取調べていることは、容易に推認される。そうして第二露天において崩落による埋没はなかつたと判断したものと思われる。なお原寅吉は昭和二七年九月二日「崩落により発破器が埋つたということは聞いていない。」旨(前掲乙第二八四号証)供述しながら、刑事第一審では崩落により発破器が埋没したと聞いた旨証言(第一審第二三回公判、29・10・6、甲第七八号証)しているのは、はなはだ理解し難いところである。

一四 被控訴代理人は、「中村誠が下げ皮の止め金が鉤型である旨取調べの比較的初期の昭和二八年五月二五日検察官に供述したのは、一五三五九号発破器のことである。」と主張し、控訴代理人は「大興商事の作業現場では、数箇の発破器が彼此流用されていたことを考慮に入れれば、右供述は同人の記憶の混同とも解され、これによつて、その後の同人供述、証言が無価値化したとみるべきではない。」と主張する。

中村誠が昭和二八年五月二五日、金子誠二副検事に対し「大興現場で使つていた発破器は下げ皮の止め金が外側に向いた鉤型のもので、一週間ばかり前、中村部長や中田部長から麻紐のついたメツキのはげた真鋳色の発破器を見せられたが、あの位の大きさのものであつた。」旨(甲第四八七号証)供述しているが、右は一五三五九号を示されて、その特長を述べたものと認められる。しかし中村は右供述に引続いて「私は五月中頃から六月の初頃までの間に、二・三回より使わなかつた。」とも述べているのであつて、中村が、その後同年七月一七日および、七月二三日に、藤田良美巡査部長に対して供述したところによれば、証第二一号の発破器を井尻に渡したのは「六月一五・六日頃」(乙第一七六号証)または岩城定男が現場で腹痛みして騒いだ六月二〇日直前頃」(乙第一七八号証)というのであり、(なお同年九月一〇日金子副検事に対し、および同年九月一四日裁判官の証人尋問に対しては、いずれも「六月一六・七日頃」―甲第四八九号証、同第四八五号証―と供述している。)、いずれも六月中旬頃のことであつたと供述しているのであるから、発破器を使用していた日時に照し同一の発破器について述べたものではないと解するのが合理的である。

一五三五九号発破器が、三坑、六坑で使用されていたことは、前掲福士佐栄太郎の供述(乙第三九号証)によつて明らかであるから、中村が一五三五九号発破器を使用したこともあり、その記憶に基づいて、昭和二八年五月二五日(前掲甲第四八七号証)、その発破器の特長を供述し、同年九月一〇日にいたり金子副検事に対し、遺留品の証第二一号発破器の特長を述べ、これを六月中旬頃井尻に渡した旨(前掲甲第四八九号証)供述し、同年九月一四日裁判官の証人尋問に対しても、同旨の証言(前掲甲第四八五証)をしたのは、六坑、三坑で証第二一号の発破器もまた使用したことがあり、その記憶に基づいて、その発破器の特長を供述したものと解すればなんら矛盾はないわけである。

一五 被控訴代理人は、「捜査官は一五三五九号発破器の発見後、浜谷、北崎道夫、藤谷一久に押収してある一五三五九号発破器を意図的に示さず、大興で使用していた発破器は遺留器と似ている旨の供述をひき出しているが、坑内で発破器を使用している者が、発破器の細かな特徴まで記憶していることは通常期待できず、また、なんらの信用性を持ちえない。」と主張する。

なるほど浜谷(検供、28・7・16、乙第一三号証)および藤谷(証人尋問調書、28・8・13、甲第四六一号証)には、一五三五九号発破器を示した形跡は認められないが、浜谷は「アルミニウムでできており提革がつき提革のついている処はボタンのようになつており鉤になつているものではない。」旨、藤谷は「古い下げ革がついており、革に穴があいてボタンで止めるようになつており鉤ではなくアルミのようなつやのない色で鈍い余り光のないものであつた。製作所の名前か又は番号がついていたのが、はげたような跡があつた。」旨はつきり材質・特長を供述しているのであつて一五三五九号発破器を示さないで、供述を求めたとしても、不当とはいえない。

北崎に対しては「麻紐の発破器」を示している(北崎道夫検供、28・7・31、乙第一三四号証)から一五三五九号を示しているものと推認できる。

以上のとおりであるから、右各供述の内容に照し、各供述がそれぞれ記憶に基づいて述べたとみても不合理のことはなく、また、その内容も信用性がないとみることもできない。

一六 被控訴代理人は「遺留品の発破器は過去において大興商事が使用した事実はなく、井尻が三坑現場附近において発破器を一台窃取したという事実が全く存在しなかつたことは明らかであるのに起訴した。」と主張するけれども、前記資料に照して右主張は採用できない。

一七 中村誠は、第一審第二回公判(28・11・4)において「六坑、三坑で使用していた発破器はナンバープレートがなく、ケースがジユラルミンで古ぼけたような色で機械の中のコイルは全般的に黒光りがしていた。底に窪みがあつた。証第二一号の発破器は、これが現場で使つていたものと断定はできかねるが、この発破器ではなかつたろうかという気持もする。大きさやナンバープレートのない点は似ている。」旨(甲第一〇号証)証言していた。ところが、第一審第四九回公判(30・7・29)において、証人として、一五三五九号発破器を示され、「私達が使用していた発破器は提革止金は鉤式だつた。色合もはつきりしていた。最近になつて井尻や当時の関係者と話合つて、自分が証言したことは記憶違いであることに気付いた。」旨(甲第一五七号証)証言した。それなのに、第二審第三回公判(33・2・28)においては、証人として「六坑、三坑で使つていた発破器は大分色あせたジユラルミン製であつた。ナンバープレートは付いていなかつたように記憶する。証第二一号の発破器は、私達が現場で使つていたのと大体似かよつている。プレートのなかつた点は同じである。内部を見て自分達が使つていた発破器だと思つていた。滝川の裁判所や岩見沢の裁判所では記憶のまま話したのであつて嘘をついた記憶はない。一五三五九号発破器は記憶ない。」旨(甲第二一四号証)証言した。そして原審証人として「釈放された後は嘘のことを言つたということはない。弁護士と会つて事前に確められて供述した。」と証言しているのである。

中村誠の公判廷での証言の経過に照せば、捜査段階での供述、証言は、信ぴよう性があるものであることが、裏付されたわけである。石塚守男は、捜査段階では発破器の特長について供述していない。けだし、石塚に対しては、発破器に関して供述が求められなかつたもののようである。そして第一審第七回公判(28・12・5)において、証人としてはじめて「六坑、三坑の発破器はジユラルミンで四角い直方体のもので、それに提革がついていた。」旨(甲第三六号証)証言していたのみであつた。ところが第二審第六回公判(33・5・7)において、証人として、証第二一号発破器と一五三五九号発破器(証第一二九号)をともに示されて「六坑に初めて入つたときから発破器は一台あつた。その形は何回も手にとつて見たことがあるので、憶えている。ジユラルミンの四角いものでナンバープレートは付いていなかつたと思う。六坑で使つていたのは証第二一号発破器のように思う。はつきり見て憶えている。」旨(甲第二二一号証)証言した。

もつとも、石塚は第二審第一〇回公判(33・9・24)において「家に帰つてよく当時のことを考えてみたがナンバープレートはついていたような気がする。六坑、三坑で使つていたのは刑事証第二一九号の一五三五九号発破器ではないかと思う。提革を止めるところが似ている。」旨(甲第二二九号証)証言している。

石塚の第二審第六回公判における「六坑で使用していたのは証二一号発破器のように思う。何回も手にとつて見てはつきり憶えている。」旨の証言は、突差に尋ねられた尋問に対する証言だけに、十分信用できる。石塚もあるいは、一五三五九号発破器を見たことがあるかも知れないが、石塚にとつて強く印象に残つているのは証第二一号発破器であることは間違いないと考えるのが相当である。

福士佐栄太郎は、捜査段階の昭和二八年八月七日(検供、乙第四二号証)までに、証第二一号発破器と一五三五九号発破器をともに示されていることは確かである。それなのに、第一審の昭和二八年一一月一四日の公判準備に証人として「証第二一号発破器は六坑、三坑の現場で使用していた発破器と大きさ、型、ジユラルミン製である点、色提革等大体同じである。ナンバープレートはついていた。」旨(甲第二四号証)証言している。福士は、本件鉄道爆破発生の直後から、三坑で盗難にあつて失くなつた発破器は一五三五九号である(員供、27・9・1、乙第二九四号証)と供述して来た張本人であり、しかも、一五三五九号発破器は後に発見されていることを知つており、一五三五九号発破器は、真鋳にメツキしたものであることを十分意識したうえで右の証言をしているのである。

浜谷博義は第一審第一三回公判(29・1・26)において「失くなつた発破器はナンバープレートが取れていた。」旨(甲第五二号証)証言した。しかし第一審の昭和三一年五月一日の公判準備においては、一五三五九号発破器を示され「六坑、三坑で失くなつた発破器は、証第二一号発破器ではなく、一五三五九号発破器に似ている。」旨(甲第一八五号証)証言した。ところが、第二審第一一回公判(33・11・4)においては、証人として「大興商事の発破器三台のうち一台は、ナンバープレートが離れていたのを見ている。第二露天で崩落によつて発破器が埋つたことは聞いていない。」旨(甲第二三二号証)証言した。

浜谷は大興商事に証第二一号発破器と同様ナンバープレートが離れた発破器があつたこと、第二露天で発破器が埋没したことはないことを証言しているわけである。

鷹田成樹は、第一審第三三回公判(30・1・13)において証人として「大興商事で使用していた発破器のうち一台だけは、ナンバープレートの取れていたものがあつた。証第二一号発破器に似たものを見たことがある。」旨(甲第一二三号証)証言し、第二審第八回公判(33・7・16)においても、証人として「大興にナンバープレートのない発破器が一台あつた。ジユラルミン製で証第二一号と同じ大きさである。」旨(甲第二六号証)証言している。

同証人も発破器に銅または真鋳にメツキしたものとジユラルミン製のものと二種類あること(前掲甲第一一三号証)を意識して、かように証言したのである。

岩城定男は第二審第八回公判(33・7・16)において、証人として「六坑、三坑で使用していたのはジユラルミン製であつた。一五三五九号発破器(証第一二九号)のような発破器は見たことがない。」旨(甲第二二七号証)証言した。

六月二〇日当時、三坑で使用されていた発破器は一五三五九号ではなく、ジユラルミン製であつたことを、井尻正夫の義弟である岩城定男が一貫して供述するものであり、信用性の高いものといわなければならない。

以上、関係人の公判廷における証言によつても、大興商事に証第二一号の発破器が存在し、それが六坑、三坑で使用されていたことが、裏付けされたのである。

検察官の井尻、地主が共謀して証第二一号発破器を窃取したとの起訴が、信用すべき証拠がないのになされたものではなかつたことが、公判手続を通じて明らかにされたといえるのである。

第五八石塚供述の信用性について

一 石塚守男が「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日午後六時頃油谷炭鉱六坑捲上機室物置内火薬保管箱より大興商事発破係員鷹田成樹保管に係るダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した。」旨の窃盗被疑事実により芦別町警察に逮捕されたのは昭和二八年三月九日であり、同被疑事実で勾留されたのは、三月一一日からであつた(逮捕状、28・2・28、乙第四〇三号証の一、勾留状、28・3・11、乙第四〇三号証の二)。石塚は右被疑事実については、同年三月一一日、巡査部長中村繁雄に対し、「昭和二七年六月二八日、一番方で坑内作業が終つてから午後五時頃藤谷一久、中村誠、福田米吉と四人で上芦別の堰堤においてダイナマイトと雷管を使用して、小魚をとつた。そのダイナマイト、雷管は中村誠が六坑捲揚機室物置から盗み出した。」

旨(員供、乙第三九三号証)供述したので、さきに、藤谷一久から得ていた「昭和二七年七月四日、六坑捲上機室差掛け小屋から三坑に、井尻昇とダイナマイト四箱、バラになつたダイナマイト八本位と箱に入つた雷管一箱を運び、その日の二番方の作業に使つたが、残火薬は、石塚が始末したから、石塚に聞いてもらいたい。」旨(藤谷一久員供、28・3・5、乙第三六八号証、員供、28・3・9、乙第三六九号証)の供述に基づき、同巡査部長は、七月四日、三坑現場で使用した残火薬類の処分について、さらに取調べを続けた。

逮捕されて五日目、勾留されて三日目の昭和二八年三月一三日、石塚は、油谷炭鉱で、大興商事の受持現場は、三坑、六坑、三坑向堀、露天の四個所あつたが、そのうち六坑現場は昭和二七年七月一日から熊谷組に引継ぐことになり、六坑で作業していた大興商事の従業員は、そつくり三坑現場に移つたこと、自分が大興商事に就職できたのは井尻正夫の世話によるものであること、昭和二七年五月一日から六月中頃まで竹田方に厄介になつたが、六月中頃から大興商事第二寮通称井尻飯場という井尻正夫夫妻が管理する建物に移り住むようになつたこと、七月四日、藤谷と井尻昇が背負袋に入れて運んで来たダイナマイトに五寸釘で孔をあけて、そこに雷管を挿入して使用したこと、使用残りのダイナマイト三箱位と箱の中に何本か剰つた雷管があつたが、背負袋に入れ、その上に石炭を詰めて井尻飯場に持ち帰つたのは、井尻正夫の妻君から焚付け代用に火薬を使うから持つて帰つてくれと六月末頃、頼まれていたのに思い付いたからであること等を供述(員供第二回、乙第三九三号証)し、さらに石塚は同じ日に、ダイナマイト等を持ち出したことに関連して、極めて重要と思われる供述をした。すなわち、昭和二七年六月二〇日頃の午後二時半頃現場に安全灯の原田という子が井尻に用事のある人が来ているから早く帰つてくれと言つて来たので、井尻は一足先に帰つたこと、自分は四時前に飯場に帰つたが、井尻の部屋には、井尻正夫、地主照、大須田と氏名不詳の二五、六才の男に、井尻の妻光子を加えた五人が集つているのが見えたこと、自分はベニヤ板一枚で仕切つてある隣の部屋で、地主が井尻に火薬を入手して欲しいと頼んでいるのを聞いたこと、その後、井尻の妻から火薬を持つて来てくれと頼まれたときに、地主達に分けてやる火薬だと直感したこと、同年七月七日、地主が五才位の男の子を連れ、井尻正夫と共に、井尻飯場を出て行く姿を見たが、その時、地主は重箱でも重ねたような四角い風呂敷包を提げていたこと、本件鉄道爆破事件が発生した後の八月七日の夕刻に井尻正夫が焼酎を買つて来て、藤谷と三人で飲んだとき、井尻の口から、石塚が持つて来た火薬も雷管もそのままそつくり地主に渡したが、このことは口外しないようにしてくれと口止めされたこと、あの事件があるまで口止めされたことは五回程あること等を供述(員供第三回、乙第三九四号証)した。

ところで石塚は刑事第二審第二回公判において証人として「中村部長から、『井尻の奥さんから何か頼まれたことはないか。』と聞かれたので、『石炭と焚付けを頼まれて持つて行つた。』と答えたら、『その石炭の中に残火薬を入れて持つて行つたのではないか。藤谷も井尻も全部見ていた。』と言われたので、そのように供述した。」旨(甲第二二一号証)証言している。しかし三月一三日には、未だ井尻昇は取調べを受けていない(井尻昇が取調べを受けたのは、同年四月一四日以降である―第一審第一三回公判証人井尻昇証言、乙第五号証も昭和二八年四月二四日付になつている。)のであるから、石塚の証言には誤りがある。前記のように藤谷は、「七月四日、作業に使用した残火薬は石塚が始末したから、石塚に聞いてくれ。」(前掲乙第三六九号証)と言つて釈放されているのであるから、捜査官が、あるいは、「藤谷が残火薬は、お前が持つて帰つたと言つているがどうか。」という程度の問は発したかも知れない。しかし、その程度の発問を誘導、強制というのは相当ではない。捜査官が他の信用すべき証拠を引用して取調べるのは、捜査の常道であろう。

それにしても、石塚は何故、それに引き続いて、井尻、地主、大須田、二五、六才の若い男の会合のこと、地主の井尻に対する火薬類入手依頼の話のことを供述したのであろうか。石塚は第二審第六回公判で証人として「六月二〇日頃井尻飯場で、井尻正夫、地主、大須田、井尻の奥さん、髪をばさつとした若い男の五人が話していたと述べた。しかし、その若い男をかつて見たことがない。中村部長から写真を見せられ『この人を見たことないか。』と聞かれ、『見たことがない。』と答えたところ、『藤谷が見たと言つているから一緒に働いていて、お前が見ないはずがない。』と何度も言われた。あまりしつこく言われたので、実際には会つたことはないのだが、そのようにいつたのである。五人が集つたのを見たと供述をするようになつたのも、中村部長が、その人達の名前を全部手帳に書いてあつた。そして『六月二〇日に飯場に居たんだが見たことがないか。』と聞いた。私は『飯場には現場から帰つて一回行つたが見たことがない。』と言つた。中村部長は『藤谷が見ている。嘘を言つても駄目だ。本当のことを言え。』と言つたので、私は藤谷が、そう言つているのなら間違いはないと思いそのように述べた。中村部長の手帳に五人の名前が書いてあることは、中村部長が手帳を見て名前を読んだのでわかつた。供述調書に添付されている図面は『藤谷が書いたのだ。』と言つて図面を見せられ、『お前も一緒にいたのだから、知らぬはずはない。お前も書け。』とさらに言われたので、私は仕方なく、その図面のとおりの図面を書いた。見せられたその図面には藤谷の署名と拇印があつた。」旨(前掲甲第二二一号証)証言している。しかし本件全資料を精査しても、藤谷が、井尻、地主、大須田、若い男らの会合を目撃したとの供述をしている事実は見出せない。また、藤谷が右にいうような図面を書いてみるべき資料もない。そうすると警察官は、六月二〇日頃の井尻らの会合を、同人らに尾行するなどして、かねて探知していたというのであろうか。あるいは全くの虚構の作り話によつて石塚を誘導して、かような供述をさせたというのであろうか。

石塚の三月一三日の供述は、極めて具体的であり、新奇性に富み、自ら体験したものでなければ、到底、供述し得ない事柄であると思われる。

警察官が、誘導して供述を得るには、何かの手がかりがなくてはなるまい。しかし石塚の右三月一三日の供述は、事件発生以来、七ヶ月間の捜査によつても、誰からも、その手がかりとなる供述を得られなかつた全く新奇なものであり、警察官の誘導ができる事柄ではない。

のみならず、石塚が公判廷で証言するように、全く虚構の事実であるか否かは、これを裏付ける資料があるか否かによつて試めされねばならないであろう。すなわち、井尻正夫自身、すべての事実を否認していた昭和二八年四月二〇日、検察官に対し「昭和二七年六月頃、岩城定男が腹痛を起した頃の昼頃、地主が子供を連れて、二二、三才位の五尺一寸位の中肉で油気のない硬い髪の毛をした男とともに私を訪ねて来て、一時間程話して帰つた。」旨(甲第四九四号証)供述し、大須田卓爾も昭和二八年八月二五日、司法警察員に対し、「井尻飯場へ六月の末か七月の初頃行つた。井尻の妻君がチンケという若い男に『お客さんが来たから。』と現場へ井尻を迎えにやつたことがある。地主は私より後に来たと思う。帰りには地主と一緒に出て油谷の見張所で別れた。」旨(甲第五九七号証)供述し、原田鐘悦も、同年四月二〇日司法巡査に対し「昭和二七年六月中頃午後一時過頃、事務所に井尻の奥さんが来て『家へお客さんが来たから、父さんを現場まで迎えに行つて来てくれないか。すぐ帰るように話して来てくれ。』と言つた。私は坑口に行つて『井尻さん用事があるよ。』と呼んだ。井尻は『今すぐ行くから。』と返事して、二分位して上つて来た。」旨(乙第一八四号証、同旨検供、28・7・7、甲第四二八号証の一)供述し、井尻光子も、昭和二八年五月一日司法警察員に対し「昭和二七年七月中頃午後大須田が訪ねて来たことがある。大須田に『うちを呼んで来ましようか。』と話して誰か呼びにやつた。井尻は何時もより早く帰つて来た。」旨(乙第二〇二号証)供述しておるのであつて、日時や、会合した人に一部相違はあるものの、石塚の右井尻らの会合があつた旨の供述を裏付けるものであつて、前記第二審公判廷における石塚の証言にもかかわらず、全く虚構ではなく、信用し得ると考えても、何ら不合理ではない。

さらに石塚は三月一四日には、六坑捲上機室には、五寸釘が常備されていたこと、藤谷と井尻昇が持つて来た火薬の中に新しい五寸釘が一、二本入つていたこと、井尻は七月二九日夜は油谷の井尻飯場にいなかつたことを供述(員供、乙第三九五号証)し、三月一六日には、昭和二七年七月二七日午後三時頃鉄道線路を歩いて帰るとき「石塚君が持つて来た火薬は爆破に使うんだから、誰にも言わないでくれ、藤谷も中村も入つているから、これも言うなよ。二九日に俺も下りるから、絶対に言わないでくれ。」と言われたこと、七夕の夜「火薬は鉄道爆破に使つてしまつたんだから、頼むから誰にも言わないでくれ。」と口止めされたこと等を供述(員供、乙第三九六号証)した。

そして藤谷一久は、昭和二八年三月二九日「七月四日、二番方で、新白梅二〇本入四箱電気雷管箱入三、四〇本あつたのを、現場で新白梅三、四〇本使い、雷管一五、六本使つた残りを午後一〇時頃、石塚が現場から井尻飯場まで、塊炭三つ位上に載せて背負つて帰つた。石塚は石炭をかまどの前に出し、ダイナマイトの入つたのは、かま前の物置においた。七夕の夜焼酎を飲んだとき、井尻は、『石塚の持つて来た火薬は全部地主にやつた。あれは鉄道爆破につかつたんだから誰にも言うなよ。言われないな。』と言つた旨(員供、乙第三七一号証)供述し、同年四月三日「七月二六、七日頃一番方の帰り途、井尻が石塚を呼び止めて、井尻と石塚が歩きながら話しているのを聞くと『石塚君、お前が持つて来た火薬は地主にやつたんだ。』そして『俺も二九日には下るんだ。』と語尾ははつきりしないが言つているのが聞きとれた。』旨(員供、乙第三七二号証)供述し、井尻昇も同年四月二四日「七月四日夕方六坑捲上機室からダイナマイトや雷管を坑内で使用する心算で持つて来た。平素は坑内で使用した残りは捲上室に返していたが、その日は、石塚が残量を飯場に持ち帰つた。」旨(検供、乙第五号証)供述しているのである。

石塚の昭和二八年三月一三日ないし一六日になした供述は、供述の経緯に照して、全く任意になされたものであり、かついずれも裏付資料があるのであるから、これを信用しても不合理ではない。

なお石塚は第二審第六回公判において「中村部長、中田部長、藤田部長、広中警部補から『井尻から火薬を頼まれなかつたか。』と聞かれたので『頼まれなかつた。』と答えた。すると『藤谷や中村はお前が、火薬をリユツクに入れて持つて行つたことを知つている。』と言われた。それで、私は二人がそう言つているのであれば仕方がないので、そのような供述をしたのである。」旨(甲第二二一号証)の証言もしているが、石塚が同年三月一三日の前記供述をした段階では中村は未だ取調べられていないのであるから、石塚の右証言は事実に反することが明らかである。

石塚の昭和二八年三月一三日から一六日にかけての、供述が公判廷における証言のような警察官の誘導ないし強制によつて得られたものとは、思われない。

そして石塚は右供述と同趣旨の供述を、昭和二八年三月三一日(甲第四三九号証)、同年四月二日(甲第四四〇号証)それぞれ金田検事に対してもなした。

石塚は右三月一三日の供述をした際、すでに「あの事件があるまでに口止めされたことは五回程ある。」旨供述していたところ、昭和二八年四月六日、芦原吉徳警部に対し、七月一二・一三日の両日にわたり鉄道爆破の具体的計画と現場に行く仲間の氏名を聞かされたこと、石塚自身も仲間入りを勧誘されたことを供述(員供、乙第四〇一号証)した。

そうして昭和二八年四月三〇日(甲第四四一号証)、同年五月一日(甲第四四二号証)、五月二日(甲第四四三号証)、五月四日(甲第四四四号証)、五月六日(甲第四四五号証)、五月七日(甲第四四六号証)、五月八日(甲第四四七号証)、五月一六日(甲第四四九号証、甲第四五〇号証)金田検事に事項毎に詳細に供述した。その間、同年五月四日、「警察では火薬を持つて来てくれと井尻の妻光子に頼まれたと申したが、それは嘘で六月三〇日昼休みの時、六坑連れ下し現場のズリ捨場で、藤谷のいるところで井尻から頼まれたのである。井尻から口止めされていた光子の名前を出したのである。」旨(甲第四四四号証)供述を変えたのと、五月六日「地主が重箱を重ねたような四角い風呂敷包みを提げて井尻飯場を出て行つた日を七月七日頃と述べていたが、七月一九日頃であるから訂正する。」旨(甲第四四五号証)供述したほかは、当初の供述と終始変らない供述を繰返しているのである。

二 〔証拠省略〕によれば、金田検事は、石塚から右のような本件鉄道爆破事件が、井尻正夫、地主照らの犯行であることを事前にも事後にも、井尻正夫から聞いたという極めて重要な詳細な供述を得、しかも右供述は、石塚の供述態度、警察以来の供述の経過、前記のように個々の点について多少の変更、訂正はあつたものの、供述の大綱は終始一貫しており、十分信用を措けるものであるとの判断はしたこと、しかし金田検事は石塚の右供述、その他、それまでに蒐集された資料によれば、本件鉄道爆破事件について、石塚とほぼ同様な知識を有しているはずの藤谷一久が、一旦は、石塚の右供述を裏付けるような供述をしたが、後にこれを覆し、否認を続け、肝心の井尻正夫からも事件の核心に触れる何らの供述も得られない段階であつたので、もし石塚供述が全面的には信頼できないものであるならば、今後の捜査の追行、進展に確信が持てなくなるとの考慮から、本件鉄道爆破事件の主任検事であつた控訴人三沢三次郎検事の同意を得て、札幌地方検察庁次席検事、控訴人高木一に、石塚を直接調べて、石塚の記憶力、証言能力、精神状態をテストして供述の信ぴよう性を確めてもらいたいと依頼したこと、高木検事は右依頼に基づき、石塚の精神状態に主眼をおいて自ら石塚を取調べたことが認められる。

石塚は、五月三〇日、(甲第四五一号証)、五月三一日(甲第四五二号証、同第四五三号証)高木検事に対しても、金田検事に対して述べたと全く同趣旨の供述をした。そして、自分が見たり聞いたりしたことは、みな正直に言つて隠していることはない。井尻から、井尻らが鉄道爆破をやつたんだとの話を聞いたことは間違いない。井尻が「可愛いそうだとは思うが、本当のことだから仕方ありません。井尻が自分でやつたんだもの。」井尻に対してお前がこういうことを言つたと同人の前でも言える。処罰されても「あたり前だと思います。自分で飲んだ時、言つたのだから、確かです。飲むと本心を言うから、井尻も、あの本当の事を言つたと思つています。」「今まで言つていることを誰にでも何処へ出てでもしやべれる自信がある。井尻が一日も早く出るということを自分は祈つている。やつたことは仕方がない。これで決めてもいい。」と供述した。

原審ならびに当審における控訴人高木一の本人尋問の結果によれば、高木検事は石塚を直接取調べたうえで、石塚には何ら知能的な障碍も認められず、記憶力、証言能力に欠けるところはなく、何人かに買収等されて虚構の事実を供述する精神的不安定さも見出せないので、石塚の供述は大綱において信ぴよう性があるものと判断したこと、ただ共犯者の名前とか、供述に出て来る日時等については不確かな点もあるので、爾後そのような留意して捜査を進めるよう金田検事らに伝えたことが認められる。(なお被控訴代理人は、石塚が昭和二八年四月六日芦原警部に対してなした供述中の爆破共犯者の一人として「名前の判らない若い西芦から来た男(此の間写真を見せられた人)」との供述記載(乙第四〇一号証)があることが、矛盾であると指摘するが、五月三〇日高木検事に対してなした供述によれば、「この前地主と一緒に来た西芦の男」(甲第四五一号証)となつている。石塚が六月二〇日頃隣室から見た人物について取調べられたとき、警察官が写真を示してその特定を求め、石塚が指定した写真の人物は西芦から来た者であると警察官が石塚に説明したと推測される。したがつて芦原警部に対する「名前の判らない若い西芦から来た男(此の間写真を見せられた人)」との供述も、「この前地主と一緒に来た西芦の男」との趣旨に解される。)

同年七月二一日、三沢検事は本件芦別事件の主任検察官として、さらに自らも石塚を直接取調べて、従前の供述を確認し、石塚の心理状態に注意しながら供述を求めたが、従前の供述と異るところはなかつた。

検察官はさらに、石塚の供述の重要性に鑑み、刑事訴訟法第二二七条に基づき裁判官伊藤武道に対して証人尋問の請求をなした。石塚は、同年八月三日と四日の両日にわたり、従前の検察官に対する供述と殆ど同様の証言(甲第四五七号証、同第四五八号証)をなした。石塚は第二審第五回公判(33・5・6)において、証人として「伊藤裁判官から警察や検察庁の供述にこだわらずに真実を述べるように言われたことを思い出す。」旨(甲第二一六号証)を証言している。

検察官にとつては、裁判官の証人尋問は、任意性、信ぴよう性をテストする機会でもあるわけである。

検察官が、石塚の供述に信ぴよう性があると考えても不合理ではない。

三、そうしてさらに井尻・地主の火薬類取締法違反被告事件の八月一〇、一四日の公判準備において、石塚は、被告人井尻、同地主および特別弁護人中川静夫の面前でも、証人として、昭和二七年六月三〇日六坑ズリ捨場で昼休みしたとき井尻正夫から火薬の持ち出しを頼まれたこと、七月四日の夜、作業で使った残りのダイナマイト三箱と雷管二〇本位を井尻飯場に持ち帰つたこと、六月三〇日頃井尻飯場の井尻の部屋で地主と大須田と名前を知らない男が会合したこと、地主が井尻に火薬類の入手を頼んでいたこと、七月一九日頃地主が重箱様の四角い物を風呂敷に包んで持つて行くのを目撃したこと、ダイナマイトに雷管を差し込む穴をあけると四寸釘を使い、その釘は持ち帰つた雷管の箱の中か、あるいはダイナマイトの箱の中にしまつたと思うこと等を証言(甲第五六〇号証、甲第五六四号証)した。

検察官が石塚供述の信用性に疑いをはさまなかつたのは、けだし当然である。

石塚は「昭和二七年七月四日、油谷炭鉱三坑から井尻飯場までの間において火薬類であるダイナマイト二〇本入三箱位を所持した。」旨の火薬類取締法違反罪で起訴され(第一審第八回公判証人石塚証言28・12・8、甲第三八号証、第一審第九回公判証人石塚証言、28・12・9、甲第四〇号証)、被告人として質問されたが、私選弁護人が立会しているにもかかわらず、井尻から火薬を持ち出してくれと頼まれて、三坑に移つて初めての日、現場で使い残した火薬類を井尻飯場に持ち帰つた旨自白(被告人石塚、同中村誠に対する火薬類取締法違反等被告事件第五回公判被告人石塚供述、28・8・26、甲第四六〇号証の一ないし三)し、懲役四月および罰金四、〇〇〇円に処せられた(前掲甲第三八号証)のである。自らが火薬類不法所持で刑責を追求される公判廷でも、火薬類を運搬したことを認めたわけである。石塚は昭和二八年八月二六日保釈により出所(前掲甲第三八号証)してからは、再度身柄を拘束されることはなかつたが、同年一〇月二七日にも金田検事に対し「私の言つたことは絶対に作りごとでなく、自分で聞いたり見たりしたことに間違いない。」旨(甲第四五五号証)供述している。当審における控訴人金田泉の本人尋問の結果によれば、石塚の喋り方は、とつとつとしているが何べん聞き返しても同じことを言うので、嘘を言つておるとは思えなかつたことが認められる。

四、石塚は、刑事第一審の第七回公判(28・12・5)に証人として喚問され、捜査段階での供述を殆ど覆えす証言(甲第三六号証)した。以後第一審第八回公判(28・12・8、甲第三八号証)、第九回公判(28・12・9、甲第四〇号証)、第五〇公判(30・9・1、甲第一五九号証)、第一審の昭和三一年五月一六日の公判準備(甲第一九八号証)、第二審第四回公判(33・3・1、甲第二一六号証)、第五回公判(33・5・6、甲第二一八号証)、第六回公判(33・5・7、甲第二二一号証)、第一〇回公判(33・9・24、甲第二二九号証)に、それぞれ証人として尋問されているが、捜査段階での供述は否定するものの、検察官、弁護人、裁判所の尋問に対して、健全な応答していることが認められる。しかるに第二審第三三回判(37・5・16)に至り、尋問に対して殆ど答えなくなつた(甲第三三九号証)ことが認められる。

石塚は「兵隊に行つていたとき頭を弾でやられたため、神経系統がおかしくなつた。長期にわたつて調べられたりすると頭が痛む。」旨(第一審第九回公判、28・12・9、前掲甲第四〇号証)証言してはいたが、九回に及ぶ証人尋問はいずれも相当長時間にわたつて尋問されているのに別段頭痛を訴えて証言を中断したような形跡はない。ところが第二審第三回公判における証言のみは、前記のように、何を聞かれても、まともな供述ができなくなつたのである。

しかし、その一事から、石塚の精神状態に弱さがあり、捜査段階における石塚の供述は、すべて精神の弱さによつて、捜査官の誘導と強制によつて、ひき出されたものと見るのは当然ではない。何故なら、昭和三三年九月二四日の第二審第一〇回公判までは、尋問に対し、健全な応答をしており、精神的障碍を窺わせるものはないからである。第二審第三三回公判は昭和三七年七月一六日に開かれたのである。石塚が昭和二八年三月一三日に供述して実に九年余をけみしている。その間には、身体的故障も起るであろうし、記憶も薄らぐであろう。現に石塚は右第二審第三三回公判において「一昨年と今年二度、頭に怪我した。」旨(前掲甲第三三九号証)証言している。

石塚が昭和二八年三月一三日から同年一〇月二七日(甲第四五五号証、同第四五六号証)までになした供述が、石塚が証言するように、兵隊に行つて頭に弾を受け神経系統に故障があつたとしても、そのために精神的に弱く、捜査官らの意のままに誘導と強制によつてなされたものとは、到底考えられない。

五、昭和二七年八月四日本件鉄道爆破現場北方約三〇〇米の山脇源次郎所有の燕麦畑のつづきのよもぎ原に、多数の遺留品が発見された。その遺留品の中に、新聞紙に包まれた新白梅ダイナマイト二〇本入と書かれた箱があり、箱の中にはダイナマイト一六本および五寸釘一本(実際の長さ四寸三分)が入つていた(司法警察員作成実況見分調書、甲第四〇九号証)。そして、その釘は同日、司法警察員によつて領置された(領置調書、27・8・4、甲第四〇九号証)。

当審における控訴人金田泉の本人尋問の結果によれば、検察官らには、何故ダイナマイトの箱の中に釘が入つているのか、その意味がわからなかつたことが認められる。

ところが、石塚守男は昭和二八年五月四日、金田検事に対し「七月四日の二番方で、一〇本位孔を穿ち、藤谷、井尻昇が持つて来たリユツクの中からダイナマイト一箱と雷管五本一束のものを二束出し、五寸釘でダイナマイトに穴をあけて雷管を差込んだ。ダイナマイトに穴をあけるのに使つた五寸釘を雷管の箱か、手をつけて(一部使用して)もどしたダイナマイトの箱に入れたか、はつきりはしないが兎に角、箱の中にしまつた。」旨(甲第四四四号証)供述した。

当審における控訴人金田泉の本人尋問の結果によれば、右石塚の供述により、ダイナマイトの箱の中に釘があつた理由がわかつたこと、そこで金田検事は、油谷鉱業所で使用されている五寸釘、四寸釘、三寸釘を借用して来たこと、四寸釘は遺留品の中にあつた釘と素人目でみても同じ釘であつたこと、そして右三種を石塚に示して選別させ七月四日に使用したという釘を特定させようとしたことが認められる。

石塚は同年五月八日、同検事に対し、右五寸釘、四寸釘、三寸釘の各一本を示され、「私が前に申し上げたように昭和二七年七月四日三坑立入の現場で発破器をかける時、ダイナマイトに穴をあけた時使い、終りに雷管の函かダイナマイトの函に仕舞つた釘はこの種類の釘であります。」といつて、右四寸釘を選別して示し、この種類の釘は当時、第六坑捲上機室に常時置いてあるもので、三寸釘と一緒にこの長さの釘は現場梯子を作つたり、トロを修理したりするのに使つていたものであります。私が今示した釘は四寸釘である相ですが、当時皆んなが五寸釘であると言つていたもので、私は五寸釘であると思つておりました。それで前に申し上げたのは、五寸釘と言つていますが、今教えて頂きました四寸釘であります。なお、今お示しになつた本当の五寸釘は当時私は見ておりません。」と供述(甲第四四七号証)した。当審における控訴人金田泉、原審ならびに当審における控訴人高木一、原審における控訴人三沢三次郎の各本人尋問の結果によれば、石塚が三本の釘の中から遺留品の釘と同種の釘をズバリと選定したことから、遺留品のダイナマイトの箱の中に釘が一本が存在した意味が判明するとともに、石塚供述が物的証拠ともつながり、石塚供述の信ぴよう性は、物的証拠によつても裏付られたと確信するに至つたことが認められる。

しかして、ダイナマイトに雷管を挿填するとき、いわゆる五寸釘やキユリンという三分ボードを使用して穴をあけることは、藤谷一久も、すでに昭和二八年三月九日に供述(員供、乙第三六九号証)していたところで、油谷炭鉱の下請の組等では、かようなことが、日常飯事としてなされていたこと(控訴人金田泉本人尋問の結果)が窺われる。

そうして、遺留品の釘一本の存在が、井尻、地主と本件鉄道爆破事件とを結びつける有力な物的証拠であると検察官らが高く評価したことは、当審における控訴人高木一の供述と乙第四一六号証(現場証拠捜査一覧表)の記載によつて認められる。

ところで、本件鉄道爆破事件の起訴後の昭和三八年一一月二五日、芦別市警察署の警察官数名と検察官志村利造副検事は、油谷芦別炭鉱の六坑つれおろし坑内に赴き、同炭鉱保安係長秋山実、同保安係区長京家清蔵立会のうえ、同坑内の矢木に打付けられていた古い四寸(五吋)釘二本を右矢木から抜き取つた。そして右釘が打付けられた矢木のあつた附近の坑道は、大興商事が請負つて堀進作業をしていた個所であり、京家区長は「この附近で井尻正夫が働いていたことは、よく記憶している。石塚、藤谷は顔を見れば、わかるかも知れないが名前は知らない。」旨述べた(秋山実検供、28・11・25、乙第五九号証、京家清蔵検供、28・11・26、乙第二四号証)。しかして右矢木から抜き取つた釘二本は、同日、右京家清蔵から任意提出(乙第四二一号証)され、ただちに検察官によつて領置(乙第四二二号証)された。

前記遺留器の釘一本は、第一審第四回公判で証拠物として提出され、裁判所によつて押収された。(28・11・19、甲第二八号証、甲第二九号証)ところ、石塚は、第一審第九回公判28・12・9)において証人として「押収されているその釘は、七月四日に火薬作りをした時に使用した釘と同種の釘である。」旨(甲第四〇号証)証言した。

一方、前記油谷炭鉱六坑つれおろし坑内の矢木から抜き取つて来た釘二本は第一審第二四回公判(28・10・7において検察官から提出され、同日、裁判所によつて刑事証第七七号の一、二として押収(甲第八〇号証)された。

鑑定人佐藤斌一は第一審第三八回公判(30・3・22)において、遺留品の釘一本と右六坑つれおろし坑内の矢木から抜き取つて来た釘二本とを比較対照しながら、「釘の歯が型が同一と認められるので、この三本の釘は同一工場で製造された物と断言してよい。太さは通常一〇分の一粍程度の差はできるものである。歯先の特長が顕著であり、歯先と頭部の角度が類似している。この釘は五吋、四寸釘と称している。同一工場で同一時期に出来たものでなければ、こうも類似はしない。」旨の鑑定供述(乙第四二三号証)をなした。

右鑑定の結果によれば、遺留品の釘一本は、油谷炭鉱六坑つれおろし現場で大興商事が堀進作業をしていたとき、使用されていた四寸釘と全く同種の釘の一本であることが認められる。

かくて、前記石塚供述の信ぴよう性が裏付けられ、七月四日夜、石塚が三坑から持ち帰つたダイナマイト等が、右釘と共に、本件鉄道爆破現場に運ばれ、右現場附近に遺留されたとの判断が物的証拠によつて根拠づけられたとみるべきであつて、右釘の存在は本件起訴に当り検察官に確信を抱かせた資料の一であるといえる。

六、石塚は捜査官に対して、「昭和二七年八月一二、三日頃油谷に上つたとき、井尻がトウキビを食いに行かないかと言つたので二人で聞谷商店にトウキビを買いに行つて食べながら飯場に歴る途中、亜東組飯場附近に来たところで、井尻が『この前鉄道爆破に行つたとき、トウキビが大してあつたんだ。』と言つていた。」旨(員供、28・4・6、乙第四〇一号証、検供、28・5・16、甲第四四九号証)供述している。

本件鉄道爆破現場附近の農家の主婦山脇代美子は、第一審の昭和二八年一一月六日の公判準備において証人として「鉄道事故の現場附近には、トウキビ畑があつた。」旨証言し、第二審第三回公判(33・2・28)においても証人として「現場附近にトウキビが植えてあつた。」旨(甲第二一三号証)証言した。

検察官池田修一作成の昭和二七年八月二四日付検証調書添付の第二図にも、本件鉄道爆破現場の東北三〇〇米ないし四〇〇米の個所に二個所のトウキビ畑があることが記載(甲第四一八号証)されていることが認められる。

右証言ならび検証の結果によると、石塚が、井尻から聞いた話が全くの虚構のことではなくて、実際、体験した井尻でなければ語れない井尻の話を石塚に話したものであることが、公判廷の証言によつて裏付されたわけで、このことは石塚供述の信ぴよう性を高めるものである。

七、石塚は捜査官に対し、「井尻は『爆破は皆でしたんだが、発破を掛けたのは俺と地主と二人で掛けた。掛ける前に線路の方から人が歩いて来たので土手の小高い処へ皆隠れた。そしてすぐ掛けたのだがレールは壊れなかつた。掛け終つてから国道の方から人が来る気配がしたので慌てて俺と地主と大須田の三人で麦畑の方へ逃げ、そのまま芦別の方へ逃げて帰つて来た。あとの連中は、どつちへ逃げたかわからない。母線や発破器やハンドルは慌ててそのまま傍の方へ投げて来た。』と言つていた。」旨(員供、28・4・6、乙第四〇一号証、検供、28・5・8、甲第四四七号証)供述した。

司法警察員巡査部長中田正作の昭和二七年七月二九日付検証差押調書には、「爆破個所東側は約二米の丘稜をなし、続いて田畑が一面となつて約二〇〇米を経て滝川、富良野に通ずる国道がある。北側は東側同様鉄道用地外約二米位の丘稜をなし、畑地を約二〇〇米を経て前記国道に至り、道路北側に南に面して発見人小塚昇方平家住宅一棟ある。」旨の記載(甲第三二一号証)がある。

司法警察部芦原吉徳作成の昭和二七年七月三〇日付検証及差押調書には「爆破現場から芦場から芦別に向つて左側は約一・五位の丘稜をなしていて、高さ三、四尺程度の「よもぎ」が密生して人影を匿すには充分であり、現場より下水溝を距てた丘稜に通ずる土堤の雑草は一尺幅に踏み倒されていて相当回数歩行した跡だと思われる程の通路が出来ていた。丘稜一帯に、よもぎ芦等の雑草は線路左側に約二米幅に生え茂り、その下側は五〇米位の豆畑が線路に併行している。現場より約二〇〇米左側田圃の中に農家小塚与三宅、約一〇〇米田圃中に農家上野清重宅があるが何れも線路では見えないが、前記丘稜に上ると両家の屋根だけは見える。両家の前を根室行国道が通つている。」旨の記載(甲第四〇八号証)がある。

検察官検事池田修一作成の昭和二七年八月一日付検証調書には、「現場北方は鉄道線路排水より約一米を離てて高さ約二米位の丘で該丘には雑草、特に蓬と称する野草密生しあり、然し爆破個所より東北方直線の個所に幅約六、七〇糎程の広さに、蓬その他の雑草は踏倒されて通路の如き感を生ぜしめる状態となつている。該丘に上り東北方を眺めれば、丘より三〇〇米乃至三五〇米の間は手前より七、八米は荒地それに続き畑、水田となり、その東北方凹地で下り斜面には雑木雑草が密生しているのが見られる。それより五、六〇米離れた個所に小塚昇宅住宅の屋根のみが見える。」旨の記載(甲第四一七号証)がある。

司法警察員警部芦原吉徳作成の昭和二七年八月四日付実況見分調書によれば「遺留品が発見された場所は鉄道爆破事件の事故現場より北方約三〇〇米離れた崖の上に燕麦畑のつづきで、よもぎ原の雑草である。」旨の記載(甲第四〇九号証)がある。

検察官検事池田修一作成の昭和二七年八月二四日付検証調書によれば「遺留品発見場所は鉄道爆破現場東方約四〇〇米地点である。」旨の記載(甲第四一八号証)がある。

奈良光明(斑渓巡査派出所勤務巡査)は、第一審の昭和二八年一一月六日の公判準備において証人として「小塚の家の前の道路を越えると、すぐ崖になつている。懐中電灯で照しながら崖を上つたら上は平で誰もいなかつた。線路に出て平岸の方向に電灯で照し約一〇米位歩いた時、山側のレールが破壊されているのを発見した。」旨(甲第一五号証)証言し、第二審第三一回公判(37・4・18)において、証人として「小塚のすぐ前が国道になつていて、その国道から水田の畦道を歩いて四、五〇米あるかないかの所に崖がある。崖の上にあがつて、そうして線路に出た。線路に出て平岸寄りに何米か行つてから、爆破個所を発見した。」旨(甲第三三二号証)証言した。

右検証、実況見分、および証言によれば、本件爆破現場附近の状況が、石塚が井尻から聞いたという鉄道爆破の実行の際の現場附近の状況に、よく符合している。そして石塚の供述によれば、鉄道爆破の場所は「茂尻と平岸の間」(前掲乙第四〇一号証、検供、28・5・6、甲第四四五号証)というのであつて、石塚は本件爆破現場とは異る場所を供述しており、これによつても石塚の供述が捜査官の誘導によつて引き出された供述でないことは明らかである。

かくて、石塚が井尻から聞いた話が全くの虚構のことではなく、井尻が石塚に話した現場の状況は、実際に体験したものでなければ語れない内容を含んでいることが、客観的資料および証言によつて裏付けされたわけで、このことは石塚供述の信ぴよう性を高めるものである。

第五九、藤谷供述の信用性

一、藤谷一久は昭和二八年三月一九日「中村誠外二名と共謀の上、昭和二七年六月二八日上芦別野花南発電所貯水池において、ダイナマイト三本、電気雷管二本を魚を獲る目的で同貯水池に仕掛けて、これを爆破させて所持使用した。」旨の被疑事実により逮捕(逮捕状、38・3・16、乙第四一一号証の一)され、同月二三日から勾留(勾留状、28・3・23、乙第四一一号証の二)された。

藤谷は、逮捕後一週間目の昭和二八年三月二六日「昭和二七年八月七日午後六時過頃、石塚の部屋で井尻、石塚の三人で飲んだ時、井尻が『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、あれは鉄道爆破に使つたのだから、絶対誰にも言うなよ。』と話し、井尻は、鉄道爆破に使う前だつたか、使つてしまつた残りであつたか、はつきりしないが、その火薬を誰かにわけてやつたと言つていた。」旨(員供、乙第三七〇号証)供述し、同年三月二九日「昭和二七年六月二五日頃、三坑坑口付近の草原で昼休中、井尻は、私と石塚に対して『火薬が欲しいと人に頼まれているんだが、何とか都合して呉れないか。』と依頼した。七月四日、二番方で私と井尻昇が六坑捲上機室まで火薬を取りに行つた。井尻に頼まれていたので、あるだけ全部ズツク製のリユツクに入れた。三坑で使い残りの火薬類を石塚が現場から井尻飯場まで背負つて帰つた。七夕の夜、井尻は『石塚の持つて来た火薬は全部地主にやつた。あれは鉄道爆破につかつたんだから誰にも言うなよ。それには中村も入つているんだからなあ。』と言つた。」旨(員供、乙第三七一号証)供述し、同年四月三日「井尻は、六月二五日頃のお昼休、三坑坑口草原で、火薬入手を頼んだとき『その火薬は今日、明日使うのではない。近々に使うのではないんだよ。』と言い、さらに『三坑の方へ一つにかたまるようになつてからは都合つきずらいから、六坑を引揚げるときのごたごたを利用した方がよいのではないか。』と言つた。七月一〇日前後の正午頃、三坑坑口で入坑するとき、中村に対し『井尻から何か頼まれていないか。』と聞いたところ、中村は『下まで下げてくれと頼まれているんだ。』と言つた。それから二、三日経つて午後四時頃、三菱駅で下車し線路伝いに自宅まで歩いて帰る途中、上芦中学校の附近で、中村と二人になつたとき、中村は『藤谷さん、この間言つてた奴、地主と一緒に下なで下げて地主の知り合二人の若い者に渡したんだよ。』と言つた。その時中村は鯨肉を提げていた。」旨(員供、乙第三七二号証)供述し、同年四月九日「七夕の夜、井尻は『二九日は俺も下に行つて来た。行つた処は芦別と平岸間の芦別寄りの方だつた。地主も来ていた。帰りには慌てて持つて行つたものを置いて来て失敗した。』旨(員供、乙第三七三号証)供述し、同年四月一〇日「七夕の夜、井尻から『二九日爆破事件に行つて来たんだ。俺と地主がやつた。地主とは芦別で落合つたんだ。人の気配がして慌てて持つて行つた物を置いて逃げてきて失敗した。』と聞いた記憶もあるが、この外何んぼ考えても思い出さない。警察の方で勝手につけてくれというような気持になる。」旨(員供、乙第三七四号証)供述した。

その後同年四月二一日、好田副検事に対し、従前の供述を否定し(甲第四六三号証)、四月二六日好田副検事に対し(甲第四六四号証)、同年五月一八日金田検事に対し(甲第四六六号証)いずれも従前供述を再び肯定する供述をし、五月二三日、五月二五日、五月二六日、五月二八日、同年六月一日、六月三日金田検事に対し再度、従前の供述を否定する(甲第四六七号証ないし第四七二号証)供述をした。もつとも、その間も六坑捲上機室から三坑に火薬類を運搬したことのみは、一貫して、これを認めている。

藤谷は同年六月九日、中村繁雄巡査部長に対し「只今の心境は元の素直な心に帰つた。」と述べ、昭和二七年七月四日、三坑で使用して剰つた火薬は石塚がスツコに背負つて帰つたのを見たこと、六月二五、六日頃ズリ山で寝転んでいた時、火薬を都合してくれと頼まれたから、石塚が火薬を井尻飯場に持ち帰つた思うこと等(乙第三七五号証)を供述し、六月一〇日「井尻の身をかばつたからである。親戚でもあるし、末永く面倒見られるだろうという考えもあり、自分の口から何でも喋つたことを親戚の者にでも判つたら困ることもある。内輪騒動にもなりやしないかとハンカ臭い考えで心が変つたので、警察で述べたことを嘘だと言つたのである。」旨(員供、乙第三七六号証)供述した。

そして同年六月一三日金田検事に対しても「本当は井尻から聞いて知つている。自分としては知らないとは言えない。自分の口から親戚のくせに井尻から聞いたと言つたということを知られたくなかつた。そういうことを知れた場合、内輪もめするのではないかとつまらぬことを考えており、嬶の妹は岩城の処へ嫁に行き、今、岩城の処に世話になつているのだし。鉄道爆破のことについて井尻から聞いたと以前に言つたことは本当である。」旨(甲第四七三号証)供述した。

同年六月二一日、昭和二七年七月末頃、朝一番の三菱鉄道の貸車で井尻と油谷に上つたこと」(検供、甲第四七五号証)を供述した。

藤谷は同年七月三日から中田正巡査部長の取調べを受けた。

同年七月三日、中村誠が腹痛を起して二日休んだ後、現場に出て来た日、井尻も三菱鉄道の貸車に一緒乗つていたこと、“地獄の門”を見たのは上芦の劇場であること(員供、乙第三七七号証)を述べ、七月四日、七夕の夜、「石さん等が持つて来た火薬は地主にやつて鉄道爆破に使つた。」との話が出たこと、できたことは仕様がないので、隠せるだけ隠そうと話したこと(員供、乙第三七八号証)を述べ、同年七月九日「七夕の夜、私は井尻に『鉄道爆破に使う火薬なら人に頼んで、何故自分で持つて来ないんだ。』と言つてやつたら、井尻は『そりや六坑で働いているんだから六坑から真すぐ持つて来れるけど、それじや直ぐわかるんだ。それで石さん等に頼んだ。』と言つた。『三坑から持つて来た方がわからんし、わかつても三坑で使つたことにすれば、わからんと思つて、石さんに持つてきて貰つたんだ。』と言つたようであつた。七月三日の二番方の時、マツコと藤谷ともう一人誰かと一緒であつた。午後八時頃二人になつた時、マツコは『今日は火薬を使わないが明日でも発破をかけるとしたら、六坑捲座の下に火薬があるから、全部持つてきておかんと駄目だ。あそこは熊谷組に渡したんで、あそこに置いたつてしようがないから、三坑に持つて来ておかなきや駄目だな。』と言つていた。それで翌日、二番方で石さんと井尻昇と三人で入坑し、火薬を使う時、私と昇と六坑捲座に取りに行つたのである。」旨(員供、乙第二八一号証)供述し、同年七月一一日「七夕の夜、マツコは『誠さんにも火薬を地主と一緒に下げて貰つたんだ。』と言つた後、『誠さんに火薬以外のその他のものも仕度して貰つた。』とか『揃えて貰つた。』とか言つておつた。私が『火薬以外のものとは何か。』と聞いたら、マツコは『火薬についているんもんだからわかるべあ。』と言つた。私は『誠さんが、どういう風にして持つて来たべか。』と聞いたら、『向堀の現場から持つて来た。』と言うのである。『どこの発破器だ。』と聞くと、マツコは『現場のだ。』と言うだけで答えなかつた。このことについてマツコは、あまり喋らないのである。『どうせ持つて来るんならハンドルを持つてこいばよかつたんでないか。ハンドルあるばかりに福士に言われて坑内を探したんだ。』と言つてやつたら、マツコは『ハンドルは必要ないんだ。安全灯のオンチヤンに持つて来て貰つたんだ。』と言うのである。『オンチヤンどうして持つて来たんだ。』と聞くと、『福士の机の抽出から持つて来て貰つたんだ。』ということであつた。」旨(員供、乙第三八二号証)供述し、同年七月一三日、「マツコは七夕の夜、『母線も誠さんに現場から持つて来て貰つたんだ。』と言つた。」旨(員供、乙第三八四号証)供述し、同年七月一六日「昭和二七年六月末、昼飯後、マツコと石塚と三人で昼寝をした。その時石塚はどうかは知らないが私は眠つていて、火薬を頼まれたことはない。」旨(員供、乙第三八六号証)供述し、同年七月一七日「マツコは、『誠さんの火薬は、党の人に持たせて、西芦別に持つて行き、地主の火薬は直接、大須田さんに渡した。』という話であつた。『山内の会議で、大須田、地主、正男さん、山内、あと名前を忘れたが二人位の人達が来ていて、鉄道爆破の相談をしてやつたんだ。』ということであつた。マツコの話では『それらの人が現場に行つてやつたんだ。』ということであつた。」旨(員供、乙第三八七号証)供述し、同年七月二一日「七夕の晩、マツコは母線もカツパラつて来たと言つた。三坑から徳田のオジと一緒にカツパラつて来たと聞かされた。」旨(員供、乙第三八九号証)供述し、同年七月二三日「中村誠は『どこにどう使われるか全然わからんが、火薬を井尻に頼まれ、地主と一緒に三菱まで下げ、俺の知らない人だが、地主の知つている人に渡してきたんだ。』と言つていた。」旨(員供、乙第三九〇号証)供述し、同年七月二五日「井尻は、徳田のオジと言つて三坑坑務所から母線を持つて来たと言つていた。『オジも手が早いなー。』とか『なれたもんだな。』とか言つて、オジを連れて二人で行き、母線と一緒に火薬と管を抱えてきたんだということであつた。それで、私は私達をペテンにかけて火薬を持ち出させていて、また火薬をどうするんだと聞いたら、マツコは『オジ、母線と一緒に持つて来たから、その儘持つて来たんだ。』と言うことで、マツコが特に頼んで盗らしたような口振りではなかつたようであつた。やはり聞いたことより少く喋りたいのが本当でオジのことも先日の取調べのときに頭にはあつたが、やはりずるい考えで言わなかつた。あと、何聞いても知つてることはない。今度こそ本当である。」旨(員供、乙第三九一号証)供述した。

そして藤谷は右と同旨の供述を、同年七月三〇日、七月三一日、同年八月一日、八月二日にわたつて、より詳細に金田検事に対してもなした(甲第四七六号証ないし同第四七九号証)。さらに同年八月五日「昭和二七年六月中旬頃なくなつた発破器は、四角いジユラルミンの鈍い色の物で提皮が付いていた。皮の提皮を付けるところは、ボタンのようになつていて鉤ではなかつた。七夕の日、井尻がこまかいことを言つたのは、自分が、つつ込んで聞いたからで、井尻は答えたくなかつたらしい。井尻から聞いたのは事実であつて、どうしても聞かないとは言えないのである。」旨(検供、甲第四八〇号証)供述した。

藤谷は、井尻、地主の火薬類取締法違反被告事件の同年八月一一日の公判準備において証人として、七月四日に六坑捲上機室差掛け小屋からダイナマイト六箱位とダイナマイトのバラ一〇本位と雷管一箱を三坑現場に運んだこと、七月三日に井尻から、六坑の現場も切り揚げになつたから火薬は三坑へ移しておいた方が、よいだろうという話があつたことを、井尻、地主、特別弁護人中川静夫の面前で、証言した(甲第五六二号証)。

検察官は藤谷と井尻の親密な関係を考え、刑事訴訟法第二二七条の証人尋問の請求をした。

藤谷は証人として同年八月一三日に、右同年七月三〇日以降八月五日までの間に検察官に対しなした供述(甲第四七六号証ないし第四八〇号証)と同趣旨の証言をなした。そうして右証言の最後に「私としては、口止めされており、井尻に関しては言いたくないという気持で今まで本当のことを言つたり、言つたことを変えたりして来ましたが、私が隠しても隠しきれるものでもなく、正直に言つて罪のつぐないをしたいと思い以上正直に事実のとおり申し上げました。関係者に聞いて下されば、私の言つたことは嘘でないことが判ると思います。」と結んでいる(甲第四六一号証)。

ところで藤谷は刑事第一審第五回公判で証人として「警察、検察庁では全然ない事実を供述して来た。現在に至るまで嘘を通して来た。早く出たい一心で嘘を通して来た。裁判官にも嘘を言つた。自分としては、出たい一心で嘘を述べたのである。」旨(甲第三二号証)証言している。

そこで藤谷供述が嘘であるかどうかを、その供述の主要な点について検討してみることとする。

(1) 発破器の特長について

藤谷の供述によると「型は四角で古い提皮がついており、皮に穴があいてボタンで止めるようになつており、カギになつていなかつた。アルミのようなつやのない色で鈍い光のないもので、製作所の名前か、又は番号でもついてあつたらしく、はげたような跡があつた。」というのである。

右供述に符合する供述には、北崎道夫供述(検供28・7・31、乙第一三四号証)、中村誠供述(検供、28・9・10、甲第四八九号証、証人中村尋問調書、28・9・14甲第四八五証)があるわけである。

(2) 井尻から火薬入手を依頼されたとの点について

藤谷は昭和二八年三月二九日から「昭和二七年六月二五日頃の昼休、三坑坑口附近の草原で井尻から、私と石塚に対して『火薬が欲しいと人に頼まれているんだが、何とか都合して呉れないか。』と頼まれた。」旨供述し、後に若干ひにちを変更して供述しているが、右供述を昭和二八年七月一六日まで維持した(乙第三七一号証、乙第三八六号証)。

しかして、この供述は藤谷から出たもので、石塚が同趣旨供述をしたのは昭和二八年五月四日(検供、甲第四四四号証)からである。藤谷が昭和二八年四月二一日、検察官に対して供述しているように「誘導されたことはない。」(甲第四六三号証)と認めても不合理ではない。

もつとも、藤谷は昭和二八年七月一六日に至り、この供述を撤回し「井尻は六月三日の二番方で『六坑は熊谷組に渡したので、火薬をおいても何にもならぬから三坑へ持つて来た方がよい。』と言つた。」旨(員供、28・7・9、乙第二八一号証)供述するようになつた。藤谷の同年四月三日の供述によれば、「井尻は『六坑を引揚げるときのごたごたを利用した方がよいではないか。』と言つた。」(乙第三七二号証)というのであるから、三坑坑口草原で、井尻から火薬入手を依頼されたのも、事実であり、七月三日に「三坑へ持つて来た方がよい。」と言われたのも事実であると認めても不合理ではない。

(3) 七月四日六坑捲上機室横差掛け小屋から三坑現場へダイナマイト数箱、バラのダイナマイト、箱に入つた雷管を井尻昇と運搬したとの点について

藤谷は、前に見たように、すべてを否定した際も、この事実だけは終始一貫して供述している。むしろ、この事実についての藤谷の供述(員供、28・3・5、○乙第三六八号証、員供、28・3・9、乙第三六九号証)が、石塚逮捕の緒となつたのである。しかして、この供述を裏付ける資料としては、井尻昇供述(検供、28・4・24、乙第五号証、検供、28・5・1、乙第六号証)、馬場武雄供述(員供、28・4・7、乙第三〇号証、検供、28・4・28、乙第三一号証)が存在するわけである。

右の藤谷供述は信用できると考えても不合理ではない。

(4) 石塚が七月四日残火薬を井尻飯場へ持ち帰つたとの点について

藤谷は昭和二八年三月二九日「石塚は現場から残火薬の上に塊炭三つ位を載せて、背負つて帰つた。そして石炭をかまどの前に出し、ダイナマイトの入つたのは、かまど前の物置においた。」旨(乙第三七一号証)供述していたが、後に「スツコを井尻飯場の物置の方へ持つて行くのを見たが、置いたところまで見とどけなかつた。」旨(甲第四六一号証)証言している。

しかして、この供述に符合する石塚の供述(証人石塚尋問調書、28・8・3、甲第四五七号証、公準証人石塚尋問調書、28・8・10、甲第五六〇号証、同、28・8・14、甲第五六四号証)、井尻正夫の供述(証人井尻尋問調書、28・9・10、甲第五〇二号証)も存在するわけである。

右藤谷供述は信用できると判断しても合理的である。

(5) 七月中旬頃、現場でズリトロを押していたとき、井尻正夫が私に対して「誠さんに用事があると言つていたと伝言してくれ。」と言つたことがあり、誠にこれを伝えたが、その後一週間位経つて、七月二〇日頃、上芦別の学校附近で、中村誠から「火薬を下げた。」と聞いたとの点について

右趣旨の供述は、藤谷が逮捕後間もない昭和二八年三月二九日(員供、乙第三七一号証)、同年四月三日(員供、乙第三七二号証)からなしているところである。しかして藤谷の四月三日の供述によれば、中村が、「火薬を下げた。」と言つた際、手に鯨肉を提げていたというのである。しかし中村が鯨肉を買つたのは、六月二日と二一日であり七月のことではない(聞谷正一検供、28・7・3、乙第一一〇号証)ことが認められる。それでも藤谷は昭和二八年六月一九日検察官に対して、「中村から、その話を聞いたとき、鯨肉を提げていたことは間違いない。」旨(検供、甲第四七四号証)供述して譲らなかつた。そして同年七月六日中田正巡査部長に対して「何せあの話を聞いたときには、誠は薄皮に包んだものを下げていたのは間違いない。鯖か、いかかも知れない。持つものが変つても、あの話は間違いなく聞いている。」旨(乙第三七九号証)供述している。裁判官の証人尋問に対しても「手には鯖であつたか何であつたか記憶しないが、魚を薄皮に包んだものを提げておつた。」旨(甲第四六一号証)証言している。藤谷が検察官に対して、右昭和二八年六月一九日の供述にあたつて、中村から「火薬を下げた。」との話を聞いたとき、中村は鯨肉を提げていたことは間違いないと強調したため、中村から聞いたという話の内容まで疑問が投げかけられるのであるが、藤谷と中村は毎日のように上芦別から油谷に通つていたものであるから、記憶の混同もあろう。「火薬を下げた。」との話と、その話をするとき中村が鯨肉を提げていたという事実が、必然的なつながりをもつものではない。中村の「火薬を下げた。」との話は異常な体験であり、その時、中村が何を提げていたかは、通常の経験であるから「持つものが変つても、あの話は間違いなく聞いている。」という供述が全く信用できないものと判断しなくても不合理ではない。

ところで、中村誠は、昭和二八年八月二〇日「昭和二七年七月七日頃の帰りに大須田のところへ、サンプルを頼まれたとき、井尻から『サンプル以外の物も入つているからな。』と言われた。私は火薬のことと思つた。七月の中旬頃、上芦別の三菱駅から鉄道線路を通つて自宅へ帰るとき、藤谷から『この間マツコから何か頼まれなかつたか。』と聞かれたので、私は『火薬は頼まれて下げた。』といつた記憶がある。」旨(員供、乙第一八一号証)供述しているのであつて、藤谷供述の裏付がないわけではない。

藤谷の右中村から聞いたという供述が信用できると判断しても不合理ではない。

(6) 七月三〇日朝一番の三菱専用鉄道の列車の中で井尻と乗り合わせたとの点について

藤谷は、「中村誠が休んで私と一緒に働きに出た七月三〇日の朝、一番の上芦別発の午前六時頃の汽車に乗るため、中村と駅へ出たところ、井尻正夫がいた。私が井尻に『どうしたんだ。』と聞くと、井尻は『芦別で飲んだ。遅くなつたから駅長をやろうとしたが上芦別へ歩いて来た。』と言つておつた。私達はワムの貨車に乗つて油谷に上つた。」(前掲甲第四七五号証、同第四六一号証)というのである。

この供述を裏づける供述には、岩城雪春の供述(検供、28・7・8、甲第四二九号証)、岩城定男の供述(検供、28・6・27、甲第四三三号証)、米森順治の供述(検供、28・7・16、甲第四三七号証)、中村誠の供述(検供、28・10・3、甲第四九二号証)があるのである。

藤谷の右供述も信用性があると判断しても合理的である。

(7) 七夕の夜の話について

藤谷は「七夕の夜、井尻と石塚と三人で焼酎を飲んだとき、井尻が『石塚が持つて来た火薬は地主にやつたんだが、あれは鉄道爆破に使つたのだから絶対誰にも言うなよ。それには中村も入つている。二九日は俺も下に行つて来た。地主も来ていた。帰りには慌てて持つて行つたものを置いて来て失敗した。』と話した。」(員供、28・3・26、乙第三七〇号証、員供、28・3・29、乙第三七一号証、員供、28・4・9、乙第三七三号証)というのである。

この点については、ほぼ石塚供述(員供、28・3・13、乙第三九四号証、員供、28・3・16、乙第三九六号証、員供、28・4・6、乙第四〇一号証)と一致する。しかし、前に掲記したように、藤谷が、七夕の夜、井尻から聞いたというオンチヤンこと原田鐘悦からハンドルをもらつたとの話、井尻が徳田敏明と二・三坑坑務所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出したとの話は、石塚の供述には顕れない。

石塚は昭和二八年一〇月二七日金田検事に「七夕の夜、聞いた事については全部前に申し上げた。それ以外については自分としては聞かなかつたと思つている。そんなに多く話していたとは思わない。別の時に、藤谷が井尻から聞いているんではないだろうか。」(甲第四五五号証)と供述している。

石塚が昭和二八年三月一七日「七夕の夜、飲み終つてマーケツトに出掛けた。藤谷がマーケツトの表通りで私に対して『マツコから聞いたとおり俺も入つているから、必ず誰にも言わないでくれ。』と口止めした。」旨(員供、乙第三九七号証)述べていることに鑑みれば、藤谷は井尻とは姻戚関係でもあり、石塚以上に親しい付合いをしていたと考えられないでもなく、七夕の夜と近い頃別の機会に、井尻から鉄道爆破についての話を聞いていたと考えても不自然ではない。それらの記憶を混同して供述することもあり得ないわけではない。聞いたという日時が信用できないとしても、聞いた内容について裏付証拠が得られるならば、その内容までも全く信用できないということはできない。

原田鐘悦からハンドルをもらつたとの話は、原田鐘悦の供述(員供、28・7・30、乙第一八一号証、員供、28・8・3、同第一八六号証、検供、28・8・6、甲第四二八号証の二)、井尻正夫の供述(員供、28・8・23、甲第五二八号証、証人井尻尋問調書、28・9・10、甲第五〇二号証)によつて裏付けされ、井尻が徳田敏明と共に二・三坑坑所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出したとの話については、徳田敏明の供述(検供、28・9・12、甲第四三一号の一、検供、28・9・13、同号証の二、検供、28・9・15、同号証の三、検供、28・9・16、同号証の四、検供、28・9・17、同号証の五、証人徳田尋問調書、28・9・17、同第四三二号証)によつて裏付けされていたのである。

藤谷が井尻鐘悦から、ハンドルをもらつた話、井尻が徳田敏明と二・三坑坑務所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出した話を聞いたという供述自体は信用性があると考えても何ら不合理ではない。

以上のように、藤谷供述の個々の事項によつて検討してみると、いずれも裏付け供述があり、全く架空の供述ではなく、十分信用を措けると判断して何ら不合理ではない。

前に藤谷供述を日を追つて検討したところから明らかなように、昭和二八年三月二六日(乙第三七〇号証)から同年四月一〇日(乙第三七四号証)までは、井尻、地主らの鉄道爆破実行を認める供述をし、同年四月二一日(甲第四六三号証)から同年六月三日(甲第四七二号証)までは、あるときは従前の供述を否定し、あるときは、これを肯定し、またこれを否定する供述をしたのであるが、同年六月九日(乙第三七五号証)以降は当初の供述にかえつた経過がみられる。全体を通じてみれば、途中で従前の供述を否定したことがあるのみで、別段、供述を変えたわけではなく、供述内容自体は一貫しているのである。むしろ、記憶違いでないかと指摘されても、頑として変更しなかつた(前掲、甲第四七四号証)ほど自信に満ちた供述をしている部分もあるのである。

従前の供述を否定するに当つても、「警察官が代る代るその日の火薬のことで何か知つているだろうとか井尻正夫からダイナマイトのことで何かいわれているだろう、よく考えて思い出せと言われて再三取調べを受けた。最初のうちは知らない、思い出さないと答えていた。そのうちに私は家族の事が心配になり何とか言抜けして早く帰して貰おうという気持になり嘘を言おうと思つた。取調べの警察官の私に対する尋ね方から見て、昨年七、八月頃起つた鉄道爆破事件のことと思われたので、その事件にうまくつながりがあるように色々な場面を私の頭で考えて警察官から尋ねられる都度思い出したように、故意に私の作り話を申し上げた。」旨(検供、28・4・21、甲第四六三号証)述べているものの、「石塚がどんなことを申上げているやら、また井尻がどのようなことをを申上げているのか全然見当がつかなかつた。誘導されたことはない。種々の場合を想像して勝手に作り上げた。」旨(同号証)述べているのである。藤谷も誘導されて供述したのではないと認めている。また、「好田検事や中田部長、工藤巡査に嘘だと言いたかつたが、言えなかつた。それは取調べに対しても、あまり親切であつたからである。」旨(検供、28・5・23、甲第四六七号証)述べ、調べが強制的でなかつたことを認めている。また「警察で一週間か一週間以上かかつて嘘のことをこしらえて喋つた。警察官に別段こういうようだ、ああいう話だということは言われないが、水さして助け舟を出して貰つたまでである。」旨(検供、28・6・3、甲第四七二号証)述べ、捜査の常道に反した取調べはなされなかつたことを認めている。一旦、井尻らに不利益な供述をし、これを否定したのは、「自分の口から親戚のくせに井尻から聞いたと言つたということを知られ度くなかつた。そういうことを知られた場合、内輪もめするのではないかとつまらぬことを考えており、嬶の妹は岩城の処へ嫁に行き、今岩城の処に世話になつているのだし。」(検供、28・6・13、甲第四七三号証)という藤谷の苦しい立場から苦悩の末、自分からは供述したくなかつたためであると解しても不合理ではない。昭和二八年七月三日から七月二五日まで(乙第三七七号証ないし第三九一号証)中田正巡査部長に取調べられ、その間に、七夕の夜の話として前記のように、原田鐘悦からハンドルをもらつた話、井尻と徳田敏明が二・三坑坑務所から発破母線・ダイナマイト・雷管を盗み出した話を聞いたとの供述をしたのである。そして右供述は勾留中になされたものであることが明らかである。しかし当時、藤谷は自己の火薬類取締法違反被告事件につき被告人として、その審理のため勾留されていたのであるから、この勾留もやむを得ないものである。したがつて、長期勾留のため、なされた任意性を欠く供述とは認められず、その供述に信用性があると判断しても不合理ではない。

そうして右供述は、すべて裁判官の証人尋問によつて、任意性、信用性がためされているのであつてみれば、検察官が藤谷の供述を信用できると考えても何ら不合理ではない。

第六〇、中村供述の信用性

中村誠は、昭和二八年四月二九日「石塚正夫外二名と共謀の上、法定の除外事由がないのに、昭和二七年六月二九日午前三時半頃芦別町上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二個を爆発させた。」旨の火薬類取締法違反被告事件について起訴され、同日から右事件審理のため被告人として勾留(乙第四〇七号証の一、二、甲第四五九号証の一ないし五、乙第四〇七号証の三)された。

そして、同年五月九日はじめて検察官から、本件芦別事件に関して取調べを受けた(検供、甲第四四八号証)。

しかして五月二五日金子誠二副検事に対し「大興商事の現場で使つていた発破器は提革の止金が外側に向いた鉤型のもので、随分無理して鋲をいじつたから、鋲の部分が相当いたんでいると思う。一週間ばかり前、中田部長から見せられた麻紐のついたメツキのはげた真鋳色の角型の発破器ぐらいで、全般の感じはあのようなものであつた。私は発破器や母線や火薬をを盗つたことはない。」旨(甲第四八七号証)供述した。

同年五月二九日(乙第一六八号証)、五月三〇日(乙第一六九号証)、同年六月一〇(乙第一七〇号証)、六月一一日(乙第一七一号証)、六月一二日(乙第一七二号証)、司法警察員巡査部長中村繁雄、同中田正から発破器のことについて取調べを受けているが、いずれも、自分は盗んだ憶えはないと供述している。

同年六月二八日、三沢三次部検事から、火薬類のこと、発破母線のことを尋ねられ「三坑になつてからは、発破母線は福士から新しい緑色の被覆の長さ二五米位のものを受け取つて立入現場と双方で交互に使つた。」旨(乙第八号証)供述した。

同年七月一〇日藤田巡査部長に対し「福士が札幌の講習を受けに行く前頃の六月二一、二日頃、新しい二五米の母線をもらつた。七月三、四日頃井尻が私の現場に来て、『新しい母線を俺の方に呉れないか。』といつたので、井尻は大先山で仕事の点では叶わないので、やることとし、三坑立入の井尻の現場へ持つて行つてやり、代りに、古い母線を私の現場へ持つて来て使つた。それなのに七月下旬頃、井尻の現場へ行つたら発破をかけるときであつたが、井尻は母線が悪くてと言つていた。井尻にやつたときは新品同様であつた。ペンチを使わないで手斧で叩いて被覆を剥いでいる。領置されている母線は被覆の状況、芯線のよじれからして、私が手がけたものに間違いない。」旨(乙第一七四号証、同第一七五号証)述べた。そして七月二一日には「この間示された発破母線には笠木と天盤の間に食い込んだのを引張つたところ、被覆の表面に切羽近くなつて擦れているところがあつたので間違いないと思う。」旨(乙第一七七号証)付加して母線の特長について述べた。

中村は同年七月一七日、藤田巡査部長に対し「昭和二七年六月一五、六日頃、入坑するとき井尻が『俺の方でも発破器を使うからな。』と言つた。六坑捲上機室で井尻が腰を下してタマに雷管を詰めているとき、私は発破器と母線を渡した。その発破器はケースはジユラルミンで相当使い古したもので、ナンバープレートがついて蓋の所が引込んでいた。提革も古く細くなつていた。」旨(乙第一七六号証)述べ、七月二三日「井尻に発破器を渡すとき、『この間の平岸の仕事がどうなつたか。』と聞いたところ、井尻は『まだ判然り決まつていないが、判然りすれば、これが必要だから。』といつて井尻は発破器を手にとり、これを持つて行くといつた記憶がある。それ以来、発破器がなくなつてしまつたと騒ぎ出した。」旨(乙第一七八号証)述べた。

中村は昭和二八年七月二八日、「昭和二六年二月中頃池永ツナ外四一名の無尽掛金一万二、三〇〇円を費消横領した。」旨の被疑事実により逮捕勾留され、八月初頃起訴され、横領被告事件の審理のため勾留されることとなつた(乙第四〇八号証の一ないし三、甲第四六〇号証の一ないし三)。

中村は同年八月一日、藤田巡査部長に対し「昭和二七年七月七日頃、井尻から大須田の所に石炭のサンプルを持つて行つてくれと頼まれ、少し荒い粉炭を背負袋に入れて大須田方へ運んだことがある。その時、井尻飯場へ寄つたところ、井尻の部屋に地主の子供をつれて来ていた。井尻から『話はつけてあるから持つて行けばわかるが、うるさいから誰にも言うな。』と口止めされた。地主も四時の汽車で下つた。地主とは上芦三菱駅で下りて別れた。うるさいから誰にも言うなと口止めするのは不審である。火薬の三〇本や四〇本隠したとしてもわからない。」旨(乙第一七九号証)述べ、同年八月二〇日「昭和二七年七月七日頃サンプルを頼まれたとき、井尻から『サンプル以外の物も入つているからな。』と言われた。七月中旬頃、上芦別の三菱駅から線路伝いに帰るとき、藤谷から『この間マツコから何か頼まれなかつたか。』と聞かれたので、私は『火薬を頼まれて下げた。』といつた記憶がある。サンプル以外の物が入つているから誰にも言うなと口止めされたから、火薬だと信じていたので、そう言つたのである。」旨(乙第一八一号証)述べ、同年九月六日「誰にも言うなということは粉炭でも米でもないと思われる。私が翌朝、大須田の所へ背負袋をもらいに行つたところ、大須田は石炭小屋で粉炭をあけたが、粉炭の量は背負つて行つたときの量より少なかつた。」旨(乙第一八〇号証)述べた。

中村は発破母線交換の点について、同年八月二八日、検察官に対しても右と同趣旨の供述(甲第四八八号証)をなし、さらに検察官の刑事訴訟法第二二七条に基づく証人尋問の請求がなされたが、裁判官中田二郎の尋問に対し、証人として、交換した新しい発破母線の特長について、極めて詳細に具体的に証言(甲第四八四号証)した。

また、中村は、「発破器を昭和二七年六月一六、七日頃、井尻に手渡した。」点について、昭和二八年九月一〇日検察官に対しても、右と同趣旨の供述およびその発破器の特長としてジユラルミンの古ぼけたようなもので、ナンバープレートが剥離されていたこと、押収されている発破器は私が井尻に渡したものに間違いないと思われる位であることを付加して供述(甲第四八九号証)し、さらに検察官の刑事訴訟法第二二七条に基づく証人尋問の請求がなされ、同年九月一四日裁判官中田二郎の尋問に対しても、証人として、井尻に渡した発破器の特長について、さらに一層詳細に「発破器の底に小さい丸型が三つ程重なつてついている。」旨(甲第四五八号証)証言した。

発破母線交換の点については、井尻正夫もこれを認め(井尻員供、28・8・23、甲第五二八号証、同28・8・24、甲第五〇七号証、同28・8・25、甲第五〇八号証、同、28・8・25、甲四九三号証、同、28・8・27、甲第五一二号証、同、28・8・29、甲第五一四号証、井尻検供、28・9・3、甲第四九八号証、証人井尻尋問調書、28・9・10、甲第五〇二号証)ているのであつて、その裏付供述もあるわけである。

また中村が井尻に渡したという発破器が、大興商事にあつたことについては、北崎道夫の供述(検供、28・7・31、乙第一三四号証)、三坑、六坑で使用していた発破器が六月二〇日頃三坑立入で紛失したところ、その特長はアルミのナンバープレートのとれた止金鋲式のものであることについては、藤谷一久の供述(検供、28・8・5、甲第四八〇号証、証人藤谷尋問調書、28・8・13、甲第四六一号証)があり、いずれも中村の発破器について供述を裏付けるものである。

中村は本件鉄道爆破事件起訴後の同年九月二三日検察官に、井尻に頼まれ、石炭のサンプルを七月七日頃大須田方に運んだこと、「うるさいから黙つておれよ。」とか、「サンプル以外の物も入つているから黙つておれよ。」とか井尻から口止めされたこと、等について供述(甲第四九一号証)した。

さらに、中村は同年一〇月三日検察官に対し「七月三〇日午前六時二〇分前頃、岩城辰男方へ行つたところ、井尻正夫と岩城定男が表に出ていて、上芦別から有蓋車で井尻正夫と一緒に油谷に上つた。」旨(甲第四九二号証)供述している。

中村が大須田方に石炭のサンプルを運び、このことを藤谷に聞かれて、中村が、「井尻に頼まれて火薬を下げた。」と藤谷に話したことについては、藤谷の一貫した供述(員供、28・3・29、乙第三七一号証、同、28・4・3、乙第三七二号証、同28・7・16、乙第三八六号証、同、28・7・23、乙第三九〇号証、証人藤谷尋問調書、28・8・13、甲第四六一号証)があり、藤谷供述によれば、むしろ藤谷は中村が火薬を運搬したと思い込んでいることが認められるのである。

また昭和二七年七月三〇日朝、一番の汽車で井尻正夫が上芦別から油谷に上る際、同乗したとの点については、岩城雪春の供述(検供、28・7・8、甲第四二九号証)、岩城定男の供述(検供、28・6・27、甲第四三三号証)、米森順治の供述(検供、28・7・16、甲第四三七号証)、藤谷一久の供述(検供、28・6・21、甲第四七五号証、証人藤谷尋問調書、28・8・13、甲第四六一号証)が存し、中村のこの点に関する供述を裏付けているのである。

以上が中村供述のすべてであるが、右供述の経緯に照し、中村供述は、全体としてみて極く自然になされたものとみても不合理ではない。発破器の特長に関し、中村が前掲のように昭和二八年五月二五日、現場で使つていた発破器は提革の止金が外側に向いた鉤型のもので、メツキのはげた真鋳の角型のものであつた旨(甲第四八七号証)供述しながら、後になつてジユラルミン製のナンバープレートの剥離された発破器を井尻に渡したと供述したのも、一五三五九号発破器も、遺留品である証第二一号発破器もいずれも、大興商事の六坑、三坑で共に使用されていたと判断できる資料もあるのであるから、中村が、両方の発破器を知つていて、両方の発破器の特長を供述したものと考えても、何ら不自然ではなく、この供述が矛盾するものとみなくても不合理ではない。

なお、中村供述の大部分は刑事第一審第二回、第三回公判における証言(甲第一〇号証、同第一三号証)においても、殆ど維持されていることは、中村供述が信用すべきものであつたことの証左ともいえよう。

中村は第一審第三回公判において、弁護人の反対尋問に対し、「三月一九日から一〇月五日まで警察に勾留され、その間すべての嫌疑をかけて調べられた。取調べでは井尻がお前に火薬を頼んだといつているのに、お前はそれを知らぬわけがない。井尻が自白しているのにお前も自白しろといつて調べられた。自白を強いられたので事実に反したことを警察で供述したこともある。勾留中しばしばそのような取調べを受けた。金子検事は発破器について『福田米吉が中村誠が発破器をカツパラつたといつているから、発破器をカツパラつたのはお前だ。』といつて私を責めた。しかし最後になつて金子検事は、この点を撤回するといつた。取調べは手を出さなかつたが語調は相当鋭いものであつた。金子検事からは何回も取調べを受けた。取調べは、朝呼ばれて晩まで調べられたこともあるし、食事の時間も調べられた。このため私は盗みもしない発破器を盗んで雑品屋に売つたと述べた。事実がはつきりしなければ、いつまでも匂留されるから、当時勾留されて肉体的にも精神的にも相当苦痛を感じていたので、言えば早く出して貰えると思い苦しまぎれにそのように述べた。三月一九日食後中田、中村部長に強硬に追求されたことがあるが、その時真剣になつて叩いた訳ではないと思うが白状せよといわれて膝をぽんと叩かれた。裁判官に対しても警察や検察庁におけると同じように嘘のことを述べた。前言をひるがえすと早く出られないと思つて、警察、検事に述べたのと同様に述べた。裁判官は大体検察官調書を見ながら取調べていた。」旨(甲第一三号証)取調べの不当を述べるのであるが、本件全資料を精査しても、中村が発破器を窃取したことを自白した調書はない。なるほど福田米吉が金子副検事に対し「発破器がなくなつた四日ばかり前に、中村誠が私のそばに来て、こつそり『内緒だが、何処かから発破器を見付けて来ないか。一個五、〇〇〇円で売れるんだ。』と相談をかけて来たことがある。」旨(検供、28・4・30乙第二五号証)述べたことが認められるので検察官が、右供述を引用して「発破器を盗んだことはないか。」と尋ねたこともあるかも知れないが、中村が、そのため窃取した旨の虚疑の自白をした形跡は認められない。中村は「裁判官に対しても警察や検察庁におけると同じように嘘のことを述べた。」と供述しながら、第一審の第二回、第三回(甲第一〇号証、同第一三号証)公判において、発破器の特長についても、発破母線の特長(多少の表現の相違はあるが)についても、捜査段階における供述と同様の証言をしている。ちなみに、中村は第一審第四九回公判において証人として、発破器の特長について一旦、一五三五九号であるのごとき証言(甲第一五七号証)をしたのに、第二審第三回公判において証人として再び「ナンバープレートはついていなかつたと記憶する。」旨証言(甲第二一四号証)している。

なるほど、中村の勾留は長期間であつたことは、確かであるが、これは、自らが火薬類取締法違反被告事件、横領被告事件等により起訴され、その審理のために、勾留されたものであるから、やむを得ないものといわねばならず、中村の前記各供述が長期勾留のために、中村の意思に反してなされた供述で、信用性がないと判断するのは相当ではない。

中村供述に信用性があると判断しても、不合理ではない。

第六一、井尻正夫供述の信用性について

一、井尻正夫は、被告人地主照に対する爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険、火薬類取締法違反窃盗被告事件につき証人として、昭和二八年九月一〇日裁判官に対し次のとおり証言(甲第五〇二号証)した。すなわち、(1)地主から火薬類の入手方の依頼を受けて、これを承諾したこと、(2)地主からの依頼により、石塚に火薬類の持ち出しを頼み、石塚からこれを受領したこと、(3)中村誠から三坑で緑色被覆電話線(発破母線)の交付を受けて、井尻飯場に持ち帰つたこと、(4)大興商事の事務所で原田鐘悦から電気発破器用のハンドルの交付を受けたこと、(5)右火薬類および発破母線を地主に交付したことである。

二、井尻は、昭和三〇年三月二五日の第一審第三九回公判において、被告人として、「裁判官の最初の取調べの時(昭和二八年九月八日証人井尻正夫尋問調書、甲第五〇一号証)は、真実を供述した旨述べ、裁判長の再度の補充質問に対しても、右九月八日付証人尋問調書には真実が記載されている旨供述(甲第一三三号証)している。もつとも、昭和三一年六月九日の第一審第六〇回公判においては、弁護人の質問に対し「ハンドルを原田から受取つた事実はないが、当時ハンドルが無くて誰かに取りにやつたという記憶があつたので、取締官の追及に会つて、そういう供述をしたのである。原田鐘悦からハンドルの交付を受けたことを否認していたところ、取調官から『そんな馬鹿なことはない。原田も言つている。他の者も言つている。お前が知らないと言つても駄目だ。』と追求されたので、そのように述べたのである。」旨供述(甲第二〇九号証)しているが、第三九回公判における供述(甲第一三三号証)に照して信用し難い。

そこで昭和二八年九月八日の証人井尻正夫尋問調書(甲第五〇一号証)を、点検するに、「昭和二七年六月一七、八日頃、地主が野田という共産党員をともなつて、私方に来たこと、同人の服装関係、また、同人が発言せず、私と地主との話合について、メモを取つていたということ、同月の二七、八日頃の昼休み頃、六坑研捨場にある立木の陰の草原で私と石塚守男、藤谷一久の三名が寝転びながら、平岸の炭素工場の解体作業について、その事業が始まつたら賃金の支払も堅いと言うから、そちらに働きに行つて見ないかという程度のことを話したことは事実である。」旨(以上は前掲(1)、(2)を窺知させる外形事実と認められる。)、「六月一七、八日頃の午後三時頃、地主が党の問題か、何かで私方に来た際、話題は大興商事の賃金不払のことにふれ、私が『何か良い仕事がないかなあ。』と言つたら、地主が平岸の炭素工場の解体作業の話を出した。そして同人は同工場の大煙筒を倒すのにどうしたらよいかと話しかけたので、私は煙筒に火薬を巻き付けて置いて発破を掛ければ倒れるのではないかと座談的に話しておつた。』旨(以上前掲(1)を窺知させる外形事実と認められる。)、「中村誠が係員の福士に新しい発破母線を要求していたことは知つていた。中村が新しい発破母線を使用しておつたことは、七月に入つてから知つた。中村は仕事が終つて、その新しい母線を三坑立入の仮の火薬置場に持つて来たことがある。私は七月の四、五日頃朝一番方で坑内に這入つて間もなく中村が私達の現場へ来た時、同人に対し『誠さんの働いている三坑の向堀は、カーブがあつて短い線でも間に合うだろうから、新しい長い線を使わしてくれないか。』と言つた。中村は何も言わなかつたが、私は、その後も中村が貰い受けた新しい発破母線を火薬置場から持ち出して自分の現場で使つておつた。火薬置場にある発破母線は、誰でもが現場に持ち出して使える訳で、中村が福士係員から要求して貰つたとしても、その母線は中村個人のものになる訳ではない。代りの母線を中村に引渡し、はつきり交換したという形でやりとりしたことはなかつた。新しい母線は長さは二四~五米あつた。」旨(以上は前掲(3)を窺知させる外形事実と認められる。)「六月一〇日の午後四時頃であつたと思うが、私が二番方として現場に行つたところ、発破器のハンドルが見つからなかつたので、これは係員が持ち帰つたのではないかと思い、確かめるべく事務所に行つたところ、原田鐘悦が一人おつた。ところで原田に対し、福士がハンドルを持ち帰つたかどうか確かめてくれと言うような意味のことを言うと、福士は二階にでもいたものか、原田は二階に上つて行き更に引返して来てから、福士の机の抽出を探し一番左端の方から、ハンドルを見つけ出して私によこした。私はそのハンドルを受取つてポケツトに入れて現場に行つたのだが、現場の誰かが、ハンドルがあつたと言うので、原田から受取つたハンドルは使わなかつた関係で、そのハンドルが鉄製であつたかはつきり記憶していない。そのまま事務所に返したものか、私自身、家に持ち帰つたかどうかは全然記憶ない。」旨(以上は全掲(4)と同趣旨と認められる。)の証言をしている。

右のように井尻が自ら真実であると供述する証言中にも、前掲(1)(2)(3)(4)を窺知させる外形的事実について供述をしているのである。

三、井尻は昭和三〇年三月二五日の第一審第三九回公判において被告人として「検察官に対してなした供述は任意ではない。無いことを言つた。取調は強制的だつた。砂川地区警察署に来た時、原田鐘悦、徳田敏明、井尻昇、岩城定男、岩城雪春、中村誠、藤谷一久らの調書を出して、『これだけの人間が言つているのに、お前が知らないといつても罪は逃げられない。しかし検事としてはお前がしたとは思つていない。お前は、ただ品物を渡しただけだと思う。お前が言えば勾留を解いてやるが、もし言わなければ、どうしてもお前に全部の罪が負つて貰わなければならない。その罪は死刑または無期懲役に当る罪だ。』と言つて供述を強制された。それでやむを得ず聞かれたことを認める供述をした。八月までは藤谷はこう言つている石塚はこう言つていると全部教えられていたので、それを供述した。検察官は取調べの時『函館から稚内まで参考人をぶち込んであるが、それらの者は皆、終着駅に着いて出ている。言わんのはお前だけだ。お前が最後に残れば、爆破事件の全責任をお前に負つて貰わねばならん。列車をひつくり返えすような行為をした者は死刑か無期懲役なんだ。だがどこへ行つてもお前を悪いといつている者はない。お前は、ただ地主に品物を渡しただけだと思う。お前が地主に品物を渡したと言えば、一年か二年刑務所へ行くだけでよいだろう。早くそのことを言つて早く出ろ。』と言われ、長期の勾留に耐えかねて、早く出たいばかりに真実に反する供述をした。」旨(甲第一三三号証)述べた。

しかし、井尻の右公判廷における供述も次の点では事実に反する。すなわち、井尻が自供した段階では、未だ徳田敏明の供述調書はできていない(徳田の自供調書が初めて作成されるのは、昭和二八年九月一一日付の司法警察員に対するものである―乙第一八三号証)のみならず、井尻は捜査段階から公判に至るまで、徳田と共に、二・三坑坑務所から雷管、ダイナマイト等を持ち出したことは一度も供述していないのであつて、検察官が徳田敏明の調書を出して示すはずがないのである。

そこで、捜査官らに対し、井尻が、供述した経緯を日を追つて検討してみることとする。

井尻は昭和二八年三月二九日火薬類取締法違反で逮捕され、同年四月一八日、右違反罪で起訴された(この点は当事者間に争いがない。)。右起訴まで井尻は供述を拒否したものと認められる(右四月一八日以前の供述調書は存しない)。

井尻は起訴後三日目に、初めて検察官に対して供述した。すなわち昭和二八年四月二〇日、好田副検事に対し「昭和二七年六月頃、岩城定男が腹痛を起した頃の昼頃、地主が子供を連れ、その外に、二二・三才位の五尺一寸位の中肉で硬い髪で油気ない毛を七・三に分けた男をともなつて、私を訪ねて来て一時間程、話して帰つた。」旨(甲第四九四号証)供述しており、同月三〇日にも同副検事に対し、「六月一八、九日頃、原田鐘悦が六坑捲上機室付近に迎えに来た。帰つて見ると大須田が来ていた。そのうち地主が野田を連れて私のところを訪ねて来た。平岸の工場の解体問題の話もでて、大須田だつたか、地主だつたか『今、口をかけているのだ。』と言うので、私は『その作業に火薬を使つてやるのか。』と尋ねたところ、『煙筒を倒すのに火薬を使つてやれば、はかどるのだが、付近に高圧線が通つて具合が悪いのだ。』と話していた。」旨(甲第四九五号証)述べ、勾留後比較的に早い時期から、六月中旬岩城定男が腹痛を起した頃、大須田、地主、野田が井尻飯場に井尻を訪ねて来たことを認める供述をしていた。同年五月二〇日、高木一検事に対しても、「嬶が仕事場に原田というあんちやんを使いによこしたので帰つて見たら、大須田が来ており、間もなく地主が知らない人を連れて来て『この人は党のオルグだ。』と言つて紹介した。その人から坑内の作業はどうだと聞かれたので、『坑内は設備が悪く空気が悪くて困る。爆破作業も自由にやつて、坑夫が誰でもやつており、ダイナマイト等も坑内にほつたらかして行く奴もあつて坑内保安はうまく行つていない。』と話してやつた。」旨(甲第五〇四号証)ほぼ同様の供述をしていた(しかし同年八月二五日に至り、館耕治警部補に対して、「地主、野田が来た日、大須田が来ていたと申したが大須田は地主と一緒になつておらず、大須田が来たのはその二、三日前のことである。」旨(甲第五〇八号証)供述を一部変更した。)。

右のように、日時の点、会合した人の点で多少の変更はしたものの、昭和二十七年六月中旬の終り頃、地主、野田等が、井尻飯場に井尻を訪ねて来たことは、早くから供述していた。

しかして、この供述は、日時の点で多少は相違し、大須田が来ていたか否かでも、井尻の供述の変更によつて必ずしも一致しないとはいえ、石塚守男の地主の井尻に対する火薬入手依頼の供述によつて裏付けられている。

一方、大須田卓爾は、昭和二八年八月二五日司法警察員に対し、「六月の末か七月初頃、井尻飯場へ行つたとき、井尻の妻君がチンケという若い男に『お客さんが来たから。』と現場に井尻を迎えにやつたことがある。地主は私より後に来た。野田は来ていないと記憶する。そのとき平岸炭素解体を請負う話をしたかも知れない。火薬を使つて爆破すれば手取り早いと自慢げに話したかも知れない。帰りには、地主と一緒に出て油谷の見張所で別れた。」旨(甲第五九七号証)供述し、同月三一日検察官に対し「昭和二七年六月二七・八日頃、平岸の炭素工場解体作業の話を井尻にした記憶がある。井尻が関川が平岸の解体作業の下請をするかも知れないといつたので、あれは俺の方でやるかもわからないといつた。工場解体には火薬を使う必要はない。火薬を使う話は出なかつた。」旨(乙第四六号証)供述している。

井尻も当初は、大須田が来ているところに、地主、野田が来た旨供述していたが、大須田は同じ日には来なかつたと変更するに至つたのであること前述のとおりである。井尻の供述と大須田の供述は、日時の点でも、ずれがあり、会合した人の点でも相違があるが、同一の出来事を、互に記憶違いしているか、あるいは、ことさら、互に一部を秘匿しているとみられないわけではない。大須田供述とみても不当ではない。

昭和二七年六月中旬の終り頃、大須田、地主、野田が井尻飯場に井尻を訪ねて来て、会合したとの当初の井尻供述は、それ自体でも信用できると考えても不合理ではない。

なお、井尻は、昭和三〇年三月二五日の第一審第三九回公判において、被告人として「地主は六月二〇日頃来たようだが、用件は、はつきり記憶しない。」旨(甲第一三三号証)供述している。そうすると、日時の点でも石塚供述に合致するわけである。

ところが、井尻は捜査官に対して、右供述をした後、他の事項については、昭和二八年八月一五日まで供述しなかつた。すなわち、同年八月一五日司法警察部芦原吉徳に対し「石塚守男が、六坑捲上室の下屋から新白梅ダイナマイト何箱かを私の寮に運んで来たのを知つているが、それ以外のことは知らない。」旨(甲第五二七号証)供述したのが、事件の実体にふれる最初の供述であつた。以下事項毎に井尻の自供のなされた経緯を検討してみる。

(一) 地主から火薬類の入手方の依頼を受けて、これを承諾したこと

昭和二八年八月二二日中村繁雄巡査部長に対し「地主、野田、大須田が、そろつて油谷の飯場に来たのは六月中過ぎ頃だと思う。原田のオンチヤンに呼ばれて、現場から帰つてみると大須田が来ており、話しているうちに、地主と野田が来た。地主から平岸の従業員が退職金や手当として倉庫二つ獲つたが、その解体工事について、口を掛けているという話をした。仕事の内容について煙筒を倒すのに、火薬を使えば手取り早いとか、『火薬の許可申請が通れば、火薬なんとかならんか。』と地主から言われた。私は現在の大興の情況であればチヤンスで持つて来る気があれば、いくらでも持つて来れるが、自分は係員になつてくれと言われているし、現場の方も責任持つてやつてくれと言われているし、俺からは、そういうことは出来ないと断つた。野田は傍でメモしていた。」旨(甲第五二七号証)供述し、八月二五日館警部補に対し「地主は『火薬の許可は取つてやるが、その仕事をするようになれば、火薬が必要だから何とか手に入らないか。』と言つた。私は『俺は直接やれないが、どうしても入るといなら、俺から他に頼んでやつてもいい。それなら何とか出来る。』と言つた。地主は『頼む。』と言つた。野田は発言もなくメモしていた。」旨(甲第五〇八号証)供述した。

(二) 地主からの依頼により、石塚に火薬類の持ち出しを頼み、石塚からこれを受領したこと

同年八月一五日芦原吉徳警部に対し「石塚守男が六坑捲上機室の下屋から新白梅ダイナマイト何箱かを私の寮に運んで来たのを知つているが、それ以外のことは知らない。」旨(甲第五二七号証)供述し、八月二四日館警部補に対し「昭和二七年六月二八日六坑の現場で昼休に石塚と藤谷一久と私と三人で休んでいるときに『地主から頼まれているので火薬を何とかしてくれ。』と頼み、石塚に運んでくれと言つた。七月四日午後一〇時半頃、私が休んでいる所へ石塚が土間から『持つて来たよ。』と声を掛けたので、私は火薬を持つて来たのを知つた。私はすぐ起きて釜前と納屋の間にスツコがあつたので空けて見たところ、石炭が三個位とその下に火薬と雷管があつたので、これを物置の横の棚の下に隠して置いた。新白梅二〇本入三箱、雷管一把一〇本があつた。」旨(甲第五〇七号証)供述し、ついで、翌二五日同警部補に対し、「昭和二七年六月二七・八日頃、六坑の立木の陰に寝転んで、石塚、藤谷に平岸炭素工業の解体問題の話をした。『こんなところにいたつてつまらん。この解体が始つたら行つて見ないか。たまには他の仕事もいいぞ。』と話し、特に石塚に対し、『石さん、火薬は、お前、運んでくれないか。』と頼んだ。」旨(甲第五〇八号証)供述した。

(三) 中村誠から三坑で緑色被覆電話線(発破母線)の交付を受けて、井尻飯場に持ち帰つたこと

同年八月二三日、中村巡査部長に対し「三坑の火薬置場に中村誠の新しい線があつたので、誠の方はカーブであるから、短かい線でも間に合うから俺達には長い線を使わせてくれと言つたことがある。誠は別に何も文句も言わないで承知した。新しい線は色で長さは二四、五米位あつた。誠は私の現場で使つていたドベラに張つていた中一本つないだ線を自分で剥して持つて行つた。」旨(甲第五二八号証)供述し、八月二五日館警部補に対し「中村が新しい母線をもらつたのは六月二〇頃のことで、私の古い母線と交換したのは六月末頃で大体一〇日位私が現場で使つた。それを自分の家に持つて帰つた。」旨(甲第四九三号証)供述した。

(四) 大興商事の事務所で原田鐘悦から電気発破器用のハンドルの交付を受けたこと

同年八月二三日、中村巡査部長に対し「六月中頃、六坑捲座で発破器のハンドルがないので、二番方連勤のとき、原田のオンチヤンにハンドルが無いが、福士さんが持つて帰つているかも知れないから聞いてみてくれと言つた。当時福士は事務所二階に住んでいた。原田は事務所の一番左側の福士の机の中からハンドルを出して私に寄越した。普通のハンドルだと思うが、しかしオンチヤンが普通のハンドルと違つたハンドルと言つているなら鉄のハンドルを受取つて行つたことになる。」旨(甲第五二八号証)供述し、八月二五日、館警部補に対し、「六月中頃、六坑副斜坑で午後四時頃、発破器を使おうとしたところ、ハンドルが見えなくなつた。事務所に行き原田から代りの鉄で作つたハンドルをもらつて来た。ところが握りが木である正規のハンドルが捲上のサクリの下に落ちてあるのを見つけたので、原田からもらつて持つて来た鉄のハンドルは、いらなくなつたから、そのまま自分の家に持ち帰り、納屋の棚の上にほうり上げておいた。」旨(甲第四九三号証)供述した。

(五) 右火薬類および発破母線を地主に交付したこと

同年八月二四日、館警部補に対し、「火薬と雷管は七月一四日、五日頃、地主照に渡してやつた。前に持ち帰つていた鉄柄のハンドルと中村誠と交換して使つていた新しい母線は七月二〇日頃、発破器と一緒に地主に渡してやつた。」旨(甲第五〇七号証)供述し、翌二五日、同警部補に対し、「七月一四・五日午後三時頃、私が足を痛めて現場を休んでいるとき地主が来たので、風呂敷を貸してやり、火薬や雷管を私が包んでやつた。風呂敷は人絹で赤地碁盤縞で絣のような模様であつた。」旨(甲第五〇八号証)、「七月二〇日前後、地主は発破器とハンドルは白つぽい風呂敷に一緒に入れた。母線は地主が持つていた新聞紙を二枚、私が取つてこれにまいてやつた。地主は発破器を右手に提げ、新聞紙に包んだ母線は左脇にかかえて、子供を歩かせて帰つた。」旨(甲第四九三号証)供述したのである(後に発破器とハンドルは撤回した。)。

(六) 発破器一台を窃取したこと

この点の供述の経過、および供述内容は後記詳述するとおりである。

以上のように、井尻の自供がなされたのは、昭和二八年八月一五日から同月二五日までの間であることが明らかである。

四、ところで、井尻正夫、地主照に対する火薬類取締法違反被告事件(第一回公判期日は昭和二八年六月二六日開廷)の公判準備として、同年八月一〇日および同月一四日に石塚守男の証人尋問が行なわれ、同月一一日に藤谷一久の証人尋問が行なわれている。

右証人尋問において、石塚は井尻正夫、地主照、特別弁護人中川静夫の面前で、「昭和二七年六月三〇日、六坑ズリ捨場の所で昼休みをしたとき井尻正夫から『石さん、火薬を持ち出してくれ。』と頼まれた。用途については何も話がなかつた。七月四日二番方を終つて帰る際、三坑現場から、作業で使つた残りのダイナマイトを持ち帰つた。ダイナマイトは二〇本入の箱、二箱と一五本位残つていたもの一箱と電気雷管二〇本位を、井尻のリユツクサツクに入れて持つて帰つた。井尻はまだ寝ないでいたので、持つて帰つたことを話した。六月二〇日、一番方で現場から帰り、何気なく井尻の部屋を見たら、地主と大須田某と名前を知らない男が来ているのが、弁当を受け取る小窓から見えた。私は自分の部屋に入り風呂に行くため、仕事着を解いている時、地主が『火薬を使うことが出来たから都合してくれ。』と頼んでいるのが聞えた。それに対して井尻は『火薬は自分が保管しているが、自分では持ち出せない。』というようなことを言つていた。七月一九日夕方、地主が来ているのを見かけた。私は夕食後、午後七時頃、夏井茂夫、村上忠吉と一緒に映画を見に出かけた。飯場を出て検証の際、指示した地点にさしかかつたとき、地主が井尻正夫及び子供と一緒に芦別の方へ行くのを見かけた。地主が重箱様の四角い物を風呂敷に包んで持つているのを見た。後で自分で持つて来たマイトではないだろうかと疑問を持つた。」旨証言した。しかして井尻も地主も、石塚の右証言を覆えすに足るほどの反対尋問はしていない(甲第五六号証、同第五六四号証)。

また、藤谷も井尻正夫、地主照、特別弁護人中川静夫の面前で、「六坑捲上機室の差掛小屋の木箱の中に、三坑と六坑で使つた残りのダイナマイトが一緒に保管してあつた。井尻から七月三日、六坑の現場も切上げになつたから、火薬を三坑へ移しておいた方が良いだろうという話があつた。しかし特に命令された訳ではない。翌四日、二番方で午後六時半か七時頃、差掛け小屋の木箱に残つていた手つかずのダイナマイトの箱、三箱ないし六箱、バラのダイナマイト一〇本、雷管一箱を三坑立入現場まで運んだ。木箱に残りはなかつた。その日、作業にダイナマイト三〇本位と雷管一五本位を使つた。ダイナマイトはバラは新桐で、箱に入つたのは新白梅であつたと思う。石塚は最初にバラのダイナマイトを取出し、その後で手つかずの新しいものを一箱出して使つた。石塚は帰る時、スツコを背負つて帰つたが、その中に火薬を入れて帰つたかどうか見ていないのでわらない。しかし何か入つていたことは事実である。私と石塚と井尻昇は三人で井尻飯場に帰り、その夜は石塚の部屋に一緒に寝た。」旨証言した(甲第五六二号証)。

井尻の警察官に対する前記自供がなされたのは、右石塚、藤谷が、自己の面前で右各証言をなした直後からであることは、その各供述のなされた日に照して明らかである。井尻は昭和二八年三月二九日に逮捕されて以来、六月中旬、地主、大須田、野田こと衣川らと会合したことについて一部、外形事実に添うような趣旨の供述はしていたものの、火薬類入手については一切これを供述しなかつたのである。石塚、藤谷の右公判準備における各証言とほぼ趣旨の供述は、石塚、藤谷から、既に井尻が逮捕された当時から出ておつたのである(もつとも石塚が、火薬の入手を井尻光子から頼まれたとの当初の供述を、井尻正夫から六月三〇日昼休に六坑つれおろし現場のズリ捨場で頼まれた旨の供述に変更したのは昭和二八年五月四日であり、地主が重箱様の風呂敷包みを提げて井尻飯場から出て、同所附近を歩いて行くのを目撃した日が七月七日であつたとの当初の供述を、七月一九日と訂正したのは、同年五月六日である。―甲第四四四号証、同第四四五号証)。一方。中村誠も昭和二八年七月一〇日司法警察員に対して」井尻は七月三・四日頃の午後ひよつこり私の現場に来て『誠さん、新しい母線をもらつたべ。』『それ俺の方にくれないか。』といつたので、井尻にやることとし、私は三坑立入の現場の井尻に新しい母線をやり、代りに古い母線を外して輪にして持つて来た。」旨の供述(乙第一七四号証)、同日、司法警察員に対してなした「新しい母線は、その後井尻が使つていなければ新しいままで、端をペンチを使わないで手斧で叩いて、被覆を剥いてあり、長さは二五米のものである。」旨の供述(乙第一七五号証)、同年七月二一日司法警察員に対し「発破母線には、私が笠木と天盤の間に食い込んだのを引張つたところ、被覆の表面に切羽近くなつて擦れた跡がある。お示しの母線は私が手がけたものに間違いない。」旨の供述(乙第一七七号証)をなし、原田鐘悦も昭和二八年七月三〇日司法警察員に対して「昭和二七年六月中旬頃、鉄製ハンドル一丁を、事務所の左側の抽出の手前左隅の方から出して井尻正夫にやつたことがある。」旨の供述(乙第一八五号証)、同年八月六日検察官に対して「岩城定男が腹痛をおこした少し前頃の午後五時頃大興商事の事務所で井尻に『係員に頼まれて来たが、その辺に発破器のハンドル無いか。』と言われ、係員の坐る机の抽出をあけてみたら、全部鉄で出来たハンドルが一丁あつたので井尻にやつた。ハンドルを渡したのは一回だけだから記憶違いはない。」旨の供述(甲第四二八号証の二)をなしていたのである。

井尻が、公判廷で供述(前掲甲第一三三号証)しているように、捜査官らから、石塚、藤谷、中村、原田等の供述内容を告げられるか、示唆されて取調を受けたであろうことは、推測に難くないが、八月十五日までは、井尻は頑として、これを否定し続けていたものと見られる。しかし、自己および地主、特別弁護人の面前で、自らが訴追されている火薬類取締法違反被告事件の証人として、かねて親交があり、信頼できると考えていた石塚や藤谷から右のような証言をされ、しかも六坑捲上機室掛け小屋から藤谷らが、火薬を持ち出したことを目撃されていること(証人斎藤二郎尋問調書、28・8・10、甲第五六一号証、証人馬場武雄尋問調書、28・8・11、甲第五六三号証)も判明したとあっては、もはや致方ないと考えて、既に捜査の結果、明らかにされていたと思われる事実について供述するに至つたものとみても不合理ではない。

五、つぎに、関係人の供述には顕われない井尻の自らの発破器一台を窃取した旨の司法警察員に対する供述を検討してみる。

井尻は司法警察員警部補館耕治に対し、昭和二八年八月二四日「昭和二七年六月二一・二日頃であつたが、私が三坑立入より当時、使つておつた発破器を『スコ』に入れて、自宅に持つて帰り、飯場の米置場の床下に隠して置いた。それを地主に渡したのは七月二〇日頃に、これも前に持つて来ておつた鉄柄ハンドルと一緒に渡してやつた。中村誠と交換して使つていた新しい母線を自宅に持つて帰り、飯場の納屋に置いていたのを発破器と一緒に地主に渡してやつた。」旨(甲第五〇七号証)供述し、

ついで同警部補に対し翌二五日、

「六月二一・二日頃、三坑立入は、藤谷らの組、向堀は中村誠らの組、六坑副斜坑には、私、福田、石塚の組がいたが、発破器は一個しかなかつた。藤谷の組が六坑から持つて行つて使つていた。同日二時過頃、私は六坑の現場を引きあげ三坑に行つた。その時、藤谷らは、三坑現場の奥の方で何かしており、発破器はそこの火薬置場の所にあつたが、その時は誰もその付近に見ている者もなかつたので、私は自分の『スコ』にその発破器を入れ、そのまま、そこを出て捲場で皆を待つており、一緒に帰つた。途中『スコ』に石炭を入れて帰つた。折があつたら発破器を持つて来ようと思つていた。自分の現場から直ぐ持つて来るということは都合が悪い。発破器を『スコ』に入れるとき、ハンドルは見えなかつた。発破器がないというので、皆で探したとき、中村や岩城定男らに『発破器知らんか。』と聞いたことがある。

七月二〇日前後、地主は発破器とハンドルは白つぽい風呂敷に一緒に入れた。母線は地主が持つていた新聞紙を二枚、私が取つてこれにまいてやつた。地主は発破器を右手に提げ、新聞紙に包んだ母線は左脇にかかえて子供を歩かせて帰つた。

地主に渡した発破器の図面は書ける(この時、井尻はボタン式提革づきと思われる図面を書いた。)。」旨供述している。

右趣旨の供述は、井尻以外には誰もしていないところである。

本件全資料を精査しても、石塚や藤谷は、もとより、岩城定男らも、右井尻の自供に副うような供述をしてはいない。

中村誠の司法警察員に対する昭和二八年七月一七日(乙第一七六号証)、七月二三日(乙第一七八号証)の供述の要旨も、「六月一五・六日頃、私が発破器と発破母線を持つて六坑捲上機室横で、井尻正夫に発破器と母線を渡した。私がこの時、この間の平岸の仕事がどうなつたかと聞いたところ、まだはつきり決まつていないが、はつきりすれば、これが必要だからといつて井尻は発破器を手にとり、これを持つて行くといつた記憶がある。ケースはジユラルミンで相当使い古したものでナンバープレートがついていて蓋の所が引込んでいた。」旨述べているのみである。

井尻は第一審第三九回公判(甲第一三三号証)において、「八月までは、藤谷はこう言うている石塚はこう言うていると全部教えられていたので、それを供述した。また、中村誠らの供述調書を出して、『お前が言えば勾留を解いてやるが、もし言わなければ、どうしても全部の罪を負うて貰わなければならない。』等と言つて供述を強制された。」というのであるが、井尻の前記自供の内容は全く新奇のものであつて、同旨の関係人らの供述が存在しないことは明らかである。したがつて右供述は捜査官に教えられたことを述べたのではなく、自分の記憶を述べたとみるほかはない。

また、右発破器の図面を書いた点につき昭和三一年六月九日の第一審第六〇回公判期日において、「酒井から写真を見せられたし、逮捕後も芦別署で一回前に見せられていた。」旨供述しているのであるが、そのような記憶のみで遺留品の特長を表現できるとは思われない程ほぼ正確に書かれており、右供述はたやすく措信できない。

右のとおり関係人の誰れからも出ていない詳細具体的な供述は、実際に事実を体験したものでなければできず、真実を述べたと考えても不合理ではない。

六、井尻は、前記自供を昭和二八年八月二六日に撤回したが、その際館警部補に対し、

問 何故その様な嘘を言つたのだ。

答 私がなんぼ知らんと言つても石塚や藤谷らが、いろいろな事を証言して居り私が知らんと言つても通らん。どうせ通らんものなら何にもかも俺が背負つて罪を着て一日も早く帰つた方が得だと思ったから。

問 何によつて昨日までの話をしたか。

答 今まで調べられて来たのであり、又石塚らが言つている事も聞いて来てそれに併せて話をした。

問 罪を着ると言うが何んの罪だ。

答 鉄道爆破の事です。

問 お前にまだ鉄道爆破をやつたと言うことを調べていないはずだ。

答 調べられております。只二、三日前からは其の話にふれてはないですけれ共、前から其の事を聞かされているからです。

(以上甲第五〇九号証)と供述しているが、右供述も、前日までの自白が誘導や強制によってなされたものであるとの趣旨とは解されない。

井尻が鉄道爆破をやつた旨の供述は、石塚守男からは、昭和二八年四月六日(乙第四〇一号証)に出ており、藤谷一久からは、同年四月九日(乙第三七三号証)に出ているのであるから、捜査官らが、右供述がなされていることを告げて井尻を取調べたこともあるであろうことは推測されるが、井尻は終始、鉄道爆破をしたことは供述していないのである。

第一審第三九回公判(前掲甲第一三三号証)において前記のように「八月までは藤谷はこう言うている、石塚はこう言うていると全部教えられていたので、それを供述した。想像して述べたこともある程度はある。」旨供述しているが、捜査官の誘導、強制によつて全く虚構の事実を供述したのならば、鉄道爆破の事実も、致方なく自供したであろうと思われる。

井尻は昭和二八年八月二二日、司法警察員巡査部長中村繁雄に対し、

問 君は此の前、涙を流して、これ以上頑張つて押通して行ける自信が無くなつたんだと言う事を自分で言つたが、これはどういう事なのか。

答 これは反証を挙げる自信が無い事です。

問 もつと深く考えればどう言う事に成るか。

答 それは締めるという事です。

問 君の言う様に関係していなければ何も締める必要もないし、また反証も幾等でも挙げられるんではないか。

答 あげられません。

問 どう言う訳で。

答 それを答えるだけ俺は能力は無いし周辺が斯うなつている以上はどうしようもないんです。

問 それじや暗黙の裡に関係者だと認めている様なもんだが。

答 如何に自分が弁明しても其の様な事実に成つているし反証できないから時の流れに沿つて行くより無いのです。

(以上、甲第五二七号証)と供述しているが、同日の取調べで、つづいて、

問 火薬を頼むと言う時に引受けたんではないのか。君の性格からして人から頼まれれば嫌と言う事の出来ない「たち」だし地主にしたつて野田にしたつて矢張り同志だからね。

答 いや自分は引受けないです。此の時地事は許可さえ降りればと言うだけで何時使うとも言つていなかつたのです。

問 お前が引受けなければ誰が引受けた事に成るかと言うのは火薬が現実に君の飯場に行つている事が間違いないからだよ。

答 そういわれても自分としては、どうしようも無いんです。全般的に断つた記憶があるんです。首を切られる事が判つていたんです。阿部謙が今野組で切られているんです。

問 何んと言って断つたか。

答 現在の大興のあれであればチヤンスが持つて来る気があれば幾等でも持つて来れるが、係員に成つてくれと言われているし、それから現場の方も責任を持つてやつてくれと言われて居るし俺からは、そう言う事は出来ないと。

問 俺からはと言う事であれば誰かに橋渡した様に採れるが。

答 俺は出来ないと断つたのです。

と火薬の入手方を頼まれたが断つた旨、述べているのであつて、長期勾留によつて、なかば締めた形で真意に反して、供述したものとは見られないのである。

井尻は、昭和三〇年三月二五日の第一審第三九回公判において、長期勾留に堪えかねて、早く出たいばかりに真実に反する供述をした旨(甲第一三三号証)述べている。

なるほど、昭和二八年三月二九日に逮捕されて、一部自供するに至つたのは前記のように、同年八月一五日以降であり、その間に一四九日をけみしている。しかし、石塚、藤谷の、火薬が本件鉄道爆破事件に使用されたものであると井尻から聞かされた旨の供述は、井尻の逮捕前からなされていたのであるから、重大な事件であり、犯行も多数者によつてなされたものと推認され、犯行に使用された物的証拠も多種多岐にわたり、その裏付捜査には、井尻らと親しくしていて捜査に協力してくれるとは考えられない幾多の関係参考人を取調べなければならない極めて複雑な客観的事情にあり、井尻らを釈放するにおいては、罪証が隠滅されるおそれが多分にある事件であると思料しても相当であるから、前掲供述の経過に鑑みれば、不当に長い抑留または拘禁後の自白とはいえない。

そして、井尻は昭和二八年三月二九日逮捕されてから八月一五日に至るまで自白らしい供述はしていないのであり八月一五日から八月二五日まで警察官に対し一部自白したが、八月二六日には、これを否認し(員供、28・8・26、甲第五〇九号証、員供、28・8・27、甲第五一二号証、員供、28・8・28、甲第五一二号証)、八月二九日から再び従前の供述をしたが、発破器窃取およびその発破器を地主に交付したことのみは否認し(員供、28・8・29、甲第一五四号証、検供、28・9・3、甲第四九八号証、検供、28・9・4、甲第四九九号証)、同年九月八日裁判官の尋問に対しては、すべてを否認し(甲第五〇一号証)、九月一〇日裁判官の尋問に対しては捜査官に対してなした自供より少い事項(ハンドルの特長、交付等をも除いた)について自白供述を含む証言をなし(甲第五〇二号証)、九月一二日からは、また、すべてを否認(員供、28・9・12、甲第五一〇号証、員供、28・9・13、甲第五一七号証、同第五一八号証)しているのである。そして各右自白においても、その趣旨とするところは、地主から炭素工場の解体作業に使うため火薬類入手の依頼を受け、そのために、これらを入手したというものであり(員供、28・8・25、甲第五〇八号証、検供、28・9・3、甲第四九八号証、検供、28・9・4、甲第四九九号証、証人尋問調書、28・9・10、甲第五〇二号証)、また、昭和二七年七月二九日夜は映画を見に行つた述べ(員供、28・8・20、甲第五〇六条証、員供、28・8・31、甲第五一五号証)て、七月二九日夜のアリバイを主張し、鉄道爆破については全く供述せず、終始否認の態度を持ち続けていたのである。

右の供述の変遷の経緯および鉄道爆破否認の基本的態度に徴すれば、井尻は、石塚、藤谷の、自己の面前における供述により、火薬類入手を否認する態度は維持し難いと考て、鉄道爆破否認の点は維持しながら、火薬類入手のみを供述し、心の平静をとり戻すに従い次第に従前の全部否認の態度に復帰したとみても、強ち不当な推測ではないとみられる。また、鉄道爆破否認という基本的態度は身柄拘束の期間を通じて一貫して堅持されているから、火薬類入手の供述が、勾留の苦痛に耐えかねてなされたものとみるのは、この基本的態度を無視した皮相の見解というべきである。

そして、前記各供述を通じてみるとき、その供述の内容自体から、互に裏付け合つて真実らしさを持つているのみならず、前掲の他の証拠にも対応しているところから、その自白は十分の真実性を備えており、これに信用をよせても不当とは認め難い。したがつて検察官が、これを信頼したからといつて誤りがあるということはできない。

井尻が一部自白するに至つたのは、長期拘束の故ではなく他の有力な証拠によつて到底犯行を否認し通せるものではないと観念した結果であつて、拘束と自白との間に因果関係が認められず、任意になされた供述であると判断しても不合理ではない。

七、最後に、井尻は火薬の入手を頼まれたのは、その火薬類を平岸の炭素工場の解体作業に使うためである旨供述するのであるが、果して、そのような事実があつたのか、どうかを念のため検討しておく。

大須田卓爾は司法警察員に対し、昭和二八年八月二三日、「平岸の炭素工場の解体の話は昭和二七年六月頃、隣家の岩城雪春から、同人がもと使われていた関川幹という人が解体作業を落札すると聞いた。我々も仕事にありつけると喜んでいた。松下梅蔵が平岸の内村組が落札すれば、自分も下請させて貰うから一緒にやらないかと言つたことがある。しかしいずれも立消えとなつて何処の人が落札したかわからないが夏頃解体作業が始つていた。自分が解体を請負うようなことを誰にも言つたことはない。」旨供述(乙第二六一号証)しており、井尻も第一審第三九回公判期日(前掲甲第一三三号証)に、「岩城雪春や洋服屋の三国から関川誠等が炭素工場解体作業をするようになれば、仕事があると聞いたことがある。」旨供述しているところから、昭和二七年夏頃、平岸炭素工場解体作業の話がもちあがつていたことは事実であると認められる。

しかし、山内繁雄は司法警察員に対し昭和二八年九月二日「平岸炭素工場問題では防衛するということが党としての方針であり、当時、俺と阿部、山口等の間では絶対に解体するということはあり得ない。解体に対して絶対反対という立場で斗争して来たのであつて、党の中で解体するという意見をもつていたという話も聞いていない。党の会議も平岸炭素防衛問題であつた。」旨供述(乙第二五四号証)しており、地主照も昭和二八年九月一日、検察官に対し、「党で平岸の工場の解体をするという方向の話をしたことは知らない。解体の下請をするというような事も聞いていない。」旨供述(甲第五三八号証)していた。

また昭和三一年六月九日の第一審第六〇回公判(甲第二一〇号証)においては、地主は「炭素工場の撤去作業のことを誰からか記憶しないが聞いたことはある。しかしそのことで井尻と話したことはない。私が撤去作業に関係したこともないし、作業内容も聞いていない。火薬を使うかどうかも聞いてない。」旨供述していたが、昭和三七年一〇月二四日の第二審第三八回公判(甲第三五七号証)においては、地主は「炭素工業の撤去作業というのは全然わからない。平岸炭素工場の仕事があるのだと聞いたこともないし、炭素工場の仕事について全然考えたことはない。」旨供述しているほどである。

平岸炭素工場解体作業の話は、噂話程度のことで、ましてや右解体作業に火薬を使用するというような具体的段取りについての話がもちあがつていたとは到底認められない。

原審において控訴人三沢三次郎が、火薬を平岸炭素工場の解体作業に使うというのは偽装じやないかと思う旨供述するもの、けだし相当な推測であつたと認められる。

第六二、窃盗および爆発物取締罰則違反・電気車往来危険の公訴提起について

本件記録ならびに弁論の全趣旨によれば、井尻、地主の発破器窃盗、爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪の公訴事実に関する検察官の主張に符合する関係人の供述証拠および物的証拠を検察官が所持、蒐集していたことは明らかである。

被控訴代理人は「井尻、地主を発破器の窃盗で起訴した際、検察官はその裏付けとなる何らの証拠をも有しなかつた。何らの証拠がないというにとどまらず、昭和二七年六月に井尻が三坑現場から発破器を窃取したという公訴事実が虚偽であることを検察官は知つていたのである。また爆発物取締罰則違反・電汽車往来危険の起訴も、発破器窃盗が事実無根であり、火薬入手の謀議、石塚の火薬運搬、井尻から地主への火薬等の交付、七月一二・一三日の石塚に対する勧誘、七夕の日の話、二・三坑坑務所からの雷管等の窃取、鉄製ハンドルの入手、発破母線の入手という主要な事実の全てが、明白に客観的事実と矛盾し、あるいは重大な疑問を含んでいるのである。」と主張する。

しかし、前項までに詳細に検討したように、検察官が蒐集していた関係人の各供述証拠は、いずれも信ぴよう性があると判断しても何ら不合理ではなく、かつ右供述証拠は物的証拠によつても支えられ、何ら客観的事実と矛盾するものではないから、検察官が発破器窃盗についても、爆発物取締罰則違反・電汽車往来危険罪についても、有罪判決を得る可能性が十分あると判断したのは合理性を有し、右判断には何らの過誤も存せず、起訴は相当であつたと認めることができる。

ちなみに、本件鉄道爆破事件の起訴、地主が共犯者であるとの検察官の主張に符合する新証拠が顕われた。すなわち山脇代美子は第一審第二〇回公判(29・8・4)おいて、証人として「私は、この前遺留品を発見したことについて、この法廷で証人として証言したが、その時、被告人のうち一人は、前に私の家の田圃で見たことのある人だと思つた。私が見た場所は、私方から一五〇間位西方よりも多少北寄りの家から最も遠い田圃で、三番草の取り始め頃であつた。午後二時半か三時頃だつた。私は遺留品が発見された場所から西方約一〇間位の所で草取りをしていたが、ざわざわと草を踏む音が聞えたので、顔をあげたら、その人が、私から三間位離れた所に立つていた。それより少し前に崖下から犬の吠声が聞えたので、崖下の国道から来たのだろうと思つた。その人は戦斗帽か炭鉱帽のような帽子をかぶり、国防色の上衣を身にピツタリ着け、国防色がかつた炭鉱の作業ズボンのようなものをはいていた。背中には炭鉱用リユツクサツクのようなものを背負つていた。リユツクには何か入つていて、リユツクは狭い細長い中程度より古い長さ一尺二、三寸位のものであつた。その人は年は四〇才位で、やせ型、顔は百姓に比べて青白く、体つきも、たくましい方ではなく、眉毛が濃くて目と眉毛との間が近くて、目は大きい方だつた。蕗取りに来た人ではなさそうだつたし、普通の人は声ぐらいかけて行くのに、何しに来たのだろうと思つて注意して見たのである。顔は斜めから見たがよく見えた。その人は、やせ型のところや眉毛や目のパツチリしたところ、髯、背丈等から、ここにいるこの人(地主を指す)に似ていると思う。その人は、一、二分位立つていて用水溝沿いに一五、六間、鉄道線路の方へ行つておつた。農家簿記(第二〇回公判期日に領置、甲第五九号証、任意提出書、28・12・1、甲第四一九号証、領置調書、28・12・1、甲第四二〇号証)の記載によると、三番草は七月二七日から取り始めたことになつているが、あるいは二番草の終りかもわからない。二番草の終わりは七月二五日である。七月二九日より前に見たことは間違いない。私は、この前法廷に出頭した時、この人(地主を指す)を見て、前に見たことある人と思つたので、裁判所に一緒に出頭した奈良巡査に控室でこのことを話した。」旨(甲第六〇号証)証言し、第二審第三回公判(33・2・28)においても、証人として、ほぼ同旨の証言をし、さらに同第三四回公判(37・5・17)においても、同様な証言をした。右供述によれば、右日時頃地主が右地点を徘徊していたことを推認することができる。

〔証拠省略〕を総合すると、山脇代美子は、右第一審第二〇回公判に証人として喚問される前の昭和二九年五月二六日、山内繁雄、井尻光子、大須田時枝の三名に自宅に押しかけられ、「他人の空似」ということもあるではないかと、暗に前掲証言をしないように長時間にわたつて強要されていたところ、たまたま巡回して来た警察官に発見されて窮地を脱した事実が認められる。

山脇代美子は、地主とは何の関係もない農家の主婦である。しかも、右のように、山内繁雄、井尻光子、大須田時枝らに、家に押しかけられて、威圧を受けながらも、なおかつ前掲のような証言をしたのである。

なるほど本件鉄道爆破事件発生直後に警察官らによつて、附近一帯について聞込み捜査がなされたであろうし、また山脇代美子は本件遺留品の最初の発見者であつたところから、何故捜査段階で右の事実を捜査官に告げなかつたかとの反論もあろうが、法廷で地主の顔を見てはじめて、その時まで、全く失念していた記憶がよみがえるということも、一般の経験に照しても十分あり得ることである。

右証言は地主の面前でなされたものであるが、縁も由りもない山脇が、他人をおとし入れるために、かような証言をするとは到底考えられない。右証言は相当信ぴよう性が高いものといえる。

地主は本件事件について何ら供述していないが、右証言は地主の共謀を推測させるものである。

以上のとおりであつて、本件公訴が、何らの信用に価する証拠なくして提起されたものではなかつたことが、公判で顕われた新証拠によつても、裏付けられたのである。

第六三、一五三五九号発破器の隠匿について

被控訴代理人は、「昭和二七年六月中旬、三坑現場で紛失した発破器は一五三五九号であることは動かせない事実であり、大興における発破器の紛失は、同年四月頃の第二露天の埋没と右一五三五九号の紛失だけであるのに、検察官は一五三五九号は『本件発生の相当以前に』『本件発破器と別の機会に紛失した事実も判明』したと主張し、従つて本件証第二一号発破器の窃盗とは無関係なものとして一五三五九号発破器を隠匿し、これを公判廷に提出しなかつたが、そのことは過失によるものではなく、故意による犯罪行為である。』と主張し、控訴人代理人は「右一五三五九号発破器は、本件に無関係であつたから提出しなかつた。」と主張する。

検察官が、井尻正夫、地主照らが共謀して昭和二七年六月中旬頃、三坑作業現場付近で窃取したとして起訴した鳥居式一〇発掛電気発破器一台(甲第一号証の三)は、遺留品である証第二一号発破器である。

右窃盗罪の立証のためには、証第二一号発破器が六月中旬頃、三坑現場付近に存在した事実を立証すれば足り、物証としては、証第二一号発破器を公判に提出すれば十分である。

一五三五九号発破器は、右窃盗罪の立証には関係ないことが明らかである。

ところが、第一審の昭和三一年四月四日の公判準備において、弁護人申請の証人福士佐栄太郎は、「失くなつた発破器が後に発見されたと聞いている。この爆破事件発生後一年位経つた頃、中田巡査部長の取調べを受けたとき、同部長から、その旨聞かされた。中田部長は『お前が紛失したという発破器は三坑向堀へ行く途中の向い坑道の方角違いのところにあつた。』と言つていた。」旨(甲第一八一号証)証言した。

そして、同年四月一一日の公判準備に証人中田正(巡査部長)も「一五三五九号発破器は、油谷炭鉱の保安係斉藤伝三郎が、本件の事件後五ヶ月位して三坑の坑道で発見したということであつたので、私はその発破器を借りて警察へ持つて帰つた。しばらく警察の保管庫に入つていたが、その後、検察庁へ送られていると思う。」旨(甲第一八四号証)証言した。

検察官は、一五三五九号発破器が、起訴にかかる昭和二七年六月中旬頃紛失したジユラルミン製発破器でないことは、十分捜査をしていた。しかして公判になつてからも、右六月中に紛失した発破器が真鋳または銅にメツキしたものであるとの証言は、多数の証人の誰からも出なかつた。三坑立入で紛失した発破器は証第二一号であり、一五三五九号発破器は証第二一号発破器とは全く材質の異つた真鋳製、提革の止め金が鉤型という顕著な特長を有するもので、証第二一号とまぎれることもあり得ず、これは昭和二七年五月一〇日頃以降、六月初めまでにしかも三坑立入現場でなく、向堀へ行く途中の坑道で紛失したものであり、起訴にかかる証二一号発破器の窃盗事件とは、無関係の物であると、かねて判断していたが、右の福士証言、中田証言が、一五三五九号発破器に関連していたので同年五月一日の公判準備において証人浜谷博義が尋問される際、検察官は自発的に一五三五九号発破器を持参して、同証人に示している(甲第一八五号証)のである。

また同年五月一一日の公判準備における証人鷹田成樹に対する尋問の際も、検察官は一五三五九号発破器を持参して示している(甲第一九二号証)。そして、第一審第五九号回公判(31・6・5)において、検察官から一五三五九号発破器の証拠調べが請求され(甲第二〇五号証)裁判所によつて、証第一二九号として領置(甲第五九一号証)された。

以上のとおり、検察官は三坑立入で昭和二七年六月中旬頃、紛失したジユラルミン製のナンバープレートが剥離された発破器と一五三五九号発破器とは全然無関係であり、証拠として提出する必要はないと考えていたが、関係証人の証言に顕れたので、事実の解明のため、自発的に一五三五九号発破器を法廷に提出したものと認められる。

被告人、弁護人側から証拠開示の申出があつても、検察官は証拠調の請求をする意思のない証拠は、開示しなくてもよいというのが、当時の検察実務の慣行であつたことを考え合わせると、裁判所の証拠開示の命令もないのに、検察官自らの証拠調べの請求をし、事実関係を明らかにしようとしているのであつて、これを隠匿する意図は全くなかつたというべきである。

第六四、八七五〇号発破器関係書類の不提出について

一、被控訴代理人は、「もともと発破器の捜査は、八七五〇号を中心に進められたが、八七五〇号が亜東組石井の後、誰の手に入つたかはついに不明のままで、大興商事へ渡つたことを推測させる証拠さえ皆無であるところ、他方大興商事の側からは、その所持している発破器の入手経路はすべて明らかであり、八七五〇号と結びつくものはなく、その立証ができないため、八七五〇号関係の記録を隠し、公判廷に提出しなかつた。」と主張する。

前にみたように、捜査段階初めにおいて、遺留品の発破器(証第二一号)が、油谷炭鉱で盗難にあつた八七五〇号発破器であると推定され、八七五〇号発破器の追跡という形で捜査が進められたことは、明らかである。

しかして八七五〇号発破器は、油谷炭鉱から猿山洋一によつて窃取され、それが高橋鉄男に売却依頼されて、同人の手に渡つた(後述するように警察官らは高橋鉄男の手に渡つたことまでしか認め得なかつた旨証言している。)後、さらに亜東組の石井清に売却されたことまで認定しても相当な資料は存した。しかしこれが大興の手に入つたとの資料は現われてこなかつたのである。

ところで、井尻正夫、地主照に対する窃盗被告事件の起訴状(28・9・6、甲第一号証の三)、現場証拠捜査一覧表(乙第四一六号証)原審における控訴人三沢三次郎、当審における控訴人金田泉、同高木一の各本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、前掲起訴状には「大興商事株式会社芦別油谷鉱業所所長大野昇保管に係る同会社所有の鳥居式一〇発掛電気発破器一台時価六、〇〇〇円位相当」と記載されているのみであり、検察官が窃盗の目的物として起訴したのは、証第二一号発破器であり、八七五〇号発破器を起訴したものではないこと、前掲現場証拠捜査一覧表は札幌高等検察庁において検事長に処分の請訓をするに当り、札幌地方検察庁検事正が作成した基礎資料であるところ、同表の番号(9)には「油谷炭鉱八七五〇号?」と記載され、あくまでも推定で、証第二一号発破器八七五〇号であるか否かについては、多分の疑問があるとされていたこと、検察官は本件発破器窃盗については、証第二一号発破器が、油谷炭鉱の三坑、六坑の大興商事作業現場に存在し、大興商事の係員、坑夫らによつて、これが使用されていたこと、しかも右発破器は大興商事のものとして存在したのであつて、油谷鉱業所から借用したものではないことが、立証されれば足り、入手経路は、はつきりしなくても問題ないと考えていたことが認められる。

思うに窃盗罪の構成要件としては、他人の所持、占有にかかる財物が奪取されたことが証明されれば十分であるから、検察官の判断は合理的である。のみならず、右のおり検察官は証第二一号発破器が八七五〇号発破器であるとすることには疑問を持つていたのである。そして、仮に、証第二一号発破器は八七五〇号であると推定することが、合理的であるとしても、そのことは第二一号発破器の故事来歴に関する事柄であつて、本件窃盗罪の成否には影響ないことであるから、証第二一号発破器が八七五〇号発破器であるとの立証をする必要を認めず、したがつて、八七五〇号発破器関係の捜査書類を公判廷に提出しなかつたとみられるのであつて、この記録をことさらに隠匿したとみることはできない。

二、被控訴代理人は、「検察官が第一審で『尤も比の間、昭和二七年八月上旬から同年九月上旬にわたり証人田口実はじめ高橋鉄男、村上厳、猿山洋一及び高橋源之丞等が油谷炭鉱二坑内現場から鳥居式発破器を窃取した事件を検挙したが、その賍品は何れもその処分先から発見されて明瞭となり、本件との関連は全然認められなかつたものである。』(甲第二一一号証)と論告したが、右論告は事実に反し、かかる虚偽の論告は単なる過失ではなく、故意によるものである。」と主張する。

なるほど、右論告は捜査段階で、捜査官らが推定していた事実ならびに発破器窃盗起訴にあたつて起訴検察官が推定した事実に反する陳述をなしたものであることは明らかである。

(証拠省略)によれば、堂ノ本検事の論告は、明らかな誤りで説明がつかない旨、三沢検事は論告の資料となる書面を検事正に渡して転任したが、右論告のような趣旨のことは、その資料には記載しないし、引継いだことはない旨、その点について、もう少し徹底して書いておけばよかつた旨供述していることが認められる。

思うに、検察官には同一体の原則があり、起訴、不起訴、訴訟の維持・追行については、一体として行動する義務があるとはいえ、検察官はそれぞれ独立の行政庁であり、しかも法律専門家である。訴訟は法廷にあらわれる個々の証拠の積み重ねによつて発展的に実体形成されて行くものである。捜査段階での想定、見込みと、その後の訴訟の経過によつて顕われる証拠によつて、認められる事実との間に相違を来すことは屡々あり得る。しかして検察官は、実体形成過程において時々刻々、形成される法律家として、その自由心証によつて事実を認定をなす自由を有する。さもなくば、臨機応変に円滑な訴訟の活動はできない。このことは検察官同一体の原則に些かも牴触するものではない。

ところで堂ノ本検事が、前記のような論告をした以上、猿山洋一、高橋鉄男らの窃盗事件、賍物牙保事件の記録は十分検討しているはずである。そこで高橋鉄男の検察官に対する昭和二七年九月一日付供述調書(甲第五五六号証)、高橋鉄男に対する起訴状(27・9・10、甲第五五九号証)、高橋鉄男に対する判決(28・3・31、甲第五五七号証)を対比してみると、高橋鉄男は〈1〉昭和二六年一〇月末頃、田口稔から同人が窃取して来た楕円型新高式発破器の売却方を依頼され、これを油谷炭鉱下請亜東組の事務所において、大沼外美に対し二、二〇〇円で売却した(その際石井清も同席した)旨、〈2〉同年一一月中旬、猿山洋一から同人が窃取して来た鳥居式発破器(八七五〇号)の売却方を頼まれ、これを亜東組の事務所において、石井清に対し一、五〇〇円で売却した(その際大沼も同席した)旨、〈3〉同年一二月中旬、猿山洋一から同人が窃取して来た鳥居式発破器(一四八二〇号)の売却方を頼まれ、これを亜東組職員松倉平治方で、同人に対し一、五〇〇円で売却した旨、〈4〉昭和二六年一二月中旬、村上巌から、同人が窃取して来た鳥居式発破器(A二八号)を石井清方で、同人に一、五〇〇円で売却した旨の供述をしていることが認められる。一方、大沼外美の検察官に対する昭和二七年八月三〇日付供述調書(甲第五五三号証)によれば、大沼外美は高橋鉄男から右〈1〉の新高式楕円型発破器を亜東組として二、二〇〇円で買受けたこと、〈4〉の鳥居式発破器(A二八号)を石井清方に行つた際、石井から、どうして手に入れたか知らないが、この発破器を持つて行つてくれと言われて、事務所に持ち帰つたことはある。しかし昭和二七年七月一五日頃右二台の発破器を油谷鉱業所の内電係に修理に出したところ、いずれも油谷炭鉱の物であるということで取上げられた。その余のことは知らない。」旨供述しており、そして石井清の検察官に対する昭和二七年八月二三日付供述調書(甲第五五四号証)によれば「高橋鉄男から〈1〉の新高式楕円型発破器を二、二〇〇円で買受けたことは大沼外着から報告を受けて知つている。〈4〉の鳥居式発破器(A二八号)は高橋鉄男が私方自宅へ持つて来たので買受けた。右二台の発破器は昭和二七年七月ごろ、修理に出したところ、油谷鉱業所の物ということで取上げられてしまつた。〈3〉の発破器(一四八二〇号)は昭和二六年暮、会計主任をしていた松倉が退職する際、買つたということを最近警察で聞かされて知つたが、亜東組には関係なく松倉が買つたものである。高橋鉄男が持つて来たもう一台の発破器は八月一〇日警察へ差出した。私の会社で高橋鉄男から購入した発破器は三台だけである。」既供述していることが認められる。

しかして猿山洋一の検察官に対する昭和二七年八月一六日付供述調書(甲第五五二号証)によれば、猿山は、「昭和二六年一一月初頃油谷炭鉱二坑一番層右三片の火薬貯蔵所から発破器一台を窃取し、同年一二月初頃にも同二坑一番層左一片の火薬箱から発破器一台を窃取し、いずれも石狩土建の高橋鉄男に売却を頼んで渡した。」旨供述していることが認められる。そして右供述調書には、「領置にかかる五台の発破器の中から一四八二〇号と、番号型式を表示したプレートが剥ぎとられた大型発破器で革の提革がついたもの(おそらく証第二一号発破器と推認される)を選択した。」との記載がある。しかし、油谷鉱業株式会社油谷芦別炭鉱所長塩谷猛作成の昭和二七年九月五日付盗難被害顛末書(甲第五五一号証)には、鳥居式一〇発用発破器八七五〇番が二坑三片火薬箱内に保管中盗難にかかつた。八七五〇番であることは、二坑器材係佐野留之助の台帳の記載でわかつた。この発破器は辻内弘、米沢俊見、渡辺喜代志係員らが使用していたが、昭和二六年一一月二三日頃盗難にかかつたことがわかつた。しかし警察から鳥居式無番号発破器を持参して、米沢係員およびその他の係員に見せたが、同人らが使用中紛失した発破器ではないと申出てある。」旨の記載がある。また修理係の佐藤政男の検察官に対する昭和二七年九月七日付供述調書(甲第五四八号証)には、「ナンバープレートの剥離した発破器はアマチヤー(発電子)の絶縁体に有合わせの紙テープを使用しているので、私が修理したものに大体間違いないと思う。修理伝票によると八七五〇の発破器を昭和二六年九月と一〇月に一回あて修理したことになつているが、お示しの発破器には、文字板がないので、この発破器が八七五〇号であると、はつきりはいえない。」旨の供述をしている。

しかし、電気機器故障及受付修理状況記入簿(甲第五八七号証)の記載によれば「八月二二日に発破器八七五〇、カバー取付、一〇月一三日不発電ビス二本」との記載があるのみで、アマチヤー修理の記載はない。

ところが、堂ノ本検事が本件芦別事件の公判に立会するようになつて、昭和三一年五月一一日の公判準備に佐藤政男は証人として尋問され、「昭和二七年八月頃、芦別の警察から発破器を示されて修理したかどうか尋ねられたことがあるが、私が修理したものであるかどうか、はつきりわからなかつた。遺留品の発破器の中のコイルの部分に自分がやつた仕事ではないかと思われる節がある。心棒の廻りのところにも、紙が見えるが、この紙については思い当るところがない。またコイルには擦り傷のようになつてエナメルの剥げた部分があるが、私はこの傷には見覚えがないし、コイルに傷があれば、私どもとしては、当然修理するはずである。お示しの発破器は、私が修理したものに似ているという程度である。」旨証言(甲第一九一号証)した。

そもそも前掲したように八七五〇号発破器の盗難被害顛末書によれば、被害者である油谷鉱業所の八七五〇号発破器を使用していた各発破係員らも、証第二一号が八七五〇号ではないといつていること前掲のとおりである。

そうだとすれば、捜査に関与せず、公判のみに立会した堂ノ本検事が、証第二一号は八七五〇号ではないとの心証を抱いたとしても不合理ではない。

検察官は論告をするに当つては、その段階での証拠に基づき検察官の自由心証により事実を認定して、その事実が認定される所以のものを陳述すれば足りる。このことは弁護人の意見陳述についても全く同様である。当事者双方とも、ある事実を認定するのでなければ、事実についての意見は陳述できない筋合である。検察官、弁護人、裁判所が三者三様の事実を認定することがあるのも稀ではない。その事実認定が恣意にわたらないための歯止めは、証拠法則と経験則、論理法則のみである。この法則を逸脱しないがぎり、事実認定をするに当つては、自由心証主義が認められている。

捜査検察官、起訴検察官が、証第二一号発破器は八七五〇号であると推定し、それに従つて捜査がなされ、かつ本件窃盗の起訴がなされたものであることは前述したとおりである。しかし堂ノ本検事は、証第二一号発破器が八七五〇号ではないと認め得る前掲各証拠の方に信用を措き、証第二一号発破器は、八七五〇号ではないと判断したと解せられる(立会検察官が堂ノ本検事に代わつてから、佐藤政男の証人尋問の請求をしたのも、証第二一号発破器が八七五〇号ではないということの立証のためと推認できるし、原審における控訴人三沢三次郎本人尋問の結果によれば、三沢検事は、佐藤政男の証人尋問の請求をする意思はなかつたことが認められる。)。しかして、同検事は、八七五〇号発破器は油谷炭鉱二坑から猿山洋一によつて窃取され、それが、高橋鉄男に売却依頼されたこと、高橋鉄男はこれを亜東組の石井清に売却したこと、石井清は高橋鉄男から右八七五〇号発破器を含め三台の発破器を買い受けたが、そのうち二台は油谷鉱業所に修理に出したところ、盗品だということで取上げられ、残る一台は昭和二七年八月一〇日警察署に提出したことが認められると判断したものと解せられる。そうだとすれば、八七五〇号発破器の処分先もわかつたことになるわけである。もつとも全資料を精査しても、八七五〇号発破器が油谷鉱業所に提出されたか否か、警察署に提出されたか否かを調査した形跡は認められないから、「猿山洋一が油谷炭坑二坑から窃取した鳥居式発破器は、その処分先から発見されて明瞭となり、本件との関連は全然認められなかつた。」旨陳述したことは、処分先から発見されたとの点において、いささか軽卒のそしりを免れず、措辞妥当ではないが、堂ノ本検事が論告で陳述したところは、証第二一号は八七五〇号発破器ではなく、証第二一号発破器と八七五〇発破器との関連は認められないということを主張した趣旨に解せられる。そして堂ノ本検事が捜査検察官、起訴検察官と証拠価値の評価を異にしたとしても、自由心証主義の範囲を逸脱したとはいえないから、右論告における事実についての意見陳述は合理的根拠に基づくものであつて、故意に虚為の論告をなしたとみることはできない。

あるいは捜査に関与した金子誠二副検事も、同時に公判に立会(第一審第六〇回公判調書、31・6・9、甲第二〇八号証)しているのであるから、そのようなことはあり得ないとの反論もあるかも知れないが、金子副検事も、また訴訟の経過に鑑み、証拠の評価を再検討し、当初の事実認定を改めたとみられないわけではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

三、被控訴代理人は、「第二審検察官は『猿山が窃取した発破器が八七五〇号であることは、証拠上明らかであると思料する。その発破器が本件遺留品である当審昭和三一年甲第二〇九号証二一号であるかどうかについては若干疑問は残るが大体において同一物であると確認できる。』(甲第三三三号証)と釈明したが、八七五〇号ないし遺留品の発破器が大興商事にあつたと見る余地は全くないから、検察官が、八七五〇号発破器関係の捜査を第二審第三二回公判に至つて明らかにしたのは、発破器窃盗の公訴事実については不利益になつても、遺留品の発破器が何らかの機会に大興商事の現場に存在するに至る可能性がないとはいえず、したがつて井尻正夫がそれを入手し所持していたものであるという雰囲気をかもし出そうとしたものである。そして、発破器窃盗を犠牲にして他の公訴事実を救おうとしたものである。」と主張する。

第二審になつて、弁護人の申請により証人となつた警部田畠義盛、同芦原吉徳は、八七五〇号発破器関係の捜査について、遺留品の発破器(証第二一号)を発見後間もなく、油谷鉱業所に持つて行つたところ、同鉱業所の修理係佐藤正男が、この発破器を修理したことがあるといい、修繕した形跡から見て、油谷鉱業所の発破器であることが判明した旨、油谷鉱業所には遺留品の発破器(証第二一号)と全く同種の物が四、五台あつたが、発破器台帳によると一台だけ紛失しており、それが八七五〇号であることがわかつた旨、右佐藤正男の記載した電気機器故障及び修理状況記入簿(甲第五八七号証)にも八七五〇号を修理したことの記載があつた旨、証第二一号発破器のナンバープレートは剥離されているが、右発破器台帳の記載と修理状況記入簿の記載から八七五〇号であろうと推定できた旨、八七五〇号発破器は昭和二六年暮頃二坑の直轄作業現場で盗難にあつていることがわかつた旨、捜査の結果、八七五〇号発破器を盗つたのは油谷鉱業所の従業員猿山洋一であることがわかつた旨、猿山は右発破器を高橋鉄男に売つてくれと頼み、高橋に一、〇〇〇円か一、五〇〇円で売つてもらつたと自供した旨、猿山に証第二一号の発破器を示したところ、大体こんな型であつたが、ナンバープレートは付いていたかどうか知らないと供述した旨、八七五〇号発破器が盗まれる前まで使用していた係員に証第二一号を示したが、細い点は記憶していないと供述した旨、高橋鉄男は猿山から売却方を頼まれて発破器を受取つたことがあることを認め、その受取つた発破器は多分証第二一号だと思うと供述したが、売却先については、はつきり供述しなかつた旨、昭和二七年一二月末までの捜査では八七五〇号発破器が高橋のところまで追跡できたが、その先はわからなかつた旨、遺留品の発破器(証第二一号)が、八七五〇号と推定されるものであることは捜査関係者はすべて知つていた旨証言した(第二審第一九回公判、証人芦原吉徳証言、甲第二八四号証、同第二〇回公判証人芦原吉徳証言、甲第二八七号証、同第二三回公判証人田畠義盛証言、甲第二九九号証、同第二九回公判証人田畠義盛証言、甲第三二三号証)。

その後、弁護人の申請により証人となつた前記芦原吉徳、副検事好田政一は、高橋鉄男は八七五〇号発破器を亜東組の石井清に売却したと供述した旨、石井清も高橋が売込みに来て買受けたことを大体認めていた旨、八七五〇号発破器が一応石井のところへ納まつたことはわかつた旨、石井はその発破器は見えなくなつたとか、警察に提出したとか述べていたが、どのように処分したかわからない旨証言した(第二審第三六回公判証人芦原吉徳証言、甲第三五一号証、同第三七回公判証人好田政一証言、甲第三五三号証)。

右のとおり八七五〇号発破器の捜査結果が第二審になつてはじめて明らかにされたわけである。しかし、右各証人はいずれも弁護人の申請によるものであつて、検察官の申請によるものではない。したがつて、検察官が八七五〇号発破器の捜査の経緯を明らかにしたものではなく、弁護人がこれを明らかにしたものである。被控訴代理人の「検察官が、捜査の経緯を明らかにして、遺留品の発破器がなんらかの機会に大興商事の現場に存在するに至る可能性がないとはいえず、したがつて、井尻正夫がそれを入手し所持していたものであるという雰囲気をかもし出そうとしたものである。」という主張は全く事実に反し採用できない。

四、右各証言により八七五〇号発破器の捜査の経緯が法廷で明らかになつた。その間に、第二審裁判所は、検察官に対し、八七五〇号発破器関係の書類を提出するよう促したであろうことが、弁論の全趣旨により窺われる。第三一回公判(37・4・18)に検察官は猿山洋一少年保護事件記録、被告人高橋鉄男に対する窃盗被告事件記録、被告人高橋鉄男の検察官記録、電気機器故障及受付の修理状況記入簿を任意に提出し、第二審裁判所は職権で、これを取調べて領置し(甲第三二八号証、同第三二九号証)、さらに第三二回公判(37・5・4)に検察官は、被告人高橋源之丞、被告人田口稔に対する窃盗被告事件記録、石井清、大沼外美に対する賍物故買不起訴事件記録を任意に提出し、同裁判所は職権で、これを取調べて領置し(甲第三三四号証、同第三三五号証)たものである。

検察官は、証第二一号発破器の存在の立証としては、これが捜査の経過を立証する必要もないし、また、これを立証しなければ、真実義務に反するものでもないが、裁判所の示唆に基づき、直ちに任意に提出しているのであつて、右記録提出を拒んだ事跡はみられず、誠実に訴訟を追行したものであつて、前記捜査の結果、ならびに公判の推移に鑑みれば、検察官に何らの過誤も認められない。

五、右第三二回公判で検察官は「猿山が窃取した発破器が八七五〇号であることは、証拠上明らかであると思料する。その発破器が、本件遺留品である当審昭和三一年甲第一〇九号証二一号であるかどうかについては若干疑問は残るが、大体において同一物であると確認できる。」(甲第三三三号証)と釈明したのである。

右第二審検察官の「若干の疑問は残るが、大体において同一物であると確認できる。」との表現は、おそらく「推定できる。」との趣旨と解せられる。

前掲証人芦原吉徳、同田畠義盛、同好田政一らが証言するように、遺留品の発破器(証第二一号)発見後、間もない頃から、証第二一号発破器が油谷鉱業所所有の八七五〇号発破器であるとの推定のもとに、八七五〇号発破器の追跡という形で捜査が進められたことは明らかである。

そうして、原審における控訴人三沢三次郎、原審ならびに当審における控訴人高木一、当審における控訴人金田泉の各本人尋問の結果によれば、捜査官のみならず、起訴官も証第二一号発破器が八七五〇号発破器であると推定していたことが認められる。

しかし、前掲証人らの証言するとおり、八七五〇号発破器は、高橋鉄男まで(前掲田畠証言)、または亜東組の石井清まで(前掲好田証言)たどれたのみで、その行方は、ようとしてわからず、解明できなかつたのである。しかし、推定はあくまで推定であつて、証第二一号発破器が八七五〇号であると推定することには、若干の疑問は残つていたのである。前にも、みたように、この推定を覆す資料もあつたのである。

証第二一号発破器が、八七五〇号であるとの推定は、さほど確かなものではなかつたのである。

さきに、みたように第一審で論告をした堂ノ本検事は、証第二一号発破器が八七五〇号であると推定しなかつた。

しかし、第二審検察官は、第一審の論告をした検察官と証拠の評価を異にし、捜査官らや起訴検察官と同様に、若干の疑問はあつても、証第二一号発破器は、八七五〇号であると推定するのが妥当であると判断して右釈明をなしたものとみられる。かように判断したとしても著しく不合理ではない。

第二審第三二回公判で検察官が右釈明をした直後、弁護人は「発破器の所有者を大興商事から油谷鉱業所に変更するかどうか。」と釈明を求めた(甲第三三三号証)。

検察官は第三三回公判で「発破器が事件以前大興商事の作業場にあつたものであるという事実関係に変りはなく、発破器の所有権の帰属の如何は、さして問題にする必要はない。従つて訴因を変更しなくとも事実と矛盾しないと思料する。」と釈明した(甲第三三八号証)。

思うに検察官が起訴したのは、六坑、三坑の大興商事作業現場で使用されていた証第二一号の発破器であり、それが三坑で窃取されたというのである(起訴状、甲第一号証の一、冒頭陳述、甲第三号証)。

そして、遺留品の発破器(証第二一号)が、八七五〇号であることが、証拠上疑いの余地がないほど確実なものでないこと堂ノ本検事の論告に見るとおりであり、仮に八七五〇号であるとしても、大興商事にあつたと見るに足りる資料があつたのである。現に第一審判決で発破器窃盗が、無罪となつた後の第二審公判においても、中村誠(第三回公判、33・2・28、甲第二一四号証)、石塚守男(第六回公判、33・5・7、甲第二二一号証)、鷹田成樹(第八回公判、33・7・16、甲第二二六号証)、北崎道夫(第八回公判、33・7・16、甲第二二四号証)、外記重弘(第一二回公判、33・12・19、甲第二三五号証)らは証第二一号の発破器が大興商事にあつたとの証言をしているのである。

なるほど証第二一号発破器が、八七五〇号だとすれば、大興商事への流入経路は、証明し得ないことになるが、前にみたように八七五〇号発破器が大興商事に絶対存在し得ない資料があるわけではないところ、右のように証第二一号発破器が大興商事の作業現場にあつて、これが使用されていたことの証拠は、第二審においてさえ出ていたのである。

窃盗罪の保護法益は所持、占有であるから、検察官が「所有権の帰属の如何はさして問題にする必要はない。従つて訴因を変更しなくても事実と矛盾しないと思料する。」と釈明したことも当然である。検察官の右釈明が虚偽の主張であるとの被控訴代理人の主張は理由がない。

大興商事が八七五〇号発破器を入手したという証明ができないとしても。証第二一号発破器が大興商事の作業現場にあつたことが証明されれば、窃盗罪の構成要件としての証第二一号発破器の他人の所持が立証されたことになり、犯罪の証明十分と考えたとしても何ら不合理ではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

第六五、公判廷に提出された雷管について

一、被控訴代理人は「刑事第一・二審公判廷に証第一〇号の一ないし五として提出された雷管は昭和二七年八月四日に遺留品として発見された雷管とは異るものである。為造された証拠物である雷管を公判廷に提出した検察官には、仮に故意がなかつたとしても重大な過失がある。」と主張する。

しかし証第一〇号の一ないし五として刑事公判廷に提出された雷管が遺留品の雷管であり、人工による切断はないと認めるべきことは前に雷管についての項で、説示したとおりであるから、これに反する被控訴代理人の主張は理由がない。

なお、雷管の同一性に疑いをはさむ理由はまつたくなかつたのであるから打田清作成の「爆薬処理現場立会について」と題する報告書(28・7・4、甲第四一四号証)、斉藤満作成の火薬類保管証(28・1・3、甲第四一一号証)、同火工品保管証(28・7・3、甲第五七六号証)を検討しなかつたとしても、何らの過誤は認められないし、これらの書面を検討したとしても、遺留品の雷管と同一性のある雷管が送付されている以上、同一性について疑いを抱かないことに過誤はない。

二、被控訴代理人は「検察官が証第一〇号の一ないし四の雷管が短かいのは、人為的であるかも知れないし、腐食によるものかも知れない。然し本件において右が、その二者のいずれであるかの点を、絶対的に確定しなければならない問題ではない旨釈明したことをもつて、極めて不誠実でる。」と主張する。

しかし、証第一〇号の雷管が遺留品の雷管であることに間違いないのであるから、雷管が短くなつたことが、山本祐徳鑑定(30・6・1、鑑定尋問調書、甲第一四一号証)大友董鑑定(31・5・16、鑑定人尋問調書、甲第一九五号証)によつて人為的切断と判断されようと、高橋為男証言(第一審第三三回公判証言、30・1・25、甲第一二〇号証)によつて腐食によるものと判断されようと、証拠としての価値に影響はないものであることを主張したのであつて、何ら不当なことではない。

また「検察官が本件証拠品が裁判所の占有に移つてからの変化について領置中何人かが貸出を受けたかを調査したが、証拠品貸出簿が廃棄されて右調査は不能であつた旨陳述したことをもつて卑劣である」、と主張するが、弁護人の調査結果を明確にせよとの主張に対して、誠実にその結果を述べたのみで何ら不当のことではない。

さらに「検察官は、昭和二八年一〇月の筆跡鑑定の際には、遺留品の雷管そのものが存在していたのかの如く主張するが、そもそもそのこと自体が問題である。」と主張する。しかし、偽造された雷管の「5」の数字の筆跡鑑定を依頼するなどということは到底考えられない。

三、被控訴代理人は「捜査段階において、証拠物の雷管の紛失、証拠物の偽造という事実があるのであれば、公益の代表者である検察官としては、公判廷において卒直に事実を明らかにする義務がある。」と主張する。

しかし、遺留品の雷管が紛失した事実はないし、証第一〇号の各雷管が偽造されたものではなく、証第一〇号の一ないし四が短いのも人工による切断とは認められないのであるから、証第一〇号の各雷管が偽造であることを前提とするこの主張も理由がない。

第六六、工数簿について

被控訴代理人は「検察官は大興商事の工数簿を押収し、捜査の用に供しながら、これを証拠として提出せず、誰が作成したかさえ明らかでなく、また誰が提出したかもわからない証第九二号の一の工数簿(甲第五七八号証の一)を提出し、しかもその内容の正確を必ずしも期待するこの出来ない油谷芦別鉱業所作成の証第一二五号の工数簿)甲第五七九号証)および証第九二号証の二の工数簿を証拠とし提出したに過ぎないが、右はおそらく大興商事の工数簿を提出した場合には、石塚、藤谷、中村をはじめ他の大興商事の関係者の供述が事実に反することが明らかになることをおそれたため以外には考えられない。」と主張する。

一、大興商事自身が作成した工数簿の存在について

井尻昇は、証人として「警察の取調べの時、出勤簿がそうなつていると言つて、全然聞いてくれなかつた。出勤簿というのは一、二枚の日本紙に線の入つたもので大きさは、ザラ紙位のものだつた。」旨(第一審第五一回公判証言、30・9・9、甲第一六二号証)証言し、好田政一(検察官副検事)は、証人として「大興商事の工数簿だというものを芦別市警察署で見たことがある。横に従業員の氏名が書いてあり、出勤した日には丸印がつけてあつた。七月二九日の記載があつたから、七月分だつたと思うが一枚だけだつた。六月分も見たがそれは、油谷炭鉱の工数簿であつて、それは帳簿になつており、油谷鉱業株式会社の所有とわかる程度に装幀してあつた。」旨(第一審第五一回公判証人好田政一証言、30・4・24、甲第一三八号証)証言し、さらに「工数簿は大興商事のものと油谷炭鉱のものと両方あつて、いずれも大体似ていた。昭和二八年五月頃まではあつたが、同年六月か七月頃芦原警部から『工数簿がなくなつた。』ということを聞いたことがある。芦原警部は『あの時に返したのではないか。』と言つていたのを聞いた。」旨(第一審第四四回公判証言、30・6・30、甲第一四六号証)証言し、第二審に至り「大興商事から借りて来たという工数簿は見た記憶がある。工数簿が見えないというので当時捜したということは聞いている。工数簿には大興商事のものと油谷鉱業所の繰込で記入するものと二通あつたが、原則として一致していた。」旨(第二審第二五回公判証言、37・1・17、甲第三〇五号証)証言し、芦原吉徳(芦別市警察署捜査課長警部)は証人として「大興商事から工数簿を借りて来たことがあるが、借りた工数簿は、その当時必要なものは記録して、大興商事に返した。」旨(第二審第一九回公判証言、36・11・8、甲第二八四号証)証言している。

しかして、大久保寛二郎(司法巡査)は、証人として「事件後一ヵ月位経つて大分寒くなつてから、油谷の救護隊本部で山本刑事、工藤刑事、戸塚刑事と大興商事関係の工数簿を写したことがある。昭和二七年六月中の三坑立入堀進現場の工数簿であつた。中田部長に写して早く返せと言われた。」旨(第二審第四四回公判証言、38・9・4、甲第三八号証)証言し、山本末欠郎(司法巡査)も証人として「事件発生後の八月、油谷救護隊本部の小屋で工数簿を写したことがある。自分が写したのは、昭和二七年七月中の三坑立入大興商事工数簿である。」旨(第二審第四四回公判証言、38・9・14、甲第三八七号証)証言している。

以上の各証言によれば、大興商事自身が作成した工数簿が存在していたことは、これを認め得る。

しかして、これが捜査の用に供せられたであろうことも容易に推認できるところである。

二、大興商事自身の工数簿の返還について

三好吉光(大興商事の事務係職員)は証人として「大興商事の作業日誌と工数簿は警察に貸したが、後に返してもらつた。そして昭和二七年九月大興商事が油谷炭鉱の仕事をやめたとき札幌本社の大野則勝社長のところへ持つて行つた。」旨(第一審第三四回公判証言、30・1・27、甲第一二六号証)証言し、第二審に至り「昭和二七年一〇月八、九日頃、札幌本社の社長のところへ、現金出納簿、賃金精算書綴等を持つて行つたが、その時、工数簿も持つて行つたように記憶する。工数簿も出勤簿も一般に工数簿と呼んでいたが、これは各現場で係員が持つていた。昭和二七年八月中に警察官が大興商事の事務所に来て、誰が何日現場に行つたか、誰が何日休んだのではないか等と出勤状況を聞かれるので、工数簿を持つて行つて見てくれと言つたことがある。工数簿は警察の人に二、三回見せたことがあるが。渡した分はその都度返してもらつた。」旨(第二審第四三回公判証言、38・5・13、甲第三八〇号証)証言し、鷹田成樹(大興商事現場総括責任者)は証人として「出稼を記録する帳簿は着到簿という。警察へ出したことはあるが、警察からは返してもらつた。」旨(第一審第三一回公判証言、30・1・13、甲第一一三号証)証言し、「警察が来て工数簿を見せて欲しいと言うことは聞いたが、その後返納に来たのを見ている。警察に渡したのは酒井か三好か、いずれかでなかつたかと思う。」旨(第二審第四四回公判、38・9・14、甲第三八八号証)証言した。

もつとも、酒井武(大興商事の労務係)は証人として「三好が札幌本社に行つたときは、会社は、つぶれかかつていた時だし、ガタガタで工数簿は事務所にはなかつた。昭和二七年八、九月頃、警察が調べに来た時、工数簿ばかり捜していた。工数簿は警察官に貸したことがある。昭和二七年九月頃警察が『三坑の工数簿、三坑の工数簿』と一生懸命言つていた。工数簿を警察が二、三回持つて行つたことがある。大興商事に残つていないから返つて来ないのではないかと思う。」旨(第二審第四三回公判証言、38・5・13、甲第三八一号証)証言し、原審証人酒井武も、大興商事の各現場で工数簿を作成していた旨、各現場で作成された工数簿は事務所の私のところに持つて来ていた旨、毎日記載するもので何かの都合で記入しないとか、ある月は作らないというようなことはなかつた旨、失業保険の離職表の関係で三年間は保存しなければならないと考えていた旨、事件後油谷に捜査本部ができて大興の事務所から工数簿を持つて行つた旨、その後上田巡査が来て、もう何かないかと言うので、そこら辺のものを皆持つて行つてくれと言つた旨、それが最後で、どういう種類の書類を何枚渡したかわからない旨、一週間位たつて任意提出書を持つて来てこれだけのものを、この間借りて行つたから、名前を書いて判を押してくれと言つた旨、最後には書類はほとんどなくなつていた旨証言し、あたかも警察官が、正規の手続もとらないで、持ち帰つたようにいうのであるが、前記認定のように、警察官は、事件直後工数簿の写を作成しているのであり、また後記三で認定に徴しても、右酒井の証言は措信できない。

そうすると、大興商事自身が作成した工数簿は、警察が、本件直後これを借り出して写したことがあり、また、その後も、原本を借用して捜査の用に供したことも窺知されるが、使用ずみの上は、これを大興商事に返還したと認めるのが相当である。

三、大興商事自身が作成した工数簿の捜査等について

〔証拠省略〕によれば、昭和二八年五月二日、大興商事の事務係職員酒井から司法巡査上田秀雄が、金銭出納簿、売炭関係伝票綴、六月分坑副斜坑操業誌、七月分三坑操業証、七月分坑外操業証、七月分露天関係操業証、昭和二七年大興商事坑員出勤簿、七月分第二露天個人別所得額調、聞谷商店売掛伝票(一三冊)の任意提出を受け、同巡査において、同日これを領置(甲第三七四号証)していることが認められるが、右任意提出書、領置調書の目録中に、大興商事自身が作成した工数簿は含まれていないことが明らかである。

しかして、山崎巡査作成の「大興商事の関係書類の件について」と題する昭和二八年五月九日付の電話聴取書(甲第三六七号証)によれば、芦別市警察署大久保刑事が、かねて滝川労働基準監督署に対し、大興商事の工数簿等はないかと照会していた(当時大興商事は労働基準法違反を犯して、同監督の調査を受けていた)ところ、同監督署から工数簿等は、同署にはなく国税局が押収(当時大興商事は税法違反をも犯していた)して持去つた旨の回答を得ていることが認められる。そして後記のように工数簿等は国税局にもなく、司法警察員巡査部長三上清五郎作成の「捜索差押執行について」と題する報告書(甲第三六八号証)によれば、昭和二八年八月三日、同巡査部長が、捜索差押令状を得て、札幌市所在の大野則勝方等を捜索したが、右大興商事作成の工数簿等は、ついに発見できなかつたことが認められる。

右事実ならびに、前掲一、で認定した事実によれば、大興商事作成の工数簿は、事件直後大興商事事務所から借り出されて、警察官によつて写しをとられたことがあり、また昭和二八年四月中に、芦別市警察署において一時原本を借り出して捜査の用に供せられたこともある。(前掲好田証人の五月頃まではあつた旨の証言は、右昭和二八年五月九日付「大興商事の関係書類の件について」と題する電話聴取書―甲第三六七号証―の記載に照せば、記憶違いであることが明らかで、好田政一副検事が大興商事作成の工数簿原本を見たのは、四月中であると認められる。)が、この頃これが大興商事に返還されたところ、昭和二八年五月二日以降は大興商事に返還されたところ、昭和二八年五月二日以降は大興商事の残務整理をしていた酒井武の手許にもなく、労働基準監督署、国税局等にも存在せず、ついに行方不明になつたことが明らかである。

四、検察官が第一審裁判所において油谷鉱業所作成の大興商事関係の工数簿を提出したことについて、

弁論の全趣旨(刑事第一審記録)によれば、第一審の相当早い段階から被告人、弁護人から、検察官に対し、大興商事自身が作成した工数簿を提出するよう求めたことが推測され、これに対し検察官は、大興商事自身が作成した工数簿は所持していないと答えたものと認められる。

しかして、検察官は被告人、弁護人の要請もあつてか、大興商事自身の作成した工数簿の代替物として、油谷鉱業所作成の大興商事関係工数簿を提出した。

すなわち、検察官は、第一審第三四回公判(30・1・27)に、油谷芦別炭鉱労務課労務係永田松太郎作成名義の昭和二八年五月三日付任意提出書(甲第三七四号証)とともに、油谷鉱業所の昭和二七年六月分組夫工数簿一冊、同じく同年七月分組夫工数簿一冊を提出し、六月分工数簿が証第九二号の二、七月分工数簿が証第九二号証の一として、裁判所に領置された(甲第一二三号証)。なお本件訴訟においては右六月分組夫工数簿(証第九二号の二)が甲第五七八号証の二、右七月分組夫工数簿(証第九二号の一)が甲第五七八号証の一とされている。

しかして、油谷芦別鉱業所の繰込係会田鶴蔵が右工数簿の作成経過について証人として尋問された。すなわち、昭和三一年五月一一日の公判準備において会田鶴蔵は、証人として「組の坑夫についても出勤状況を工数簿に記載していた。昭和二七年七月分の工数簿(証第九二号証の一)は見憶えがない。会社の用紙だし、油谷炭鉱の直轄夫の名前もあるから、会社のどこかで作つたものであろうとは思う。同年六月分の工数簿(証第九二号の二)は油谷鉱業所の工数簿で、油谷鉱業所の繰込係が記載したものであり、表紙に昭和二七年六月分と書いてあるから、同年六月分の組夫の工数簿に間違いない。〈1〉は一番方を意味し、〈2〉は二番方を意味する。油谷鉱業所では、右七月分工数簿(証条九二号の一)のように斜線を引くことはしない。六月分工数簿、および七月分工数簿を永田松太郎が提出している由であるが、永田は油谷鉱業所の外勤主任で工数簿の係をしたことはない。」旨(甲第一九〇号証)証言した。

当審における控訴人金田泉の本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨によれば、検察官としては、右油谷鉱業所作成の大興商事関係工数簿の記載内容が必ずしも正確なものでないから、証拠価値がないとして提出する意思はなかつたのであるが、被告人、弁護人の大興商事自身が作成した工数簿を提出せよとの強い要望に答えて、大興商事自身の作成した工数簿を所持しないので、その代替物として右油谷鉱業所から提出された大興商事関係工数簿を提出したものと認められるところ、七月分の工数簿は、真正なものでないことが右会田証言によつて判明したわけである。

五、第一審裁判所の昭和二七年七月分の工数簿の提出命令について

第一審裁判所は、昭和三一年五月一四日油谷鉱業所所長塩谷猛にあてて、大興商事株式会社従業員の工数関係を記載した昭和二七年七月分工数簿一冊の物件提出命令(甲第一九三号証)を発し、同年五月一五日、同鉱業所所長塩谷猛から同鉱業所作成の昭和二七年七月分の大興商事関係の工数簿一冊(表紙を含めて三枚)が、裁判所に提出され、同日、これが証第一二五号として押収された(甲第一九四号証の一、二)。なお右七月分工数簿(右証第一二五号)は本件訴訟においては甲第五七九号証の一、二とされている。

右のとおり証第一二五号(甲第五七九号証の一、二)は、第一審裁判所が提出命令を発して、油谷鉱業所から提出されたもので、検察官が提出したものではない。

六、検察官が提出した大興商事関係七月分工数簿(証第九二号の一)は、永田松太郎が警察官に任意に提出したものであることについて

前記油谷鉱業所の大興商事関係六月分(証第九二号の二)、同七月分(証第九二号の一)の各工数簿を提出した永田松太郎は、第一審の昭和三一年五月一六日の公判準備において証人として「工数簿を警察に提出した記憶はない、しかし昭和二八年五月三日付工数簿二冊の任意提出書(前掲甲第四二五号証)の署名印影は私のものである。会社に映画関係のノートを警察が借りに来たとき提出したのではないかと思うが、工数簿は私には関係ないので全然思いあたる筋がない。しかし工数簿用紙だけを警察に渡したようなことはない。」旨(甲第一九七号証)証言した。なお右任意提出書の肩書「油谷芦別炭鉱労務課労務係」なる記載も永田の署名と同一筆跡と認められる。

また、同日の公判準備において証人会田鶴蔵は「繰込係がいないときは、外勤係が工数簿を貸すこともある。」旨(甲第一九六号証)証言した。

なるほど、誰が作成したかわからない七月分工数簿(証第九二号の一、本件甲第五七八号証の一)を検察官が提出したことは会田証言、永田証言によつて認められる。しかし、任意提出書(前掲甲第四二五号証)の署名押印が永田松太郎のものであることは、同人が認めているのであるから、同人が提出したことは明らかであり、同人が証言するように、工数簿は自分に関係がないので、会田鶴蔵の不在中に誰かに書かせて、不用意に内容も見ずに提出したものと認められる。

証第九二号の一は、後に提出された油谷鉱業所作成の証第一二五号工数簿(甲第五七九号証)と内容において多少相違は認められるが、出欠勤については大筋において符合はしているので、これによつて捜査段階における供述の正確性を誤らせたり、公判廷における証言を誤らせた節は見出せない。そうして公判廷においては前掲会田証言によつて直ちに、証第一二五号が提出され、誤りは補正されたのであるから、これを不当ということはできない。

前掲会田証言によれば、六月分工数簿(証条九二号の二、本件甲第五七八号証の二)、七月分工数簿(証第一二五号、本件甲第五七九号証)の記載が必ずしも正確なものでないことが認められるが、大興商事作成の三坑、六坑の六月分、七月分工数簿が、検察官の手許にないのであるから正確を期待し得ないまでも、検察官は、その所持する油谷鉱業所から提出された大興商事関係の工数簿を、被告人、弁護人の強い要請によつて、次善の策として提出したもので、証第九二号の一の七月分工数簿が、成作者不明で真正なものでなかつたとしても、これをもつて公訴追行に落度があつたということはできない。

七、刑事第二審において検察官がさらに大興商事自身が作成した工数簿を捜査したことについて

刑事第二審においても、弁護人から、大興商事作成の工数簿を提出するように強く要望されたので、検察官は昭和三八年三月二三日、自ら捜査を遂げ「大興商事株式会社の工数簿、賃金台帳の所在捜査結果報告書」(甲第三六五号証)を提出した。

右報告書の要旨は、つぎのとおりである。

大興商事株式会社の工数簿、賃金台帳の所在について、昭和二八年五月ごろ以降、司法警察職員において所在捜査したが発見するに至らず、押収した事実はない。

1. 大久保寛二郎巡査についての調模の結果

昭和二八年八月上旬ごろ油谷炭鉱救護隊本部に泊つて捜査に従事したが、未だ令状が得られる段階ではないので、大興商事等の工数簿を借受けて、警察官数名で手分けして写した。

2. 酒井武についての調査結果

昭和二七年春頃、札幌国税局に脱税で差押を受けたことがある。三好が札幌の大興商事本社に帳簿類を持つて行つた後に、現業所に残つていたものは、伝票類、離職票控等であつた。その伝票類の一部は昭和二八年四、五月頃警察に提出した。(前記のように昭和二八年五月二日、金銭出納簿、売炭関係伝票綴、六月分六坑副斜坑操業証、七月分三坑操業証、七月分坑外操業証、七月分露天関係操業証、昭和二七年大興商事坑員出勤簿(第二露天)、七月分第二露天個人別所得額調、聞谷商店売掛伝票一三冊は任意提出され領置されている。甲第三七三号証、同第三七四号証)工数簿や賃金台帳は滝川公共職業安定所に行つているかも知れない。失業保険の資料として職業安定所に持つて行つたことがある。

3. 札幌国税局についての調査結果

国税局が石狩土建出張所で捜査差押をしたのは、昭和二七年三月一八日である。

4. 滝川公共職業安定所についての調査結果

離職関係簿冊は保存期間が三年であるから、在つても廃棄した。

5. 山崎幸雄巡査についての調査の結果

昭和二八年五月九日、さきに大久保刑事が依頼した大興商事の名簿、賃金台帳、工数簿につき滝川労働基準監督署に電話照会したところ、右書類等は国税局が押収して持去つたとの回答を得た。

6. 滝川労働基準監督署についての調査の結果

工数簿や賃金台帳を調べたことはあるが、どこの組のものであつたかはつきりしない。なお書類保存期間は三年である。

7. 三好吉光についての調査の結果

昭和二七年一〇月八、九日、札幌市の大興商事社長大野則勝の自宅に金銭出納簿、賃金台帳、未払賃金未払金内訳帳、銀部預金控簿、工数簿など一〇冊ないし一五冊を持つて行つた。大興商事と協和物産(保全経済会類似の会社)の経理部長中田好祐に渡した。伝票類は油谷現業所に住んでいる酒井に引渡した。工数をつける帳簿は一種あつただけである。

8. 中村繁雄巡査部長についての調査の結果

昭和二八年夏頃札幌市南八条西五丁目金融業渡辺慶人が大興商事の書類を預つていると聞いたので、右事務所に行き書風を見せて貰つたが、探す目相の書類がなかつたことを記憶している。

9. 渡辺慶人についての調査の結果

岩崎藤吉の仲介で協和物産株式会社社長大野則募に金員を貸したが、支払わないので、昭和二八年四、五月頃会社の物品を差押競売した。その際、協和物産の社員が書類や帳簿も持つて行つてくれというので、木箱とリンゴ箱に入れた書類を預つた。その後二、三ヵ月たつて右書類中、一部入用なものを岩崎藤吉が持つて行つた。中村巡査部長が来たのは、岩崎藤吉が書類を持つて行つた後のことであつたが、目的のものがないと言つていた。

10. 岩崎藤吉についての調査の結果

昭和二七年一二月末頃大興商事の帳簿は、殆ど大野社長の自宅にあつた。大興商事の会計責任者中田好祐が大興商事の残務整理のため若干の帳簿を協和物産の事務所に持つて来ていた。協和物産が差押競売を受けた後、事務所にあつた帳簿、伝票類を全部渡辺に預けたが、渡辺はこんなものを預つても困ると言つてボール箱に一杯入つた書類を岩崎藤吉に運んで来て放り込んだ。その後、約半年位後警察官が来て書類を見せてくれと言つたので見せたが、探しているものが見当らないと言つて何も持たずに帰つた。坑内作業日報とかいう伝票の綴があつたことと、帳簿類が殆んどなかつたことは、憶えている。

11. 大野則勝についての調査の結果

伝票や帳簿書類がどうなつたかわからない。当時経理を担当していた中田好祐が知つているかも知れない。

12. 捜査差押執行について

昭和二八年八月三日付巡査部長三上清五郎作成の右題名の報告書(甲第三六八号証)

(イ) 札幌市北三条西三丁目 福菱金融株式会社

昭和二八年三月経営不振により解散、差押目的物件の所在は不明である。

(ロ) 札幌市南一条東四丁目四番地

元大興商事社長大野則勝方には、差押目的物件は発見されなかつた。

なお、元大興商事経理係中田好祐は、書類一切を昭和二七年一二月福菱金融の責任者岩崎某に引継いだから、岩崎が整理して知つていると申向けた。

検察官は以上のような報告書を提出し、それぞれ、その疎明資料を付している。

以上のとおり、大興商事作成の昭和二八年六月分、七月分の三坑立入工数簿は、昭和二七年八月頃、警察官が、大興商事の事務所から、一時借受けて、その写を作つたことがあり、その後も、昭和二八年三、四月頃になつて寸借したことは窺えるが、直ちに返還したものであり、芦別市警察署が、これを押収したことはなく、昭和二八年五月初頃から本格的捜査に移り、これが是非必要となつたので、八方手をつくして探したが、ついにその所在がわからなかつたのであり、捜査官らが、大興商事作成の六月分、七月分工数簿を領置した形跡は認められない。

まして検察官が、大興商事自身の六月分、七月分工数簿を所持しながら、これを公判に提出しないものとは、到底認められない。

八、検察官が、大興商事自身の昭和二七年六月中の三坑の立入工数簿写、同年七月中の三坑立入工数簿写を提出したことについて

第二審において検察官は、大野商事自身の工数簿が存在しないので、前記一、で述べた大久保寛二郎巡査、山本末次郎巡査が、昭和二七年八月頃、大興商事から借用して写したという昭和二七年六月中の三坑立入堀進大興商事工数簿の写、および同年七月中の三坑立入堀進大興商事工数簿の写を第二審第四四回公判(甲第三八三号証、同第三八四号証)に提出し、裁判所によつて押収されているが、本件訴訟においては、これが書証として提出されていない。おそらく油谷鉱業所作成の工数簿(前掲証第九二号、本件甲第五八八号証の二、証第一二五号、本件甲第五七九号証の二)と大差なかつたのであろう。

ちなみに、大興商事自身の工数簿の記載が、どの程度正確なものであつたかを検討してみるに、浜谷博義(係員助手)は、証人として「大興商事に工数簿はあつた。坑夫が入坑したかどうかは、自分達係員がついて行くからわかるのであるが、工数簿は後でみんながまとめて記載していた。」旨(第二審第四〇回公判証言、37・12・14、甲第三六一号証)証言し、鷹田成樹は証人として「昭和二七年六、七月頃大興商事の工数簿があるのはあつたが、六坑、三坑については、第二露天昭和二七年大興商事坑員出勤簿(第二審第四二回公判38・5・10提出、甲第三七一号証)のような帳簿は作つていなかつた。同年四、五月分までは工数簿を作つたが、その後は係員が自分の手帳に控えていた。人の出入もなく決つた人間が行くものだから作らなかつた。六坑、三坑関係については、係員がその日の坑員の出稼を手帳に控えて、ある一定の日数をおいて、何か適当なものに記入していた。あまり正確に記入されないで途中で、うやむやになり中間で記入をやめてしまつたと思う。工数簿は第二露天以外は不正確である。」旨(第二審第四四回公判証言、38・9・14甲第三八八号証)証言し、福士栄太郎は証人として「昭和二七年七月分の三坑工数簿があつたかどうかはつきりしない。」旨(第二審第四五回公判、38・6・17、甲第三九四号証、同第三九五号証)証言している。

大興商事作成の三坑、六坑の工数簿は極めて不完全、不正確なものであつたことが窺知される。

原審証人酒井武の大興商事には各現場で毎日工数簿と操業証が記載されていた旨、記入を終わつたものは事務室に三年間保存される旨、事件後油谷に捜査本部ができて大興の事務所から工数簿、操業識等を持つて行つた旨の証言は前記各証言に照して措信し難い。

九、以上の経過からみれば、捜査官らは昭和二八年五月初以来、大興商事自身の工数簿を懸命に捜したが、ついにこれを発見し得なかつたのである。検察官は弁護人の要請に、副うため、手許にあつた大興商事自身の工数簿の写を提出したのであつて公訴追行に何ら不合理な点はない。

検察官が大興商事の工数簿を押収し、捜査の用に供しながら、これを証拠として提出しないのは、おそらく何らかの意図があるという被控訴代理人の主張はその前提を欠き理由がない。

第六七、操業証について

被控訴代理人は、「検察官は昭和二八年五月二日酒井武が任意提出し捜査官が領置していた大興商事の六月分、七月分操業証を所持しながら、これを一〇年間も隠匿し、刑事第二審の最終段階になつて、ようやく提出した。」と主張する。

一、司法巡査上田秀雄が、酒井武から六月分六坑副斜坑操業証、七月分三坑操業証、七月分坑外操業証、七月分露天関係操業証の任意提出を受け(任意提出書、甲第三七三号証)たのが、昭和二八年五月二日であり、同日、同巡査がこれを領置(領置調書、甲第三七四号証)したこと、検察官が右操業証の証拠調請求をしたのが、昭和三八年二月一九日(甲第三六三号証)であり、これらが、第二審の公判廷に提出されたのは昭和三八年五月一〇日の第四二回公判(甲第三七一号証)であつたことは明らかである。

番方の記載は兎も角、油谷炭鉱作成の六月分工数簿(証第九二号の二、本件甲第五七八号証の二)と六月分六坑副斜坑操業証(甲第五七一号証の二)の記載を対比してみると、多少の相違(例えば井尻正夫の六月九日の工数簿には二番方稼働の記載があるが、操業証の記載はない。)は認められるものの、ほぼ符合しているが、七月分工数簿(証第一二五号、本件甲第五七九号証の二)と七月分三坑操業証(甲第五七二号証の二)の記載を対比してみると、幾多の食違いが見られる。そして何よりも七月分三坑操業証は五二枚あるところ、何れも同一筆跡で記帳者、係員、所長の検印欄には一枚も押印がなく、(六月分六坑副斜坑操業証、七月分坑外操業証、七月分露天関係操業証には、いずれかの検印が押捺されている。)その形式、体裁自体から見ても、同一人が後日一括して一気に記載したものであることが、明らかに認められる。そうして各関係人の供述から、ストライキ休業日であることが認められる日に、出勤稼働の旨の記載があつたり、岩城定男、岩城雪春らが七月中旬、出勤しなかつたことが明らかな期間(乙第二号証、甲第四二九号証参照)に出勤稼働の旨の記載がなされている。なお、第二露天七月分操業証についても、同一日の同じ番方で同一人が異る現場で稼働した旨の記載もある(甲第五七四号証の二)ことが認められる。

藤谷一久は第一審公判において証人として「昭和二七年六月末頃は大興商事に籍はあるが、実際は働いていないという労務者が大勢いたのであるが、大興商事が発表した番割は、それらの労務者をも含めたものであり、形式的なものであつた。したがつて実際に、その番割の通りに働くことはできない状態にあつた。労務者は会社の番割とは別に適当な番割を組んで働いていた。七月、八月は労務者は休む者が多く、そのために番割は入り乱れて混乱しておつたので誰と組んだかわからない。」旨(第一審第四回公判28・11・91、甲第三〇号証、同第五回公判28・11・20、甲第三二号証)証言しているところ、弁論の全趣旨によれば、大興商事は五月分以降の賃金も支払わなかつたから、労務者らも労働意欲を失い、出勤して油谷炭鉱までは出て来ても働かなかつたり、出勤しなかつたり、係員の指示にも従わず、また人員がそろはないので従い得ぬこともあつたと推認される。

右のとおり操業証はその記載の形式からみても正確なものでないことが見受けられたのである。当番における控訴人金田泉の本人尋問の結果によれば、検察官は大興商事作成の操業証は不正確で信用できないと考え、捜査においてもあまりこれを使用していなかつたことが認められる。したがつて、検察官は操業証を証拠として法廷に提出する必要をみなかつたわけである。

二、〔証拠省略〕によれば、本件芦別事件に関し検察官は、証拠物について弁護人から閲覧の申出があれば、何時でも閲覧できるようにしていたことが認められる。

第一審第三三回公判調書(30・1・25、甲第一一九号証)によると裁判所は、大興商事株式会社に対し、同会社作成の昭和二七年六月ないし八月の作業日誌、および着到簿の提出命令をなしていることが認められる。弁論の全趣旨によれば、右は弁護人の申出によるものとみられる。しかして、三好吉光は、第一審第三回公判(30・1・27、甲第一二六号証)に証人として「工数簿は、作業日誌から個人毎に出稼状況を拾つて記載する。操業証は担当員から坑員に個人々々の繰込や作業能率を書いた伝票を渡すことになつているが、その伝票の控を綴じたものである。稼働状況が最も確実なのは、操業証綴である。」旨証言しているのであるから、操業証綴の存在することは、被告人、弁護人には、この段階で判明したはずである。したがつて、被告人側でその有無を検察官に尋ねて、これを特定して閲覧ないし提出を求め得たわけである。

しかし第一審においては、勿論、第二審においても、被告人、弁護人から、操業証綴を特定して、その開示、提出等正規の申出をした形跡は認められないから、その申出をしなかつたとみるほかない。

したがつて、この間、検察官がこれを提出しなくても当然のことである。

そして、検察官は昭和三八年二月一九日、裁判所の証拠開示、提出等の勧告を受けることなく、自ら操業証等の証拠調請求(同請求書、検事木暮洋吉作成、38・2・19、甲第三六三号証)をなし、第二審裁判所は第四二回公判(38・5・10)において、これを取調(甲第三七〇号証)べ、同日領置(甲第三七二号証)したのである。

右のとおり検察官は自発的にこれを提出したのであり、これをことさらに隠匿していたということはできない。

三、前記のように操業証が提出された後、三好吉光は、証人として「私は大興商事の経理係であつたが、操業証は現場係員が記載して事務所に上げてくるものである。私は操業証に基づいて個人賃金台帳に書き込んで精算していた。三坑七月分の操業証(甲第五七二号証の一、二)は福士佐栄太郎が書いたものであるが、経理担当の私の手を経ていないことが明らかである。福士は七月一日から中頃までは油谷にいなかつたのに、いない時の分も記載してあるが、何故書いたのか私にはわからない。出勤しているのに欠勤扱いにして操業証にも記入しないということは働いた本人が黙つていないから、まずなかつたと思う。しかし三坑七月分操業証は福士の字であることは間違いないが、福士がいなかつた時に操業証をおこせる道理がないからわからない。私の判がないし私も記載した記憶はない。後から書いたと解釈するほかない。現場の状況により堀進現場なんかでは、一週間延びとか一〇日延びとかいつて、それをかかつた人工で割る場合があるが、そういう場合には、まとめて書く場合がある。賃金台帳は操業証をもとにして作成し、私が操業証から賃金精算表にひろつたときは、判を押していた。昭和二七年一〇月八、九日頃札幌に現金出納簿、賃金精算表綴、工数簿等を持つて行つたが、その時、伝票類は油谷に残し酒井武に渡して行つた。幽霊伝票のことを空伝票といつていた。」旨(第二審第四三回公判、38・5・13、甲第三八〇号証)証言し、酒井武は証人として「三好が札幌に帳簿を持つて行つた後は、伝票、操業証があつたが、外には昭和二八年五月二日に警察に持つて行かれたものくらいだと思う。あとの書類は全部もやしてしまつた。賃金は出面の現場もあるし、請負の現場もあるが、大体坑内の場合は出来高払だつたと思う。三坑七月分操業証(甲第五七二号証の二)には判がないが、捺印したものが、別にあるのではないかと思う。」旨(同第第四三回公判38・5・13甲第三八一号証)証言し、鷹田成樹は証人として「所長が不在のときは所長の代理もしていた。操業証は現場の係員が記入するのである。坑員の名前と現場別の名称と作業内容を記入して、支給賃金も同時に記入して報告される。その後、事務の方に回つて個人別の賃金台帳に記入される仕組になつているから、一番、正確なのは操業証である。出勤したのに欠勤したというような取扱はしたことはない。三坑関係については、その日その日操業証を綴つておらない。三坑は石堀だから仕事の実績というのは、その月の測量で検収した延米がすぐ現われる。それで三坑については担当の福士佐栄太郎が一括して翌月まとめて提出したか、または、まとめてかためて一度に提出したかと思う。三坑は福士係員が全部責任をもつてやるわけであるが、一人の係員がやる場合は操業証は何日分もまとめて適当に書いて事務の方でも、翌月になつて賃金台帳をおこしていた。」旨(同第四四回公判38・9・14、甲第三八八号証)証言した。

福士佐栄太郎は証人として「札幌での保安講習中も油谷に帰つて伝票の整理をした。三坑は請負だから直し番すなわち一米進まない場合も一米の単価になるようにして賃金を支払つていたが、助手ではその操作ができないので帰つてやつていた。講習は六月二三日から七月二四日までであつた。操業証(親伝票ともいう)は仕事が終つて、その日に記入することになつているが、一日、二日遅れる場合もある。その場合は日誌または野帳に控をとつていた。三坑七月分の操業証(甲第五七二号証の二)は私の字である。これは毎日払われたようになつているが、一ヵ月の数字で直し番(出面の賃金より下まわるとき何かの形で出してやつた割り方)して一度に書いたものである。八月初めに一括して書いたものである。野帳か日誌に応じて作つたものではないかと思うが、はつきり憶えていない。賃金が少ないときは坑員から文句が出るが、こうして整理されている以上、文句はなかつたということになる。何か根拠になるものがあつたち思う。空票というのは働いておらない時でも単価が支払われることをいうのであつて、労働組合の用事で行つ私場合に出勤扱いにすることもあつた。出勤した場合に操業証に載つていないということも考えられる。事務整理上落す場合もあるが、そういう場合は本人から苦情が出てくるはずである。」旨(同第四五回公判、38・6・17、甲第三九四、三九五号証)証言している。

そうして岩城定男(第二審第八回公判、33・7・16、甲第二二七号証)、岩城雪春(第二審公準、34・10・29、甲第二五八号証)も捜査官に対すると同旨の証言をしている。

右各証言を総合すると、大興商事の操業証は正確なものではなく、殊に七月分三坑操業証に関するかぎり福士係員が八月初頃、一括して一度に記載したもので、これが経理担当の三好吉光にも廻わされず、賃金精算もこれによつてなされていない極めて不正確なものであることが、証明されたわけである。

検察官が大興商事の操業証が、いずれも不正確であり、これに七月分三坑操業証が、不正確で証拠とするに足らないと判断して、これを法廷に提出しなかつたとしても、何ら不合理ではない。

被控訴人代理人の主張は理由がない。

第六八、関係者の手帳について

一、酒井武所有の手帳(甲第五六七号証)

被控訴代理人は「酒井手帳には昭和二七年七月一日井尻正夫らが坑員の代表者として賃金交渉のため札幌の本社に出向いた趣旨の記載があるが、この記載は井尻が六月末、石塚に火薬入手を依頼しなかつたことを間接に否定する証拠であり、また右手帳には油谷芦別鉱業所の京塚係員から大興商事が油谷鉱業所へ返還した発破器は貸与した発破器と違うので、貸与した発破器の返還を求められた趣旨の記載があるが、これは昭和二七年六月中旬頃三坑現場附近で紛失した発破器が油谷鉱業所から借りた一五三五九号であることの状況証拠であるのに検察官は刑事第二審の最終段階まで提出しなかつた。」と主張する。

酒井武がその所有の手帳(甲第五六七号証)を芦別市警察署司法巡査牧原広に任意提出(甲第三九〇号証)し、これが巡査によつて領置(甲第三八九号証)されたのは昭和二八年九月一五日である。そうして酒井武は昭和三八年五月一三日の第二審第四三回公判期日に証人として喚問された(甲第三八一号証)際、右手帳を自ら裁判所に提出(甲第三七七号証)し、裁判所は同日これを押収(甲第三七九号証)した。

ところで右手帳(甲第五六七号証の二)の六枚目裏以下には昭和二七年七月一日井尻正夫ら一〇名が坑員の代表として札幌市の大興商事本社に出向いて貸金支払を求めて交渉したこと、その発言内容が詳細に記載されているが認められる。

井尻正夫は昭和二八年六月四日小関正平副検事に対し、「七月一日は賃金のことで仕事を休み大興商事と交渉した。七月二日には朝一番の列車で札幌え来て大興商事の本社で交渉し三日の朝早く戻つて来た。」旨(甲第五三二号証)供述しているが、これは井尻の記憶違いで、札幌へ出て本社と交渉したのは七月一日であることは、右手帳の記載と、井尻以外の他の代表者らの供述(藤田長次郎巡供、28・9・25、乙第三〇四号証、検供、28・10・2、乙第三四号証、田中武雄員供28・9・26乙第二六六号証、江戸善一員供、28・9・26、乙第二八二号証、高橋金夫員供、28・9・27、乙第三〇二号証)によつて明らかである。

一方、石塚守男は昭和二八年五月四日金田検事に対し、「六月三〇日昼休の時、六坑つれおろし現場のズリ捨場で、藤谷と井尻と石塚と三人で寝転んで雑談中、井尻から火薬入手を頼まれた。」旨(甲第四四四号証)供述し捜査段階の最後まで、その供述を変えなかつた。

藤谷一久も同年五月一八日金田検事に対し「六月末頃魚獲りをした前後頃昼休に六坑つれおろし現場のズリ捨場横の山手の草原に休んでいたとき、井尻が石塚に火薬入手方を頼んだ。」旨(甲第四六六号証)供述していた。

ところで井尻の供述によれば、札幌本社へ行く前日仕事を休んで大興商事と山元で賃金交渉をしたというのであるが、油谷鉱業所の六月分組夫工数簿(甲第五七八号証の二)、六坑副斜坑操業証(甲第五七一号証の二)の各記載によれば六月三〇日、井尻、藤谷、石塚は一番方で稼働した旨の記載があるから、井尻の供述するとおり山元で賃金交渉をしたのは事実であろうが、一日中仕事を休んで交渉したのではないと認めても不合理ではない。また仮に仕事を休んで交渉したとしても昼休に仲間同志が寝転ぶ位の時間の余裕があつたと見ても不当のことではない。

右記載のある手帳を証拠として提出する必要がないと考えたとしても、何ら検察官に落度があつたとはいえない。また同手帳の三〇枚目には「京屋氏より発破器の変更」との記載がある。

酒井武は第二審第四五回公判(38・6・19、甲第三九六号証)において証人として「これは坑務課へ係員の私が召集されたとき京家氏が私に『あんたのところへ貸した発破器が変つているぞ。』と言われた。私は『どうもすみません。係に言つておくわ。』と言つた。そのことを書いたものであるが、日は、はつきりわからないが、八月五日以降のことだつたと思う。」旨証言している。

油谷鉱業所の京家係員から、大興商事がかねて油谷鉱業所から借用していた一五三五九号発破器の返還を求められたものであることは明らかであるが、一五三五九号発破器が、井尻、地主らが訴訟された発破器窃盗と何ら関係のないものとみても相当であることは、前に「第六三、一五三五九号発破器の隠匿について」の項で詳説したとおりであり、京家係員から一五三五九号発破器の返還請求を受けたとの記載が、何ら証拠価値を有しないと考えて、検察官が、この手帳を証拠として提出しなかつたとしても何ら不合理ではない。

なお原審証人酒井武は「この手帳は高等裁判所で証人台に立つ五分前に返され、その際『必要ないんならこつちで焼きますか。」と言われた。」旨証言するが、第二審第四五回公判における証人酒井武の証言(38・6・19、甲第三九六号証)によれば、「検察官から弁護人が申請する場合もあるかも知れないからお待ち下さい」と言われたと供述していることに照らせば、返還を受けたのが開廷直前だつたことは事実であろうが、検察官が焼却滅失を望んだものとは考えられない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

二、竹田源次郎所有の手帳(甲第五六八号証)

被控訴代理人は「竹田源次郎所有の手帳の記載は、石塚が竹田方から井尻飯場に移住したのが六月中旬であり、六月二〇日頃火薬入手についての協議を立聞きしたという石塚供述を覆すに足る証拠であるのに検察官は刑事第二審第四五回公判まで、これを提出しなかつた。」と主張する。

竹田源次郎所有の手帳(甲第五六八号証)が検察官に提出され領置(甲第三九九号証)されたのは、昭和二八年六月三〇日であつた。そうして、これが証拠として裁判所に提出されたのは、昭和三八年六月一七日の第四五回公判期日に弁護人から提出命令をされたいとの申立がなされ、裁判長の訴訟指揮による証拠物の取調を請求するようにとの勧告に基づき(甲第三九一号証)、即日検察官から提出、押収された(甲第三九二号証、同第三九三号証)ものである。

竹田源次郎所有の手帳中(甲第五六八号証の二)には、その四八枚目の七月一〇日欄に「石塚七月一〇日出ル」との記載がある。

しかして六月二六日欄から七月四日欄までは鋏様のもので切り取られており、七月一一日欄から同月一四日欄までは何の記載もない。六月一九日欄から六月二五日欄までも数字の記載があるのみである。

ところで前に「第四九、昭和二七年六月二〇日井尻飯場において火薬入手の相談がなされたとの点について」との項において詳しく説示したとおり、石塚守男は、昭和二七年五月頃から、布団も持たず、着更程度の身の廻り品だけを携えて、竹田源次郎方に泊めてもらつていたが、兎角肩身のせまい思いをしていたので、六月中頃から屡々井尻飯場に泊り込み、六月二九日頃からは竹田方に全く戻らず、七月八、九日頃竹田の娘(小学生)によつて石塚の着替等の荷物が井尻飯場に運ばれ、石塚が完全に竹田の家と関係がなくなつたのが、七月一〇日頃であつて、この日を竹田源次郎が心覚えのため、その頃、手帳に記入したもので、普通世間でいう引越のように荷物一切を運搬して井尻飯場に転居したものではないと判断されるのである。

竹田源次郎が右手帳に「石塚七月一〇日出ル」と記載したのも七月一〇日頃石塚とは全く縁切れになつたとの趣旨を後日何かの参考になると考えて書きとめたものと解しても何ら不合理ではない。

そうだとすれば、石塚が六月二〇日に井尻飯場に居住していたことと牴触する証拠でもないわけである。

検察官がこれを提出しなかつたとしても、実体的真実の発見を誤らせたというものではない。

ちなみに、これが提出された後の刑事第二審判決も、証拠として採用していないのである。

検察官が竹田源次郎手帳を提出しなかつたとしても不合理ではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

三、高橋金夫所有の手帳(甲第五六九号証)

被控訴代理人は「高橋手帳の昭和二七年七月一日の欄には、代表一〇名が札幌本社へ交渉に出向いた旨の記載があり、これは六月末、井尻が石塚に火薬入手を依頼したことを間接に否定する証拠であり、同月一一日・一二日・一三日には、同じく代表が賃金交渉のため札幌本社へ出向いた旨の記載があるが、この記載は石塚供述の中心の一つである七月一二日・一三日に井尻から鉄道爆破計画を打ちあけられたという点を否定する極めて重要な証拠であるのに検察官は刑事第二審第四五回公判まで提出しなかつた。」と主張する。

高橋金夫所有の手帳(甲第五六九号証)が芦別市警察署に任意提出(甲第四〇〇号証)され、これが領置(甲第五八〇号証)されたのは、本件芦別事件起訴後の昭和二八年九月二八日である、

そして、これが裁判所に提出されたのは昭和三八年六月一七日の第二審第四五回公判に弁護人から提出命令をされたいとの申立がなされ、裁判長の訴訟指揮による証拠物の取調を請求するようにとの勧告に基づき(甲第三九一号証)、即日、検察官から提出、押収された(甲第三九二号証、同第三九三号証)ものである。

高橋金夫の手帳の中(甲第五六九号証の二)には、七月一日欄に、「スト午前三時札幌本社ニ交渉ニ出発(代表一〇名)、」七月二日欄に、「交渉ニ依リ四日間ニ亘リ睡眠不足の裸休養(午前七時帰ル)」との記載があり、また七月一一日、一二日、一三日欄には、中かつこして「休ミ札幌本社行」と記載されている。

七月一日午前三時に油谷を発つて札幌本社に賃金交渉に行つたとの記載は前記酒井武手帳(甲挙五六七号証)の記載と同趣旨である。したがつて酒井武手帳の記載について検討したとおり、七月一日の前日である六月三〇日、一日中仕事を休んで山元で大興商事と賃金交渉したのではないと認めても不合理でないこと、仮に仕事を休んで交渉したとしても昼休に仲間同志が寝転ぶ位の時間の余裕があつたとみても不当でないこと、酒井手帳の記載の場合と同様である。

つぎに高橋金夫手帳の七月一一日、一二日、一三日、賃金交渉のため札幌本社へ行つた旨の記載については、前に「第五二、七月一二日・一三日井尻が石塚に鉄道爆破計画について話し、仲間入りを勧めたとの点ついて」の項で詳しく検討したとおりである。

札幌で一泊したとしても七月一三日の早朝には井尻は井尻飯場に戻つていると判断される。

けだし石塚は一二・一三日頃と供述しているのであつて、当初から、一三・一四日であるかも知れないと解せられる趣旨の供述をしていたこと前にみたとおりである。

検察官が高橋金夫手帳を証拠として提出しなかつたとしても何ら不当ではない。

被控訴代理人の主張は理由がない。

四、北崎道夫所有の手帳(甲第五七〇号証)

被控訴代理人は「北崎道夫の手帳には同人が係員代行として六坑で働いていた昭和二七年三月頃、六坑現場で使用していた発破器の番号は一五三五九号である趣旨の記載があり、これは六月中旬三坑現場で紛失した発破器が油谷鉱業所から借りた一五三五九号であることを裏付ける有力な証拠であるのに、検察官は刑事第二審第四五回公判まで、これを提出しなかつた。」と主張する。

北崎道夫手帳(甲第五七〇号証)が検察官に提出され、これが領置(甲第五八一号証)されたのは、昭和二八年七月三一日である。

そうして、これが証拠として裁判所に提出されたのは昭和三八年六月一七日の第二審第四五回公判に弁護人から提出命令をされたいとの申立がなされ、裁判長の訴訟指揮による証拠物の取調べを請求するようにとの勧告に基づき(甲第三九一号証)、即日検察官から提出、押収された(甲第三九二号証、同第三九三号証)ものである。

北崎道夫手帳中(甲第五七〇号証の二)には、「六坑発破器一五三五九」との記載がある。

北崎道夫は検察官に対し「石狩土建には発破器は全部で四台あつた。一台は証第二一号の発破器に間違いないと確信を持つている。昭和二七年二月一一日から三月末までの間、一坑で使つていたのは油谷の会社から借りた一五七五六号であり、六坑で使用していたのは油谷の会社の開発係長京家から借りた一五三五九号である。その頃、第二露天で使つていた発破器の番号はわからない、」旨(乙第一三四号証、同第一三五号証)供述して、右手帳を提出したのである。

右北崎道夫の供述によれば、証第二一号のほかに第一五三五九号発破器もあつたことを明らかにするために、自己の在職当時のメモを提出したのである。

一五三五九号発破器が、井尻、地主らが起訴された発破器窃盗と何ら関係のないものとみても相当であることは、前に「第六三、一五三五九号発破器の隠匿について」の項で詳説したとおりである。したがつて、検察官が右手帳の記載は、本件発破器窃盗となんらの関係がないとみても相当のことであり、その提出の必要をみなかつたのも当然である。

被控訴代理人の主張は理由がない。

五、その他の手帳等

被控訴代理人は、「田中武雄の手帳も押収されていることは明らかであるのに検察官はこれを提出しない。」と主張する。

〔証拠省略〕によれば、検察官が田中武雄の手帳を領置していることが認められる。しかし「手帳によると一一日札幌行きと記載してあつて、九日、一〇日頃会合が開かれたような記載がないがどうしたわけか。」との問が発せられているので、おそらく高橋金夫手帳と同趣旨の記載があるものと推認せられる。

そうだとすれば、これを提出しなかつたとしても何ら不合理ではない。

被控訴代理人は「井尻飯場の食事伝票および井尻正夫の作業日誌も捜査官に提出したまま、行方不明であるが、これが井尻と井尻飯場居住者の行動を知るうえで重要な証拠である。」と主張する。

原審における被控訴人井尻光子の本人尋問の結果によれば、井尻飯場の食事票または食事一覧表が警察に提出され、井尻の申出により、井尻の毎日の稼働状況、札幌への出張等を記載した日誌が、井尻光子によつて差入れされたことが窺えないではない。しかし、これが領置されと認めるに足る資料は全くないし、刑事第一審以来鋭く争われた事件であるから、もし有利な証拠となる記載があるならば、他人の作成した書面と異り記載内容も知つているはずであるから、これが提出を求めたであろう。

しかし本件全資料を精査してもその形跡は見当らない。

むしろ、井尻正夫の取調べに当つた館耕治警部補は「井尻を取調べたとき工数簿のようなものを井尻が持つていた。」旨(第一審第四七回公判証言、30・7・15、甲第一五三号証)証言しているところからみれば、井尻は取調べを受けるに当り、記憶を喚起するため、勾留中に自己の作業日誌を自宅から差入れさせて、これに基づいて供述したものと推認されるから、保釈により釈放された際、これを持ち帰つたのではないかと推測される。

いずれにしても検察官が、これを所持しているとは思われない。

右認定に反する原審における被控訴人井尻光子の本人尋問結果は措信しがたい。

被控訴代理人の主張は理由がない。

第六九、被控訴人らのその他の主張について

一、被控訴代理人は「捜査官は、井尻、地主に対して事実の取調べもさることながら、まず共産党関係の情報を得ることに懸命になり、逮捕当時共産党員であつた井尻に対して脱党を強要し、また取調べの全期間を通じて二人に共産党との一切の関係を断たせるための執拗な努力を続けた。」と主張する。

(イ) 〔証拠省略〕によれば、つぎの事実が認められる。

高木検事は昭和二八年五月二〇日、井尻に対し、共産党に何時入党したか、特定の党員を知つているか、党をどう思つているか等の間いを発しているが、共産党関係の情報を得ようとしたり、共産党に対する反感を持たせ、共産党を脱党するように強要した形跡はない。むしろ井尻自身が出所したら、はつきり脱党を表明したいと進んで決意を述べたに過ぎない。また、同検事は同日の取調べの最後に「一体、君はここ出たら党を離れると言つているが本当なのか、明日までによく根本問題を二つ考えて置きなさいよ。一つは党に対する態度を決めること、一つはこの事件に関する事だがね」と問い、井尻が「ええ、よく判りました。考えて置きます。」と答えているが、右程度の問いを発したにとどまり、脱党を説得したり、すすめたりしたものとは解されず、ましてや脱党を強要したものでないことは明らかである。井尻は、かねてから脱党したいとの気持を持つていたが、翌々五月二二日同検事の取調べに先立つて、脱党届を書いて、その書面の提出方を依頼したもので、同日の供述自体から任意に脱党したものであることが明らかである。なるほど「党員で君の知つている人は。」との問いを発し、「党の軍事方針、党の三〇周年記念行事について知つているか。」と尋ねているが、これについても深く追及しているわけではなく、党関係の情報を得ようとしたものではない。要は井尻の共産党における地位および井尻の活動を明らかにして、本件鉄道爆破事件に関して、石塚、藤谷の各供述に顕われた犯人の範囲を特定し、犯行の動機、目的の手がかりになるものはないかと本件鉄道爆破事件に関し、具体的な事項について質問したのであつて、井尻の取調べの機会に一般的に共産党関係の情報を探知しようとしたものとみることとは相当ではない。

(ロ) 〔証拠省略〕によれば、つぎの事実が認められる。

小関正平副検事は。井尻に対し「脱党届を出したのか。」と真意に基づくものかどうかをただし。脱党する理由を尋ね、また知つている党員の名をあげさせ、井尻の党活動について尋ねているが、井尻の脱党という新しい事態のほかに、本件鉄道爆破事件に共産党員が関与しているとの石塚の供述があり、井尻と地主が本件鉄道爆破をやつたとの藤谷の供述もなされているのであるから、捜査がこれらの点に及ぶことは当然である。

(ハ) 〔証拠省略〕によれば、つぎの事実が認められる。

好田政一副検事は、昭和二八年五月二七日および二八日に、地主を取調べるにあたつて、共産党内部のこと、地主の党活動について尋ねているが、地主は、これに対して殆ど応答していないことが明らかである。検察官が右のような問いを発したことが、不当でないこと前段説示のとおりであり、地主に共産党との一切の関係を断たせるため執拗な努力をなしたものとは到底認められない。

(ニ) 〔証拠省略〕によれば、つぎの事実が認められる。

司法警察員警部補館耕治は、昭和二八年九月一三日、井尻に対して「お前のいうことは、いろいろな面から信用できないのではないか、共産党がきらいだから脱党したといいながら、それらとの連りを持つている。お前が党員でなければ、何のために党が特弁までも立ててお前を応援する。その理由は僕にはわからないが。」などといつて、真に脱党したのかどうか、ただしていることは明らかであるが、井尻が前示のようにすでに脱党届を提出し、共産党を非難攻撃する供述を従前して来たのであるから、井尻が同警部補に対して一旦なした一部自白を撤回したり、また一部自白したり、さらに撤回したりする事態に直面し、井尻の供述変更の理由をただすために、右のような言辞を発したからといつて、共産党との関係を断たせるため、脅迫したり、脱党を強要したりしたものは相当でない。

二、被控訴代理人は「捜査官は、昭和二八年三月二九日井尻を逮捕して以来、腰椎骨折が悪化して苦しんでいるのに、同人に対して、利益誘導したり、激しい強制・誘導したり、脅迫して供述を求めた。」と主張する。

しかし本件全資料を精査しても、捜査官が井尻に対し、かような苛酷な取調べをした事実は認められない。

三、被控訴代理人は、「地主の取調べにあたつた司法警察巡査部長佐藤千代政は、昭和二八年四月六日頃三才の長男武雄が引取手がないため警察に来ており保護室に寝かしてある旨告げ、自白を強要し、また同巡査部長は地主を自宅に連れて行き、子供を見せ、しるこを食べさせるなどし、さらに同月二七、八日頃地主にウイスキーを飲ませて歓心を買い供述させようとし、『保釈金や弁護人も俺の方につけてやるから、火薬をもらつたということを認めたらどうだ。』といつて利益誘導により自供させようとした。」と主張する。

昭和二八年四月六日頃、地主の三才になる長男武雄を引取手がないため、警察の保護室に寝かしたことがあり、佐藤巡査部長ら警察官がそのことを地主に告げたことがあること、右佐藤が地主を自宅に連れて行き、子供を見せ、しるこを食べさせたこと、右佐藤が四月二七、八日頃、地主にウイスキーを飲ませたことは当事者間に争いがない。

しかし、原審における被控訴人地主照の本人尋問の結果によるも、佐藤千代政巡査部長は、地主と同様、子供を残して妻に死別された経験の持主で、地主の気の毒な境遇に同情し、全く好意的に、地主を右のように好遇したもので、これにより地主の歓心を買つて自供を得ようとしたものとは認められない。その余の主張事実は、これを認めるに足る資料が全く存しない。何よりも地主の佐藤千代政巡査部長に対する供述調書(甲第五三三号証員供、28・4・6、乙第一六二号証員供、28・4・28、乙第一六三号証員証、28・4・29、同第一六四号証員供、28・5・1)には、何らの不利益な供述の記載がないことが明らかである。

以上のとおりで、井尻、地主に対して不当な取調べがなされたとの被控訴代理人の主張は理由がない。

第七〇、むすび

被控訴代理人は「検察官提出の証拠物も本件犯行を井尻、地主に直接結びつけるものは全くなく、結局、関係人の供述によつて検察官の主張事実が維持される関係にある。ところが捜査官は逮捕・勾留を濫用し、強制と誘導によつて捜査官の見込む虚構のことがらを関係人に供述させたものであつて、捜査官は、これらの供述が供述者の任意に基づかず、内容も虚偽であつて、信用するに足りないものであることを承知しながら、これを証拠として嫌疑事実を組み立てて本件訴追をなしたものである。」と主張するに帰する。

しかし、関係人の逮捕・勾留については、それぞれの理由があり、これが、本件爆破事件の捜査のために、濫用されたとは認め難く、また検察官の主張に添う関係人の供述も、それぞれ供述者の任意によるものであつて、捜査官が強制誘導して、ことさらに虚構の供述をなさしめたとみることはできず、供述の内容もそれぞれ裏付の証拠と対応するか、あるいは、供述自体が体験の表白とみられる具体性を具備するかしており、かつ捜査の経緯に照し、これらの供述が全く虚構であるとして排斥し去ることができにくい真実らしさを具備しているのであるから、検察官がこれに信用をおいたとしても、判断に合理性を欠き、したがつて判断を誤つたものとみることはできない。

そして検察官の主張に添う供述証拠および物証が存しているのであるから、検察官が、これらの供述に信頼を置き、かたがた証拠物との関連を推定して、井尻、地主に犯罪の嫌疑があると判断したことは、不当のことではなく、これをもつて違法であるということはできない。

換言すれば、警察官または検察官のなした井尻、地主に対する逮捕、勾留、公訴の提起、公訴の維持・追行などの権力行使に当つての判断が証拠の評価について通常考えられる個人差を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで経験則、論理則からその合理性を肯定することができないという程度に達していることは到底認め難い。

以上のとおり、検察官が井尻、地主に犯罪の嫌疑が十分で有罪判決を期待し得る合理的根拠があると判断したことは、何ら不当ではなく、これをもつて違法であるということはできない。

また、本件において検察官が個人責任を負うべき筋合いではないことは、国家賠償法の法意に照らし明らかである。

そうすると爾余の判断をまつまでもなく、被控訴人らの請求は理由がないから、民事訴訟法第三八六条により原判決を取消し、被控訴人らの請求をいずれも棄却し、訴訟費用につき同法第九六条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺一雄 小川正澄 山之内一夫)

(被控訴人及び控訴人提出の準備書面省略)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例